ノート:雲伯
考古学における「雲伯」
[編集]考古学における「雲伯」の扱いについての記述がいくつかありましたが、そのうちいくつかは明確に誤っているか少なくとも私はそのような記述を見たことがないというものでしたので記事中から除去しました。それぞれの記述を引用し、なぜ除去したかを述べていきます。
以上の記述について、言語学についてはたしかに「雲伯方言」と言ったりもしますからそうかもしれませんが、考古学において雲伯と呼ぶことが「多い」とは思われません。この記述の直後に砂鉄に関する内容が書かれていたので近世のたたら製鉄に関する考古学的研究を踏まえたものかと思いましたが、さらにその直後には次に引用する弥生・古墳時代の話に繋がっていましたから、上記の引用部分における「考古学(中略)の見地」「これらの分野」とは弥生・古墳時代研究を念頭に置いたものと捉えるのが自然でしょう。では、弥生・古墳時代についての考古学研究で「雲伯と呼ぶことが多い」のかというとそんなことはありませんし、その呼称は適切でもないのです。なぜ適切でないかと申しますと、「出雲国」・「伯耆国」のような呼び方は律令制以降の呼び方であり、弥生時代や古墳時代にその呼び方を用いた/そのような地域区分が働いていた証拠が無いからです。もちろん、弥生・古墳時代のその地域を便宜的に(または自分の主張に都合が良いため意図的に古代以降の用語を持ち込んで)「出雲」とか「伯耆」と呼ぶ研究者もいますが、たとえば「山陰中部」というような呼び方のほうが適切ですし「雲伯」よりはよく見る表現だと思います。
雲伯に残る弥生時代の遺跡や古墳は質・量とも日本でも指折りであり、一大製鉄文化の栄えた往年を偲ばせる。
次にこの記述について、除去した理由を述べていきます。この記述は上述のとおり、一つ目の引用部分と同じ段落で、一つ目の引用部分の後に来る記述です。この部分は考古学的に立証される歴史的事実と明らかに異なります。弥生時代については捉えようによっては(たとえば後期における鉄器の出土量)この地域が栄えていたと言えなくもないですが、少なくとも「一大製鉄文化」ということはありません。古墳時代については、引用部分では古墳に限定して言及しています。しかし山陰は前方後円墳を作り始めるのが遅いことで知られていますし、サイズを見ると後の出雲国では山代二子塚の94メートル、伯耆国では北山古墳の110メートル(東伯耆を「雲伯」から除くなら三崎殿山古墳の108メートル)が最大であり近畿などと比べても「質」が「指折り」と言える状況はありません。量については、都道府県別にみた古墳の数ランキングで鳥取県が兵庫県に次ぐ2位のようなので「指折り」と表現できる可能性はありますが、東伯耆・因幡を除いた場合の数は存じ上げません。どうにせよ出典無しの記述です(そんなこと言ったら記事全文ですが)。
この記述は一つ目の引用部分と同じ理由で"ナシ"です。そもそも「古代出雲」の記事における記述も含め、「古代出雲」は「古代」の「出雲」にほかならず、それ以前の弥生・古墳時代を包含するのは一般的な定義ではないので問題があります。
最後にここですが、まず四隅突出型墳丘墓の理解が間違っています。北陸の四隅突出型墳丘墓は「北陸型四隅突出型墳丘墓」と名付けられ、北陸在地の墓制(以前に近畿?から入ってきた方形周溝墓)と山陰由来の新しい墓制(四隅突出型墳丘墓)が融合したものです。また山陰の中でさえ四隅突出型墳丘墓の様相は地域ごとに多様です。「同一の様式」といえる状況ではありません。もうひとつの四隅突出型墳丘墓にまつわる誤解としては「山陰一帯から北陸にかけて」というところで、石見のほぼ全域・但馬・丹後・丹波・若狭には分布しません。次に、「大出雲」という用語は使いません。弥生時代に旧国名を用いるべきでない点は上述しました。山陰から北陸にかけての地域は「日本海沿岸地域」などと呼びます(先ほど書いた通り但馬から若狭に四隅突出型墳丘墓がないので、この区分もここではあまり意味を持たないでしょうが)。それから、「王朝」という用語を不用意に使うべきではありません。「王」の定義をきちんと把握してから記載したほうが良いです。最後に重箱の隅をつついておくと、「様式」、「先史」は用法に誤りがあるので「考古学的調査による」としていますが考古学(の専門家による)研究を引用した記述とは思えません。--Fukuneko 2nd(会話) 2024年10月31日 (木) 12:32 (UTC)