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ノート:邪馬台国/過去ログ2

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大幅な変更について

大幅な変更をしたものがおるが合意を取っていない。合意を取れ。あと編集の仕方を学べ。見出しに= =は使わないなど多数欠落がある。--日本史愛好者 2007年3月20日 (火) 09:08 (UTC)

初心者ですみません。ノートの使い方も良く分からないのですが、これでいいでしょうか?邪馬台国については、ほとんどが魏志倭人伝などの歴史書にのみ登場する、日本にあったのではないかと仮説されている国であると考えます。提案ですが、邪馬台国の記述と邪馬台国論争の部分を一緒に載せるのは量がありすぎるようなので、邪馬台国論争の部分を別のページとしてはいかがでしょうか?--石川入婿 2007年3月20日 (火) 11:10 (UTC)
石川入婿さんが行った魏志倭人伝と邪馬台国の統合にはGFDL上に問題があり、一旦削除せねばなりません。Wikipedia:削除依頼/邪馬台国20070320。面倒な手続きではありますが、ご理解くださるようにお願いいたします。らりた 2007年3月20日 (火) 11:42 (UTC)
よくルールを知らずご迷惑をおかけしました。今日はじめてノートでの議論の存在を知り、↓の記述のことも知りました。提案が必要ということで、させていただきますので、よろしくお願いします--石川入婿 2007年3月20日 (火) 11:49 (UTC)
ちょっと待ってください。コメントアウトの形で記述してもGFDL違反には変わりありません。どうか削除依頼が決着付くまでは少し待っていただけませんか?らりた 2007年3月20日 (火) 12:36 (UTC)


ちょっとガイドラインを読み違えたみたいです。お手数おかけします。--石川入婿 2007年3月20日 (火) 14:31 (UTC)

分割と統合提案

改めまして、邪馬台国とは、魏志倭人伝などの歴史書に、古代の日本らしき国として登場するものであり、逆に魏志倭人伝とは、邪馬台国を述べるために取り上げられた歴史書の項目といえます。よってこの2つの項目は、9割以上が魏志倭人伝の記述、残りは他の漢書による魏志倭人伝への注釈に基いた記述となるため、「邪馬台国」と「魏志倭人伝」のページは、「共通点のあるスタブ記事が複数存在する場合」に当たることになります。Wikipediaで求められる程度の記述レベルでは、「どちらかのページのみに特筆すべき」といった事項は、問題にならないくらい少ないでしょう。現状では、編集の2度手間にもなっています。その求められるレベルを超えて、それぞれのページで、「邪馬台国論争」と、「読み下し議論」などをしてもいいのかもしれませんが、いずれにせよ邪馬台国のページは容量を大幅に超えているので、「邪馬台国論争」の項目を分割するべきかと思いますし、魏志倭人伝のページで「読み下し議論」などが行われている様子もありませんので、「邪馬台国」と「魏志倭人伝」のページの統合と、「邪馬台国」のページから「邪馬台国論争」を分割することを提案します。--石川入婿 2007年3月20日 (火) 17:00 (UTC)

分割は、統合ほど厳密な議論が必要というわけではないようなので、もう少ししてもご意見がないようでしたならば、先に分割をしてみようかと思います。--石川入婿 2007年3月22日 (木) 05:08 (UTC)
とりあえず私は魏志倭人伝と邪馬台国の統合は反対します。記述が重複するのは別段統合の理由にはなりません。「史書の一部分」と「国」の記事というまるで性質の異なる記事を一纏めにしてしまうのは良いとは思えません。
あと、分割に関してももう少しお待ちください。私自身はそれには意見を持ちませんが、石川入婿さんが提案をしてからまだ2日しか経っていません。せめて2週間くらいは待つようにしてください。あとページサイズ警告は古いブラウザに関する一応の警戒であって、これが出るからといって分割しなければならないという訳ではありません。らりた 2007年3月22日 (木) 12:17 (UTC)
邪馬台国という「国」は、「史書の一部分」で取り上げられているものです。つまり、つまるところ、分割の優先順位が低いものということです。そして、魏志倭人伝の記述は、邪馬台国の説明において、ほぼ全てが記述されるものです。統合すべき「スタブ記事」であるのではないでしょうか。ましてや、分けるとしても、『三国志』の項へのリンクで補えるものです。この両方を並行して編集していくのは、編者にとってほぼ全てが二度手間であり、双方の質を下げるものと言えるものかと思います。分割をしないのであれば、「魏志倭人伝」でのページの説明は数行におさえ、詳細は「邪馬台国のページの魏志倭人伝の項目を参照」とすべきではないでしょうか。辞書とはそのようなものだと思いますし、サーバの容量負担を考えても、それがいいのではないかと思います。統合の結論が出るまでは、記事の質を高めるために、そのようにさせていただきたいですが、いかがでしょうか?--石川入婿 2007年3月23日 (金) 01:09 (UTC)、署名が分かりづらくなっていたので、この位置へ移動しました。--Asuka 2007年6月14日 (木) 14:15 (UTC)
分割を待つのは了解ですが、更に記述が増えていくことが予想されます。それも問題ではないということでしたら、分割は見送った方がいいかと思います。しかし、統合において、容量を問題にされる方がおられるかもしれませんので、統合に結論が出るまでは、分割の提案は残すべきかと思いますが、いかがでしょうか? --石川入婿 2007年3月23日 (金) 01:09 (UTC)
「邪馬台国」から「邪馬台国論争」の分割に賛成します。「魏志倭人伝」と「邪馬台国」の統合には反対します。閲覧者からすると、長い記事よりも、短い記事の方が読みやすいと思うからです。--Asuka 2007年6月14日 (木) 14:15 (UTC)
一週間経ちましたが、統合に賛成する人が現れませんので、魏志倭人伝のトップにあるテンプレ「統合の提案」を除去しておきます。--Asuka 2007年6月22日 (金) 08:48 (UTC)

インデント戻します。「邪馬台国論争」の分割提案からだいぶん日が経ちましたので、もうそろそろ分割してもいいのではないでしょうか。--Asuka 2007年6月27日 (水) 11:56 (UTC)

分割提案のテンプレートを貼りました。--Asuka 2007年7月14日 (土) 07:47 (UTC)

必ずしも分割する必要はないでしょう。それより邪馬台国論争(特に位置問題)の部分を整理した方が良いと思います。学界で出てる話をすべて盛り込むこともないし。まあ、どれを削るかとなるとまた議論が沸騰しそうですが。 それから「九州説」の論拠で、「九州王朝説」に基づく主張が前面に出すぎてる気もしますね。九州説の歴史家でも、九州王朝説に拠っている人は多くないでしょうから、誤解を招きかねません。--220.106.115.113 2007年7月25日 (水) 12:08 (UTC)

畿内説・九州説の有利不利の点について

まずこの記述

宋書』には倭国王武(一般的に雄略天皇に比定される)が478年にへの上奏文により「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國」と伝えてきたとの記述があり、と使訳を通じる三十国は、畿内を中心に出土する三角縁神獣鏡庄内式土器の分布する西日本に広がると考えられること(三十国は北九州説では、南九州説ではの規模とする)。

はっきり言ってこれのどこが、ヤマト説に有利な点となるのですか?倭王武の上表は5世紀後半の倭国については何ほどかの情報を提供しますが、邪馬台国については何ももたらしません。それどころか倭王武によれば列島はおよそ121国に分けられるというのだから、わずか30国の連合に過ぎない邪馬台国連合は九州に違いないという議論さえ成り立ちます。百歩譲ってもせいぜい中立でしょう。 あと、九州説の不利な点として、方位についての論説がありますが、ふつう方位については九州説が有利と考えられており、かりに後世の地図などを持ち出したとしても、それは畿内説の立場からの「弁明」に過ぎないのであって、九州説の不利な点とはなりません。ここに書くのはおかしいので、全文削除すべきでしょう。 わたしは九州説の肩を持つ気はさらさらありませんが、もうちょっと論理的に考えていただきたい。以上の署名の無いコメントは、121.2.194.72会話/whois)氏が[2007年4月9日 (月) 01:46(UTC)]に投稿したものです(Twenty fourによる付記)。

この『魏志』の150年後の『宋書』の存在により、邪馬台国と大和朝廷との関連性や考古学的な説明を補強するものとなるかと思います。畿内説を、魏志の方位についての記述を後世の地図を持って弁明するのは、方位による九州説への論証文の後ろに( )で囲んでの「弁明」とするべきかもしれませんね。いかがでしょう。--石川入婿2007年4月12日 (木) 09:14 (UTC)

5世紀後半に日本が畿内を中心に121カ国で成り立っていたことを意味する倭王武の上表文が、なにゆえに3世紀に30カ国の連合だった邪馬台国がヤマトであった証拠になるのでしょうか? 論理的に考えて全くおかしいでしょうが。庄内式土器や三角縁神獣鏡を上表文とつなげる理由も全くわかりません。両者は200年以上時代が離れています。繰り返し言いますが私は九州説を支持しません。しかしこれはあんまりにもおそまつな議論です。(—以上の署名の無いコメントは、218.110.147.150会話/whois)さんが[2007年4月22日 (日) 10:54(UTC)]に投稿したものです(Twenty fourによる付記)。)

文章をよく読んでいただければ分かると思いますが、九州説が邪馬台国連合の「国」の単位を張政等が「村」や「郡」を誤解したとしたとすることを問題にしています。陳寿が村名や郡名を列記したということになります。これは、動植物や産出物について細かく記述し、距離や方角が正しかったとするにはお粗末な話しではないでしょうか? 庄内式土器の分布範囲についてもご存知でしょうか? 西国を66カ国とすると、この土器の分布が丁度邪馬台国連合の30カ国ほどのその程度の範囲に納まるとできるはずです。200年前を現代の日本から見てみれば、平賀源内田沼政治の時代です。この程度の期間内に記録が散逸したと解釈することにも問題はあるのではないでしょうか。150年後の『後漢書』でも倭は20国余でした。それと、九州王朝説は『隋書』までを史料として提示しています。以上のことから、「全くおかしい」という意見はおかしいものと思われます。問題が残っている点に関しては、それを本文に付け加えられてはいかがでしょうか。--石川入婿 2007年4月22日 (日) 23:56 (UTC)

あきれてしばらく見ませんでしたが、説得力ゼロですね。
>九州説が邪馬台国連合の「国」の単位を張政等が「村」や「郡」を誤解したとしたとすることを問題にしています。陳寿>が村名や郡名を列記したということになります。これは、動植物や産出物について細かく記述し、距離や方角が正しかっ>たとするにはお粗末な話しではないでしょうか?
あのさあ、九州説の人は、村や郡を国と誤解したなんて一言も言ってないぜ。しかし邪馬台国連合の「国」がかなり小さいものであることは言っている。特にマツロ、伊都、奴は明々白々に村や郡単位の国名だよね。ハイ、論破完了。
>庄内式土器の分布範囲についてもご存知でしょうか? 西国を66カ国とすると、この土器の分布が丁度邪馬台国連合の>30カ国ほどのその程度の範囲に納まるとできるはずです。
それで? それがどうかしたの? それが66カ国とどうつながるの? 論理がむちゃくちゃですね。
>200年前を現代の日本から見てみれば、平賀源内田沼政治の時代です。この程度の期間内に記録が散逸したと>解釈することにも問題はあるのではないでしょうか。
だからどうしたの? それが上表文と邪馬台国をつなげる根拠になるわけ?ハア?
記録の散逸という観点から言わせもらうと、たとえば、日本書紀古事記とも、倭の五王の遣使の記録は一切残っていません。また広開土王碑に記録されるの高句麗との戦争も、残っていません。当時の日本は文字で常時記録を残すということをしなかったのですから、それだけ記録の散逸はおきやすいのです。あんたのいっていることは、とうてい大和説を支える「有利」な根拠とはなりえません。
正直石川入り婿さんは、辞典に書けるほどの十分な論理的思考を持っていないと思います。—以上の署名の無いコメントは、59.146.216.38会話/whois)さんが[ 2007年5月5日 (土) 01:54 (UTC)]に投稿したものです(Twenty fourによる付記)。
横槍失礼します。おおよそウィキペディアでは「その説の整合性」よりも「その説をどこの誰が言っているのか」が大事です。ですから仮に「完璧な整合性」を持つ論理であっても単にウィキペディアンが唱えているだけでは載せる価値が無く、「矛盾が存在する」論理であってもそれなりの人物(邪馬台国ならばやはり歴史学者でしょう)が唱えている論理であれば載せる価値があると看做されます。ですので「○○(人名)は××を根拠として何々」などと書くことが推奨されます。それが出来ないのであれば、載せるべきではない事柄であるということになります。ご一考ください。らりた 2007年5月5日 (土) 13:28 (UTC)
村や郡というのは、表現が悪かったかもしれませんね。マツロ、伊都、奴と比べてかなり小さいと言うべきだったかもしれません。あと、それがどうしたのでは反論になっていませんね。齟齬はノートで話し合えばいいかと思いますし、少なくともIPで投稿されてる方の知識量をほかの人間は参考にしようがありませんよ。それと、記録は中国側のものです。日本側の記録が散逸しているというのは、邪馬台国の記事では全く関係の無いことかと思います。これについて、おかしいと思われる方はいらっしゃいませんか?--石川入婿 2007年6月24日 (日) 23:27 (UTC)

とりあえず位置問題の記述が偏りすぎ。私自身は畿内説だろうが九州説だろうが構わんけど、 畿内説の弱点や九州説が有利とされる理由の各項に、いちいちカッコ書きで「反論」を載せるのは反則では。 wikipediaとして「畿内説を応援します!」または「どうみても畿内説有利だよね」という立場を 明確にするならともかく、そうでないならカッコ書きは削るか、九州説にも「反論」を載せるべきだろう。 というわけで九州説の方、頑張って書き足してください。--220.209.225.129 2007年6月13日 (水) 03:01 (UTC)

九州説について書いても直ぐに削除する人が居てこまります。辞書なのですから現に在る説のことについていは、非科学的なもの以外出来るだけ多く紹介することが重要、自分の信じる説以外は削除する姿勢は正しくない。また九州説に畿内説の説明を書き込む等内容が乱れ大変読みにくいものと成っているので本来在るべき所に移しました。「ノートで議論あり、提起無く一説にかたよる編集は問題」は極めて個人的意見です。「邪馬壹國」や「やまいちこく」は一説にかたよったものではなく原文に忠実に記したものです。また九州説の内容は数十年前のもだけを記す精神も異常。読みやすいよう内容の整理が必要です。--Denki 2008年4月16日 (水) 23:04 (UTC)

あの、アカデミズムでここ最近九州説でどんな説が提案されたんですか?--121.2.186.150 2008年4月17日 (木) 12:52 (UTC)

アカデミズムとは何でしょう。歴史の研究は一部の学者だけのものでは有りません自由なものです。畿内説は既に破綻しいます、そのことを指摘する証拠を提示すると意見が偏っているとのして削除するのが、アカデミズムでしょうか。正しい意見なら反対意見など気にならないはずです。それと、他の人も指摘していますが文章メチャメチャで修正しないと恥かしい文章が多くがあります。何故放置されているのか分かりません


全然答えになっていませんね。別に歴史学に限らずまともな学問では、レフェリー付きの学会誌に載った論文のみが学問上の価値を持つ。これは普遍的なルールです。で、アカデミズムにおける最近の九州説はどうなってるわけ?--218.110.156.243 2008年4月17日 (木) 15:16 (UTC)

アカデミズムを全く理解していない人が学問上の価値とか言っている。証拠、論理が正しければアカデミズム。証拠、論理に誤りがあれば指摘すればよいだけ、自説では反論できない問題を片っ端から削除して何がアカデミズムか。オウムか北朝鮮の洗脳教育だ。--202.147.214.58 2008年6月27日 (金) 03:31 (UTC)

学術論文がないから反論してもらえないのです。まず、リングなり土俵なりにあがって下さいよ。--黄金もち 2008年6月27日 (金) 18:12 (UTC)

取りあえずですが、たとえば近畿説のカッコ書きの部分を九州説に移すなどして整理しましょう。不必要な説明も多すぎるし、読みにくいことこの上ないので。--220.106.115.113 2007年8月1日 (水) 10:34 (UTC)

細かい点

北九州と北部九州が紛らわしいが・・・

編集の途中で入れ替わってしまったと思いますが,上から読んでいくと「道程に関する論争」に,「邪馬台国ブームを巻き起こした宮崎は、」と突然出てきます.その宮崎氏については,次の「位置に関する論争」の2段落目に詳しく出てきます.ちょっと不自然です.--Ihieda 2007年7月20日 (金) 00:56 (UTC)

近畿だろうが九州だろうがわからないんだから両方書いとけばいいでしょう? それより道程に出てくる「韓国」を「朝鮮半島」に改めたいので早期決着お願いします。

国学者の時代は学術雑誌がないからどうしようもあるまい。当時のルールでは正当だったし、ちゃんと学説史では取り上げられてる。古田は、初期のヤマイチだの分権的王権だの論は、学術誌に載っており、だからこそ初期の議論は学者の批判の対象となっている。その後の学界から離れた後は相手にされていないが。学術論文が一本もないアマチュアの人は(世間的には邪馬台国「論者」として高名な人もいますが)、むしろ学者からまったく相手にされていないというのが正しい。--61.120.168.61 2008年6月11日 (水) 06:03 (UTC)

コメントありがとうございます。学術雑誌云々は古田説以外にバリエーションのある“九州王朝説”について述べたつもりだったのです。「初期の議論は学者の批判の対象となっている」はまったくそのとおり。『史学雑誌』1969年9月、『史林』1972年11月、『古代学研究』1974年9月などで古田先生の論文を読むことができます。古田先生は九州王朝説について「三十余年来わたしの提唱し来たった学説」「学術論文や著述を通じ、逐次その論証点を明らかにしてきた」と学士会報857で述べられていますが、残念なことに、ここ20年ほどは九州王朝説についての論文は発表されていないようです(溝口貞彦先生との“君が代論争”は別にして。)。九州王朝説が一般的な意味での学説ではないことについて、注記を付す必要があると思います。--黄金もち 2008年6月11日 (水) 08:52 (UTC)

3世紀の紀年号をいかに考えるかについて、畿内説の弱点と考えるのは噴飯ものでしょう。--120.74.240.7 2008年7月5日 (土) 14:36 (UTC)

①「『魏志倭人伝』の邪馬壹國」・・「邪馬一國」とする『三国志』の版本もありますから。②「『後漢書』の邪馬臺國のこと」・・『後漢書』だけではなく、『北史』 (巻九十四 列傳第八十二 倭國)も「邪馬臺國」。③「帯方郡から」・・帯方郡とするのが一般的ですが、異説もある。ここはこのままでも良いと思います。④「到着する」・・「到其北岸狗邪韓國」、「到伊都國」のみ「至」ではなく「到」が使用されていることは事実です。しかし、「到」のみ「到着する」とするのは解釈の一例でしょう。⑤「邪馬台国の北方にあった」・・対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国などをすべて邪馬台国の北方とするのは書かれた人の説、記述ミス?でしょうか。--黄金もち 2008年7月5日 (土) 18:33 (UTC)

各説の論者

各説が論点ごとにまとめられていますが、おなじ畿内説でも論者によって細かく異なる。論者ごとに各説の要点をまとめることも加筆する方が、より適切。また脚注に各論が組み込まれていますが、本文にあるべきものもあるので、編集します。議論はこちらでお願いします。--西方 2011年11月11日 (金) 12:42 (UTC)

脚注の形式

脚注と注釈が現在わかれており、注釈はグループになっておりますが、実際問題、両者はあいまいで厳密にわけることはできません。それから、加筆するうえでも、不便でもあります。この件については井戸端などでも相談しようかと思いますが、よいまとめかたをご存知の方は、お知らせください。--西方 2011年11月11日 (金) 15:56 (UTC)

要約について

九州説のうち、自費出版による出典しか確認できない説を要約しました。これは、ウィキペディアの方針である『中立的な観点』にある「重要な制限事項」に従った編集です。ここには次のようにあります。「少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。」もし、より信頼できる出典に当該学説が言及されているのであれば、タグを外して、より詳細に記述してください。--ろう(Law soma) 2013年8月19日 (月) 08:33 (UTC)

大和説と九州説では解決しない、 徳之島説も重要な説です。

最近徳之島説を述べる人たちが多くなりました。 もしかすると本命説になるように思いますよ。(--竹取翁会話2013年8月19日 (月) 13:07 (UTC)

新説を書く場合はちゃんと学説などで一般的になるようになってから詳細に書いてください。wikipediaは新説発表の場ではありません。--Aquamarin456会話2013年8月19日 (月) 14:04 (UTC)
◆Aquamarin456さんのおっしゃるとおり、Wikipediaが新説発表の場でないことは方針であるWP:NORWP:NPOVをお読み頂ければお分かりかと思います。また上の節で私が貼ったリンク先もお読みください。ちなみに、邪馬台国関係の学術的な専門分野は考古学と歴史学であって、異分野の大家が関与している大隅半島説でさえ異説の類いに当たります。況んや。--ろう(Law soma) 2013年8月20日 (火) 00:34 (UTC)

■新説ではなく20年ほど前から出されています。大和・九州では、魏志倭人伝に記されている内容に当てはまりません。 むしろ徳之島が正しいのです。大和・九州が邪馬台国では無いから何時までも論争が続くのです。徳之島なら80パーセント内容が一致しています。今まで我々が学んで来た歴史に南西諸島が入っていなかったために無視されてきたのです。 我々は、日本の歴史が、朝鮮半島からだけの歴史認識しか教えられませんでした。稲作の伝搬は、中国の長江から直接日本に入ってきている事からも明らかです。日本の歴史は、除福によりもたらされたのです。 大和説を述べる方達には、大和で無ければ都合悪いので、魏志倭人伝がすべて間違っているという認識で論を進め説明されているように思います。

--竹取翁会話2013年8月20日 (火) 01:30 (UTC)

竹取翁さんがどう考えようがそれは自由です。しかしWikipediaに記載するには上でLaw somaさんが示されている各種方針を守る必要があります。(現在の竹取翁さんの記述はそれが守れていません)Wikipediaの各種方針が守れないのであればWikipedia外でおやりください。--Aquamarin456会話2013年8月20日 (火) 02:44 (UTC)
自己公表された情報源は情報源として受け入れられません。なお、私は徐福伝説の有用性や稲作長江伝播説の信憑性を疑っている訳ではありません。単にWikipedia日本語版の掲載基準の話をしているだけです。要は、憶測と独自の状況判断からなる意見は採用できないということです。また、それが100年前に提唱されたことがある説であっても、現状で専門家や一流の報道機関等の発表に係る通説・有力説等でない情報は「新説」です。新説がお気に召さないのであれば「珍説」となりますが、これでは失礼になるでしょう。いずれにしても、現在考古学上では大和説が有力であり、歴史学上でも九州説がかなり頑張っているものの大和説の方に有利な方向に学会の動向は向かっています。徳之島に何らかの「クニ」があった可能性や稲作伝播の先進地であった可能性の高さを否定はしませんが、何らかの信頼できる情報源を示した上で記載してください。--ろう(Law soma) 2013年8月20日 (火) 03:42 (UTC)

倭人伝の解釈における問題点

 漢文を構成する漢字はそれぞれ字義と呼ばれる意味を持っている。それらを文の構造に従って連結したものが文の意味になる。国名についても同じであるが、邪馬台国論争では単に音の連結としか解釈されていない。

 漢文の基本構造はほぼ英語と同じで、主語+動詞+目的語または補語である。従って、返り点を打つことにより日本語に読み下すことができる。このため文法が日本語の文法になってしまい、逐次に書かれた文について直列記述であるとか並列記述であるとかの議論が生じている。

 漢文は短い文を行を改めて並列に記述するのが基本である。従って、句読点を必要としない。同じ主語の文が何行も続くのは主語の記述がくどいから最初の主語以外は省略される。これらの動詞+目的語または補語は直前の主語に並列接続する。主語が現れるとそこからは別の文になる。

 複数の文の意味が並列か直列かについても同様で、文頭に直列を示す語が無い複数の文が行を改めて並列に記述されていればそれらの意味は並列に接続する。直列に接続するためには各文頭に「次」あるいは「又(再び)」と言う逐次を表す語が必要である。この決まりは行を改めずに一行に書いても同じであり、日本語文法とは全く逆である。漢文の「又」には日本語の「又は」の意味はない。「水行十日陸行一月」は並列であり、水行と陸行の起点は同じである。直列なら陸行の前に「次」が無ければならない。「至」は起点の移動はないが、「到」は到着であるから起点は移動する。

 漢文には英語のbe動詞に相当する動詞は無く、"A is B"は ABで表す。英文の"A is B"は"A of B"として「BのA」と言う句を構成するが、漢文ではABのままでこれを表す。この場合、「B之A」と表すことも出来、「之」は省略することもできる。例えば、「中ハ海」は「海之中」「海中」となる。

 邪馬臺国の邪の字義は「…か」、臺の字義は「土地」と新漢語林にある。邪馬は「馬かな」の意で臺を修飾する。故に、邪馬臺国とは「馬かと思われる土地の国」である。九州は馬の後ろ足、山陰山陽地方及び四国、紀伊半島は胴体、中部地方から関東は胸元、東北地方は首、北海道は頭である。

 倭の字義は「くねった」である。九州は南から北に向き、中国地方と四国及び紀伊半島にかけて東に向き、中部地方と関東は北東に向き、東北地方は北に向き、北海道は渡島半島から東に向いている。まさに、くねった国である。

 故に、邪馬臺国と倭国は同じである。倭人はグループに分かれてそれぞれ小国家を構成している。それらを統括する首長国が女王国である。女王国の女王は当然に全体の女王、即ち、邪馬臺国女王である。

参考 http://www.sky.sannet.ne.jp/polyprocessor/

   古代エジプト人の自然科学とピラミッド 第三章9節、8節--WJacrin(2014/10/03)