ノート:阿久利川事件
1054年の根拠と鎮守府将軍として東下の根拠提示のお願い
[編集]二つお伺いさせて頂きたいと存じます。Papamaruchan22さんはどの様な文献を主に参照されていらっしゃいますでしょうか。日本語版ウィキペディアでは2006年10月24日 (火) 03:02 (UTC)現在、独自の調査という拘束力はないものの重要なルールがあります。平永衡の編集時の要約欄で「阿久川事件1054年」とあったのが気になってはいましたが、記述の編集自体は問題なかったので指摘しませんでした。しかし、私が不勉強なのかもしれませんが、一般的に阿久利川事件は1056年とされているのではありませんでしたか? 当時の国司任期が、奥羽両国と大宰府は5年と定められていたこととも矛盾しておらず、通説になっていると思っておりました。1054年とすると、陸奥守任官から3年、鎮守府将軍任官からは1年しか経っておりません。1054年という説が有力なのでしたら、ぜひ参考文献をご教示下されますようお願い申し上げます。
また、1051年(永承6年)に源頼義を鎮守府将軍として東下させたとされておりますが、これまた私が不勉強なのかもしれませんが、一般的に頼義は陸奥守で下向し、途中で鎮守府将軍を兼任したとされているのではありませんでしたか?
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- 実際には簡単に調べがつくような基本的事実については「出典の明記」は求められておりませんが、通説と違う編集は出典を明らかにする必要があろうかと思います。
宜しくお願いいたします。--ろう(Law soma) 2006年10月24日 (火) 03:02 (UTC)--追記ろう(Law soma) 2006年10月24日 (火) 05:09 (UTC)
返事遅れてすみません。追記や-ウィキペディアの記事とは-までご丁寧にすみません、さぞ、いらいらなさったのではとかさねがさね申し訳なくおもってます。慶事のため出張致しておりました。さて年号の件ですが私のミスです。ご指摘ありがとうございました。永衡が誅された件で阿久利川との関連をしらべていましたら、たまたまwikの安倍頼時の項に行きそこに確か54年とあったような、、ろうさんも編集してますよね。それが頭にこびり付いてたのでは、と存じます。それから将軍の件は、「於是朝延有議・・追討将軍」の記述がまえですので(陸奥話記)このとおりでこれで良いのでは、と思いますよ。こんごともおてやわかに。papamaruchan22 2006年10月24日 (火) 10:05 (UTC)読み方と年号訂正させていただきます。それから1051年の記述は藤原登任の件です。
- 年号は了解です。早速の対応、申し訳ありません。
- さて、将軍の件ですが、陸奥話記では当初から守兼将軍のように記述していますし戦前の研究書にもそう書いていますが、最近では一般的に
- とされています。今、手元に資料がありませんので具体的にどの本の何ページと書けませんが、元木泰雄、高橋崇、工藤雅樹あたりの著書だったと思います。陸奥話記は軍記物ですので、他の一級史料(日記等)が優先しますし、当時の陸奥守には征討権があったので将軍と表記されても問題なく、将軍と書いてあるからといって鎮守府将軍であるとはいえないと思います。(と、いうより近年の学術書・研究書で1051年に陸奥守兼鎮守府将軍任官となっている本を見た記憶がありません。)
- >それから1051年の記述は藤原登任の件です。
- 意図が理解できないのですが、どこの記述ですか?--ろう(Law soma) 2006年10月25日 (水) 01:40 (UTC)
- 1051年の記述は国司藤原登任の討伐で敗北したと云ってます、その件です。よく読んでください。私は、1051年に鎮守府将軍と述べてません。ですからこれでもいいと思いますよといいました。あんまりろうさんが一次資料とかいうので嫌気がさしてます。ウィキは、倦怠ぎみですが趣味で書いてます、血気盛んでも無く年も若くなく。1053年兼任したのは間違いないのでは。私は、事件と鎮守府将軍就任年よりもむしろ一旦帰任年が重要と思います。その時事件がおこってるのだから。ろうさんは、お調べになった年譜を書き足せばより良い記事に貢献できるとおもいます。とにかく今後ともご活躍よろしく。papamaruchan22 2006年10月25日 (水) 11:12 (UTC)
- 意図が理解できないのですが、どこの記述ですか?--ろう(Law soma) 2006年10月25日 (水) 01:40 (UTC)
- ご気分を害されたのでしたら申し訳ありません。私の執筆でも根拠薄弱のものがあろうかとは思いますが、しかしながらwikipediaの原則というものがありますのでPapamaruchan22さんが好むと好まざるとにかかわらず「〰という指摘がある」「〰と考えられている」等のあいまいな表現を使わざるを得ないと思っている次第です。調べてみましたがここ10年くらい前の学者による著作でも1051年に兼鎮守府将軍としている見解を発見しましたので、お言葉に従い編集いたします。--ろう(Law soma) 2006年10月26日 (木) 23:56 (UTC)
- 歴史部門の中世以前は、お使いいただいてもあまり不自然では無いとは思いますよ。しかしあなたがおっしゃる「wikipediaの原則というものがありますので使わざるを得ない」ではなく、あくまで{wikipediaの原則としてはあいまいな表現はさける}です。そのうえで日本語版では、あまり気にされてなく「〰という指摘がある」「〰と考えられている」等のあいまいな表現を使わざるを得ないと続くのなら異説として特に研究している方のたくさんいるこの分野では私は許量範囲かと思います。私は、あえて考えられているという表現までして参入しないです。ガイドブックを見た限りではもう少しきびしいかもと思うのです。私を含めスタイルをかえるのは苦痛なものだと思っています。papamaruchan22 2006年10月27日 (金) 11:53 (UTC)
所在地メモ
[編集]- ①日本歴史地理の先駆者吉田東伍は、一般に東吾と表記されている。早稲田大学関係文書でも吾としているが、本来は伍が正当なのでそのように記した。郷土である阿賀野の吉田記念博物館に直接確認済である。
- ②高橋崇教授の著作は多数。出自を最も手軽に読めるのは、戦乱の日本史(2)第一法規出版P114。(共著)ISBN4-10132-4 C0321。
- ③阿久利川・(河)・「あくとかわ」地域同定については角川日本地名大辞典第三巻(岩手県)編に詳述あり。ISBN4-04-C01030-2 C0520。papamaruchan22