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ノート:趙匡胤

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出典

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趙匡胤=トルコ説を削除している人物がいるので出典を挙げときます。

  • 加藤徹『貝と羊の中国人』新潮社新潮新書〉、2006年6月16日、113頁。ISBN 978-4106101694。「北宋の初代皇帝となった趙匡胤は、もともと軍人だった。軍人イコール下層民とは言えない。しかし少なくとも、エリートたる士大夫層ではなかった。なお、趙匡胤の父親は突厥系(トルコ系)の王朝『後唐』の近衛軍の将官だった。世襲軍人だった趙匡胤の一族に、トルコ系の血が混じっている可能性は、高い。」 --133.137.217.96 2017年10月5日 (木) 06:56 (UTC)[返信]
  • 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書〉、2004年12月18日、113-114頁。ISBN 978-4061497610。「北宋の太祖・趙匡胤も問題である。趙匡胤は、涿郡(河北省の固安県)の人というから、いまの北京市のすぐ南である。ここは唐代には外国人の住地で、ソグド人やトルコ人や契丹人がおおく住んでいた。あの安禄山は北京の人(営州の雑胡)で、父はわからないが、母はトルコ人の巫であり、ここを根拠にして755年、唐に反乱をおこしたのである。趙匡胤の父・趙弘殷は、後唐の荘宗の親衛隊の出身で、後周の世宗の親衛隊長になった。その子の趙匡胤は、後周の世宗の親衛隊長から、960年、世宗の子の恭帝にかわって宋の皇帝となり、五代を終わらせている。沙陀トルコ人の後唐の親衛隊とか、おなじように出自が問題の後周の親衛隊長とかいうのから見て、宋の趙氏も漢人かどうかあやしい。やはり本当は北族の出身であろう。」 --133.137.51.183 2017年10月14日 (土) 18:49 (UTC)[返信]
  • 宇山卓栄『「民族」で読み解く世界史』日本実業出版社、2018年1月25日、46頁。ISBN 4534055587。「王朝(宋) 建国者(趙匡胤) 氏族名(趙氏) 民族(トルコ人沙陀族) 建国時期(10世紀)」 
  • 宇山卓栄『「民族」で読み解く世界史』日本実業出版社、2018年1月25日、52-55頁。ISBN 4534055587。「宋王朝は民族主義を政治的に利用し、政権の求心力を高めようとしました。ところが、この宋王朝は実は漢人のつくった王朝ではありません。トルコ人「沙陀族」のつくった王朝です。宋王朝は、文治主義という非軍事外交で異民族と宥和していく政策で知られるため、漢人の王朝と誤解されることが多いのですが、実はそうではありません。唐王朝が滅んだ後、その混乱の隙を突いて、923年、トルコ人(突厥)の李存勗が後唐を建国します。宋王朝の建国者の趙匡胤ら趙氏一族は、後唐の近衛軍の将官や武将でした。トルコ人王朝の後唐の要職にあった趙氏一族もやはり、トルコ人であるとされます。また、趙匡胤は騎射に秀でており、暴れ馬を乗りこなしていたとするエピソードもあって、トルコ人遊牧民の血統を継いでいると見られます。では、トルコ人王朝の宋が、なぜ漢人の中華思想を奨励したのでしょうか。趙匡胤は自らの出自を隠し、自分は前漢の名臣の趙広漢の末裔であると称し、漢人であると主張していました。これについて、江戸時代の日本の儒学者の林羅山は『蜀の劉備が中山靖王の末裔と称したり、趙匡胤が趙広漢の末裔だと称したりすることは、系図が切れているため疑わしい。同様に、戦国武将たちが自分は貴人の末裔だと称していたことも疑わしい』と述べています。趙匡胤の主張には何の根拠もありませんでしたが、自分が漢人であると主張することにより、多数派の漢人の共感を得ようとしました。」 
  • 岡田英弘『だれが中国をつくったか』PHP研究所PHP新書〉、2005年9月16日、72頁。ISBN 978-4569646190。「後周に代わった北宋の太祖・趙匡胤も問題である。趙匡胤は、涿郡(河北省の固安県)の人というから、いまの北京市のすぐ南にあたる。ここは唐代には外国人の住地で、ソグド人やトルコ人や契丹人が多く住んでいた。あの安禄山は北京の人(営州の雑胡)で、父はわからないが、母はトルコ人の巫女であり、ここを根拠にして七五五年、唐に反乱を起こしたのである。趙匡胤の父・趙弘殷は、後唐の荘宗の親衛隊の出身で、のちに後周の世宗の親衛隊長になった。その子の趙匡胤は、後周の世宗の親衛隊長から、九六〇年、世宗の子の恭帝に代わって北宋の皇帝となり、後梁よりつづいた五代を終わらせている。沙陀トルコ人の後唐の親衛隊とか、同じように出自が問題の後周の親衛隊長という点から見ても、北宋の趙氏も漢人かどうかあやしい。やはりほんとうは北族の出身であろう。」 --2001:268:C0CF:E1E3:F5BF:3AD1:F6C2:6BE5 2021年9月8日 (水) 19:03 (UTC)[返信]

肩書

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ウィキの記事は、リンクでたどれる項は肩書を書かないのが一般的です。例えば(いくらでも事例はある)、徳川家康の項で「2000年に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏、岸田秀、ドナルド・キーン、堺屋太一、杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、家康が得票数で1位を獲得した。」という記事では、「博物学研究家の荒俣宏、心理学者の岸田秀、日本文学者のナルド・キーン、元通産官僚の堺屋太一、歴史小説家杉本苑子」などの肩書は書いていない。そもそもウィキには、Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないというガイドラインがある。さらに言えば、本項には「著述家の宇山卓栄」と記してあるが、彼が著作や雑誌連載などで公的に名乗っている肩書は「著作家」であり、「著述家」ではない。「文化人類学者の楊海英」と記してあるが、彼は「歴史人類学者」でもある。--2001:268:C0D0:FF54:C4D4:5FD6:78B6:D60E 2022年1月21日 (金) 20:10 (UTC)[返信]

趙氏の出自について

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趙氏の出自の節で挙げられているものは岡田氏を除いてどれも非専門家による一般書であってウィキペディアの出典としては相応しくないものです。岡田氏以外の部分を全削除することを提案します。岡田氏の著作も色々と問題のあるというか私の個人的意見としては最早取り上げるに値しないとは思っていますが、そこは置いておきます。--らりた会話2022年7月14日 (木) 11:18 (UTC)[返信]

実行しました。--らりた会話2022年9月8日 (木) 11:54 (UTC)[返信]