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ノート:赤穂城

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疑問点

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報告上水道」は以下の協議の結果、疑問点範囲を解除、出典不足により断言を避けて表現を変えました。--Omotecho会話2022年2月16日 (水) 09:43 (UTC)[返信]

旧赤穂上水道は日本三大上水道にあたるという典拠について。

本文に「旧赤穂上水道」として千種川上流で利水工事をおこなった点、日本の三大上水道に値する点を示しています。ところが典拠がなく、また他の2件はどこか、その記事はあるか、あるなら別記事から訴求して「旧赤穂上水道」に言及しているか。探しましたが、不明でした。

  1. 典拠
  2. いつ頃、日本で3番目以内の上水道だったのか。
  3. 他の2件はどこか

この2点が揃うなら疑問は解けます。また2次的ながら、再び「日本三大一覧」に載せる条件が整いつつ、この記事からアンカーが貼れるかもしれません。

資料に覚えのある方はおられませんか。--Omotecho会話2021年11月30日 (火) 09:02 (UTC)[返信]

図書館で文献を2冊[1][2]見ました。いずれも旧赤穂上水道について、日本三大上水道とは述べていません。日本土木史ではなく赤穂郷土史のような文献ならば話は別かもしれませんが、近所の図書館では先述の2冊が限界みたいです。 --ねこの森には帰れない会話2021年12月3日 (金) 04:56 (UTC)[返信]
ありがとうございます @ねこの森には帰れないさん 調べてくださったんですね、すみませんでした。難しい課題なのに、こうして全国レベルの資料を2件も確認してくださったおかげで、曖昧さの範囲がどんどん絞れました。あ、偉そうに言うばかりで機動力がなく失礼しました。
塩気の強い水を嫌って上水を川上から引いた点なのですが、これは自分の宿題にして時間をかけてみます。全くの想像ながら、もしかして水源開発の特定の人物か水道技術の「条件付きのトップ3」なのかもしれません。公式に「三大」と名乗るだけの、よほどの要素が見つかるかどうか、明治の赤穂で特筆すべき条件など思い描き、当分楽しめそうです。
調べ物をお引き受けくださり、たいへんお世話になりました。--Omotecho会話2021年12月3日 (金) 08:35 (UTC)[返信]

私の会話ページに依頼があったのでここに書きます。

  • 私が初めて三大云々を知ったのは水野勝成の伝記漫画(名前・書かれた年代は忘れました)で、神田上水・赤穂上水・福山上水で3大だ、と書かれていたと記憶しています。ですから福山市の地誌を探せばそれなりの資料はあるかもしれません。ただ過去に水道史の資料をいくつか見ていますが、三大云々が書かれている土木技術史的な資料はなかったと思います。
(福山旧水道では、国土交通省『芦田川水系流域及び河川の概要(PDF)』p.53に「これは当時、藩主の経営による上水道としては、尾張、水戸のものと並んで天下に著名な水道」とあるため尾張の御用水・水戸の笠原水道について少し書いています)
  • 福山旧水道でもすこし書いていますが、この3つより古い近世水道は存在します。ですから古い順で三大という括りではないと思います。
赤穂市立有年考古館の資料(PDF)がわかりやすいかと思います)

以上です。それと赤穂市の地理感が全く無いため、旧赤穂上水道のことはわかりかねます。申し訳ありません。 --M9106TB会話2021年12月16日 (木) 15:01 (UTC)[返信]

(追記)神吉和夫『わが国の「水道」への中国の影響について (PDF)] 、土木史研究、1990年6月、に「江戸時代、江戸・赤穂・福山等に「水道」「(御)用水」「上水」と呼ばれる水利施設があり、」とあります。ただ三大・神田とは書かれていません。--M9106TB会話2021年12月16日 (木) 17:53 (UTC)[返信]
@M9106TBさん、早速に資料のご提示をありがとうございます。有年資料館のまとめはとてもわかりやすかったです。上っ面を読んでしまい、「三大」の論拠にしようとして反省しています(下記の罫線以下)。それにしても各地で水の道をつけていたことを学び、近世の印象を改めます。
時代の古い順では「3」に入らないとのこと、おかげさまで疑問はほぼ解消し、あとは整理して閉じたいと考えます。
やはり三大と呼んだ資料はそうそう出てこない、呼ぶからには独断に陥ると結ぶことにします。今節、なんとか資料を目にする機会があるよう望むばかりです。まずは懇切なご対応にお礼申します。--Omotecho会話) 2021年12月16日 (木) 17:27 (UTC)/返信箇所を訂正。--Omotecho会話2021年12月16日 (木) 17:47 (UTC)[返信]

情報 宿題の典拠探しの進捗です。
赤穂は江戸時代の三大上水道の一つという前提(※)。
1 典拠
A:赤穂市役所公式ページの観光関連ページ。赤穂市公式ウェブサイト
B:赤穂市の博物館「赤穂市立有年考古館」(うねこうこかん)で関連の展覧会を開催(平成28年7月13日–平成28年9月26日)し、「江戸時代の三大上水道」と示しています[3]
2 いつ頃、日本で3番目以内の上水道だったのか。赤穂は17世紀初頭。1610年代。当時の藩主は池田家。出典あり[4]
3 他の2件はどこか:
  • 三大の根拠:他の江戸時代の上水道とは異なり、城下町の各世帯各戸へ給水する[3]。(取り消し線については以下、補足◆ご参照/2021年12月16日 (木) 17:47 (UTC)加筆)
  • ※=赤穂上水神田上水福山上水(以下の補足◆ご参照/2021年12月16日 (木) 17:47 (UTC)加筆)
    --Omotecho会話) 2021年12月15日 (水) 16:46 (UTC)/情報アイコンを補足。--Omotecho会話2021年12月15日 (水) 18:09 (UTC)[返信]
◆ 補足、皆さんに資料を教えていただき、前提に無理がある点、旧赤穂上水道をどの視点で「三大上水道」と断定するか根拠が曖昧とわかりました。ここで1週間ほどお待ちして、本件は終了の所存です。皆さんにはご検討くださり、とくにお二人に深謝申します。ありがとうございました。--Omotecho会話2021年12月16日 (木) 17:47 (UTC)[返信]

出典

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  1. ^ 日本学士院日本科学史刊行会 編『明治前日本土木史 新訂版』財団法人野間科学医学研究資料館、1981年12月14日、385-386頁。 
  2. ^ 社団法人土木学会『明治以前 日本土木史』岩波書店、1973年12月5日、1411-1413頁。 
  3. ^ a b 企画展告知の中に「江戸時代の三大上水道」を赤穂上水、神田上水、福山上水と表記。2021-12-15閲覧。
  4. ^ 赤穂市教育委員会の発掘報告書(冊子版)は未確認。赤穂市教育委員会の発掘調査報告見学会(市役所ウェブで告知・2003年)に、赤穂上水道の記述あり。工事指揮の担当者(当時の代官=郡代)、工事は切山からトンネルと導水路を築いて、赤穂城と城下に水を届けた。分配は竹の管で水を通し枡で分水。城下町の発掘現場から裏付ける出土品あり。2021-12-15閲覧。

周辺資料を本文から移動

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報告 本文旧版には本文の典拠ではなく、周辺資料を「関連資料」節として置いてありました。これを解消し、調べ物の参考になりそうなものとしてここに転記します。また記事の「#出版物」節には、管理者の赤穂市の出したもののみ列記しました。

古史料『赤穂郡志』について
  • 天川友親(編)『播陽萬寶智恵袋 51巻 (存50巻)』、天川友親(自筆)、宝暦2年-(1752年)-。NCID BB27153160。しさ注記:『播陽萬寶智恵袋 一(~五十、目録)』、天川友親自筆稿本。
    • 『巻之33: 播州赤穂郡志』
    • 『巻之36: 播州赤穂郡志』
  • 藤江忠廉「播州赤穂郡志」『西播史談会々報』通第5号、矢野村(兵庫県):西播史談会、1948年。NCID BA87334348。筆者による写本について。末尾に「播州赤穂郡志一巻」と記入。別題『播州赤穂郡志』。
伊藤博文が視察に来た件、戦後に堀のかいぼりをした件。
  • 粟井ミドリほか(著)平井漠、広山尭道(監修)『目で見る赤穂・相生の100年:赤穂市・相生市・上郡町・佐用町・上月町・南光町・三日月町』岐阜:郷土出版社、1994年。
    • 明治時代(赤穂城、森時代、最後の藩主、伊藤博文の視察記念)
    • 昭和戦後(赤穂城大手門跡、赤穂城堀の浚渫)
武家の街並み。上水道に言及かどうか未確認。
  • 苅谷勇雅、西村幸夫(編著)「1 武家を中心とした町並み §赤穂市 赤穂〔兵庫県〕」『日本の町並み : 歴史文化遺産』上巻、山川出版社、2016年、82頁。

--Omotecho会話2022年2月16日 (水) 09:29 (UTC)[返信]