ノート:鉄剣・鉄刀銘文
獲加多支鹵大王をワカタケル大王とすることの問題について
[編集]獲加多支鹵大王については、鉄剣銘文に記された干支から雄略であることに異論はない。しかし、その獲加多支鹵大王をワカタケル大王と読むのは、さまざまな点で相当な無理がある。 雄略については、確かに記紀に若建(幼武)と記載されている。この読みは、これまでワカタケが普通で、ワカタケルと読むことは従来ほとんどなかった。また、この「若」という文字は、古事記の用例 (ワクムスヒ、ワクゴノスクネ等) からするとワカではなくワクと読むべきであろう。
獲加多支鹵大王の最初の「獲」の字は、漢和辞典を見てもわかるように、ワというよりワクである。「加」はカ、「多」はタで特に異論はない。しかし、「支」についてはケと読むのは困難であり、通常はシあるいはキである。「鹵」も、ルではなく通常はロである。したがって、獲加多支鹵大王はワクカタシロ(あるいはワクカタキロ)大王と読むべきである。 このワクカタシロ大王を若カタシロ大王とすると、古事記応神の条に雄略の母后忍坂大中津姫とともに記されている堅石王(迦多遅王)が連想される。允恭については、記紀に記された系譜が異なることはすでに論じられているが、その子とされる雄略についても、兄とされる安康より年長になるなど、その系譜は疑わしい。雄略が若堅石大王とすれば、古事記応神の条にある堅石王の子となる。
雄略が若堅石大王であろうことはまず間違いないが、それをWikipediaに記載することには「中立性」の観点から異論を唱える方がおられるので、ここではワカタケル大王とある部分、獲加多支鹵大王に置き換えることを提案する。Wikipediaが事実を淡々と記載する類の百科事典でないにしても、明らかな誤りにそっと抗するのが「日本の知性」としてのWikipediaの役割と考える。 H18年8月15日Hironaga-以上の署名のないコメントは2006年8月15日 (火) 23:38(JST)にIPユーザー利用者:125.14.135.3が投稿したものです。--Asuka 2006年9月18日 (月) 06:33 (UTC)
- 質問です。最近の学会での通説になっているのでしょうか。個人的な見解では困りますので。
- 異論ある場合は、併記にしても良いと思います。Wikipedia:中立的な観点参照。少しスタイル直しました。署名の仕方も勉強しておいて下さい。--yamato 2006年8月15日 (火) 15:57 (UTC)
- 1週間以上経ちましたが、質問へのお答えがないので元へ戻させて頂きます。Wikipedia:検証可能性を参照の上、間違いであることを証明して下さい。また、間違いであるとの考えを併記しても良いと思います。その時は、ログインして下さい。よろしくお願いしておきます。--Asuka 2006年8月24日 (木) 02:48 (UTC)
Higashi様、UTC様
[編集]専業でないので回答が遅れて申し訳ありません。Higashi様のご説明、ワカタケル大王の読み方に対する当方の意見に対し、何の反論にもなっていません。ご主張されているのは、「歴史学の定説」だけというのは、仮に貴兄が学問をつかさどるものであるとしたら、恥ずかしい限りです。
Higashi様がいわれる検証というのは、歴史学・考古学のオーソリティーの論文等に記載されているかどうかということのようにお見受けします。この問題については、多少繰り返しになりますが、わが国の歴史学、考古学は、残念ながら事実を事実として議論、検証できる、そういう学問的状況にありません。その表に出た一例が旧石器捏造事件です。ワカタケル大王の問題について、どなたの論文(著作)をその検証の対象とされているのか、例示されれば一つ一つ反論させていただきたいと思います。
本来の検証というのは、自然科学的な事実から証明できるということです。良質な史料はそれに含まれるのでしょうが、古代史でしたら例えば古墳の問題があります。その築造年代がかなり正確にわかっていますから、それをもとに記紀の誤りを正し、歴史を見直すべきです。しかし、それはまったくといってよいほどに行われていません。この問題は、民俗学者が唱えるヒメ・ヒコ制で考えれば解決するのですが、歴史学の世界ではヒメ・ヒコ制という言葉すら拒否する傾向が強いのは紛れもない事実です。
弥生時代の戦争についてWikipediaでも、民族対立という概念がどこにも記載されていません。自然科学的には、例えば徳島大学医学部の中堀豊氏の研究にあるように、日本人は主に縄文人系と3系統の弥生人から構成されたことがわかります。これは、漢に圧迫されて、朝鮮半島南部の馬韓(百済)、辰韓(新羅)、弁韓(任那)からそれぞれ渡来してきたということなのですが、その異なる民族(人種)が日本列島に渡来してきたとたんに、縄文人系を含め単一民族化するというようなことはありえないことです。そのような単一民族化は、旧石器捏造のひとつの背景である独自民族論とも共通する歴史の捏造でしょう。
埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文も、きわめて良質な史料です。これを歴史的事実として、記紀の記載を見直すというのが、学問としての本来の立場です。雄略の問題については、安康より年長となるにもかかわらず、弟となっていることが従来から問題となっていました。この雄略と安康の関係は、天武と天智の関係によく似ています。すなわち、母は同じでも父親が異なるということです。そういう目で記紀を詳細に研究していた立場のものからすれば、雄略の母后忍坂大中津姫とともに出てくる堅石王がその実父とわかってきます。この問題について、「歴史学の通説」にならない(しようとしない)のは、天武と天智の関係同様、民俗学者のいうヒメ・ヒコ制の議論をしたくないということなのでしょう。ヒメ・ヒコ制の問題は、「歴史学の通説」になっていないのですが、これも旧石器が教科書にも載ったのと同じ次元の問題でしょう。-以上の署名のないコメントは2006年9月16日 (土) 05:44(JST)にIPユーザー利用者:125.14.135.3が投稿したものです。--Asuka 2006年9月18日 (月) 06:33 (UTC)
- UTC様とは誰のことでしょうか?--Asuka 2006年9月18日 (月) 06:35 (UTC)
「泰始四年について」
[編集]『泰始四年について』の中に、「泰始四年は、369年説が有力である。東晋の年号を用いているのは、このころの情勢からである。」とあるが、『ウィキペディア(Wikipedia)』で見る限り、東晋の年号として泰始は存在せず、この記述は意味を成していないのではないでしょうか。一方、『推定銘文と読解』に有るように、この銘文の年号を「泰始」と読むとすれば、泰始四年は宋・明帝時代の468年にあたります。ですから、問題の記述は「泰■四年には、369年を当てる説と泰始四年(468年)を当てる説がある。」とした方が公正ではないでしょうか。-以上の署名のないコメントは2007年9月3日 (月) 02:29(JST)にIPユーザー利用者:59.127.11.126が投稿したものです。--Fukuneko 2nd(会話) 2024年1月15日 (月) 09:29 (UTC)
個別事例が詳しすぎませんか?
[編集]それぞれの刀剣についてのWikipediaのページがあるものにはTemplete:mainを、出土遺跡のWikipediaページに銘文刀剣に関する章のあるものにはTemplete:See Alsoを付してみました。そこで気になったのが、このページは銘文の象嵌された鉄剣・鉄刀を全体として記述するページだと思うのですが、一般的なページにおける「概要」のような章を設けずいきなり個別事例の説明が始まっている点、さらに個別事例に関する情報があまりに詳しく、個別ページ・出土遺跡のページに書けばよいのでは?と思わされるほどである点です。とくに「解釈」の項がやたら詳しい割に稲荷山古墳と江田船山古墳の「解釈」の項は独自研究の恐れが指摘されています。この議論自体、個別事例のページでやられるならまだしも、このページで行われるべきことであるとは思えません。--Fukuneko 2nd(会話) 2024年1月15日 (月) 09:40 (UTC)