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ノート:駒込武

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駒込武氏本人が「2003年9月23日の国連総会川口順子外相(当時)が日本の外相として初めて一般演説で拉致問題に言及したところ、翌日に北朝鮮は「拉致問題は日本の前例もないような強い敵対政策の産物である。日本は朝鮮半島占領時代、八四〇万人を強制連行するなど、筆舌に尽くし難い被害と悲劇をもたらした。日本の虐殺と、たった数人の拉致被害者の死をどうして比べられようか。しかも、日本はなお、こうした犯罪の真実を明らかにすることを拒否している。日本のいう拉致問題は二国間で解決すべきもので、われわれの誠実な協力により問題は解決されており、残るのは(帰国した拉致被害者)五人の帰還だけだ。五人は平壌に戻るはずなのに、日本が拒否した」と答弁権を利用して反論した[1]。『日本の論点2004』は、「この北朝鮮の論法は、従来、日本は早く植民地支配の償いをせよと主張してきた進歩派文化人在日コリアン知識人の論理とよく似ている」として、駒込の『世界』(2003年1月号)の論文「重ね合わせる願い」の「九月一七日以降、日本社会における『北朝鮮』報道にはほとんどめまいのするよう閉塞感と違和感を覚えざるを得なかった。(中略)国家間の外交交渉は、人びとの生を勝手に値踏みし、軽量化し、交渉の材料としていく。それは、日朝両国に等しくあてはまることだろう。しかしアメリカ合衆国軍事力による威嚇を後ろ盾としながら、さらに、植民地支配と冷戦構造の帰結でもある経済的な優位に居直りながら、植民地支配の責任を曖昧にしようとする日本政府の姿勢には憤りを感じざるをえない」[2]の部分を挙げ[1]、「拉致という北朝鮮の国家犯罪と日本の旧植民地支配とが同質であると主張することで、拉致犯罪の後ろめたさから少しでも逃れたいとする相殺論である」と批判している[1]。」という記述を「言及されている当人として、誤解を招く内容と感じた」として削除しましたが[1]、編集の問題点を指摘します。ウィキは本人の項目を本人自身が編集することはWP:AB違反となります。何故なら、自分自身の否定的・批判的な記事は出来るだけ削除、隠蔽、矮小化して、できるだけ美化したいのは当然だからです。

あなたが行っている行為は、WP:ABの以下に違反している。

  • 「あなたが個人的に関わっていることがらについて記事を書くときには、あなたは、いつも以上に注意を払い、あるいはそれを控えなければなりません。(中略)ウィキペディアの中立性を保ち、かたよった観点を押し付けないようにするためには、自分が関わっている事柄についての記事の編集をするときには特に注意する必要がありますし、時にはそれを我慢することも、とても大切なことなのです」
  • 「自分について書いた情報には、しばしば主観が入り込み、その主観はふつうは自分に都合のよいようにものごとをとらえがちです。おおよそ人には、自分のことを語るときには自分をよりよく、より大きく見せようとする傾向があり、また自分の意見を事実であるように表現する傾向があります。しかし、ウィキペディアは意見を事実として表明する場ではありません。たとえば、マイク・タイソンやモハメド・アリがウィキペディアの自身についての記事の中に「おれが最強だ」と自分で書き込むことは、受け入れられないのです」
  • 「自分について書いた情報は、検証不可能な場合があります。もしあなたに関する事柄についての情報の源があなた自身だけであれば、読者はそのことを検証できません(よく見られる例は、個人の希望、夢、思考、抱負などです。あなたが考えていることを他人が検証する術はありません)。あることがどんなに真実であったとしても、もし他の人がそのことを検証できなければ、その情報はここでは場違いです。ウィキペディアに書かれる記事の内容は、すべて検証可能でなければなりません」
  • 「自分について書いた情報は、独自研究による場合があります。自伝的な情報には、しばしば公表されたことのない内容や、一次資料から直接もたらされた内容が含まれます。このような情報を検証するためには、利用者は一次資料の調査をしなくてはならなくなります(たとえば、あなたの靴のサイズの情報をあなたについての記事に書き込むことは、特殊な理由でそのサイズが世間に広く知れ渡っていない限り、独自研究となります。なぜなら、そのことを確かめるために、読者はあなたに直接会ってあなたの足の大きさを計らなければならないからです)。ウィキペディアは、世に知られていない情報を初公表する場ではありません」

信頼できる情報源である文藝春秋の年刊誌『日本の論点』からの批判を「本人が誤解を招くと感じた」という適当な理由で削除できるなら、安倍晋三の項目の「朝鮮中央通信からは『米国の反共和国制裁・圧迫策動に追従してる』として名指しで『安倍の輩』『忠犬』と批判されている」、「この法案に対しては国連が重大な懸念を表明し、海外メディアからは『報道の自由及び民主主義の根本を脅かす悪法』、『日本で内部告発者を弾圧する立法が成立した』、『日本が報道の自由を制限』などと報じられた」、「台湾の馬英九総統は『中華民族の一人として、日本政府が周辺国の歴史の傷を顧みず、こうした行動をとったことは理解しがたく失望した』と自らのフェイスブックに投稿した。その後も馬暁光報道官が『第2次大戦後の国際秩序に対する挑戦で、平和を愛する全ての人が断固反対するのは当然だ』などと述べている」、「沖縄タイムスは社説にて、行政府の長を言い間違えたのではなく、何でも可能であるという全能さを表しているのではないか、謙虚さが必要であると批判している」などの批判も、安倍首相本人や首相に偽装した第三者が「総理大臣の安倍だけど、誤解を招くと感じた」とか言って削除できる訳でこのような編集行為が許される訳がありません。出典の付いている記事を単に個人的感性に反するからという理由で削除できるなら、ウィキの気に入らない記事を「本人が誤解を招くと感じた」として個人的主観で何でも言い掛かりをつけて片っ端から削除でき、もちろん本人自身が「本人が誤解を招くと感じた」と思うのは自由である。しかし、これは完全にPOV違反です。削除したいなら、本人がただそう感じているという理由ではなくて、独自研究出典がブログ出典がテレビなど具体的なウィキの削除理由を提示すべきです。

本人が不当な批判だと思ったところで、信頼できる情報源である文藝春秋の年刊誌『日本の論点』から批判された訳だから、ウィキは「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。信頼できる情報源である文藝春秋の年刊誌『日本の論点』からの批判に対して「本人が誤解を招くと感じた」なんて削除しても、まったく検証可能性を満たしていないため、果たして本当に本人がそう思っているのか、そもそも具体的にどこが誤解なのか、まったく確認しようがありません。あなたが行っている行為は、WP:Vの以下に違反している。

  • 「百科事典を編纂する際、良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです。このことをよく理解することは、良い記事を執筆するために最も大切な秘訣の一つです。ウィキペディアは、完全で、信頼の置ける百科事典を目指しています。記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう信頼できる情報源にあたり、出典を明記するべきです。この文脈における『検証可能性』とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究を発表してはならないからです。記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』(真偽よりも検証可能性)なのです。検証可能であることと真実であることの違いは、次の例で見ればよくわかるでしょう。あなたは、ある著名な物理学者の『X理論』についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、執筆中にあなたがその学者に連絡をとったところ『実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。』と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。なぜいけないのでしょう。それは『ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから』です。読者は、あなたが誰なのかを知りません。世界中の閲覧者があなたに連絡して確認を取れるように、あなたの連絡先を載せるというわけにはいきません。たとえあなたに連絡がとれるようになっていたとしても、閲覧者があなたを信じる理由がどこにあるでしょう。その情報をウィキペディアに載せてよいものにするには、まず、広く信頼されている報道機関を説得してあなたの話を発表してもらわなければなりません。それは、査読を受けるのと同様の過程を経ることになります。つまり、まず記者、次に編集者、そしておそらくは事実調査員にチェックされるでしょう。もし問題があれば、さらに弁護士、そして編集長にチェックされるかもしれません。このような事実確認とその評価のしくみがあるのは、新聞に正確で公正な記事を載せるためです。この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません。それゆえに、独自研究は載せないという方針と検証可能なことのみ載せるという方針が大変重要となるのです。もしもその新聞があなたの話を載せてくれたならば、ようやくその情報をウィキペディアの記事に書き込んで、その新聞を情報源として示すことができます。分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは検証可能性を満たしたことにはなりません」

信頼できる情報源である文藝春秋の年刊誌『日本の論点』からの批判が不当だと思うなら、書籍・論文・新聞・雑誌などの信頼できる情報源に「『日本の論点』から〜と批判されたが、全くの不当な批判であり、何故なら〜」などの反批判書くべきです。それなら信頼できる情報源による、かつ検証可能性を満たせるので、ウィキに「『日本の論点』は〜と批判した。この批判に対して駒込武は〜であり、不当な批判であると反論している」と書くことが出来ます。次回削除した場合、保護を依頼します。--Agreementparis会話2018年1月28日 (日) 14:57 (UTC)[返信]

  1. ^ a b c 日本の論点2004』文藝春秋、2003年11月10日、92頁。ISBN 978-4165030300 
  2. ^ なお、駒込は論文では北朝鮮に引用符を付けている。