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ノート:西尾市

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西尾の名前の由来ですが・・・

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誰も書いていないので、指摘しますが、西尾市の由来となった西尾城の名前ですが、新たな支配者の徳川氏が付けたのですが。徳川氏(安城松平家)の本拠だった安祥城の西側を西尾、東側を東尾と呼んでいます。現在の安城町西尾・東尾です。 安城町は、江戸時代・戦国時代は安城村です。ここから来ている可能性もあります。さらに、安祥城の北側は、上条(じょうじょう)と言います。煮塩から来ているという説は、完全なデタラメでしょうね。西尾と名付けたのは、徳川氏ですから。

同じ三河国内で、綿種漂着の伝承 西尾市(幡豆郡) VS 田原市(渥美郡)

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日本後紀には、三河国としか記載していないし。困ったものだよ。


木綿の略史

 三河渥美郡の阿曇氏に伝わる伝承がある。金達寿の『日本の中の朝鮮文化7』から引用する。  応和二年中田利左衛門慶則が記したものと言う。我が祖先の始まりは推古天皇の時(592-628)であり、新羅の国王からはじめて日本国へ孔雀を献上した。その時の大使が新羅の国王の弟で、日本の国は大変よい所だからまた来たいと申し上げた。それが許されたので、新羅へ帰って日本へ行きたいと願って、許しを得た。  そして一年余りの間に苗木や種、綿の種などを持って大きな船で百人余りの従者を従えて国を出発し、渥美半島の和地に着陸した。  山田村に城を築いて、持ってきた苗木を各所へ植え、また樹の種などを各所に蒔いてあちらこちらへ出かけた。 この頃、新羅で綿が育てられていたとは思えない。またもしあったとしても綿の種はおそらくは育たなかったのであろう。

 綿の種子は1200年前の延暦八年(799年)、三河国幡豆郡天竹村に漂着した昆崙人によってもたらされたと、日本後紀や類聚国史などに記載されている。西尾市に鎮座する天竹神社は綿の祖神として祀られている。

天竹社 愛知県西尾市天竹町池田53(三河国幡豆郡)

祭神 天照皇大神、新波佗ノ神

由緒(神社庁祭礼CDから)  社伝に、廷暦18年(799)この地に崑崙人漂着し、綿の種子を伝える。 我国、綿花栽培の初りで、崑崙は天竺と同じで、地名を天竺と称した。その徳を偲び、新波陀神と尊び、天保8年(1837)2月10日天竹社を祀る。


失敗した木綿の種まきの話

 類聚国史の記事にこの件が記載されているので概略を紹介する。  昆崙人のもたらした綿種を紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、太宰府に与え、植えさせた。 日の当たる土壌の良い地を選び、深さ一寸の穴で四尺離して蒔く。種は一晩水につけ、翌朝蒔いて、土をかける。毎日水を注ぎ、常に潤沢にする。  南海道の温暖な地域が選ばれており、植え方まで詳しく指示されている。しかし結果は思わしくなかった。  また、昆崙人は言葉が通じず、国籍不明、大唐の人は昆崙人と言う。後に中国語を習い、自ら天竺の人と言った。インド人であった。

  衣笠大臣の歌 敷島のやまとにあらぬから人の うゑてし綿の種は絶にき  残念、と言う思いが伝わる。

国産木綿の初出は、九州筑前ですよ!!

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永原慶二氏の発見になるが国内木綿生産の初見史料は高野山の金剛三昧院に保存されていて、院の荘園であった筑前国粥田荘からの「木綿一端」の進上文書である。この時期には京都付近、越後などでも木綿栽培が行われだした。  三川木綿も登場してくる。三河は天竹神社に伝承がある地である。昆崙人から700年ほどの歳月が流れている。 16世紀、三河、伊勢、摂津の小妻木綿が登場してくる。摂・河・泉木綿の登場である。


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