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ノート:近似死体験

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ノート:臨死体験から転送)

記事名

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翻訳としては近似死体験のほうがふさわしいのでそちらに移動します。Izayohi 2005年4月5日 (火) 08:07 (UTC)[返信]

臨死体験と呼ぶほうが一般的であるような気もしますが、そうではないものなのでしょうか。--Lem 2005年4月5日 (火) 08:10 (UTC)[返信]
臨死体験は一般的ですが宗教関係で使用されることから、科学研究対象としては英語の直訳としての近似死体験が使用される傾向にあります。Izayohi 2005年4月5日 (火) 08:18 (UTC)[返信]
移動されたようですが、コピーペーストのため履歴が継承されていません。しるふぃおはなし|おもいで2005年4月5日 (火) 08:14 (UTC)[返信]
申し訳ありません。ミスです。Izayohi 2005年4月5日 (火) 08:18 (UTC)[返信]

履歴はその後修正されたようなのですが、記事名に関してはどうしましょうか。私も「近似死体験」と言う言葉は聴きなれないのですが、専門分野としてはどちらをよく使うのか、一般としてはどちらをよく使うのか確認する必要があると思います(ちなみに、ある程度待って特に意見が出なければ、臨死体験の方にページ移動をかける予定です)。Tekune 2005年5月14日 (土) 12:55 (UTC)[返信]

グーグル検索かけれたら、臨死体験58800、疑似死体験25400、Near Death23100、近似死体験5120、ニアデス1630という結果でした。よくも1つの単語をこれだけの種類訳すものです。ただしこの中で臨死体験は誤訳ですのでいくら件数が多くてもふさわしくないでしょう。Izayohi 2005年5月14日 (土) 13:05 (UTC)[返信]
この場合恐らくフレーズ検索を行うべきで、その場合は全然結果が違います。2005年6月21日 (火) 09:51 (UTC)ごろ時点です。臨死体験:31600、擬似死体験:0、Near Death:728、近似死体験:73、ニアデス:417--こいつぅ 2005年6月21日 (火) 09:51 (UTC)(ちなみに今フレーズ検索なしで「近似死体験」で検索すると10件です…。実に不思議。)[返信]
追記、私も門外漢ですがIzayohi氏が臨死体験を誤訳とする根拠を示していただきたく思います。「臨死」という単語は大辞林にエントリされておりまして、「死に直面し、死というものを感知すること。」とのことですので誤訳とは言い切れないと思うのですが。参考までに。--こいつぅ 2005年6月21日 (火) 09:54 (UTC)[返信]
擬似死体験についてですがこれは用語では検索できませんが、臨死(擬似死)、擬似死(ニアデス)体験というサイトもありましたのでご報告まで。Izayohi 2005年6月24日 (金) 03:53 (UTC)[返信]

「臨死」について

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日本語の「臨死」は古くは『萬葉集』の柿本人麻呂の辞世の歌の注「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌」にある言葉であり、意味は「病気や事故などによって生命が回復不可能な状態にあること。臨死患者」となります。ホスピスはこの臨死患者のケア(看護)をおこなうところと日本のサイトでも説明があります。ところで、ニアデス=NDE(Near Death Experience)については初期には臨死患者に接した人からの聞き取りで始まった研究が臨床診断では死亡とされた状態から回復した人の聞き取りの研究に移行しました。当然死んだ人からは聞けない体験を限りなく死に近づいたということからニアデスになったようです。ということで非常に微妙ながら意味が異なります。「近似死」については一時「臨死」よりふさわしいという意見があったものの結局臨死のほうが多数になったしまったのが現状のようです。今の私の意見では記事名は「ニアデス」がベストと存じます。外部リンク臨死体験と死生学の狭間臨死体験研究の歴史Izayohi 2005年6月24日 (金) 03:46 (UTC)[返信]

記事名

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とりあえずウィキペディアの方針よく知られた名ということで方便として本記事名は臨死体験に移動させました。Izayohi 2006年4月24日 (月) 22:49 (UTC)[返信]

1990年代に日本でブーム

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臨死体験は1990年代に日本でちょっとしたブームになった。TVでヒロミらが告白した。その後はスピリチュアルの観点で「死後の世界」に置き換えられている。

定義について

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「一度死亡したと医師に診断された後」とありますが、この種類の経験は必ずしも医師に死亡を宣告されなくとも、生死の境をさまよった者が経験することはあるようですから、医師の死亡診断は定義に含める必要はないのではないでしょうか。元来の「ニアデス」という言葉は医師による死亡診断が前提条件なのかもしれませんが、日本では「ニアデス」より「臨死体験」のほうがはるかに一般的であり、「臨死体験」と言う言葉は医師の死亡診断は前提ではないと思われますが、如何でしょうか。--閉塞前線 2008年5月27日 (火) 09:32 (UTC)[返信]

編集合戦「科学と宗教どちらを優先するべきか」

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  • 私は臨死体験については科学・医学が研究し部分的に解明している事実を、重要視しています。そして文化して宗教的な見方を併記するというスタンスです。追試による検証可能性を前提とする科学研究はwikipediaが原則とする検証可能性と一致するものです。それに対して宗教家の持論に過ぎない宗教的研究は検証可能性を満たしていません。
  • しかしならがVDVさんはそれに不満なようであくまで科学は「西洋医学的」「唯物論的」意見な物にすぎず、一部の考えに過ぎないと言う立場に基づいて編集をされています
  • 宗教を持ち出されると合意の形成は困難ではあると思いますが、検証可能な方を主題とする事をお願いしたいものです--Littlefox 2010年5月5日 (水) 01:54 (UTC)[返信]


私も百科辞典である以上は検証可能な科学的観点を基本とするべきだと考えます。疑似科学的内容は百科辞典に相応しくありません。VDVさんは連続投稿にも御注意頂きたいと思います。--閉塞前線 2010年5月8日 (土) 06:54 (UTC)[返信]

相変わらず、科学・医学的な見地を押しのけて、宗教的な解釈を主たる事実とする編集が行われています。一週間様子を見て、ノートでの議論に応じないようでしたらコメント依頼に出します。 臨死体験は宗教用語でなく、現象を指すのですから、学会で発表され世界中の科学者から審査される、科学的な見地が主たる見方として挙げられるべきでしょう。また、臨死体験を超常現象とみなす人が多数派というワケでも無いはずです(しかも宗教的解釈をする人は、進行する宗教によって解釈がバラバラなので個々の解釈は明確に少数意見といえます)。こういう考え方もあると紹介する分には寛容を持って応じますが、主流な解釈と誤解させる書き方はダメです。Wikipedia:中立的な観点もご参照ください--Littlefox 2010年8月29日 (日) 17:13 (UTC)[返信]

中立性が優先

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どうも勘違いしている人がいるようだが、ウィキペディアではWikipedia:中立的な観点で編集すること。”宗教か科学か”というように単純化された視点でものごとを対立させて、一方的に片方を優先させるようなことはしてはいけない、”科学が優先”とか”唯物論が優先”という態度も採るべきではない、というのがウィキぺディアの創始者で財団トップのジンボ・ウェールズの判断。--221.188.72.252 2010年12月18日 (土) 02:18 (UTC)[返信]

中立性というのはどちらも同じように説明すべきという意味ではありません。中立性の観点記事内でいう「重要な制限事項がひとつあります。複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません」と言うことです。また科学と疑似科学の二項対立についてはWikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのかをご参照ください。
私は宗教的な記事を排除すべしと言っているわけではなく、死後の世界を信仰する文化が存在する以上、項目を設けて記述すべきです。しかしながら、科学と宗教を意図的に混同しどちらが反証可能な事実かをわからなくしてしまうことは百科事典にふさわしくありません。科学的な事実と文化としての事実を明確に分けて併記するべきなのです。--Littlefox 2010年12月18日 (土) 07:30 (UTC)[返信]

すでに科学的な見方は科学的な見方として十分に区別できるように提示されている。LittlefoxさんはWikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのかをよく読むこと。Littlefoxさんはどうにも子供くさいな。いちおうLittlefoxさんの感情に配慮して、あなたの主張する”科学的な”見方を、よりはっきりと区別できるように配慮してあげよう。--222.146.161.117 2010年12月19日 (日) 03:40 (UTC)[返信]

あなたの文章はあたかも宗教的、霊的な現象が事実として確認されているかのごとく書いてあります。しかしながら、実際には科学的な事実、正確には反証可能な事実として確認されているわけではありません。この項目は科学的な事実について解説するためのものでもあるのです。ですから科学的な事実と疑似科学と文化的な事実が、同じ節・段落・まとまりに混在するのはふさわしくありません。以前のように、「宗教的な解釈」節を復活してそこにまとめて配置されるべきです。それで不服ならいっそのこと項目を分割して、臨死体験(宗教)とでも名付けたそれをを思う存分編集されてはいかがでしょうか--Littlefox 2010年12月19日 (日) 08:31 (UTC)[返信]

私の作業により、哲学的な解釈の節、スピリチュアルな解釈・仮説の節、科学的な仮説・解釈の節、とはっきり節を分けて明示して区別したので、読者はそれらを混同することがない。この方法がWikipedia:中立性の方針に適っている。そもそもLittlefoxさん流に2項に分割する発想には無理がある。哲学者は哲学的な表現や概念で説明するし、スピリチュアリストはスピリチュアリスト的に説明するし、科学者は科学者的な用語や概念枠で説明するし、他の立場では他の立場の説明があり・・・と続く。これだけでもすでに3種類以上ある。今後も増えるだろう。Littlefoxさん流の2項対立的記述は、無理があるし、Wikipedia:独自の研究の要素も入っている。

それとLittlefoxさんにひとこと忠告しておきたいが、Littlefoxさんは報告(ナレーション)と事実を混同し、感情的に反応しすぎだ。一例をあげると、通常の日本語感覚(通常の言語感覚)を持っている人なら、誰かが「地面が割れた」と報告(ナレーション)したら、記録者は例えば「Aさんの体験内容:地面が割れた」と書く。記録者も、それを読む読者も、それはAさんの主観ではあたかも地面が割れたように感じられた、とかそういうイメージを持った(ということに過ぎない)と、とりあえず理解し、別に感情的に反応したりしない。臨死体験について言えば、ある心停止者が「暗いトンネルを通った」と報告したなら、記録者は例えば「Aさんの体験内容:暗いトンネルを通った」と記述する。通常の日本語感覚を持つ読者なら、あくまで「報告者は主観的にそういう記憶を持った、主観的に、まるでそうであるかのように感じられたのだな」と理解し、基本的に、物理的に暗いトンネルがあった、実在したかどうかは別問題、と理解し、区別している。大人の通常の言語感覚では、「体験」という用語は、しばしば《ナレーターが主観的に持ったイメージ》という程度の意味だと、さし引いて理解されている。Littlefoxさんひとりだけが、報告者の語り・報告(ナレーション)と事実を短絡させすぎたり、語り(ナレーション)の内容や「体験」という用語に対して過敏に反応し、ひとり葛藤し、感情的に反応しすぎている。文章理解のしかたが子供くさい。注意されたい。--222.146.200.55 2010年12月19日 (日) 13:10 (UTC)[返信]

こうこうこういう体験をしたという報告があり、かつ信用性があるというまでは科学的な研究となりえる範囲です。実際、私が引用したTIME誌の科学記事では、近似死体験時に見る夢に一定の共通性が見られる事を認定しています。しかし、それに霊魂がどうとか死後の世界がどうとかいう解釈を付け加えるのは宗教の世界の話です。この二つは厳格に区別しなければ行けません。(信頼しうる)体験の証言(できればその統計的な事実)は万人提示しうるにたる根拠に基づいた事実の列挙ですが、宗教的な解釈は事実とみなすわけにはいきません。いくら宗教に帰依する人の中で事実出会っても他人にとってはそうではないのです。
さらにいえばIPさんは、臨死体験の研究において、宗教的な見方が主流意見だと信じているわけですね。だから、科学的な意見の方を節として独立させて、あたかも傍流の少数意見であるかのように書かないと気が済まないのですね。繰り返しになりますが、宗教的な見方を書くこと自体は認めます。科学が重視する反証可能性と、ウィキペディアが重視するWikipedia:検証可能性はやや異なるものです。後者はそういう意見があるという事実を認めるという立場を取るものだからです。しかし、読者を自分の主張に誘導するのは決して中立的ではありません。まず教科書的な多数意見を提示し、オカルトチックな記事を求める読者に宗教的な記事を提供するべきです。
私は現代の日本社会においては科学的な見識を事実をするのが一般的だと考えています。確かに、宗教に帰依する人は相当数おり、超自然的な現象に魅力を感じる人も少なくありません。しかし、それらは各宗派でバラバラな宗教観を持っており、決して統一的名見解が存在しているわけではないでしょう。多くの人が納得する共通意見を提示しようとすれば、おのずと科学的見識となるのです。なぜならば、疑われる事を前提として、確固たる根拠を提示するという「反証可能性」の上に成り立つ学問であるからです。ここが頭から信じることが求められる宗教との相違点です。
あなたとの合意を得れないならば、ほかの人の意見を求め、他者を含めた合意を形成してあなたに納得してもらうか(すでに上で科学を重視すべきというご意見をいただいてますが)か、科学と宗教二つの見方に基づいて記事を分割するかのいずれかになるでしょう--Littlefox 2010年12月19日 (日) 13:33 (UTC)[返信]
Littlefoxさんは、どうやら現代の科学全般についても不勉強で、科学的方法のことも誤解されている、とお見受けします。《科学的方法》の記事も末尾までじっくりお読み下さい。ポパーは反証可能性を重視しましたが、現代の科学者たちはそれを重視していないということが、学者による出典つきで繰り返し記述されています。なんでも、Littlefoxさんが想像しているほど単純ではないのですよ。Littlefoxさんは、ご自身の《常識》をもっと疑ってください。もっと思考を柔らかにし、複眼的になるようにし、そして謙虚になって下さい。Littlefoxさんの場合は、何か主張をする前に、「自分の現在の知識は足りなさ過ぎるかも知れない。私の常識は間違っているかもしれない」くらいに思っていただいて、発言する前に、まずあえていろいろな視点の文献を数冊~数十冊読み、複眼的な視点を身に付けて、その後で謙虚に、それも恐る恐る発言していただくくらいがちょうど良いと思われます。--221.188.54.165 2010年12月19日 (日) 16:03 (UTC)[返信]

Littlefoxさんは感情的になりすぎですよ。

Wikipedia:中立性に配慮して、厳密に区別して節を分けたのです。節を分けて区別したほうが良い。特定の見解に誘導しないために、節を分けるべきです。特定の視点ではなく、Wikipedia:中立性を優先すべきです。ウィキペディアの財団トップのジンボ・ウェールズも複数の見解がそれぞれ中立的に、明示的に区別される形で記述されているとよい、と考えています。

ちなみにLittlefoxさんは私について誤解しているようです。私は個人的には中立的で、複眼的です。Littlefoxさんのように”どれが主流だ”とか何だとかいう主張はまったくしていません。私は特定の見解に読者を誘導する気はありませんよ。普通の大人は複眼的で、いろいろな見方ができていますよ。Littlefoxさんだけが単眼的で、感情的になってしまっているようで、Wikipedia:中立性のルールを強引に無視したくて無視したくてしょうがないようですね。

ちなみに「名称・訳語」「研究史」「記録の歴史」などは立場が異なってもほぼ同様の記述になり、さほど問題は生じないでしょう。また「臨死体験のパターンと経験者の変化」などは、上で私が説明したように、通常の言語感覚を持つ大人の読者たちは、どの立場であれ、「体験」という言葉を《主観的なイメージ》だとして差し引いて読むので特に葛藤は持たずに読みます。ここまではさほど問題は無い。議論になりがちなのは末尾の「臨死体験に関する解釈や仮説」の節に納めた文章群。もともとコメントしている専門家のバックグラウンドがそれぞれ異なり、基本語彙の用い方や世界観が異なっていて、記述内容が相互にかみ合わない。こういう文章をバラバラにひとり歩きさせず、ひとつの節に入れ、その中で中立的に小節でしっかりと分離することが必要です。

節をしっかり分けておけば、読者にしても、例えば科学的な記述だけを読みたい人は「科学的な仮説・解釈」の節だけを熟読すれば良く、「哲学的な解釈」や「スピリチュアルな解釈」などの節は眉唾ものと見なしてスキップしたり読み流せば済みます。反対に、普段から哲学書を読み哲学的な語彙で思考している人は「哲学的解釈」をまじめに読み、「スピリチュアルな解釈」や「科学的な仮説」は眉唾ものと見なして読み流す自由があります。今後、様々な立場の解釈が出典つきで提示されても同様です。つまりWikipedia:中立性に沿って記述しておけば、立場が異なっても、それぞれの立場なりに、ほどほどに納得して読める記事になるわけです。

Littlefoxさんは自分の信じる概念枠以外に対して感情的・攻撃的になりすぎでしょう。Littlefoxさんの執筆姿勢はWikipedia:中立性に違反していますよ。

また、分割はありえないと思いますよ。他の言語版でもそんなことはしていませんから。他言語版でも、ひとつの記事に、節を多数つくり、Wikipedia:中立性を尊重して、様々な視点を冷静に併記していますよ。Littlefoxさんだけがひとり感情的になりすぎて、分割などということを主張しはじめているわけです。Littlefoxさんは単眼的になり、Wikipedia:中立性のルールを破りたいという衝動に駆られているようですね。もう少しご自分の感情をコントロールしていただければと思います。

それと、できればソックパペットは使わないでいただきたい。お願いします。--221.188.54.165 2010年12月19日 (日) 14:48 (UTC)[返信]

それとLittlefoxさんは、どうやらwebサイトしか読んでいないのではありませんか? 臨死体験に関する印刷書籍はちきんと数冊読んでありますか? どうやらLittlefoxさんは、Times誌の孫引きの、出典としては正当性が疑われる可能性もあるwebサイトしか読んでいないようですね。もしそうなら、それは問題でしょう。ウィキペディアンたちが本文の末尾に挙げた以下の印刷文献から、せめて5~10冊程度は読んで、いろいろな視点からの解説を日数をかけてじっくり吸収したほうが良いですよ。臨死体験は科学者の間でも見解が多数に分かれているテーマなのですから。例えば物理学者がホログラム説を提唱したりしているわけですから。印刷書籍を5~10冊ほど読めば、今のLittlefoxさんが気づいていないような視点・指摘・事実類が、山ほど記述されていますよ。今日の自分の知識を絶対視して感情的に判断して意地を張るのではなく、とりあえず印刷書籍を5~10冊読んで、数週間後や数ヵ月後に複眼的な思考を手に入れてからこの記事に舞い戻っていただいたほうが、ウィキペディア的にはずっと良いと思いますよ。--221.188.54.165 2010年12月19日 (日) 15:07 (UTC)[返信]

   * エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と死後の生』 中央公論新社(中公文庫)ISBN 978-4122038431
   * エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 - 死とその過程について』 中央公論新社(中公文庫) ISBN 978-4122037663
   * エリザベス キューブラー・ロス『続・死ぬ瞬間- 死、それは成長の最終段階』 読売新聞社 ISBN 978-4643990256
   * 立花 隆『臨死体験〈上・下〉』 文藝春秋(文春文庫) ISBN 978-4167330095ISBN 978-4167330101
   * 立花 隆『証言・臨死体験』 文藝春秋(文春文庫) ISBN 978-4167330118
   * 鈴木 秀子『死にゆく者からの言葉』 文藝春秋(文春文庫)ISBN 978-4167271046
   * テレンス・ハインズ『ハインズ博士「超科学」をきる - 臨死体験から信仰療法まで〈Part2〉』 化学同人 ISBN 978-4759802900
   * サム・パーニア『科学は臨死体験をどこまで説明できるか』 三交社 ISBN 978-4879191632
   * ケネス・リング『いまわのきわに見る死後の世界』 講談社、1981、ISBN 4061133152
   * バーバラ・ハリス『バーバラ・ハリスの臨死体験』 講談社、1998、ISBN 406256260X
   * レイモンド・ムーディ『かいま見た死後の世界』 評論社、1989、ISBN 4566052567
   * レイモンド・ムーディ『続かいま見た死後の世界』 評論社
   * レイモンド・ムーディ『光の彼方に』 TBSブリタニカ、1990、ISBN 448490103X
   * ロバート・アルメダー『死後の生命』 TBSブリタニカ
   * カーリス・オシス『人は死ぬとき何を見るのか ―臨死体験1000人の証言』 日本教文社、1991、ISBN 4531080688
   * マイクル・B. セイボム『あの世からの帰還』 日本教文社、新版版2005、ISBN 4531081439
   * マイクル・B. セイボム『続あの世からの帰還』 日本教文社
   * エリザベス キューブラー・ロス『死後の真実』 日本教文社、1995、ISBN 4531080882
   * 『死後の人生』 NHK出版
   * カール・ベッカー『死の体験』 法藏館、1992、ISBN 4831871982
   * ケネス・リング 『霊界探訪 ―「近死体験」で私はこう生まれ変わった! 』 三笠書房、1986、ISBN 4837954324
   * 『死後の世界』 毎日新聞社
   * 『臨死体験で見た地獄の情景』 同朋舎出版
   * 菅原 浩『魂のロゴス』 アルテ、2003、ISBN 4434028693
   * マイケル・タルボット『ホログラフィック・ユニバース』春秋社、1994、ISBN 4393322053
   * ダニオン・ブリンクリー『未来からの生還 ―臨死体験者が見た重大事件 』同朋舎出版、1994、ISBN 4810420973
   * ベティー・イーディー『死んで私が体験したこと』同朋舎出版、1995、ISBN 4810421570
   * 『臨死体験研究読本 脳内幻覚説を徹底検証』 アルファポリス、2002、ISBN 4434025414
   * 菅原 浩『スピリチュアル哲学入門』 アルテ、ISBN 4434127187

明日から当分忙しくなるので、Littlefoxさんに対して当分返答できないかと思います。私のほうからLittlefoxさんの特定の発言に反応しないということは、それに同意していない、好ましく思っていない、というくらいに理解しておいて下さい。もしも仮に同意できる意見を見つけられたら、「賛成」とコメントすることにします。ちなみに一般論として、ウィキペディアのノートのコメントに他のウィキペディアンから何も書き込みがないということは、他のウィキペディアンが同意したということでは全然ないのでくれぐれもご注意下さい。時々強引にそう解釈しようとする傲慢な人がいますが、それはいけません。他のウィキペディアンは反対だと思いつつも、ただ書き込まないでいるだけということは頻繁にあります。むしろ何も返答がなければ、同意が得られなかったとか、反対された、と思うくらいの謙虚さも身に付けるとよいかと思います。--221.188.54.165 2010年12月19日 (日) 15:36 (UTC)[返信]

何度も言うように宗教的解釈の項目内では宗教本や擬似科学本を出典に好きに編集していいです(そういう考えがあるのは事実だから)。しかし冒頭の見出しおよび概要では本当に意味で中立的でなければいけません。以前の版のようにここでも立場をきっちりと分けて科学的にはこうこうで、宗教的にはこうこうと両論併記の形が落とし所として相当だと思います。ここで区別があいまいで、宗教的な解釈も(反証可能な)事実のひとつと取れるような書き方は誘導的といわざるを得ません。私はこれからこの立場から加筆していきます。科学の本を出典に加筆していくことになるでしょう。--Littlefox 2010年12月23日 (木) 05:58 (UTC)[返信]
私自身は色々と忙しくあまり編集活動はできませんが、ここまでの議論を読む限り、私はLittlefoxさんの意見を支持します。221.188.54.165さんの発言はは独善的で礼儀を欠いています。--閉塞前線 2010年12月23日 (木) 15:57 (UTC)[返信]
少なくとも、冒頭にJAWP方針を書くような、おかしな記事にしないで下さい。方針に則って記事を書く必要はありますが、その方針を記事中への記載は不要です。その方針を記事冒頭に書き、自己言及すること自身が方針無理解の記事との誤解を生みかねません。--Los688 2010年12月26日 (日) 08:24 (UTC)[返信]



コメント依頼提出

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Wikipedia:コメント依頼/利用者:221.188.54.165とその複数アカウント群
ノート上で解決したかったのですが、対話を拒否され、しかも編集合戦は続行中です。 やむを得ないのでコメント依頼を提出させていただきました--Littlefox 2010年12月26日 (日) 11:15 (UTC)[返信]

Littlefoxとその関連アカウントについてコメント依頼提出

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Wikipedia:コメント依頼/利用者:Littlefoxとその関連アカウント
ルール違反の自覚を持っていただけず対話の姿勢も見られないので、やむを得ずコメント依頼を提出させていただきました。--221.184.89.158 2010年12月28日 (火) 04:13 (UTC)[返信]

「信頼できる情報源」「中立的な観点」などの表記について

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「この記事の出典はWikipedia:信頼できる情報源というガイドラインに合致していないかも知れません。そのガイドラインに合致しているか確認し、もし必要なら改善して下さい。(2012年7月)」この表記に従い、記事本文中のソースの見直しを行いました。従ってこの表記はとりあえず削除させていただきます。mokumao24 2014年2月16日 (日) 18:53 (UTC)

また「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。議論はノートを参照してください。(2011年12月)」との表記も出ています。これについて以前の議論を辿ったところ、科学的な解釈とスピリチュアルな解釈を併記させるという事で話が落ち着いたようですし、その後ノートで新たな議論もされていませんので、この表記についても(異論が出なければ)いずれ削除したいと考えています。mokumao24 2014年2月16日 (日) 18:53 (UTC)
どうしても私が書くと誤字や引用エラーが多くなり、結果、編集を連投する事となってしまっています。ご迷惑をおかけします。mokumao24 2014年3月27日 (木) 18:58 (UTC)

refタグの位置

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出典のrefタグは、(ウィキペディア英語版は「.」の後ろにつけるルールではあるけれど) ウィキペディア日本語版の場合は「。」の直前につけるルールでしょう? 次みたいに。

花見にも歴史がある<ref>『桜の歴史』</ref>。

つまりウィキペディア日本語版の場合は、表示結果は次のようになるべきです。

花見にも歴史がある[1]

気持ち悪いから直したいなぁ、と思うのは私だけだろうか...? ひとつひとつ、「。」の位置をrefタグの後ろに移動させるだけで済むわけだけれど、なにしろこの記事はしっかり出典が示されていて、大量にあるからねぇ....作業が多くなりそうで、個人的には着手に躊躇してしまった。どのみちやるべき作業なので、誰か、がんばってやってくれないかなぁ.... --Obuma Tiki会話2014年9月18日 (木) 11:30 (UTC)[返信]

そのうちに編集しておきます…何か月後になるかはわかりませんが。mokumao24 2014年9月20日 (土) 13:03 (UTC)
括弧の位置も含めて編集しておきました。--CCD6会話2014年10月16日 (木) 10:25 (UTC)[返信]
  1. ^ 『桜の歴史』