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ノート:金方慶

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捕虜とは戦闘行為の結果、降伏した将兵の事であり、ここに記載された 俘童男女(俘虜とした子供二百人)とは、常識的に考えて拉致された非戦闘員の未成年者と考えられる——以上の署名の無いコメントは、Perpoohノート履歴)さんが 2010年10月15日 (金) 07:30 (UTC) に投稿したものです(Haydarによる付記)。[返信]

三別少討伐は、クビライに命ぜられた高麗軍が単独で行ったもので、モンゴル軍と共同で行われたものではない——以上の署名の無いコメントは、Perpoohノート履歴)さんが 2010年10月16日 (土) 11:36 (UTC) に投稿したものです(Haydarによる付記)。[返信]

テンプレートの付加について

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本記事を一読致しましたが、「13世紀の高麗の将軍、金方慶」の記事であるのに、文章の過半が文永・弘安の役関係を占め、しかもその典拠が『八幡愚童訓』や日蓮書簡など日本側の資料に記されているの言説に偏った内容になっており、「高麗」の将軍の来歴を記すべき項目としては異常な体をなしているように強く感じました。また、文永・弘安の役における対馬や壱岐での住民に対する残虐行為を本記事編集者は金方慶の責任に帰していますが、これは飽くまで日本側資料での記述から類推されるものであって、金方慶自身がそのように命じたかは、『八幡愚童訓』や日蓮書簡での当該部分には明記されていません。そもそも、13、14世紀に編纂された日本側の資料には金方慶自身が言及されたものがあるとは、寡聞して知りません。このような記事編集は、編集者による独自研究との疑いを強く抱かざるを得ません。日本での金方慶はあまり聞かれませんので、本来ならば、韓国などでの評伝を参照すべきところでしょう。少なくとも、金方慶は13世紀の歴史的な人物であるからには記事編集についても(後世の評価はまた別問題として)可能な限り現今の歴史研究に適った内容にできるよう、編集時には心がけるべきかと思います。また、文献の引用方法についても通常の引用方法では見られないような形式が全体的に見られることもあり、典拠資料について書式の安定や記事内容が改善されるまでを目処として、中立的な観点検証可能性独自研究精度についてのテンプレートを付加致しました。--Haydar 2011年10月27日 (木) 17:48 (UTC)[返信]

perpoohですが、もし韓国や中国の資料との整合性がとれない箇所があり、日本側の資料で明らかに信憑性に欠ける記述があるのならば訂正しますから、否定するに足るソースを添付の上で指摘してください。金方慶は日本においては元寇の指揮官として知られ、韓国でも日本征伐の英雄として知られており、文永・弘安の役の記述が多くを割くのは不可避と思われますが、反論の上で指摘をお願いします。——以上の署名の無いコメントは、Perpoohノート履歴)さんが 2011年10月27日 (木) 18:32‎ (UTC) に投稿したものです(Haydarによる付記)。[返信]

Haydarです。 早速のレスポンスありがとうございます。
 >もし韓国や中国の資料との整合性がとれない箇所があり、日本側の資料で明らかに信憑性に
 >欠ける記述があるのならば訂正しますから、否定するに足るソースを添付の上で指摘してください。
とのことですが、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:独自研究は載せないの指針に従えば、高麗側、元朝側の資料と日本側の資料とに整合性があるか否かを判断する必要は、原則的には記事編集者には求められていません。飽くまで、当該の事柄や人物についての情報でどういう事が判明しているのか、あるいはどう評価がされているかを書くべきでありますので、wikipediaの記事編集では、そのことで記事編集者が資料間の整合性を取ろうとする必要はない、ということだと了解しております。
ご質問の趣旨については、wikipediaの記事編集の方針に従えば、「日本側の資料」の記述と「韓国や中国の資料との整合性」を考察した先行研究なりの紹介をすべきであり、そのような研究なりが見付からない場合は、個々の資料について「これこれの資料ではその時の場面はこのように書かれてある」という程度に留めるべきでしょう。
また、これに関連して文章表現についてもいくつか問題が見られます。例えば↓の文の場合、
 >戦略的に見て価値が乏しく、防備も薄い対馬・壱岐に執着し、膨大な非戦闘員を殺戮した人物としても知られている
とあります。第1として、「戦略的に見て価値が乏しく、防備も薄い対馬・壱岐」とありますが、「対馬・壱岐」が「戦略的に見て価値が乏し」いとは誰が判断した意見なのか? ということがまず問題です。日本遠征を裁下したモンゴル皇帝であるクビライが判断したものなのか、遠征軍の司令官であった都元帥の忻都または博多まで来たらしい忽敦が判断したのか、元朝の中書省があるいは枢密院が判断したのか、それとも高麗国王の元宗あるいは忠烈王が判断したのか、これだけでは全く不明です。これには、クビライを筆頭とする元朝側や高麗側の「対馬・壱岐」についての認識を史料上から明示する必要が有ります。
同時に、上のような文章とするからには、クビライを筆頭とする元朝側や高麗側の「対馬・壱岐」についてのどのように認識をしていたかといった問題についても考察した研究論文なりを紹介する必要があります。もし、現代の軍事学的見地から「戦略的に見て価値が乏しく、防備も薄い」という判断をしている論者が居るのであれば、別途その言説についても典拠付きで述べねばなりません。(しかし、この場合もこれは飽くまで現代から見た見地であり、13世紀のモンゴルや中国、高麗側の地理認識を配慮しなければ、ただの時代錯誤的な意見にしかならない危険性があり、記事編集には中立性を保つため十分注意が必要でしょう)
第2に、「対馬・壱岐に執着し」となっていますが、これも「執着」という言葉を用いる以上は、金方慶が個人的な事情でこだわったような資料的根拠を明らかにする必要があります。可能性として遠征には対馬・壱岐を必ず占拠してから九州本土へ上陸せよ、というクビライなどからの指令が遠征軍に課されていた可能性もあり、これに関しても資料的な検証や先行研究での見解を載せねばなりません。
第3に、「膨大な非戦闘員を殺戮した人物としても知られている」とありますが、これも上記2点同様に、「知られている」と述べるからには、金方慶が対馬や壱岐で「膨大な非戦闘員を殺戮した」という資料的な根拠をまず明らかにする必要が有りますが(これは主に日蓮の書簡や『八幡愚童訓』系の情報のようですが)、同時に、この文章は金方慶について対馬や壱岐で「膨大な非戦闘員を殺戮した人物」だと論評した人物がいることを前提としています。それについて述べている研究論文なり評論なりを典拠で示す必要が有り、その意見も一部で言われていることなのか、学問的にコンセンサスが得られているか、などといったことも十分配慮する必要が有ります。
最後に、
 >金方慶は日本においては元寇の指揮官として知られ、韓国でも日本征伐の英雄として知られており、
 >文永・弘安の役の記述が多くを割くのは不可避と思われます
とのことですが、『高麗史』の金方慶伝の分量をみた場合、明治四十二年に出版された三冊本『高麗史』は1頁につき2段で1行23文字17行の構成ですが、このうち金方慶伝は10頁程割かれています。そのうち文永の役での出征部分は21行ほどであり、弘安の役での出征部分は14行程になります。文永・弘安の役での戦闘に関わる記事は金方慶伝全体の10分の1前後であり、自分がざっと見ただけではそれ以外の部分の記事は金方慶と高麗宮廷や元朝宮廷、忻都、洪茶丘などのモンゴル軍人・官僚との関わりで多くを占められているようです。「韓国でも日本征伐の英雄」という評価がされているのであれば、それも出典を示す等して記事にすべき内容と思いますが、それとは別に、「文永・弘安の役の記述が多くを割く」ことが「不可避」とのことですが、『高麗史』金方慶伝を見る限り、現在の本記事の比重は妥当とは言い難いように思われます。金方慶はあくまでも高麗に仕える人物であり、後半生の多くは高麗宮廷とモンゴルとの関わり過ごしたのであり、文永・弘安の役で高麗軍を指揮したとはいえ、それも高麗国内での彼の活動の延長に過ぎないということを十分弁える必要が有ります。自分も金方慶についてはほとんど良く知りませんが、だからといって記事編集者は自らの知識量の程度を言い訳にして歴史上の人物の評価を下すかのような記事編集の仕方はすべきではないと思っております。
例えば、織田信長が青年時代「うつけ者」と呼ばれていたというエピソードについて『信長公記』などを引用して1節設けて「うつけ」と呼ばれていた伝承に如何に事実性があるかを詳しく紹介したとしても、その他の信長の生涯にわたる来歴が極端な場合箇条書きレベルであったら、全体的にバランスが悪い状態であり百科事典としての有用性が疑われるでしょう。もし、金方慶と文永・弘安の役の関係を述べるのであれば、金方慶が生涯に渡りどのような活動をしていたのか全体像が分かる記事にすべきであり、その上で文永・弘安の役に関わったことを述べれば良いのであって、文永・弘安の役を中心に金方慶の記事を書いたのでは本末が転倒していることになってしまいます。
長々と書いてしまいましたが、主として自分の懸念しているところは以上のような感じです。他に(原文:而官軍不整、又矢盡)といった引用方法を連発するのは、漢籍の出典方法として普通見られず、(『元史』巻○○ 列伝○○ 至元○年○月○日条「(前略)而官軍不整、又矢盡」)みたいな書き方をするはずですが、ひとまず置きます。 また、コメントをされる際には文末に署名をお願い致します。--Haydar 2011年10月27日 (木) 22:06 (UTC)[返信]

『高麗史』表の記述について

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去る5月11日に『高麗史』表の記述とありながら別の部分の記述に基づいたと思われる内容であったため、恐らく『高麗史』の刊本として最も流通していると思われる明治41年から翌明治42年(1908年 - 1909年)に国書刊行会から出版された3冊本『高麗史』(+索引1冊)の記述に基づいて当該部分を編集したのですが、捏造撃破戦線さんから編集部分をまるまる削除されてしまいました。 https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E9%87%91%E6%96%B9%E6%85%B6&diff=next&oldid=51666410 自分が用いたものは第1巻の「例言」によると主に日本に将来されていた古刊本『高麗史』を校訂して翻刻したものだそうですが、捏造撃破戦線さんの編集の意図が近現代の翻刻よりも本来の古刊本による影印本等に依拠すべきだ、という主旨であれば事の是非は措くとしてある程度納得出来ます。しかしながら、削除された理由についてコメント欄にて「高麗史表にはそう書いておりません。ちゃんと見て来てください。」と述べておられますが、実際に『高麗史』の主要刊本でそのような記述がされている以上「そう書いておりません」というご意見は事実に反しており、甚だ受け入れ難いものです。当該部分は3冊本の第2巻739頁の上段に書かれたもので、国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991069 で閲覧可能です。 主要資料の記述を否定される以上は、まず捏造撃破戦線さんが編集で用いておられる「高麗史表」が『高麗史』のどういった系統の資料であるのかをご説明して頂く必要があります。さもなければ今後の本記事の編集をする場合、金方慶について『元史』や『高麗史』(あるいは『高麗史節要』)の記述に基づいて編集したくても支障を来してしまうからです。(『元史』は中華書局で出版されている刊本と明初刊本に基づいた影印本である百衲本、『高麗史節要』は学習院東洋文化研究所の影印本系統の古刊本の影印本等が歴史研究では主に用いられているようです。) そのため、捏造撃破戦線さんには当該部分を削除された資料的な理由について、もう少し詳しいご説明を下さるよう望む次第です。--Haydar会話) 2014年5月14日 (水) 15:59 (UTC) 若干の文章補正--Haydar会話2014年5月14日 (水) 16:13 (UTC)[返信]

高麗史表には壱岐で敗れたとは書いてなく、博多に至り敗れたと書いてあります。「※原文:至覇家臺戰敗」——以上の署名の無いコメントは、捏造撃破戦線ノート履歴)さんが 2014年5月15日 (木) 08:31 (UTC) に投稿したものです(Haydar会話)による付記)。[返信]

 Haydarです。早速の返信ありがとうございます。
さて、繰り返しになってしまうのですが、上記の通り、自分が捏造撃破戦線さんの編集について疑義を呈した主旨は、高麗の歴史について主要な資料である『高麗史』のこれまた主要な刊本であるの国書刊行会から出版された3冊本『高麗史』の記述に基づいたものであり、それに対して捏造撃破戦線さんは「高麗史表にはそう書いておりません」と答えられ、実際に刊本でそのように書かれている内容であるにもかかわらず否定されるという事態についてであって、このように刊本の記述という物証というか事実に反するお答えに甚だ納得し難いからでした。そのため、捏造撃破戦線さんが編集の根拠として用いられている「高麗史表」がどこの誰による校訂を受けた資料(つまり書誌情報)であるのか、ご提示をお願いした次第でした。
 しかしながら、自分の疑義を受けての今回の捏造撃破戦線さんのコメントでは、その書誌情報についてをお答えされず、「高麗史表」らしき資料の当該部分の一部と思われる「※原文:至覇家臺戰敗」とのみ書かれ、肝心の書誌情報はご提示されませんでした。これでは捏造撃破戦線さんが用いておられる「高麗史表」が自分を含め他の編集者や閲覧者で確認検証する事が出来ず、wikipediaの編集におけるWikipedia:検証可能性の方針に大きく抵触する恐れが有ります。(具体的には方針1の「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。」)
 重ねて、捏造撃破戦線さんが参照されている「高麗史表」がどういった種類の資料であるのか、書誌情報の提示をお願い致します。
 また、コメントをされる際には文末に署名をお願い致します。--Haydar会話2014年5月15日 (木) 13:46 (UTC)[返信]
一応、上述のように国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991069 のリンクも貼りましたが(国書刊行会 発刊『高麗史』第2巻739頁)、『高麗史』表での記述をこちらでも書いておきたいと思います。
咸淳十年 至元十一年 (元宗)十五年 
 (中略)十月金方慶與/元元師忽敦洪茶丘等/征日本至一岐戰敗軍/不還者萬三千五百餘/人」(『高麗史』 巻八十七 表 巻第二)/は刊本中での改行部
 これもちなみにですが、ご覧の通り国書刊行会本では(捏造撃破戦線さんが提示された「至覇家臺戰敗」という文言もありませんが)「壱岐」とは書かれておらず、「一岐」と書かれています。これは別に自分が「壱岐で敗れた」と主張している訳ではなく、国書刊行会本『高麗史』では「征日本至一岐戰敗」云々と書かれているのを、自分は述べているに過ぎません。ここの部分を云々することは『高麗史』のその他の本文と同様に(歴史研究での主要なテーマでもある)本文内容の解釈の問題であり、編集時に『高麗史』本文を記事にて引用する等する場合は当該部分の本文解釈についての先行研究を通観する必要が有る事は(他の記事同様)予め指摘しておきたいと思います。--Haydar会話2014年5月15日 (木) 13:46 (UTC)[返信]

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991069/385 ←このサイトをちゃんと確認してください。Haydarさんが仰る739項とは違うかも知れませんが、私が提示する原文は確かにあります。--捏造撃破戦線

捏造撃破戦線さん
失礼ながら、それは自分がリンクを貼った国立国会図書館近代デジタルライブラリーの同一箇所(こちらも)であり、自分が先の編集でも上記で書いた引用部分でも同一のものです。そこの(『高麗史』 巻八十七 表 巻第二、リンク先の近代デジタルライブラリーのホームページでも国書刊行会 発刊『高麗史』第2巻739頁であることは明示されています)当該部分でも「十月金方慶與/元元師忽敦洪茶丘等/征日本至一岐戰敗軍/不還者萬三千五百餘/人」以上の事は書かれておらず、捏造撃破戦線さんの仰るような記述(つまり「至覇家臺戰敗」)はされておりません。
 また、捏造撃破戦線さんが削除された時の根拠となった資料が、国立国会図書館近代デジタルライブラリーにアップされ自分の編集でも利用している国書刊行会本『高麗史』3冊本であれば、同一の刊本を利用した結果であり当該頁を提示してその旨仰れば済む事ですが、そのような応対をされていない事に甚だ残念に感じます。
 また、もし、捏造撃破戦線さんが利用されている資料が自分の使用しているものと同一資料であるのであれば、それはそれでまた問題が有ります。「739項とは異なるかも知れませんが、私が言う原文は確かにあります。」とおっしゃいますが、ここで問われているのは肝心のその当該部分でして、「739項」以外のどの部分・頁であるのか、編集をされた捏造撃破戦線さんが「原文は確かにある」と仰りつつ明示をされないと、第3者にとって検証ができず、wikipediaの編集におけるWikipedia:検証可能性の要件の満たせない事になります。
 今一度お尋ねしたいのですが、捏造撃破戦線さんの一連のコメントの流れを見る限り、捏造撃破戦線さんが編集で用いられたのは1909年に出版された国書刊行会 刊『高麗史』3冊本と同一であると解して宜しいのでしょうか? その点重ねてご確認致したいと思います。--Haydar会話2014年5月15日 (木) 15:04 (UTC)[返信]

すみません。私が見たのは弘安の役に関する記事でした。無駄な苦労をさせて申し訳ありません--捏造撃破戦線

捏造撃破戦線さん
 重ねて返信有り難うございます。
 さて、今一度確認しましたところ、ご指摘されている部分は同739頁の下段の「辛巳(年) 至元十八年 (忠烈王)七年 五月金方慶與忻/篤茶丘征日本至覇家/臺戰敗軍不還者十萬/有奇」と書かれている部分でしょうか?(今程気が付きましたが) 
 確かにこの部分を見れば捏造撃破戦線さんが提示された「至覇家臺戰敗」と合致しており、検証可能性の問題はひとつ解消されました。これでこれで問題ないと思います。
 しかしながら、ここでまた新たに問題が発生しており、これは年表の年代が「 至元十八年 (忠烈王)七年」とあるように1281年つまり弘安の役の年代であり、自分が編集を行ったのは(引用部分の『高麗史』表の年代が「咸淳十年 至元十一年 (元宗)十五年」とあるように)文永の役(1274年)の部分だったはずです。そのため、ご指摘の通り「高麗史表」当該部分が「辛巳(年) 至元十八年 (忠烈王)七年 五月金方慶與忻/篤茶丘征日本至覇家/臺戰敗軍不還者十萬/有奇」の箇所の事であっても、文永の役の部分としての引用の箇所としては不適合であって、捏造撃破戦線さんの削除編集は錯誤である事になってしまいます。また、もし当該箇所の部分を指しておられるのであれば、自分と捏造撃破戦線さんとが依拠している典拠資料間の記述と自分の編集とでは齟齬は来しておらず、削除理由として仰られた「高麗史表にはそう書いておりません。」とのご主旨もまた失当してしまっている事になります。
 またまた改めてお尋ねすることになってしまいますが、(自分は今回本記事の文永の役部分しか編集していなかったので、削除理由も文永の役関係の部分だとばかり思っていたのですが) そもそも捏造撃破戦線さんで最初のコメントでは引用された「至覇家臺戰敗」は文永の役関係の年代(1274年)の『高麗史』上の記述を指しておられるのでしょうか? コメント頂ければ幸いです。(いまだ削除時に典拠とされた書誌情報のご説明を頂けていないのはひとまず措きます) --Haydar会話2014年5月15日 (木) 16:16 (UTC)[返信]

簡単に申し上げると、私が弘安の役に関する原文を見て、文永の役の原文と似ていたので、つい錯覚したのです。--捏造撃破戦線

捏造撃破戦線さん
 ご主旨承りました。単純に原文記述箇所の見間違いをされていたという事なのですね。「覇家臺」という綴りにどことなく見覚えがあるようなないような気がしてはいたのですが、当該箇所には出て来ないしおかしいなとは思ってはいたのですが… 引用部分が短過ぎると第3者的には検証が難しいものですね。それとは別に記事全体的な調整は色々必要ではありそうです。 --Haydar会話2014年5月16日 (金) 18:06 (UTC)[返信]

本文削除の理由

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金方慶ページは中立的観点から脱して、貶す為の文章やデマが主だったからです。私はそれを直すようと頑張ったんですが、能力が足りなく、疲れたのもあり、なんせ元の本文が卑下や中傷に焦点があたっていたので、どこから改善すれば良いだろうか分からなくなってきて、一旦はこれ以上扇動に悪用されるのを防ぐため、本文を全部削除するようにしました。そして、もう一つ申し上げれば、韓国のwikiは日本側の武将をここまで貶したりしません。——以上の署名の無いコメントは、捏造撃破戦線ノート履歴)さんが 2014年5月15日 (木) 08:31 (UTC) に投稿したものです(Haydar会話)による付記)。捏造撃破戦線さんの訂正に割り込んで仕舞いました、失礼致しました(汗 --Haydar会話2014年5月15日 (木) 13:50 (UTC)[返信]

捏造撃破戦線さん 
Haydarです。数年前に自分が上記のコメントでも触れている事ですが、金方慶は13世紀半ばに活躍した高麗に仕える人物であり、その事を念頭に記事編集がされるべきだと思っております。日本史(あるいはモンゴル帝国史)との関係で言えば、文永弘安の役の時における、高麗軍部隊の指揮官であった事でも知られている人物ではありますが、その折も「文永弘安の役の時における高麗軍部隊の指揮官」である部分の比重に大きく偏っており、本来記事の中心であるべき「高麗に仕える人物」としての比重が極めて少なくなっておりました。捏造撃破戦線さんも本記事について大きく増補されていますが、残念ながらこの比重の偏重は全く解消されておりません。(この問題の責任は自分にも一端は有るのですが、残念ながら金方慶についての日本での研究に付ついては寡聞であり、高麗史は自分の専門ではなくハングルも読めない事もあって韓国側の研究についても調べられていないのが現状です)
 しかしながら、自分が今回問題としている事はそういう事ではなくて、捏造撃破戦線さんが当該部分を削除された根拠、すなわち、純粋に「典拠資料の資料的妥当性」またその典拠資料の「書誌情報」の問題である事をよくよくご承知願いたく思います。まして、韓国版wikiでどう書かれているか云々という事とも異なります。(韓国語版に検索がし易い金方慶に関する先行研究資料が載っていれば良かったのですが)
韓国版wikiについては殆ど見れていませんが、(翻訳ソフトでざっと見た限りでは)一応おおよそ『高麗史』金方慶伝の記述に沿った形で叙述されているようですが、いかんせん自分は漢文読解能力が乏しいので、金方慶伝をもとに記事編集をしたくても先行研究の把握が大きく不足しているため、なかなか思うように行っていないのが実情です。
 ともかくも、コメントされた内容を見る限り、捏造撃破戦線さんによる削除理由は納得が行く、というよりも合理的というか論理的なご回答とは全く感じられませんでしたので、改めて削除理由とされている具体的な資料的情報をご提示される事を願う次第です。(重ねて、コメントをされる際には文末に署名をお願い致します。)--Haydar会話2014年5月15日 (木) 13:46 (UTC)[返信]