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ノート:長瀬茶所駅

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正受寺について

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典拠である『谷汲線 その歴史とレール』の211-212頁に写真付きで解説があります。寺社に詳しくないので典拠から得られた情報からあまり推察はしていませんが、谷汲山華厳寺より2年古く創建された心華山正受寺も十一面観世音菩薩を本尊とし、正面の石碑には華厳寺と同じく「西国三十三所」と書かれていたそうです。典拠は2005年発行なので少なくともその頃までは現地に残っていたはずですが、現状はよく分かりません。何故なくなったのかを含めネット上には全然情報が出回っていないようなので…(Wiki内の寺社関係の記事にも一切記述がありませんね)。

なお、同著による調査(鉄道用地境界標による鉄道用地分析と聞き込み調査)で特定した駅位置はファイル:長瀬茶所駅跡.jpgとは異なります。この写真は長瀬4号踏切跡から東方向を撮影したものと思われますが、同著による長瀬茶所駅の位置はもう少し谷汲寄りで、長瀬5号踏切以西北緯35度31分21秒 東経136度38分02秒 / 北緯35.522564度 東経136.633977度 / 35.522564; 136.633977あたりか)になります(ストリートビュー中央の緑色の網の囲いがある辺り。その奥の工事車両が停まっている所が正受寺跡)。--ButuCC+Mtp 2017年5月25日 (木) 09:55 (UTC)[返信]

旧版の地形図入手の手続きに時間が掛かり失礼しました。1933年(昭和8年)のによると上記から推測される正受寺から南西方向にあると判明しています。現地に行ったのも華厳寺から谷汲口駅の途中での立ち寄りでの現地検証であり、跡地を現地で見るだけでの判別が困難だった事にもよります(草に茂っている要素もあり)。近い場所の写真は上げましたが位置がずれていた事はお詫びします。現地の再検証して更新する予定もありますが体調面でいつになるかは分かりません。--水瀬悠志会話2017年6月26日 (月) 11:00 (UTC)[返信]
  • 「鉄道工事設計変更認可申請書」によって「茶所駅」として計画に追加され
  • 駅の傍には「お茶所さん」の別名で知られる「正受寺」があり、駅の設置は参詣客の利用を見込んだもの
『谷汲線 その歴史とレール』にある上記記述(計画時の駅名、駅設置理由など)について先ほどまで要高次出典が貼られていましたが、『「正受寺」の正確な位置が不明』なこととこれらは全く別の問題であり、寺の位置がどこだろうと駅の仮称や設置目的について問題になるとは思えません(そもそも、駅記事であるこのページで正受寺の位置検証を行うこと自体、場所違いだと感じています。近くにあったことは間違いないので、それ以上の詳細が不明なら書かなればよいだけのことです)。その後、タグを変えて全ての内容について要出典範囲としたようですが、『谷汲線 その歴史とレール』ってそんなに問題のある文献なんですか?別の出典には異なることが書かれているから当該文献の記述は不審である、ということならまだ理解できるのですが。--ButuCC+Mtp 2017年6月26日 (月) 11:15 (UTC)[返信]
(追記)単一の出典については『新・鉄道廃線跡を歩く3』が谷汲線についてページを割いて解説していたのでそちらにも記述がないか当たってみます(廃線後主体の文献だと計画時の仮称だとか設置目的だとかはあまり期待できないですが…)。あと可能性があるとしたら社史や自治体史ですが、名鉄社史は谷汲鉄道についてそこまで細かく書かれていませんし、自治体史は自分が愛知在住なので確認に時間がかかることをご了承ください。--ButuCC+Mtp 2017年6月26日 (月) 11:22 (UTC)[返信]
検証の意思に感謝致します。また、Google Streetでは更新が2017年5月の撮影時点とは県道の道路整備完了でかなり変わっている所があります。
参考のために、
を明示しておきます。また、上記で挙げている場所の隣接している神社は健在でした。この撮影場所から南方角の「長瀬診療所南-県道40号線との交点の中間」辺りの駅表示が示されていた場所に跡地がある事は旧版地形図(1933年(昭和8年))により判明していますが、当時の地図で5万地形図しか検証できていませんでしたので正確さには欠けますが。--水瀬悠志会話2017年6月26日 (月) 12:19 (UTC)[返信]
『新・鉄道廃線跡を歩く3』を確認しましたが駅の仮称や設置経緯は書かれていませんでした。ただ地形図が掲載されており、長瀬茶所駅のあった時代の『「大垣」昭和7年修正+「谷汲」昭和8年要部修正』と平成時代の『大垣」平成7年修正+「谷汲」平成5年修正』の2種類(ともに縮尺5万分の一)がありました。長瀬茶所の位置からして該当するのは「谷汲」の地形図(『「谷汲」昭和8年要部修正』は水瀬悠志さんが取り寄せた旧版地形図と同一のものか?)ですが、いずれの地形図にも上記地理院地図のように神社(六社神社)の西隣に卍があり、その寺が長瀬茶所駅に最も近いです。繰り返しますが『谷汲線 その歴史とレール』に掲載された2000年代の現場写真の時点では健在だったので廃寺となったのはごく最近のことでしょう(地理院地図の表記が更新されていないのもそのため?)。--ButuCC+Mtp 2017年6月26日 (月) 17:54 (UTC)[返信]
(補足) 地形図に関し『「谷汲」昭和8年要部修正』については1947年発行版です。他にも1936年発行版も国土地理院では交付可能ですね。また、「正受寺」の検証における問題の岐阜新聞の出典についても高額であり、1つの検証のために年金受給収入のみの生活コストでは高い故に岐阜県図書館で閲覧するぐらいしかありません。他にも谷汲鐡道やその周辺の関連資料ある事は以前の訪問で確認していますから、周囲の検証も必要でしょう。先の地形図で示した座標についても地形図で当てはめたおおよそのものであり、駅跡については現地検証で示す事が必要でしょう。一番悔やまれるのは位置の検証をする際に寺の解体が成されていた点でしょう。--水瀬悠志会話2017年6月26日 (月) 18:55 (UTC)[返信]
『名古屋鉄道百年史』pp.130-131に「谷汲鉄道沿線案内」という当時の図絵がありました。それによると「茶所駅」の近くに「茶所」「六社神社」の記載があり、位置関係は地形図にある地図記号と同一です。ここから言えることは『「茶所」と呼ばれていたのは六社神社ではなく隣接していた施設のこと』『谷汲鉄道時代に茶所と呼ばれた施設があったことは確実』ということです。駅名表記が「茶所」になっていますが、同じく計画時の仮称が北野だった北野畑駅も「北野」と表記されているため、駅の仮称の傍証にはなるかもしれません。その他、今後何を確認すればいいのかと言う点とウィキペディアン自らが現地調査を行う危うさについて一旦以下にまとめます。--ButuCC+Mtp 2017年6月27日 (火) 13:51 (UTC)[返信]

今後の調査方針

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『谷汲線 その歴史とレール』の記述と寺の位置検証との関係
本来この記事は駅記事であって寺の記事ではありません。正受寺の位置について駅周辺情報として記すことができればなおベターと言ったところですが、寺の位置が分からないからと言って駅記事の本筋に影響を及ぼすものではありません。寺及び駅の具体的な場所が不明でも互いに近場であったことさえ明らかであれば『その寺が駅名にある「茶所」に関連があること』や『参拝利用目的で設置された』ことを示す典拠の記述に矛盾はないでしょう。したがって、『利用客の減少』も含め今後別の文献を調査するにあたってそれらに関する記述さえ見つかれば本文上の記述の補強材料になるはずであり、正受寺の位置検証が進まなくても駅関連記述の出典整備としては必要十分であると考えます。
信頼性要検証について
Template:信頼性要検証にあるように、このタグは原則として「正確性に疑問があり、かつ出典が一次資料でありなおかつその信頼性に問題がある場合」に使われるものです。「正確性に疑問」については現在議論している正受寺の位置検証が問題視されているものと認識していますが、『谷汲線 その歴史とレール』は独立した二次資料であり、信頼できない情報源に該当する事例と言うわけでもないので、何か否定材料でもない限りは典拠の質に問題はないでしょう。
現地調査について
現地調査は文献の記述を理解する上で参考にはなりますが、調査結果自体を第一義に加筆するとそれは独自研究になります。検証可能性の観点から言うと現地調査結果の裏付けを公表済みの文献に求める必要が生じます。検証可能な資料同士の競合ならどちらが正確なのか議論する余地がありますが、『ウィキペディアンの現地調査』対『二次資料に記載された現地調査』という状況では前者が検証可能性に反するため後者と競合しません。前者を後押しする別の文献が必要になるからです。--ButuCC+Mtp 2017年6月27日 (火) 13:51 (UTC)[返信]
当方での釈明と方針。
出典となりそうだった5万地形図についてはやはり{{精度}}に欠けており、現地での調査で検証を裏付けるのが{{独自研究}}であることであるとの判断ですので無駄骨になりそうな気がします。
Template:信頼性要検証は取り下げました。ただ、検証の可能性に反していないと言え、{{単一の出典}}であることも考慮した上で「正受寺」の位置についてや関連出典を探すことは駅設置・廃駅での要素となっているために重要ではあります。上記の検証だけでは誘導としての推測に過ぎませんから確定は住宅地図次元の出典が必要です。あくまで当方がこだわりすぎた故の結果ではありますが。
また、駅跡付近の写真画像についても現地での{{独自研究}}と言うならば除去すべきかもしれません。記述の検証としての写真画像に留めておくべきでした。お手数をお掛けします。--水瀬悠志会話2017年6月27日 (火) 20:31 (UTC)[返信]
私としては「正受寺」の位置よりも存廃状況についての裏付けが特に重要と考えています。『谷汲線 その歴史とレール』『名古屋鉄道百年史』および地形図の地図記号により営業当時に“茶所”と通称された寺があったことは既にクロスチェックできていると思いますが、その寺が現存しない事は今のところ状況証拠しかなく、本文に記述する際に廃寺であることをうまく説明できない状態となっているのが歯がゆいところです(加えて、正受寺の名が記された文献も他に欲しいところ…)。ただ、その“状況証拠”によれば寺が無くなったのは近10年前後の出来事であり、それが記録された文献が存在するかは微妙な所です。寺の一覧みたいな資料があればいいのですが、寺社は得意な分野ではないので資料探しに手こずりそうです…。
写真に関しては駅位置の裏付けが文献から得られるなら基本的には問題になりません。が、本件のように駅位置の推定が不安定な段階でこれと場所を決めて撮ってくるのは確かに少々勇み足かもしれません。遺構などがはっきり残っている場合は文献の裏付けを取りやすいので写真撮影も楽なのですが(^_^;--ButuCC+Mtp 2017年6月28日 (水) 08:55 (UTC)[返信]
確かに勇み足でした。その点でもお詫びします。隣の結城駅 (岐阜県)みたいに撮影の2017年5月時点でも神社の位置が明確で盛り土・石段の遺恨がはっきり残っており、旧版地形図とも一致している件と比べると当駅の位置は曖昧でありました。それについてももっと慎重に投稿を考えるべきでした。--水瀬悠志会話2017年7月2日 (日) 00:02 (UTC)[返信]

(調査結果記載欄)

  • とりあえず「正受寺」という名の寺が長瀬村にあったことは揖斐郡志で確認できました([1])。所在地は長瀬(村)字宮腰で、六社神社と同じです。--ButuCC+Mtp 2017年6月30日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
  • 『谷汲村史』p.659 に村内寺院一覧があり、下長瀬に山号:心崋山、寺号:正受寺、本尊:聖観音(十一面観世音菩薩)、創建:延暦15年(弘化3年)。住職:大野(名前は省略)とありました。上記揖斐郡志の記述も含むと延暦15年(796年)創建→正徳4年(1714年)廃絶→弘化3年(1846年)現地に再建…ということになります。--ButuCC+Mtp 2017年7月2日 (日) 06:54 (UTC)[返信]
  • ゼンリンの住宅地図を確認したところ、2003年版まで「正受寺」(居住者の名字は大野)がありましたが2008年版以降はありませんでした(2004年-2007年の住宅地図は鶴舞中央図書館に所蔵されてなかったので確認できず)。位置はこれまで上記の文献等で説明してきた場所と同じです。少なくとも廃寺になったのが廃線後であることは住宅地図からは読み取れます。--ButuCC+Mtp 2017年7月2日 (日) 06:54 (UTC)[返信]