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ノート:野球害毒論

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野球害毒論と渋川玄耳について

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野球害毒論についてなのですが、渋川玄耳が野球害毒論に大きく関わっていたということは、朝日新聞大阪本社社史編集室・編『村山龍平伝』(朝日新聞社、1953年)にも記述されていることであり、どのように書くかということはともかくとして、全く消してしまう必要はないように思うのですが、いかがでしょうか。

また、「野球害毒論」「野球亡国論」という呼称で書かれている文献は読んだことがあるのですが、「野球有害論」という呼称が書かれている文献を読んだことがないので、もしよろしければ書かれていた文献についてお教えいただければ幸いです。--Akaloli 2007年10月1日 (月) 11:24 (UTC)[返信]

会話欄にご連絡を頂きましたが、こちらで対応させて頂きます。不十分ながら以下回答します。--Coffeebrain 2007年10月3日 (水) 13:54 (UTC)[返信]

Re:野球害毒論と渋川玄耳について

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客観叙述が望まれる「事典編集」ですから、
「論評」や「個人的解釈の発表の場」であってはならないと思います。
ですので、僭越ですが「個人的解釈」と思える部分に敢えて手を入れました。
(もちろん当方の記述内容もお粗末でしょうし、修正加筆されていくべきものです)

>渋川玄耳が野球害毒論に大きく関わっていたということは、
>朝日新聞大阪本社社史編集室・編『村山龍平伝』(朝日新聞社、1953年)
>にも記述されていることであり、

上記『村山龍平伝』の具体的内容を(もし当該箇所を引用可能でしたら)、
お暇なときにでも、ご紹介下されば幸甚です。

>一方、大阪朝日新聞にはこのキャンペーンは記事としては掲載されず
>(東京朝日にて連載中という案内は掲載された)、
>キャンペーン終了直後には野球特集を組んでいた。
>このスタンスの違いは、キャンペーンが東京朝日社会部長の
渋川玄耳のイニシアティブによって行われたからであるといわれている。

野球害毒論の項目に記載されていました上記箇所は、
(当方すべてを検証していませんが)ほぼ事実が記載されているのでしょう。
しかし、渋川玄耳をクリックすると(検索サイト等でウィキペディアへ訪れた人にも)、
バランスを失した針小棒大な表現が散見され、ある種の誤解を生じかねない内容に思えました。
次のような記述が為されていました。

>社会部長を務めていた1911年(明治44年)、
>紙上でキャンペーン記事「野球と其害毒」を展開し、
>いわゆる野球害毒論の論陣を張る。しかし、このキャンペーンは
>多くの反発を招く結果となり、東京朝日新聞はキャンペーンを
>途中で打ち切ることになった。この責任を取る形で渋川は
>東京朝日新聞を退社している。

渋川玄耳が東京朝日を退社したのは、
「野球害毒論」から約1年後の1912年(大正元年)11月ですから、
この表現には疑問がありますし、東京朝日新聞退社の理由は、
複合的原因があったためですので、上記のような一面的と思える記述では、
一方的な印象を与えかねません。

そのため、当方で渋川玄耳の項目に手を入れ、
野球害毒論の記述から渋川玄耳の部分を一旦削りました。

尚、「野球害毒論」が連載された当時、渋川玄耳が東京朝日の社会部長
(正式にはそのような役職名ではありませんが)をしていたことは事実ですので、
野球害毒論および渋川玄耳の項目で触れても問題はないと思います。
但し、その場合、「悪役」の如き叙述の仕方が為されるのは、行き過ぎではないでしょうか。

ご承知かと思いますが、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」サイトで、
「野球」を検索すると数十件リストアップされ、
「野球害毒論」への反論のために編まれた『野球と学生』(広文堂 明治44年10月)の
全文を読むことが可能です。安部磯雄押川春浪らの文章が収められていますが、
押川春浪の語調は激越で凄まじいものがあります。

同書には、当時の早稲田大学学長高田早苗の文章も収録されていますが、
高田早苗は、読売新聞の前主筆です。高田が主筆をしていた際の読売社長は、
読売創業者の一人で佐賀県出身の本野盛亨であり、
東京朝日に野球害毒論連載時の読売新聞社長は、
本野盛亨の甥っ子で同じ佐賀県出身の高柳豊三郎です。

渋川玄耳が佐賀県出身ということで、
新聞社同士の争い、一高VS早慶の戦いの側面とともに、
佐賀人同士のメンツをかけた暗闘もあったかもしれません。
早稲田大学創立者で佐賀人の大隈重信も、この問題の際、
読売側に付いて野球を徹底擁護しました。
(高柳社長時代の読売新聞において、高田早苗は評議員、大隈重信は賛助員でした)

蛇足ながら申し添えますが、
1911年に東京朝日が野球害毒論を展開したのにもかかわらず、
1915年に大阪朝日が全国中等学校野球大会を開催したことに関しては、
「朝日新聞合資会社」を同じ根っこに持つ新聞社としての整合性が無く、
状況を見て豹変したかのような記述が見受けられますが、
当方には、やや的外れにしか思えません・・・。
東京朝日の渋川玄耳社会部長と大阪朝日の長谷川如是閑社会部長(当時は社会課長と称した)
──それぞれの個性によっても、違ったスタンスになるのは当然のことだと思います。
(ちなみに長谷川如是閑は、大阪朝日を退社して以後、大衆の野球応援の過熱ぶりを前にして、
野球に批判的な随筆を残しています)

元朝日新聞論説主幹の佐柄木俊郎氏が、
上智大学『コミュニケーション研究』第35号(2005年3月)に寄せられた
次の論文「大阪朝日」時代の長谷川如是閑〈序説〉を読みますと、

大阪朝日内部は、政治傾向の違う西村天囚派と鳥居素川派に別れ火花を散らし、
同じ紙面で両派がいがみあっており、「朝日新聞合資会社の社長」を、
鳥居派の村山龍平と西村派の上野理一が1年交代でやっていた云々の記述が見られます。

当時の朝日新聞(大阪朝日・東京朝日)は、現在のように統一方針で
編集がなされるような新聞ではなく、一枚岩ではありません。

大阪朝日と東京朝日とを同種の新聞社であるようにみなすのが「妥当ではない」ように、
現在の朝日新聞社と、かつての大阪朝日・東京朝日とを
同種のモノの如くみなすのも、適切とは思えません。
「朝日新聞憎し」の特別な感情を持つ人々によって、
恣意的に混同されているかもしれませんが・・・。

ところで、ネット上で検索すると、
「M日新聞和歌山県版」「M日新聞近畿版」の記事と称する某ブログのページが出てきます。
これがまた味わい深い「与太記事」なのです。
たとえば、下記のような嘘を臆面もなく書き飛ばす・・・

>当時の読売は、まだ部数が少なく、余り影響力はなかった。

有山輝雄著『徳富蘇峰と国民新聞』に収録されたデータによると
1907年の東京主要新聞社発行部数は、次のとおりです。
報知新聞175000部 万朝報87000部 東京朝日81000部
  都新聞78000部 読売新聞32000部 東京日日24000部


「まだ部数が少なく、余り影響力はなかった」なぞと書くのならば、
それは東京日日新聞こそです。
ちなみに、読売新聞は元々東京で発行部数一位(1875年から10数年にわたり)の新聞であり、
尾崎紅葉の金色夜叉の大ヒットで、「読売ブランド」を立派に確立していた新聞社です。

「野球害毒論」をめぐって読売新聞主催で行われた「野球問題演説会」についても、
当該「与太記事」の中で、一切言及されていない点も、微苦笑させられます。
この「M日新聞近畿版」「M日新聞和歌山」の記者の書いた内容は、
「素晴らしい知識量」と思い込みで「でっちあげた」、
「やっつけ仕事」の好個の見本のように思えます。

ネット上では、この「与太記事」について、きちんと内容を検証せず、
「真に受けてしまっている慌て者」が少なくないようです。

(執筆者は、M日新聞大阪本社のエライ方とのことです)

最後に、「野球有害論」という呼称の件ですが、
当方は、野球害毒論の項目に、その表現を加えることに固執するつもりはありません。
(「野球有害論」等で検索した場合でも、野球害毒論の項目に即辿り付ける状態であるならば・・・)

『野球と其害毒』という名称は連載記事のタイトルですから立派な固有名詞ですが、
「野球害毒論」という語は固有名詞の如く扱うべきか、当方には少々疑問があります。

「野球には害毒が有る」ということで、「野球有害論」とでも、
一般レベルの会話では普通に称されていたことでしょうし、
「野球有害論」に対抗して、語呂を合せ「野球有益論」とでも「野球有効論」とでも
一般レベルの会話では言われていたことでしょう。

日本の新聞・ジャーナリズムの歴史は佐賀県を抜きにして語れませんが、
たとえば「東京日日新聞と江藤新平」、「報知新聞と大隈重信」、
「読売新聞と創業者本野家」、「朝日新聞と渋川玄耳」etc.

その佐賀を代表する郷土史家・ジャーナリストだった元西日本新聞社論説委員で
司馬遼太郎のエッセイでも著書が取り上げられている
園田日吉さんの本から、下記のように引用をしておきます。


高柳社長時代は、大毎、大朝など、大阪系新聞の東京進出で読売も転落の兆候があったが、

高柳社長が在任中に読売新聞社がやったことは朝日新聞の「野球有害論」に対して真っ向から 「野球有効論」を唱え、早慶戦などの学生野球を支持したこと。また明治四十四年九月、 神田の青年会館で「野球問題大演説会」を開催、安部磯雄、向軍治、押川春浪、三宅雪嶺、 鵜沢総明などが熱弁をふるったこともあった。学生野球に反対した朝日新聞が大正に入ってから、

人気が沸騰した中学野球から初め、いまの高校野球となったから時代の変転も面白い。

   『佐賀この地この人』(夕刊新佐賀新聞社1985年)p.27「本野家と読売新聞」より



「野球亡国論」という言い方は初めて聞きましたが、
「女子学生亡国論」あたりの模倣でしょうか?

ネット上では、野球「害毒」論ではなく、
野球「害悪」論という語を用いている人も少なくないみたいですね(笑)
参考までに、日本高等学校野球連盟参事の田名部和裕氏は、
今年の夏(2007年7月)に開かれた「第一回高校野球特待生問題有識者会議」の席上で、
「当時、一高の校長だった新渡戸先生たちが、いわゆる野球反対論」と仰っておられます。

「野球反対論」という呼称は、如何でしょうか?(笑)--Coffeebrain 2007年10月3日 (水) 13:54 (UTC)[返信]

ご丁寧にありがとうございます。とりあえず最初に申し上げておきますと、当然ですが当方としても加筆・修正がなされること自体には何ら反対するものではありません(実のところ当方は押川春浪ファンでして、冷静に考えずとも中立を欠いた(特に渋川の退社のくだりは)と反省しております。そういう意味で、修正は大変にありがたいです)。ただ、完全に消してしまうのはそれはそれでやはり中立を欠くきらいがあるのではないかと思った次第です。
では本論を。まず、『村山龍平伝』の記述は以下です。
「東京朝日の社会面改革に努力した点で、渋川をもつて初めて名実具備の社会部長とすべきであるが、渋川も余りに新面目発揮にあせつた結果『野球亡国論』などを唱え出し、かつては大いに奨励した『東朝』が豹変して、連日野球の弊害をあげて攻撃記事を連載し、たといそのいうところが多少参考になつたとしても、態度の急変に妥当を欠いたそしりを免れなかつた」
「野球亡国論」という名称の典拠もこれです(まあ、これ以外にこの名称使ってる文献を見たことがありませんが……)。
大朝と東朝についてはおっしゃる通りだと思いますし、その辺りで必要以上に朝日を悪しざまに書くのは中立的でないとは思いますが、たとえば木村毅のように「そして手のひらを返すように、反野球キャンペーンをやめ、全国中学野球競技開催の計画を発表したのだから、心ある者の中には「大新聞は軽々しくその主張をかえずとかや」といって冷評をあびせる者が多かった」(『都の西北』、ベースボール・マガジン社、1978年)と語っている人間もいます。木村は早稲田出身であり、他の点ではともかくこの問題に関してはあまり朝日に好意的ではなかろうものなので「心ある者の中には(中略)多かった」という記述自体はあまり信用できませんが、朝日を「変節」と批判する人間が居た、程度は事実といえるのではないでしょうか。少なくとも一人(木村)はいるわけで。
あと、今調べていたらたまたまこのような論文を見つけました。
いわゆる「野球害毒論」の一考察
このように、1962年の論文にこの名称が一般的なものとしてあげられているくらいですし、ネット上での検索結果が"野球害毒論"……1600件、"野球害悪論"……24件、"野球有害論"……8件となっているあたりからも、項目名は「野球害毒論」で良いようには思います。ただ、「野球有害論」という名称に関しましては上記論文の本文中でも記されており、付け加える方が良さそうです。今まで聞いたことが無かったもので、難癖をつけるような形になってしまい申し訳ありません。--Akaloli 2007年10月3日 (水) 15:40 (UTC)[返信]

参考になれば

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中村哲也『近代日本の中高等教育と学生野球の自治』という一橋大学の博士論文があり、インターネットで読むことができます。 注意1、正岡子規が菊池仙湖とバッテリー組んだ野球の件、野球と其の害毒の論者の一人に水戸中校長菊池謙二郎を記してますが、仙湖と謙二郎は同一人物です。仙湖が謙二郎の号であることは子規の研究者にとっては常識で、中村氏の挙げた参考文献にも書いてあります。少なくとも、見落としでないことを中村氏は示すべきだったと思います。また、インブリー事件の話もありますが、この時の投手は菊池の友人、インブリーを保護?して校庭を出た一人は菊池です。 菊池は選手制度のできる前からの子規や秋山真之らの野球仲間で、 注意2、野球否定論者に最初に「野球と其害毒」の中!で反論したのが菊池です。野球自体はまったく悪くなく、悪いのは選手を特別扱いする選手制度と選手制度をりようした私立大学といてます。が、確かほかの方の論文では、野球擁護推奨部分が切り取られ、選手制度批判というか私立大学の批判しかしていないような引用もされています。以上、ご注意を。 安部磯雄が名前を挙げて批判したのは野球を擁護して選手制度と私立大を批判した菊池ただ一人です。新渡戸稲造は、そんなことをいう人ではないと信じているから、と言って批判していません。その点、押川春浪の方が、過激ですが、菊池を一切批判していない点等で、筋は通ってます。過激な災いし一高生に謝罪文を書かされたようですが。以上、だらだら長いだけですが、参考になれば--仕事中の会話2023年4月13日 (木) 05:38 (UTC)[返信]