ノート:聖徳太子
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ここは記事「聖徳太子」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
この「聖徳太子」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2018年12月8日 | 良質な記事の選考 | 不通過 |
セクション名の変更について
[編集]現在のセクション名「日本書紀に見られる記述」から、「略歴」へ変更しました。理由は現在記述されている内容が、『日本書紀(以下、書紀)』の内容を網羅できておらず、また『書紀』以外の史料も参照されているからです。以下、具体的に挙げます。
- 『書紀』の敏達5年の菟道貝蛸皇女との結婚、推古11年の秦河勝への仏像の下賜、同年の大楯などの製作、推古13年の丈六仏像の製作、推古14年の『勝鬘経』講義、同年『法華経』講義と法隆寺への施入、推古15年の神祇祭拝、舒明即位前記の遺戒について記載されていません。
- また、『書紀』に記されている「兼知未然」や「片岡飢人(者)伝説」については、本節ではなく「そのほかの伝説」節に記載されています。
- 敏達天皇3年(574年)生まれと記されていますが、これは『上宮聖徳法王帝説』の「甲牛の年生まれ」を引いたものです。『書紀』に生まれ年は記されていません。また、没年を推古天皇30年(622年)と記していますが、これも『法王帝説』に記載を元にした定説で、(これは補足として記載されてはいますが)『書紀』は没年を621年と記しています。
- 『三経義疏』について触れていますが、これは8世紀の『法隆寺縁起』に記されたものです。
- 「四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。」の記述は、10世紀の『四天王寺縁起』に記されたものです。
なお、「略歴」という名称に拘りがあるわけではありませんので、他の名称への再変更に反対はしません。--あずきごはん(会話) 2022年4月17日 (日) 05:26 (UTC)
Infoboxの聖徳太子画像について
[編集]Infoboxの聖徳太子の画像を、『前賢故実』(明治時代)から、『絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図』(鎌倉時代、太子町)に差し替えました。『前賢故実』の聖徳太子像は服装から『唐本御影』を参考にしてアレンジしたものだと思いますが、それなら『唐本御影』のほうがふさわしいと思います。しかし、『唐本御影』については論争があるので、それを除くならば、もっとも古い時期の聖徳太子の肖像画で重要文化財に指定されている『勝鬘経講讃図』がふさわしいと思います。法隆寺の『聖徳太子勝鬘経講讃図』もありますが、残念ながら劣化が激しく鮮明ではないため、太子町の斑鳩寺の『勝鬘経講讃図』のほうが好ましいでしょう。--薔薇騎士団(会話) 2024年2月21日 (水) 00:20 (UTC)
聖徳太子虚構説の項目の分割提案
[編集]本記事のうち「虚構説とその否定」と「教育における扱い」の項目を新たに新記事「聖徳太子虚構説」として統合して立項し、分割することを提案いたします。虚構説は主として1999年以来、賛否両論の立場から活発に議論されてきましたが、近年でも学界で統一的な見解は得られていない状況です。また、その論点は多岐にわたるため、それらの紹介ですでに当該項目の記事も長くなっております。それゆえ、本記事では概略の紹介にとどめ、「詳細は『聖徳太子虚構説』を参照のこと」といった一文を入れる一方、独立した記事としてさらに追加の情報を加えて充実させるのがいいと考えます。--薔薇騎士団(会話) 2024年9月28日 (土) 00:12 (UTC)
- 賛成 記事の現状を確認し、提案に賛成します。--リトルスター(会話) 2024年9月28日 (土) 07:37 (UTC)
提案から一週間以上が経過し、賛成意見が多数のため、記事を分割し、新たに「聖徳太子虚構説」を立項したいと思います。--薔薇騎士団(会話) 2024年10月7日 (月) 22:45 (UTC)