ノート:馬印
徳川家康の馬印について
[編集]馬印に関する項目なので、徳川家康の馬印のみを大きく掲載するのは適切ではないと思います。独立した項目にする若しくは徳川家康に移動するか、要点のみを残して縮小するか、他の武将の馬印のことも同様に掲載すべきと思います。--ムカイ 2007年10月8日 (月) 05:10 (UTC)
- (コメント)上記の提案趣旨に賛同します。ところで、このノートの記載順序は、昇順?降順?--故城一片之月 2007年10月8日 (月) 06:17 (UTC) 追記:ページ徳川家康は巨大ですので、関連項目として分岐(リンク)させた独立ページがよいのでは?--故城一片之月 2007年10月8日 (月) 06:24 (UTC)
徳川家康の馬印に関しては故城一片之月さんの意見に倣い徳川家康の馬印として独立させました。内容は概要以下改変しておりませんので、加筆等をお願いします。--ムカイ 2007年10月14日 (日) 08:30 (UTC)
武鑑・秘鑑は、1級史料扱い
[編集]姫路藩の1級資料「姫陽秘鑑」、全巻出版へ
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/020227ke45110.html
徳川家康の金扇馬標が、1563年、豊橋の聖眼寺、三河牧野氏由来は、完全な捏造
[編集]金扇 - 徳川将軍家の馬印。牧野氏が聖眼寺(豊橋市下地町)に奉納した2本の金扇の1本を、徳川家康が今川勢の支配する対岸の吉田城を攻撃する時に同寺より下げ渡された物。(出典 聖眼寺伝説・牛窪記 牛窪密談記)。
金扇の馬印由来について わたしはこの部分の執筆者ではないが、この話は知っていたので少し説明。
これは『牛窪記』・『牛久保密談記』に記述されている伝承。永禄8年(1563年)、徳川家康の吉田城攻めに先立ちすでに徳川氏に帰属していた、元・牛久保寄騎の牧野半右衛門正勝(後の讃岐守康成・やすしげ)はもとより金扇を自分の馬印としていたので下地村聖眼寺の太子堂に戦勝を祈願した際に2本の金扇を奉納した。この後に聖眼寺の僧侶が家康にこのうちの1本を献上、残りを聖眼寺什物とした。家康はさい先がよいと喜び自分の馬印とした。家康の金扇の馬印を見た牧野半右衛門はその使用を遠慮をしたが天正18年(1590年)小田原の陣では家康自身がこのエピソードを持ち出して牧野半右衛門にその使用を許したという。
勿論、これが史実かどうかは不明であるが、典拠ある伝承として紹介されるかぎりにおいては削除原因にはならない筈です。--故城一片之月 2007年3月23日 (金) 19:30 (UTC)
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、北条氏康の臣、大導寺が敵の本間近江守を討ち取って、その指物の金の提灯を小纏にしたのが初めであるとしているが、
『信長記』によれば、「永禄(1558年2月28日~1570年4月23日)のころまでは、馬験ということなかりき、元亀(1570年4月23日~1573年7月28日)のころよりはじまり、次第に長じて今はしるしの要となす」とあり、諸家の馬験を列記している。
1563年時点で、家康の馬標があるのは、おかしいのです。1級史料の信長記を信用します。
『牛窪記』・『牛久保密談記』に、史料価値がないことがよくわかった。--以上の署名のないコメントは、時空の旅人(会話・投稿記録)さんが 2007年3月25日 (日) に投稿したものです。
時空の旅人さんへ、 わたしは、『信長期』により馬印の一般的使用を元亀の頃よりとする件については異議はないです。問題は『牛窪記』・『牛久保密談記』の記述を捏造とする意見には賛成できません。両本ともに永禄年間に金扇の馬印の使用を明記はしておらず、徳川家康が聖眼寺の奉納物の金扇の一つを召し上げ、天正18年小田原の御陣のとき遠慮していた牧野半右衛門にも使用を差し許したと記述されています。よって聖眼寺起源説とあなたの提供する元亀以降の馬印使用の両情報の併記がよいのではないかと思いますがいかがでしょうか。--故城一片之月 2007年3月28日 (水) 15:41 (UTC)
聖眼寺に、金扇の現物はないのですか?もしくは、牧野氏所有の金扇の現物は??????
久能山東照宮博物館所蔵の家康の金扇と、聖眼寺・牧野氏の金扇を比較すればいいだけ。
で、現物はないんでしょう?
それにしても、あまりにも『牛窪記』・『牛久保密談記』の記述は稚拙ですね。詳細が克明に記されていない。あやふや。 信長記のほうが、年代を指定して明確に記述している。で、信長記には、諸家の馬験を列記しているそうだが、牧野氏はないんだろうな。それで、牛窪記に登場させたんだろうな。
牛窪記・牛窪密談記は、偽書なのでは????????????
家康の金扇の大馬験は、巨大なモノ(現物見ればわかる)で、2・3人で持ったそうだ。
甲陽軍鑑では、1546年の時点で、指物の金の提灯を小纏(小馬験)と出てくるが。
牧野氏が、巨大な金扇の馬験(大馬験)を持ち歩き、本陣の象徴としていたなど、ありえないのでは?
甲陽軍鑑の記述とすら矛盾する牛窪記は、どうしようもない偽書だな。--時空の旅人 2007年3月28日 (水) 17:26 (UTC)
- 時空の旅人さん、ウィキ豊です。確かにかの金扇はとても大きなものです。初めて見たこの馬印は少々驚きでした。但し、「ネツゾウ」と断言するのは如何なものでしょうか。貴殿の主張する本多平八郎由来説(下記の項目)がもし間違えていたら、貴殿は責任をとるのでしょうか。時空の旅人さんが捏造したと認めるのでしょうか。歴史は過去のことであるため、正確な事実はなかなか分かりません。権力者に対する追従や場合によっては隠し事により真実が闇の中と言うことも有ります。ひとりの人間が信じられないからと言って信じられるもののみが真実だとすると、地球上に人間の数だけ真実ができます。仮説として提示するだけならばともかく、自説を押し付け、歴史を自分の理解できる範囲に閉じ込めることはますます過去の本当に有った真の事実がますます過去の暗闇に埋もれていくだけです。牛窪記の記述の内容を疑う向きが有ることは知っています。これは徳川家と徳川譜代となった牧野家がいわば同床異夢であり、また、松平清康と牧野信成の吉田城攻防の下地合戦や徳川家康と牧野保成の対決など両家には対立の歴史も有り、徳川家の視点と牧野家の視点は異なります。そのため、徳川将軍家の視点では牧野家としては真実として残したいことが消えます。金扇の由来が本多平八郎か牧野家かの本当のところは未来永劫分からないかもしれません。また、正史として残る記録が本当に真実を記録したのかも分かりません。ただ、本当の真実が一大名に過ぎなかった牧野家のほうに残ることは有り得ると思います。その牧野家の記録こそ牛窪記です。牛窪記の記述がどこまで真実かは知りませんが、頭ごなしに嘘と言うべきではありません。ハッキリと申し上げます。「ネツゾウ」という言葉はこの場合は使用すべからざる言葉です。--ウィキ豊 2007年3月29日 (木) 08:46 (UTC)
柳営秘鑑 元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て 文禄二年大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置
[編集]【巻ノ三】
一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所 持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549)安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其 子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1593)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被 成置。
『柳営秘鑑』 幕臣菊池弥門が、江戸幕府の年中儀礼、殿中の格式、武家方の法規などを記した書である。10巻本が寛保3(1743)年に成立したが、その続編として、『後編柳営秘鑑』 『拾遺柳営秘鑑』 『柳営秘鑑脱漏』 『温知柳営秘鑑』 『残集柳営秘鑑』 『新益柳営秘鑑』が相次いで出された
柳営秘鑑では、本多忠高を由来とする。
牛窪記の記述と完全に矛盾する。--以上の署名のないコメントは、時空の旅人(会話・投稿記録)さんが 2007年3月29日 (木) に投稿したものです。
- 時空の旅人さん、こんにちは。ウィキ豊です。本多忠高は四天王本多忠勝の父ですね。柳営は幕府のことですから、『柳営秘鑑』に出ていたとすれば幕府の秘伝の書では本多家の物となります。葵紋も東三河の宝飯郡伊奈城(現在の宝飯郡小坂井町)の本多家から松平清康へ献上されてから付けたという説も有ります。そうならば、「三ツ葉葵」も「金扇」も東三河伊奈城本多家から渡ったものと成りますが、それが時空の旅人さんの説ですね。皆が知りたいのは正確な事実です。しかしながら、歴史とは過去のことであり、正確なところはなかなか分かりません。異説が有るならば両論併記で良いではないでしょうか。牛窪記の内容の真偽が問われていることは知っています。ただ、異説が有るという事実を否定することは無いと思います。--ウィキ豊 2007年3月29日 (木) 05:06 (UTC)
本多忠高・本多忠勝は、伊奈本多氏の家系ではありません。ただ、同じ本多氏ではありますが。
柳営秘鑑では、3つ葉葵の家紋は、松平信光に由来し、酒井氏が家紋として与えられ、松平長親のとき、再び戻された、とあります。解説に、加茂神社の氏子で葵紋の松平氏のことに触れています。
ただ、大昔のことなので、史実として断定できるわけでは当然ありません。
少なくとも、柳営秘鑑では、金扇馬印および三つ葉葵家紋とも、東三河から由来していませんよ。--時空の旅人 2007年3月29日 (木) 05:40 (UTC)
- ウィキ豊です。失礼しました。東三河の伊奈本多氏は本多忠次系(彦八郎家)でして確かに忠勝系ではありません。したがって、平八郎説では金扇はおっしゃる通り東三河由来ではないですね。但し、本多家は伊奈系でなくても葵紋です。三ツ葉葵の紋所については元来伊奈本多氏の紋を献上したという説が有り、そのためもともと有していた本多氏は恐れ多くも上様と同じ紋を付けられると本多氏の葵紋を説明します。これによると松平清康が牧野古白の子信成支配する吉田城を攻めたとき(下地合戦)、東三河伊奈城主の本多氏より献上されたとされます。これならば紋所は東三河由来に成ります。これは岡崎城主の本多家の末裔が宝飯郡小坂井町に来られた時、事実上認めていらっしゃいました。在原も名乗った松平信光由来説では本多家の葵紋の説明はどうなるのでしょうか(ただ、本多家由来を断定したわけではありません)。--ウィキ豊 2007年3月29日 (木) 06:20 (UTC)
- ウィキ豊です。時空の旅人さんにもうひとつ説明を求めます。豊橋市下地(しもじ)町の聖眼寺は入り口に葵紋が付いています。また、葵紋の幕を張ることも有ります。これは何故でしょう。馬印が関係ないのならば徳川家は聖眼寺に「葵の御紋」の使用を認めるでしょうか。聖眼寺が金扇以外に徳川家ゆかりの寺であることを証明しなければ、聖眼寺のかの御紋はどう説明しますか。本多平八郎由来説では「葵の御紋」が分かりません。御回答願い奉ります。--ウィキ豊 2007年3月29日 (木) 08:58 (UTC)
故城一片之月です。今度は本多氏所有のものが文禄2年(1593年)に徳川家康が馬印を所望したという説を時空の旅人さんは例示していますが、天正12年(1584年)「小牧・長久手合戦」の時に「御旗山」(愛知郡長久手町大字長湫字富士浦)に家康が本陣を移して金扇の馬印を掲げたのを堀秀政が目撃して兵を引いたとの伝承があるようですね(出典は『信長記』と著者のおなじ『甫庵太閤記』)。長久手町では、この御旗山が国の史跡に指定されこの話が定着してるようですね。 本多家起源説はどうなりますか?--故城一片之月 2007年3月29日 (木) 11:51 (UTC)
「金の扇の馬印、嶺わきより朝日の出るが如く、おし上りたり」(甫庵太閤記)--故城一片之月 2007年3月29日 (木) 11:57 (UTC)
徳川実紀でも、金扇の御馬印遥にみゆれば。徳川殿出馬ありしといふ程こそあれ、と記載されています。徳川実紀;嘉永2年(1849)完成は、柳営秘鑑;寛保3(1743)年よりも後に成立しています。
徳川実紀では、その甫庵太閤記と同じ記述なんですね。
ということは、由来を記載しているのは、牛窪記と柳営秘鑑だけということでしょうか? 他にもまだあるのかな??
牛窪記というのは、続群書類従;明治44年(1911)に刊行に収録なんですよね?
岩瀬文庫は、明治41年に西尾の実業家、岩瀬弥助が私財を投じて創立した私立図書館が始まりで
なぜ、牛窪記の原書が、岩瀬文庫所蔵なんですか?
牛窪密談記のほうは、どこにあるのですか???
牧野氏が、扇の馬印というより、扇の馬印自体ポピュラーなもので、家康が金扇の大馬印として採用したのは初めてということでは?
指し物(纏い)と、大馬印がごっちゃになっているし。
だいたい、牛窪記は著者不明というのが、一番の問題。--時空の旅人 2007年3月29日 (木) 12:52 (UTC)
牧野氏だけでなく、聖眼寺とかの権威に心服したみたいな記述はおかしいし。戦勝祈願に寺に行くというのも、おかしい。
自分は、牧野氏・聖眼寺由来は、おかしいということに変わりないです。
牧野氏は、安城譜代・岡崎譜代ではなく、駿河領国以後之御普代という新参者の元外様です。井伊や戸田ですら、岡崎譜代というのに。
家康が東三河に攻め込んだ時に、馬印が決まったというのは、ありえないでしょう。牧野氏は、今川氏の家臣でしょう? いわば、敵方。敵から、馬印をもらったなんて、エピソード。
家康は、祖父清康を尊敬し、元信改め元康さらに家康とするなど、今川義元が嫌いであり、今川色の強い牧野氏ルートはありえないでしょう。--時空の旅人 2007年3月29日 (木) 13:10 (UTC)
それでは、お話しましょう。(時空の旅人さんへ)
- まず、聖眼寺に戦勝祈願したのは同じ牧野氏でも牛久保城主牧野氏(成定・永禄9年5月家康に帰順)ではありません。牧野半右衛門(正勝のち讃岐守康成・やすしげと改む)です。彼はもと牛久保六騎のひとつで他の4家(真木氏を除く)とともに永禄8年春、岡崎に参り家康に和を求めて許された(「寛政重修諸家譜」など)。よって同年の家康の吉田城攻めの際には徳川方であった可能性が大(そうでなくとも聖眼寺に参拝は可能)。
- 聖眼寺に奉納したのは金扇であってこの時点で馬印とは『牛窪記』・『牛窪密談記』に書いていない。軍扇の類ではないでしょうか。外部のネットページで指物と書いてあるようですが指物は旗が一般的ですが小纏(旗以外の作り物)もあったのかもしれません(扇の指物があっても不思議ではない)。
- 聖眼寺の住持は牧野半右衛門参拝後に太子堂に金扇2本があるのを見て太子の分身(のなせる吉兆の意か?)と思い、家康に言上し、くだんの金扇1本を献上したとされる(→『牛窪記』・『牛窪密談記』。聖眼寺が下しおいたとはニュアンスが違う)。
- 『牛窪記』・『牛窪密談記』ともに徳川家康は天正18年の小田原の御陣に牧野半右衛門に金扇の馬印使用を差し許したと記すがこれは家康の大馬印ではなく、各武将の用いるもの(小馬印でしょうか?)でしょう(まったく同一のものを許すはずはない、指揮が混乱してしまう)。
- 牧野氏は徳川三河譜代では最も遅い部類です(一番遅いのは奥平氏ですか)。家康は義元を嫌ってはいないでしょう。駿府在住の頃、人質にしては破格の厚遇をうけているし、泰平ののちに鷹狩りの途中に義元の墓の近所を通りかかった時は家康は墓参を欠かさなかったと伝えられる(人柄が良く表れ尊敬できます)。晩年は故卿ではなく駿府で過ごしたのも憎しみがあってはできません。すいません脱線しました。牛久保城主の牧野氏は今川色が強かったためこれを払拭するのにあとあと苦労したようです。しかし牧野半右衛門(讃岐守)は家康にかわいがられ、本家とは別の大名(のちの丹後田辺藩)に取り立てられたのです。(牧野半右衛門=讃岐守康成の伝→『新訂寛政重修諸家譜・第六』続群書類従完成会)
- 『牛窪記』著者不明はどうしようもない、わたしが聞きたいぐらいです。かなり著名な文献でも著者不明はありますよ。以上。--故城一片之月 2007年3月29日 (木) 14:15 (UTC)
『牛久保密談記』→私の資料の底本は豊橋市橋良文庫蔵とされています(情報が古いので異動があるかもしれません)。
聖眼寺説をおかしいと思うことは自由です。時空の旅人さんのお調べの典拠を示して両論併記でも良いのでは?--故城一片之月 2007年3月29日 (木) 14:29 (UTC)
また、郷土史家ですか?勘弁してください。
羽田八幡宮文庫、郷土史家近藤恒次氏橋良文庫。
豊橋市とか、こんなもんばかりですね。
もっとまともな人口に膾炙した公的資料への記載はないのですか?
だから、山本勘助豊橋人説で、一揆起こして、NHKに乗り込んで、大河ドラマに悪影響及ぼすのでしょう。 街おこしで、デタラメ歴史、いいかげんにしてほしいよ。 中日新聞も呆れてましたよ。あと、まともな豊橋市民も呆れているそう。
異論の出ない根拠のエピソードなら、私も口出ししないでしょう。
家康以外にも、源頼朝が吉田神社造って、葦毛湿原の命名者で、あちこちゆかりの地があるとか、何でも有名人の親戚を名乗る商法で、うんざりですよ。--時空の旅人 2007年3月29日 (木) 14:49 (UTC)
↑場違いですよ、ここはページ馬印のノートです。ご自分で削除したほうがよいです(ノートあらしと思われますよ)。 それから、どうしても妥協点が見いだせないときは投票ということになりますが、それでも良いですか?いつまでも堂々めぐりの議論をするのはノートの無駄になるばかりですから、落としどころを提示されては?--故城一片之月 2007年3月29日 (木) 15:10 (UTC)
- 時空の旅人さん、ウィキ豊です。確かに平八郎本多家と彦八郎本多家(東三河伊奈本多家)の違いの指摘は正しいです。しかし、「2007年3月29日 (木) 13:10 (UTC)」の時空の旅人さんの発言は訂正して下さい。井伊家は遠江国の出身で岡崎以来とは言えません。戸田家はなまじ松平家と同格であり松平家の家臣ではありません。戸田宗光は松平信光の家臣ではなく女婿であり、ともに京の伊勢貞親の被官です。岡崎譜代の表現は正しいでしょうか。徳川家康が東の駿河国の今川義元を嫌うと言う記述が有りますが、戸田家の立場から言えばなまじ東の駿河国の今川家になびいたのは松平家のほうです。それに反発する三河田原城主戸田康光による松平竹千代の織田家への売り渡しを招いたわけです。松平広忠以降の松平家は今川家よりです。故城一片之月さんと同一の視点になりますが、晩年に駿府城に徳川家康が住んだのは今川義元公への敬慕とも取れます。また、今川家は高家としても残り断絶したわけでは有りません。--ウィキ豊 2007年3月30日 (金) 02:43 (UTC)
柳営秘鑑巻ノ二 ○御普代之列、松平御先祖、御連枝(兄弟)之家々、那須家、美濃、信濃、三河衆
一、三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座、 大久保、本多、元来田ニ作(?)、中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改。 阿部、石川、青山、植村、右七家を云 又ハ或ハ酒井、大久保、本多、大須賀、家筋無、 榊原、平岩、植村 共イエリ
一、三河岡崎御普代、井伊、榊原、鳥居、 戸田、永井、水野、内藤、安藤、久世 元来大須賀ノ出成候、井上、同上、阿部、秋本、渡邊 伊丹、家筋残候、屋代、同上、此十六家ヲ云
一、駿河領国以後之御普代、板倉、太田、 松平、伊豆右京、備中等家也、西尾、土屋、森川 稲葉、能登守ハ外様、藤堂、高木 堀田、先祖勘介、三河衆故御普代諸不分明、牧野、奥平 岡部、小笠原、朽木、諏訪、保科、土岐 稲垣、丹波、左京ハ外様也、三浦、遠山、両様有之、加賀、 家筋残ル、内田、小堀、西郷、家筋残ル、奥田、脇坂 京極、備後守家筋、毛利、内膳家今ハ無之、山口、柳生、堀 遠江筋家筋、那須、家筋残ル、蜂須賀、飛騨守厳有院様 御幼少之時分、御小性ニ被召出、御□代ノ席、並ニ被仰 付、後之隠岐守事、松平淡路守実次男故、此年、 本家を相続する故、此家筋無也 増山、秋田、有馬、相馬、水谷、片桐、秋田より水谷迄ハ常憲院様御代、貞享元子十二 月晦日御普代之席被仰付候 本庄、常憲院様以後、元ハ京家の人ニ而桂昌院様御連枝
↑原文載せました。自分で確認するか、検索してください。
駿河領国以後之御普代 牧野、奥平 岡部、小笠原、朽木、諏訪、保科、土岐 稲垣、丹波、左京ハ外様也
三河岡崎御普代、井伊、榊原、鳥居、戸田
戸田氏は、今川氏に滅ぼされているので、家康の時代に再興している。家康に敵対した歴史があるとはいえ、戸田氏はもともと、松平氏と同郷の西三河出身であり、三河湾の制海権から西三河とつながっていたし、北条早雲の今川軍を松平長親が撃退した際に、後方撹乱して、今川を敗退させてもいる。戸田氏が、岡崎譜代に列する理由では?
また、井伊氏も遠州の土豪で今川氏に滅ぼされ、徳川が遠州に攻め込む際に、道案内役として、調略を担当するなど活躍。 浜松譜代という用語がないので、岡崎譜代。
牧野氏は、今川の家臣で、駿河国は武田氏の支配下になった際に、旧今川家臣も組み込まれており、徳川が武田を滅ぼして、駿河国を領国とするまで、扱いが微妙だったんだろう。今川の重臣の岡部氏と同じ扱いだし。
牧野氏自体、もともと三河の土豪でない可能性もある。素性不明だし。--時空の旅人 2007年3月30日 (金) 04:27 (UTC)
- 戸田氏が西三河出身は間違いです。尾張国海部郡出身です。戸田松平氏は松平家以外で最初に松平姓を受けた家ですので岡崎譜代と言う表現は分かりますが。--ウィキ豊 2007年3月30日 (金) 06:00 (UTC)
田原城は碧海郡上野荘より移った 戸田宗光によって築城された。--時空の旅人 2007年3月30日 (金) 06:06 (UTC) http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira_089.htm
- 時空の旅人さんへ。宗光は碧海郡上野にいましたが、ウィキペディアでは京の正親町三条家からの養子といわれる戸田綱光の子という説を出しています。また、戸田は尾張国の地名であり、東三河でなければ西三河でも有りません。宗光個人が西三河に住んだことが有ることをもって西三河の人間と言い張るのは誤りです。--ウィキ豊 2007年3月30日 (金) 08:10 (UTC)
戸田氏は、尾張戸田(十田)発祥らしいけど、戸田宗光は京都から碧海郡上野(上郷)に下向した。 http://www.h3.dion.ne.jp/~samtoda/keifu01.htm 本当かどうか、わかりませんけど。ただ、田原に行く前に、碧海郡上野(上郷)にいて、松平信光と周知の間柄なのは、間違いないです。尾張→田原という表現は間違い。--以上の署名のないコメントは、時空の旅人(会話・投稿記録)さんが 2007年3月30日 (金) に投稿したものです。
- 戸田宗光と言う人が京の伊勢貞親の被官で一旦碧海郡上野に拠点を置き在原信光の女婿であったのはどの記述も同じです。但し、戸田氏が西三河出身というのは訂正すべきです。--ウィキ豊 2007年3月30日 (金) 08:53 (UTC)
岡崎譜代の戸田氏の系譜は、戸田宗光で始まるので、碧海郡上野庄出身で問題ないのでは?その後、尾張発祥?という戸田氏の名跡を継ぐわけで、父親も不明ですし。大垣の戸田氏もそう言ってるわけだし。
碧海郡上野から、その後住民票を田原に移すわけですよね? 上野古城は、弟の戸田家光に譲っているわけで、旧来からの本拠地(本籍地)も維持している。尾張海部郡戸田(十田);名古屋市中川区戸田のこと?に、戸田宗光は所領を持っていませんけど。宗光以前の戸田氏と、岡崎譜代の戸田宗光から始まる戸田氏は区別するべき。
実際、そう紹介してあるサイトもありますよ。--時空の旅人 2007年3月30日 (金) 09:27 (UTC) http://www.h3.dion.ne.jp/~samtoda/taharajou.htm
東三河発祥の土豪は、蒲郡の鵜殿氏、牛窪の牧野氏ですね。いずれも、今川氏の家臣。
菅沼氏は額田郡菅沼郷出身。奥平氏は作手が本拠だが、奥平7家の内、4家が額田郡本拠。戸田氏は碧海郡上野。--時空の旅人 2007年3月30日 (金) 09:36 (UTC)
- 時空の旅人さん、こんにちは。ウィキ豊です。戸田宗光を三河国の土豪と紹介するサイトが有るということは分かりました。ただ、京の伊勢貞親の被官という見方も有るはずです。その見方では三河国の土着の人間では無いし、在原信光の家臣でも無いことは明らかです。この問題は一応「ケリ」が付いたと思います。--ウィキ豊 2007年3月31日 (土) 00:53 (UTC)
New scans of 馬印 available on Commons
[編集]新しスキャンの馬印あるよ: https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Uma-jirushi と https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Hata-jirushi Rachel Helps (BYU)(会話) 2016年6月1日 (水) 18:33 (UTC)