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ノート:親鸞聖人正明伝

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『親鸞聖人正明伝』について

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『親鸞聖人正明伝』をページに編集するにはどうすればいいのでしょうか?。記事に関する議論を深め、公平・適切な記事を掲載するのがWikipediaの基本方針ではないのでしょうか?。

梅原猛氏は『親鸞「四つの謎」を解く』で、偽作ではなく、存覚真作説とされています。なお小生も存覚真作説を『中外日報』に投稿しています。--大塚芳明会話2015年4月7日 (火) 14:25 (UTC)大塚芳明[返信]

Resto1578様へのお礼

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Resto1578様 『親鸞聖人正明伝』ペーシ作成有難うございました。 小生も立ち上げるべく、以下のような原案を作成しておりました。 ご検討の上、追加補正の材料にお使い頂ければ幸甚に存じます。

『親鸞聖人正明伝』 親鸞聖人正明伝(しんらんしょうにんしょうみょうでん)[1]とは、浄土真宗の宗祖とされる親鸞の伝記である。親鸞の玄孫である存覚(1290-1373)の著作で、文和元年(1352)の成立と伝わる[2]。真宗高田派本山専修寺に秘蔵されていたものが、享保十八年(1733)慧海の序を載せ[3]、五天良空によって開版された[4]。

概要

全四巻からなり、親鸞の年齢順に記されている。『本願寺聖人伝絵(御伝鈔)』には載っていない親鸞の事跡が数多くみられる。親鸞の誕生を「承安三(1173)年夏のはじめ[5]」とする。また十九歳「磯長夢告」譚、二十六歳「赤山明神参詣」譚、二十八歳「大乗院夢告」譚は独自のものである。さらに二十九歳「九条兼実の息女・玉日姫との結婚縁起」譚、四十歳「流罪赦免後一端帰洛」譚は、特徴的である。これらの記事から本願寺系とは別系統の伝記と考えられている[6] [7]。

吉水入室について

『親鸞聖人正明伝』『本願寺聖人伝絵』ともに親鸞二十九歳の春「吉水入室」し、同年四月五日の暁に「六角告命」を受けたとする。大正十年(1921)『恵信尼消息』発見後、「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、参りてありしに…」の解釈を巡って新説が生じた。新説とは

◆こもらせを「閉じ籠り=六角堂から全く外に出ない」と考え、九十五日目(=四月五日)の暁「六角告命」後、《初めて》法然を訪ね、さらに百日間尋参し「吉水入室」を決心した、と解釈した。つまり『本願寺聖人伝絵』第二段の「吉水入室」と第三段の「六角告命」の順序が逆転しているのは、覚如が「錯誤」したためだ[8]。 とする説で、現在通説となっている。一方

◆こもらせを「夜だけ泊まる日参」と考え、覚如『御伝鈔』通り二十九歳の春[9]一度「吉水」の法然を訪れ、「たちどころに」入門し、その後四月五日の暁[10]「六角告命」を受けた。そして《再び》法然を百日間尋参し弟子となった、と解釈する[11]。なお『蕎麦喰ひ木像』伝承[12]はその傍証とされる。 というのが旧来説の修正であり、『恵信尼消息』との「錯誤」は全くないと考える説。 

参照

1.『正明伝(しょうみょうでん)』とも略される。

2.『真宗史料集成』第7巻P119、菊村紀彦徧『親鸞辞典』P144。

3.『真宗史料集成』第7巻P97、菊村紀彦徧『親鸞辞典』P144。

4.『真宗史料集成』第7巻P119。

5.親鸞の誕生日は定かでないが、『正明伝』のこの記述を基に旧暦4月1日と決められている。本願寺派・高田派では、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、誕生の日付を新暦に換算し、生誕日を新暦5月21日に改めた。大谷派・佛光寺派・興正派などでは、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に改めた。

6.佐々木正『親鸞始記』筑摩書房。

7.梅原猛『親鸞「四つの謎」を解く』新潮社。

8.赤松俊秀『親鸞』吉川弘文館P51-P58。

9.『正明伝』では「建仁元年三月十四日」と記す。

10.本願寺派では二年後の建仁三年(癸亥)四月五日とする説もある。

11.大富秀賢『親鸞聖人御一代記』永田文昌堂P42。

12.比叡山無動寺谷大乗院より毎夜下り、百夜に渡り六角堂に通ったとする説。無動寺谷大乗院には、毎夜居なくなる範宴(親鸞)を回りの僧侶達が不審に思い師匠に告げ口をした。その師匠は、夜中に蕎麦を振る舞い、範宴の所在を確かめようとした。その時、範宴自作の木像が蕎麦を食べて、回りの不審を払拭したという伝説が残されている。その時の木像が、今も無動寺谷大乗院に「蕎麦喰ひ木像」とよばれ、本尊・阿弥陀如来と共に祀られている。

--大塚芳明会話) 2015年4月23日 (木) 07:09 (UTC)大塚芳明--大塚芳明会話) 2015年4月23日 (木) 01:19 (UTC)大塚芳明--大塚芳明会話2015年4月23日 (木) 07:13 (UTC)大塚芳明[返信]

コメント
上記のように草案を書き込まれても議論の要点が解りません。記事用のノートページには、なるべく要点を書き込んでいただけないでしょうか。以下は、気になった点についてコメントします。
冒頭部
冒頭部については、現行のまま「著者、成立時期については諸説ある。」とする方が簡潔でよいと思います。
「事跡」
『本願寺聖人伝絵(御伝鈔)』には載っていない親鸞の事跡が数多くみられる。」について、「事跡」と記述することに反対します。「伝承」や「伝説」とするのが適切な表現だと思います。
「吉水入室について」について
山を出でて六角堂に百日こもらせ給いて」の「山を出でて」を省くような記述には反対します。叡山決別説を説く学者は多数いますが、例を挙げるなら平松令三『親鸞』P.46-58「“やま”を下りる」における考証や、存覚は『歎徳文』において「近くは根本中堂の本尊に対し、遠くは枝末諸方の霊崛に詣でて、解脱の径路を祈り、真実の知識を求む。特に歩を六角の精舎に運びて、百日の懇念を底すの処に、親り告げを五更の孤枕に得て、数行の感涙に咽ぶ間、幸いに黒谷聖人吉水の禅室に臻りて始めて弥陀覚王浄土の秘扃に入りたまいしよりこのかた(略)」と言及しています(赤松『親鸞』P.41)。
大富秀賢『親鸞聖人御一代記』永田文昌堂P42について、「引用」の範囲内で言及していただけないでしょうか?
『真宗史料集成』第7巻
出典に『真宗史料集成』第7巻を用いられていらっしゃいますが、「解説」(P.7-16)、および「解題」5 親鸞聖人正明伝(P.25-26)が欠落しています。同書を出典として用いたのであれば、「解題」P.26で刊行についての解説が掲載されているため、上記の冒頭部の文章は作成できません。ご確認ください。--Resto1578会話2015年4月28日 (火) 08:28 (UTC)[返信]


Resto1578様

御教示有り難うございました。

①冒頭部については、同意致します。現行のままで結構です。

②「事跡」についても、「伝承」で結構です。

③「吉水入室について」

 おっしゃる通り、叡山決別説を説く学者は多数います。しかし、小生は「思い込み=先入観」で解釈していると思います。つまり、当時の慣習(山を出る=遁世)という“常識”に捉われているのではないでしょうか。第一、肝心の親鸞が「遁世した」とは言っていません。その証拠に『七箇条制戒』で「綽空」と署名しています(なお、法然は「沙門源空」)。ちなみに吉水教団には官も出入りしていたことは明白です。例えば聖覚、證空、弁長、隆寛、など。

 恵信尼消息も「山を出でて〔叡南無動寺大乗院より〕六角堂に百日こもらせ給いて」の意だと思います。恵信尼は親鸞が「六角堂に百日こもらせ給いて」いた事情を詳しくは知っていません(おそらく後日、親鸞より聞いたのでしょう)。なぜなら、伝聞体験の過去を示す助詞けりが使われていますから…。

 存覚『歎徳文』も「(略)特に歩を六角の精舎に運びて、百日の懇念を底すの処に、親り告げを〔四月五日〕五更の孤枕に得て、数行の感涙に咽ぶ間、〔振り返ってみれば〕幸いに黒谷聖人吉水の禅室に臻りて〔建仁辛酉範宴二十九歳三月十四日=建仁第一の暦春のころ〕《始めて》弥陀覚王浄土の秘扃に入りたまひ〝し〟より〔夢告後百日間法然を尋参し入室を決定した7月15日の〕このかた(略)」と〔  〕内を補って理解することも可能でしょう。特に、直接体験の過去を示す助詞〝し〟の記述は、前後にも例がなく、異彩を放っています。つまり、もし夢告後《始めて》吉水に入室したのであれば「吉水の禅室に臻りて、始めて弥陀覚王浄土の秘扃に入りたまひ〝て〟より(夢告後百日間法然を尋参し入室を決定した7月15日の)このかた」ではないでしょうか。

④大富秀賢『親鸞聖人御一代記』永田文昌堂について

・裏表紙に、昭和四年十月一日印刷/昭和四年十月五日発行/昭和廿五年三月五日八版 とあります。  

・P36に「その年(建仁元年)の一月十日から洛陽六角堂の観音へ百夜の祈願を籠めようとせられたのであります、(略)丁度満願の三月十二日の夜でありました、六角堂の観音様は、末代出離の要路は念佛に如くなし、法然上人今苦海を度す、彼の所に至りて出離の要津を問うふべしと、アリ々々と示現なされました(略)」

・P42に「聖人二十九歳の春、即ち土御門天皇建仁元年三月十四日でありました、比叡の山を下りさせられたわが聖人は、洛東吉水の禅房へ法然上人をお訪ねになりました。(略)」

・P52に「時は建仁三年【㊟西本願寺本『御伝鈔』によるか】四月五日の夜、寅の時、わが聖人は岡崎の御庵室でフト夢を御覧になったのであります。夢想の記には『六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して(略)善信に告命して、のたまはく《女犯偈》(略)』」。この後「玉日姫」との結婚縁起譚へと続く。

【㊟小生の感想ですが、『恵信尼消息』との整合性には、多少混乱が見られます。例えば『恵信尼消息』には御示現の文が紛失していたこと。二度目の夢告は岡崎の御庵室でみた等。】

⑤「冒頭部の文章は作成できません」とのご指摘は、同意します。従って、現行ページのままで結構です。--大塚芳明会話2015年5月1日 (金) 01:25 (UTC)大塚芳明[返信]

(花) お礼
大富秀賢『親鸞聖人御一代記』の内容を教えてくださりありがとうございます。--Resto1578会話2015年5月3日 (日) 06:04 (UTC)[返信]
コメント
Wikipediaの方針の1つに「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」があります。その内容の1つ「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません 4.公開討論の場」には、「百科事典を作成する作業に集中してください。ウィキペディアに関連する話題について利用者の会話ページで話し合うことは構いませんし、記事についての問題は関連したノートで解決すべきですが、議論を記事に持ち込まないでください。また、ノートページは記事を改善する話し合いのために存在していることを忘れないでください。」とあります。つまり記事に付属するノートページは、記事の主題に関する公開討論の場ではありません。
大塚芳明さんのコメントは、「しかし、小生は「思い込み=先入観」で解釈していると思います。」と討論を望んでいるように感じます。また、「〔  〕内を補って理解することも可能でしょう。」と一次資料に独自の解釈を加えられています。
Wikipeidaでは、ノートページで公開討論を行うことも、一次資料に自身の解釈を加えて記事に反映させることもできません。--Resto1578会話2015年5月3日 (日) 06:04 (UTC)[返信]