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ノート:聖ピオ十世会/過去ログA

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叙階の有効性

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根拠の提示のお願い

ポインセチア氏は、編集履歴で「司祭職の有効性には疑義もあり」と書いておられますが、カトリック新聞 2007年7月22日号によれば、横浜教区の梅村司教は「たとえ離教者であっても、有功に叙階された司教が、司教や司祭を叙階してもその叙階は有効です」という見解を出しております。それに対してのポインセチア氏の見解、またはそう主張される根拠の提示をお願いします。--Biyue 2010年8月25日 (水) 14:50 (UTC)[返信]

その記事の全文はhttp://gokyo.ganriki.net/pages/s-2.htmlにあるようですが、ルフェーブル大司教が叙階したピオ十世会の司教は4名いますが、そのうち一名(フェレー司教)の叙階についてローマ教皇庁は許可を出しました。しかし、残り三名については認めずに(叙階強行の後、全員に)破門宣告を出しました。

ところでこの記事には、「有効に叙階された司教が、司教や司祭を叙階してもその叙階は有効です」とあるのですが、これはどのように理解すればいいのでしょうか。少なくともフェレー司教は、教皇庁も同意の下、有効に叙階されているわけですから、フェレー司教がその権限を行使しようと、「司教や司祭を叙階してもその叙階は有効です」という構図は成り立ちます。固有名詞がないのでなんとも言えませんが、フェレー司教と彼の叙階した司祭達について、言及したコメントではないでしょうか。

ところで、小野田圭志を叙階した人物は、フェレー司教ではなく、その叙階をローマ教皇庁によって認められなかったアルフォンソ・デ・ガラレタ司教だと言います。梅村司教の記事には、固有名詞がまったく書かれていないので、様々に解釈できるのですが、小野田神父は教皇庁によって叙階を拒否された、有効に叙階されなかった司教から叙階されていますから、言及の対象の対象外、と考えるべきではないでしょうか。

要するに、梅村司教の文章中には、小野田神父についての言及は一切なく、ただピオ十世会の神父にありがちな一般例について述べており、その文章は小野田神父の司祭職の有効性を証明するものにはならないのではないですか。

これがBiyueさんのご指摘に対する、私の疑問点、ならびにお返事の第一です。

第二に、最近の出来事ですが、米国のカトリックウイノナ教区の事例があります。2009年、破門解除後、この教区において、ピオ十世会が教皇庁の反対を無視して司祭の叙階を強行したところ、現地のカトリック管区は、「教皇庁との関係が回復しない限り、叙階は無効」と宣言しました。この解釈が、カトリックにおいて正しいなら、小野田神父は「教皇庁との関係の回復していない時期」(今もまだそうですが)に、破門中の叙階さえ教皇庁から反対されていた司教から、司祭叙階を受けたのですから、その司祭職は無効、ということになります。

この二点が、小野田司祭の司祭職の有効性に対する疑義の根拠です。--ポインセチア 2010年8月26日 (木) 12:59 (UTC)[返信]


「有効に叙階された司教が、司教や司祭を叙階してもその叙階は有効です」という解釈の仕方についてお答えします。ポインセチア氏はローマ教皇庁の同意を司教叙階の有効性の根拠であるとお考えのようですが、その同意自体は叙階の有効性そのものには影響を及ぼしません。以下に現在もカトリック教会(つまりローマ教皇庁)との関係の回復していない聖公会正教会の二つの例を挙げさせて頂きます。

聖公会の場合は、教皇レオ13世の回勅「アポストリチェ・クーレ・エト・カリタティス」(Apostolicae Curae et Caritatis)[1][2]により、聖公会の叙階が無効であると宣言されています。ですが、これはヘンリー8世首長令によりイギリスのカトリック教会がローマから離れた(即ち司教の叙階に教皇庁の許可を取らなくなった状態)からそう判断されたのではありません。それは、ヘンリ-8世の後継者であるエドワード6世の時代に導入されたトマス・クランマー大主教による典礼改革によって秘蹟を有功たらしめる要素が欠けていると判断されたためです。

正教会についてですが、1054年の東西教会の教皇と総主教の相互破門よる分裂後は、正教会もやはり教皇の同意無しに主教を叙聖してきました。それにもかかわらず、当時教理省長官であった教皇ベネディクト16世が出した教皇庁教理省宣言『ドミヌス・イエズス』でも正教会の使徒継承(主教の叙聖)の有効性を認めています。

カトリック教会と完全な交わりの中にあるのではないが、 使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会(注:正教会を指す)も真の個別教会である。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。神の意志によりローマの司教が客観的に有し、全教会に行使する首位権についてのカトリックの教理を受諾しないということで、カトリック教会との充満する交わりに欠けるところがあったとしても、そうである[3]

なお、現行の教会法844条第2項には「いかなる時でも、必要性が生じるか真の精神的便宜に繋がり、かつ誤謬や無関心の危険が避けられるならば、カトリック教徒が身体的または道徳的にカトリック聖職者に近づく術が無いか又は非常に困難な時、秘蹟の有効な非カトリック教会の聖職者から告解、聖体、終油の3つの秘跡を受けることが許される」[4]と規定しています。

  1. ^ On the Nullity of Anglican Orders Apostolicae Curae Promulgated September 18, 1896 by Pope Leo XIII
  2. ^ 1896年9月13日:教皇レオ13世の Apostolicae Curae et Caritatis
  3. ^ 教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』和田 幹男 訳
  4. ^ Code of Canon Law PART I.THE SACRAMENTS

以上です。--Biyue 2010年8月27日 (金) 15:25 (UTC)[返信]

少し論点整理を。 まず「司祭職遂行の適法性」と「叙階の秘跡の有効性」とを分離して考えることが肝要。そういう意味では、梅村司教の指摘は正にカトリック神学の正統に基づいた明快な発言。一旦、使徒継承等の条件を満たしつつ有効に叙階されたことのある司教が自ら他に司教や司祭を叙階しても、その「叙階の秘跡」自体は「有効」である。それはたとえその司教自らが離教者になってしまった人であっても。しかし教会法的に見て、離教者の司教はもちろんのこと、その離教者によって(教皇の承認を得ず、即ち「違法」に)叙階された司祭達は、教会内で自由に職務を遂行し活動することは許されない(「職務停止状態」)。それ故実質的に「司祭の職務」に関しては法的効力を発揮しないのである。しかし、その当事者は「司祭」に叙階された身分であるに他ならない故、教皇庁との関係が回復し活動許可が下りた時点で、すぐさまに、即ち「司祭叙階」の手続きを踏まずに司祭職の実質的な有効性を発揮することが出来るのである。

要するに「秘跡は有効」と「行為は違法」が両立するという考え方である。

勿論、小野田圭志について言うならば「叙階」は有効。しかし「聖ピオ十世司祭兄弟会」が教皇庁から完全に認められない限り、小野田氏自身もカトリック教会内に於いては司祭として正式に、即ち合法的に職務を遂行出来る筈が無いのである。--Sonus peregrinus会話2013年3月12日 (火) 04:55 (UTC)[返信]

「聖座」から「教皇庁」への置き換えについて

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記事本文において、「聖座」を「教皇庁」に置き換えました。「聖なる司教座(主教座)」(英語: Holy See)という表現はアルメニア使徒教会コプト教会でも使われるものであり、ローマ教皇庁だけを指すものではありません。「教皇」については、「パパ」はアレクサンドリア総主教の称号でもありますが、「教皇」という訳語は専らローマ・カトリック教会における訳語として自他共に使われていますから、正確かつ中立的でしょう。置き換えの理由につきましては以上です。後程「聖座」の方も加筆しておきます。--Kinno Angel会話2013年1月20日 (日) 11:30 (UTC)[返信]

宣伝文書的性格があるとの疑義

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2013年1月20日(UTC)~2013年1月28日(UTC)

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ピオ10世会の活動は、「カトリック教徒が身体的または道徳的にカトリック聖職者に近づく術が無いか又は非常に困難な時」という教会法上の規定に合致しておらず、ローマ法皇の権威に服従しない聖職はカトリックではありません。この記事全体が、カトリックの聖職が接触を禁じられているルフェーヴル一派の宣伝文書のようなものになっており、大変不都合なものです。日本にはカトリックは少なく、こうした委細を知らないことを利用した宣伝文書的性格は、日本のカトリック教会に誤解を与えるものであり、全面的な書き換えが必要と思われます。Tizizano会話2013年1月20日 (日) 01:23 (UTC)[返信]
コメント 節タイトルを付けさせて頂きました。
さて、ルフェーブル派に近い考えを持つと思われる方による記事内容への疑義は、「ミサ」でも出されていた事がありました。記事「ミサ」の場合、内容の重要性からもローマカトリック教会のスタンダードをまずベースにするべきなのは議論の余地は無いと思われます。しかしながらルフェーブル派につきましては、基本的に「両論併記」が望ましいのではないでしょうか。
ただ、現状でも
  • 教皇ベネディクト16世は、規律上というより教理上の理由により、聖ピオ十世会はカトリック教会の中に法的地位を持っておらず、その聖職者は、教会内の不法な聖職者によって養成されている、と宣言している
  • 同会に属する司祭達は離教状態にあるとされ、現在ローマ教皇庁によって「聖職停止」の処置を受けており
  • 告解や結婚の秘跡は無効
  • (フェデリコ・ロンバルディ神父は2009年3月のベネディクト16世の声明云々)
など書かれており、「宣伝文書」との御懸念を示すほど同会の見解に偏ったものとは思えないのですが…。--Kinno Angel会話2013年1月20日 (日) 11:30 (UTC)[返信]
「ローマ法皇庁から未認可のカトリック修道会」などという表現自体が形容矛盾であり、カトリック内には、バチカンの認可しない修道会は存在しません。つまり、「聖ピオ十世会」は、カトリック教会とは何ら関係のない任意団体であり、「未認可のカトリック団体」などあり得ないということが明記されるべきと思う次第です。Tizizano会話2013年1月21日 (月) 10:40 (UTC)[返信]
ローマ法皇庁から未認可のカトリック修道会」これは、ローマカトリックからすればその通りと思われますが、たとえば復古カトリック教会独立カトリック教会などが現実に「カトリック」を名乗って居る以上、「教皇庁からの認可を受けて居ない自称カトリック団体」は現存するという意味合いでは、一般百科事典では(残念ながら?)認められてしまう表現だと思います。
加えて、聖ピオ十世会がどう主張しているのかを両論併記するとしたら、この表現を完全削除するのは難しいでしょう。
他方、復古カトリック教会と聖ピオ十世会にも勿論違いはありまして、前者はそもそもローマ教皇庁からの認可を欲して居ないのに対し、後者は欲している(場合によっては片言隻句も「認可」と解釈したがっている)という違いはありますので、私も完全に同列に扱うべきだとは思いません。
「「未認可のカトリック団体」などあり得ない」という表現を、教皇庁ないしカトリック中央協議会の公的出版物等を出典として、「(教皇庁の考えでは、もしくはローマカトリックにおける主流派の考えでは)「未認可のカトリック団体」などあり得ない」と書くことは可能だと思います。
蛇足ですが、こうした問題はローマカトリック特有ではなく、たとえばキエフ総主教庁についてどう書くかという問題もありまして、「全世界の主流派正教会がその独立正教会位を認めて居ない」としても、ウィキペディアでは「当該団体は地位を主張しており、一応それをメインとして書きつつ、全世界の主流派正教会がその独立正教会位を認めて居ないことも併記する」が妥当なラインなわけです。--Kinno Angel会話2013年1月21日 (月) 14:11 (UTC)[返信]
「復古カトリック」と「聖ピオ十世会」も、ともに公会議決定を認めない立場から破門された団体であり、正教会やプロテスタントの分派とも違います。つまり、カトリックには「主流派」とか「分派」などという区別は存在せず、両者ともカトリックの「外部」にある存在ではないかと思います。特に上記 Biyue 氏の見解は言語道断であり、カトリックの聖職の有効性に関するまったくの誤解です。教皇の回勅、公会議決定、カトリック法に基づかない除階は、すべて無効であり、中国の愛国教会も同じです。日本にはカトリック信者は少なく、現今の記述では、プロテスタントのように、カトリック内に分派が存在するような誤解を与えかねないと危惧致します。Tizizano会話2013年1月21日 (月) 21:27 (UTC)[返信]
どう書けば良いのかという問題が出て参ります。「カトリックではない」と明言しますと教皇庁POVになります。聖ピオ十世会の言い分も書かないとNPOVを達成出来ません。その意味で、「分派が存在するかのような誤解を与えかねない」についてですが、「内部」に分派が無い、というのはローマカトリック・教皇庁の言い分としてはその通りだと思いますが、現象として現実に「内部に存在する事を主張する団体がある」というのは事実でしょう。
「内部に分派がある(ことが争いの無い客観的事実である)かのような誤解を避ける冒頭文」として、改善案を提出します。この微修正で足りると考えます。
  • (修正前)聖ピオ十世会(括弧内省略) は、カトリック教会の伝統擁護を標榜する、現時点ではローマ教皇庁から未認可のカトリック修道会である。
  • (修正案)聖ピオ十世会(括弧内省略) は、カトリック教会の伝統擁護を標榜する、ローマ教皇庁から未認可の組織である。
修正案のポイントは二点です。
  • 「現時点では」は、そもそもWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに反して居まして、NPOVの問題が無くとも問題ある表現です。聖ピオ十世会側の立場からすれば「将来認可される可能性に含みを持たせたい」心情が感じられますが、事典に相応しい記述方法ではありません。単純削除で良いでしょう。
  • 「カトリック修道会」についてですが、「カトリックかどうか」について教皇庁と聖ピオ十世会の間に見解の相違がある以上、注釈抜きにこうした表現を使うのは聖ピオ十世会POVになり得ると言えなくもありません(ただ同様に別ケースに適用すると、たとえばキエフ総主教は「自称総主教」とでも書く事が可能もしくは適当という話になり、それはそれでウィキペディアにおいては問題があると私は思います…あくまで本件のように「カトリック」が問題になる場面での話、と限定したいところです)。英語版を見ますと「修道会」という表現にはなっていませんし、ここでは「組織」で良いと思います。
加えて、本件で合意が成れば、記事キリスト教のように、「本記事の冒頭文はノートでの議論を経て作成されています。冒頭文の変更をされる際にはノートでの議論経緯を踏まえ、大幅な変更を行う場合にはノートで議論を提起して下さい。特に、付与された出典を無視して出典に無い文章・情報を書き加えることは無いよう御注意下さい。」との告知を貼り付ける事も併せて提案します。--Kinno Angel会話2013年1月21日 (月) 23:57 (UTC)[返信]
本記事の冒頭文は・・・・御注意下さい。」は現段階では不要かと思います。なぜなら、まだ編集合戦が起きていないですので、緊喫の必要性がありません。シンパや批判側などが編集を繰り返し、混戦状況になってきたら、その時、冒頭に提示を考えればいいのではないでしょうか。もし新情報が出てきて、冒頭をちょこっと編集したい、となった場合、そのたびに毎回ノートに諮って許可を求めねばならず、編集の自由度を大幅に損ねてしまいます。--Michael tiara会話2013年1月22日 (火) 15:31 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、Michael tiara さん、こんにちは。
Kinno Angel さんのバランスの取れたご意見に賛成致します。キリスト教界全体から見ると「聖ピオ十世会」は、極右的な政治活動が人目を引くだけの取るに足らない勢力なので、編集合戦などするつもりはさらさらございません。お手数ですが、お手すきの折にKinno Angel さんに加筆して頂ければ幸甚でございます。Tizizano会話2013年1月22日 (火) 23:54 (UTC)[返信]
報告 取り敢えず、Tizizanoさんから賛成を頂きましたので、提案通りの修正をさせて頂きました。また、Michael tiaraさんの御異議は御尤もと思いましたので、現時点では冒頭告知テンプレの添付は行いません。--Kinno Angel会話2013年1月23日 (水) 08:48 (UTC)[返信]
遅ればせながら、みなさまの議論を拝見しました。私自身、以前「ミサ」の記事で聖ピオ十世会のシンパと思われる編集者の偏った編集に頭を悩ませ、kinno Angelさんから叱咤激励されながら編集を行ったことがあり、またこの記事本文の編集も行ったことがあるのですが、Tizizanoさんの「「復古カトリック」と「聖ピオ十世会」も、ともに公会議決定を認めない立場から破門された団体であり、正教会やプロテスタントの分派とも違います。つまり、両者ともカトリックの「外部」にある存在ではないかと思います。特に上記 Biyue 氏の見解は言語道断であり、カトリックの聖職の有効性に関するまったくの誤解です。」というご意見は、ごもっともだと思います。以前の編集時にはそこまで気づきませんでした。それらの議論をふまえて本文ページの編集を行いました。冒頭文に、1975年の「同会をカトリック教会内の団体とは見なさない」という決定から1988年の司教破門、そして現況を簡単に述べ、歴史の節では時系列にあわせて記述を入れ替えました。また、本記事がCategory:カトリック教会の修道会にカテゴライズされていたのを外しました。ご確認のうえ、問題や不備な点は適宜修正していただきたいと思います。--Lorettibarrend会話2013年1月24日 (木) 09:00 (UTC)[返信]
適切にご訂正下さり、ありがとうございます。戦犯をかくまったり、ホロコースト否定論を展開したり、ル・ペンの「国民戦線」を支持したりするトンデモ団体に「カトリック」などという形容詞を冠すれば、正規の洗礼を受けたカトリック信者は呆れ果てると思います。「中立」とは、価値判断に係わる表現を避けることだと思いますが、両論併記ですと、カトリック内に近代派と伝統派というセクトがあるかのような印象を読者に与えかねないと危惧致します。仏語版には多くの研究書や論文も枚挙され、このトンデモ団体が引き起こした不祥事も詳細に書かれていますね。しかし、フランスならともかく、日本にもシンパがいるというだけでも驚きです。インターネット上で閲覧できる、ハーバード大学のアイヴァン・ギャスケル講師による「複製技術時代以降のキリスト教の奇跡像を求めて」のなかでも、ルルドの洞窟の画像がSSPXのサイトから引用されており、職業的研究者のなかにも自覚に欠ける者がいることは看過できない問題だと思います。Tizizano会話2013年1月25日 (金) 02:09 (UTC)[返信]
中央協議会に電話で聞いたところでは、教皇庁と話し合い中の団体ですので・・・という感じです。少なくとも、以前は結構同情的な感じで話していました。聖座は戻ってきなさいと破門も解除して手を差し伸べているのですが、彼らはかたくななので、どうたら、と。聖ピオ十世会がカトリックの外にあるのか内にあるのか、については、既に議論が存在し、一部は聖座等のいろんな責任部署(エクレジアデイ委員会長官だったり、枢機卿だったり)の声明、研究、インタビュー等として文字情報化されていますので、それらをまずは参考に文案を練っていくべきだと思います。また英語版等、他言語版を参考にするのもいいかと思います。--Michael tiara会話2013年1月25日 (金) 09:39 (UTC)[返信]
Michael tiara さん、こんにちは。「トリエント・ミサ」の執行に関しては、現在でもまれに行われていますが、「ラテン語使用の厳守」に関しては公会議決定がまったく正しく、ルフェーヴル一派とは決して妥協できない点であり、また妥協すべきでもないと存じます。ラテン語使用は、古代のキリスト教がローマ帝国領内で発展し国教になったという歴史的偶然に依拠した事柄に過ぎず、ルフェーヴル一派は、西欧中心の植民地主義的発想にもとづくニセの「カトリコス」(普遍性)を追求しているのだと思います。アンテグラリストたちが、西欧のナショナリズムに結びつくのは、ある意味で必然的な錯誤ではないでしょうか。Tizizano会話2013年1月25日 (金) 11:22 (UTC)[返信]
(インデント戻します)取り敢えず、聖ピオ十世会の正当性については論じず、ウィキペディアの記事として何が適切か、に絞ってお話しした方が、拡散せずに済むと思います。
また、「ローマ教皇庁と結びついている団体なのか」「カトリック内にあるかどうか」について、両論併記することで「カトリック内に近代派と伝統派というセクトがあるかのような印象を読者に与えかねない」というのは、杞憂だと思いまが…。--Kinno Angel会話2013年1月26日 (土) 12:18 (UTC)[返信]
最初のご指摘はその通りだと思います。「ローマ教皇庁と結びついている団体なのか」についてはノーであり、「聖職禁止」処分がなされています。「カトリック内にあるかどうか」についてもノーであり、カトリックの聖職者は接触を禁じられています。Tizizano会話2013年1月26日 (土) 23:02 (UTC)[返信]
コメント えーっと、すみません、仰る事はローマ教皇庁側の言い分、ということですよね?勿論それも書くべきです。場合によっては何度も書いて強調しても良いでしょう(程度問題はあるかと思いますが)。ただ聖ピオ十世会側の言い分も書かないと、これはJAWP的にNPOVの観点から宜しくありません(どんな弱小団体でもどんなトンデモ団体でも、一応はその団体の言い分も書く、というのがウィキペディアのシステムの帰結です)。
…いや、心情面は「お察し」申し上げるのですが、それを言い出すと、(極論ですが)正教会も正教会とは呼ばれないということになりかねませんので…たとえばカトリック教会のカテキズムでは正教会は「東方教会」とのみ書かれています。ローマカトリックは自分こそカトリックかつオーソドックスかつアポストリックと考えて居ますので、他者を呼ぶのには限定不十分になるのですね。逆に正教会の公式文書では、カトリックを「ローマ教会」よくて「ローマカトリック」と書いています(ローマカトリックと逆の事情です)。また非カルケドン派については、ギリシャ正教系の正教会からは正教とは厳密には認められませんが、しかし彼等も同じく"Orthodox"を自認していますので、ウィキペディアでは正教会に入っています。
…うーん…ただこの記事に(そして記事が対象とする本体にも)私も思い入れはそんなに無いんです(詳しくありませんし)。ですので一応、「NPOVからこれは気を付けなければならないのでは」という意見を申し上げるに止めます(それが私の全ての記事における編集姿勢から導き出される帰結でもあります)。基本的に西方教会にお詳しい皆様で御話合い頂きたいと思っております(投入出来る私の余裕も最近どんどん減って居ますし)。もし聖ピオ十世会シンパの編集者と編集合戦・激論になったら、僭越ながら第三者的意見を述べに来るかもしれませんが…。--Kinno Angel会話2013年1月28日 (月) 08:58 (UTC)[返信]
とりあえず、私はピオ十世会の支持者ではないつもりですが、彼らのミサ等に参加したことはないですし、彼らについて疑問に感じるところもあります。ですから、彼らにやや批判的な政治的志向だったり、ポール・トゥビエの記事をわざわざ翻訳して載せたりもしたのです。が、彼らがカトリックの外にあるか内にあるか、については議論があり、教皇庁が果たしてそう言っているか、を論証するのもできる可能性もありますが、資料を揃えたり突き合わせたり、結構複雑な作業と手間が要るとは思います。聖座は聖座で、一方では第二バチカン公会議受け入れを条件に使徒座特別管区を仄めかしたり、彼らを手招きしようとはしているみたいなんですよね。そして、彼らは諸宗教対話・エキュメニカルの対象になってはいないです。また彼らがカトリックの完全に外にいるなら、彼らのミサが主日の義務を果たし得る可能性は全くないでしょうが、現状条件付きでそれが可能と、枢機卿は発言しています。要するに、ローマ教皇庁が、彼らをカトリックでないと声明しているのか、断言するのも現状では疑義もあると私は思います。また時間を作って、多少書かせて頂きたく思いますが・・・--Michael tiara会話2013年1月28日 (月) 10:24 (UTC)[返信]
Michael tiara さん、こんばんは。ベネディクト16世がルフェーヴル派の4名の司教の破門の解除に言及した書簡は、以下のものですが、法皇は、「第二ヴァティカン公会議が教会の教義史全体を包括するものであることが想起されなければならない」と明確な条件を付け、立て続けに公会議決定への服従を要請しているのですから、他ならぬラテン語典礼の義務を初めとする逸脱的教義にルフェーヴル派が固執している限り、この破門解除は成立しないものではないでしょうか。

http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/letters/2009/documents/hf_ben-xvi_let_20090310_remissione-scomunica_fr.html

Cependant, à certains de ceux qui se proclament comme de grands défenseurs du Concile, il doit aussi être rappelé que Vatican II renferme l’entière histoire doctrinale de l’Église. Celui qui veut obéir au Concile, doit accepter la foi professée au cours des siècles et il ne peut couper les racines dont l’arbre vit.Tizizano会話2013年1月28日 (月) 10:54 (UTC)[返信]

2013年2月5日(UTC)~2013年2月9日(UTC)

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Michael tiara様からこちらのノートのことを知らせて下さいましたが、返事が遅れまして、すみません。実は、宣伝文書的性格があるとの疑義という点に関してはTizziano様と同意見です。

ただし、反対側からの宣伝文書という意味ですが。例を挙げますと、先ずTizizano様は「復古カトリック」と「聖ピオ十世会」も、ともに公会議決定を認めない立場から破門された団体であると主張されますが、これはローマ教皇庁側の見解とは異なります。私が以前編集し、Tizizano様が削除されたローマ教皇庁側からの聖ピオ十世会に対する発言を再度載せます。

2007年、前聖職者省長官ダリヨ・カストリヨン・オヨス枢機卿は、「聖ピオ十世会の司教、 司祭、信徒は離教者ではありません。会の司祭と信徒達は破門されていません。彼等は 異端者ではありません。」と発言している。

私はここは聖ピオ十世会に好意的に見えるからといって削除するべきではないと思いますが、いかがでしょうか?

それから、叙階の有効性です。

上記 Biyue 氏の見解は言語道断であり、カトリックの聖職の有効性に関するまったくの誤解です。教皇の回勅、公会議決定、カトリック法に基づかない除階は、すべて無効であり、中国の愛国教会も同じです。

この理屈を適用しますと、正教会の叙階は無効であり、したがって聖職者による聖変化も無効となってしまいます。それに、レオ13世教皇様も教皇書簡『アポストリチェ・クーレ(Apostolicae Curae)を出さないはずです。

以上が私の見解です。--Biyue会話2013年2月5日 (火) 12:23 (UTC)[返信]

コメント カトリック教会の教会法に完全に暗いので、判る範囲についてのみ申し上げます。
  • まず、「機密として有効であるが、領聖出来ない」という状態は、正教会では有り得ます。
  • ローマカトリック、聖公会、一部プロテスタントの洗礼は有効と看做され、有効な場合は帰正を経るわけですが、洗礼のやり直しはありません。他方、正教会は西方教会とはフル・コミュニオンには無い状態であるため、領聖は出来ません。
  • ローマカトリックの司祭が正教会に帰正した場合、神品機密を受け直しません。ローマカトリックでの叙階は神品機密として有効です。しかし正教徒がローマカトリックのミサで領聖することは認められません(近所に正教会が全く無いなど余程特殊な例外では認められる場合があるという話を聞いたことはありますが、あくまでこれは例外です)。
つまり「叙階が有効かどうか」「破門されているかどうか」「その地位が認められているか」「その主張内容が認められているか」は、少なくとも正教会では全て別次元です。カトリックの教会法でそのような事が有り得るのかどうか全く存じませんが…。
記事作成にあたっては、それぞれについて「叙階が有効かどうかについての両論併記」「破門についての両論併記」「地位についての両論併記」「主張内容についての両論併記」をすれば宜しいのではないかと、門外漢から提言させて頂きます。--Kinno Angel会話2013年2月5日 (火) 12:49 (UTC)[返信]
叙階の有効性と破門については、ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で争点は存在しません。叙階自体は有効であり、破門解除も教皇庁が正式に宣言し、多くのメディアが報ずるところです。よってこの二点については、単に事実を書けばよく、両論併記の必要はないと思います。見解が分かれるのは、Kinno Angelさんがご指摘のうちの後者の二点、及び、一部の秘跡(告解・婚姻)の有効性についてです。よって、両論併記を行うとしたらこの二~三点についてすればいいかと思います。また、ホヨス枢機卿のそのコメントを載せることには私は賛成ですが、その文章は全文ではないのです・・。というか、前後の文章を掲載してしまうと、結構ニュアンスが違ってきてはしまいます。よって、載せるとしたらその箇所だけではなく、その前後箇所も載せるべきでしょうか。--Michael tiara会話2013年2月7日 (木) 08:45 (UTC)[返信]
Biyue さん、こんにちは。
この項目を削除せよとは申しておりません。しかし、一枢機卿の個人的見解は、カトリック教会全体の決定ではありません。また、バチカンが認めない叙階はすべて無効であり、そもそも一般のカトリック司祭は、ルフェーヴル一派との接触さえ禁じられています。そして、「破門が解除された」ことと「除階が有効」云々は、まったく位相の異なる事柄が混同されていますね。さらに、カトリックと正教会の事情は同じではありません。先に引用した法皇書簡は、ルフェーヴル一派に対し明確に公会議決定に従うことを求めています。外部リンクには、パスワードを入力しなければ入れないサイトまで載っており、この項目の骨子を書いた、トンデモ集団のシンパの意図は明白ではないかと思います。そもそも「いかなる聖職行為も教会の中で合法的には行えない」ルフェーヴル一派に関して「一部の秘跡(告解・婚姻)の有効性」など問題外であり、そのような記述を付加してしまえば、少しずつ譲歩を引き出して、いつの間にか、ルフェーヴル一派がカトリック内のオプス・デイのそのまた右にあり、保守派のなかのグラデーションの違いにすぎないと思わせる連中の策謀にまんまとひっかかってしまいかねません。この項目の第5節に「外部の支持者」とあるように、SSPXがカトリック教会の「外部」の組織であることは、この記事の骨子を作ったルフェーヴル一派にさえ自覚があるわけです。また、この記事の脚注の付け方は不備かつ非常識なものであると思います。Tizizano会話2013年2月7日 (木) 10:55 (UTC)[返信]
失礼ですが、Tizizanoさんはカトリックを擁護したい・・・みたいな発言をされておられますが、カトリック信者でいらっしゃいますか?いえ、カトリック信者以外は編集権がない、とか、編集から排除したい、と言っているわけではありません。そうではなくて、議論する相手が信者かそうでない人か、では説明しなくてはいけない事柄や分量が違ってきてしまうことがありますので、気になって、確認の為に伺っています。ちなみに私は普通の小教区に所属するカトリック信者です。これまでに、聖ピオ十世会のミサ等行事には一度も参加したことはありません。なぜこんなことを聞いたかといいますと、「法皇」という言葉は、カトリックの中ではまず使いません。誰でも、教皇、教皇様、パパ様などと呼びますが、稀に法王と呼ぶ方もいますが(古くは、教皇と法王と両方教会内の用語としてありました。しかし、戦後ある時期に、カトリック中央協議会は教皇を正式な呼称と決め通達、指導しています)、法皇という字を使う方はまずいません。信者でない方ではないか、と思ってしまいましたので、上記の意味もあって確認のため聞きました。よろしければ、お答え下さい。教皇庁が破門解除を通達しているのに、「破門は解除されてないと思う」とか、信者にしてはあり得ない解釈を続けてなさっているんですよね。カトリック信者であるなら、教皇様の決定は絶対です。だからこそのカトリックなのであって・・・--Michael tiara会話2013年2月8日 (金) 08:25 (UTC)[返信]
Michael tiara さん、こんばんは。その通りです。パリ外国宣教会の司祭から正規の洗礼を受けたカトリック信者です。ただ、幼児洗礼ではないので、バチカンの首長に対する呼称はどれも使います。所詮翻訳語なので使い分けに特に深い意味はありませんが、自分をいかにも敬虔深く見せる「パパ様」(様は余計)などという呼称は好みません。論文や記事を書くときは、Michael tiara さんのご指摘のように「教皇」と書きます。職業的研究者でもありますので、ルフェーヴル一派などヨーロッパの反動思想に関しては比較的通じております。先のフランス人の司祭から直接にルフェーヴル一派とカトリック司祭が接触できない旨うかがいました。聖ピオ十世会がカトリックを僭称しているわけですから、両論併記というのは、いよいよ不都合ではないかと愚考致します。また、先の教皇書簡にあるように、破門解除とは、「公会議に従おうと思う者は、幾世紀にわたり告白されてきた信仰を受け入れるべきであり、生ける木の根を断ち切ることはできない」という具合に公会議決定を受け入れることを条件としているものであることは見逃すわけには行きません。私が申し上げたいのは、破門解除が決してカトリックが典礼におけるラテン語常用など聖ピオ十世会の誤った主張などを認めたわけではないこと、またこの記事の註記の付け方のデタラメさです。この記事の註記には引用だけあり、その典拠が示されていないものがいくつもあります。すべての引用に典拠が必要だと思います。例えば、「しかし聖ピオ十世会側は、ローマ教皇庁は、その存在と使徒職の合法性、有効性についていくつかの承認を与えた、と主張している」などは記事の日付も文責者名も書いてありません。引用の際の基本的な所作がまるでわかっていないこの記事は、学部の学生のレポートとしても不可だと思います。Tizizano会話2013年2月8日 (金) 08:56 (UTC)[返信]
お答え頂き、ありがとうございます。脚注については申し訳がないですが、もしTizizanoさんが不備であると思うなら、それをWikipediaのルールからお選び頂けないでしょうか。ここは研究誌でも論文、レポートでもなく、Wikiルールに従って運営されている空間です。確かに大学で習う注や参考文献の書き方はTizizanoさんのご指摘の通りですし、私も自分の卒論などでは当然、年、著者名はつけましたが、Wikipediaはフリー百科事典で、要するにもう少し敷居が低く、端折って簡略に書くケースも多いです。それは、この記事の英語版などをご覧になれば、お察し頂けると思います。といっても検証可能性を満たしていなければいけませんが、大雑把に言えば、出典が特定可能かつ検証可能性があることが客観的にわかれば可なのです。ですから、多くの記事で、例えば出典とするのが紙媒体なら書名、出版社名、そしてページ数などは書いても出版年などは面倒なので端折ってしまっているケースもあり、それでも記事が削除対象になっているケースはまずありません。また破門についてのご指摘ですが、日本語訳の全文はこちらに、英文はこちらにありますが(ご指摘の箇所も確認しましたが)、全文、前後の文脈をどう見ても、破門解除の条件が公会議の受け入れ、とはなっていないようです。ただし、聖務停止解除の条件となっていることは確かです。ですので、本文ではそのように書けばいいでしょうし、実際そう書かれていますからそれでいいのではないでしょうか。--Michael tiara会話2013年2月8日 (金) 14:22 (UTC)[返信]
しかし、失礼ながらパリ外国宣教会での洗礼など、今の日本で受けれるでしょうか?かつて明治期に日本において宣教をした団体、としては有名ですが・・・。そもそも小教区以外での洗礼など、あまり聞いたことがないのですが。また「正規の洗礼」という言い方も不思議に思います。洗礼に正規も不正規もないと思うが・・・というか、こんな言い方をカトリック信者は普通しない。「教皇」が日本文で書く場合の正式名称であることを知りながら、敢えて「法皇」と書くところも不思議です。試しに「ローマ法皇」でご検索ください。それがいかに不思議な単語かわかります。まあ蛇足的な話題にはなってしまいますが、回答されたくないならそれでもいいですが、書く時は事実を書いて頂きたいです。--Michael tiara会話2013年2月8日 (金) 14:57 (UTC)[返信]
Michael tiara さん、こんにちは。二つの件がありますが、最初の点は、最後の3行が入っていれば同意です。ルフェーヴル一派には、公会議決定を受け入れない限り、聖務を執行する権限がないのです。しかるに、フランスでも日本でもいまだに勝手放題をやっており、この点は強調されなくてはならないでしょう。「現在ローマ教皇庁によって聖職停止の処置を受けており、したがって、司祭であることには違いないが、ミサや洗礼などその職務は禁止されている状態にある。教会法的には彼らの執り行うミサは有効であり」などという記述は、まともな知性のある読者なら誰でもおかしいと思うでしょう。「聖職停止の処置を受けて」いるということは、聖務を執行してはならないということですからね。二つ目の件は、どう見ても誤解されているのではないでしょうか。「パリ外国宣教会での」洗礼と「パリ外国宣教会の司祭」からの洗礼はまったく異なることであり、日本の小教区にはパリ外国宣教会所属の司祭もイエズス会の司祭もフランチェスコ会の司祭もいくらでもおります。 Michael tiara さんは、おそらく関東在住ではないのでしょう。東京のカトリック信者なら誰でも知っていることであり、日本管区長はオリヴィエ・シェガレ神父様(麻布教会協力司祭)です。他にも、指紋押捺問題などで問題提起されたコンスタン・ルイ神父様(志村教会主任司祭)とか、日本語の達人がたくさんおられますね。なおご不審なら、東京司教座か M.E.P. の日本本部か、シェガレ神父様がおられる真生会館にでも直接電話されて下さい。彼らはこれまでも、多くの日本人に洗礼を授けてこられました。また、パリには多くの日本人がおりますから、バック街の「パリ外国宣教会での」洗礼も可能ではないかと思います(面倒なので実際にあるかは疑問ですが)。つぎに「正規の」と付け加えたのは、どうもあなたが疑念を持たれているからアクセントを付けただけで、それ以上の意味はございません。それから、「カトリック信者であるなら、教皇様の決定は絶対です」というのは、聖職の上長への服従の請願と一般の信徒の考え方に誤解があるのではないでしょうか。「有効だが正規の手続きを踏まずに叙階」(ordonnés validement mais non légitimement)された司祭と称する徒輩に関して、これまでもカトリック教会内でさまざまな議論がなされてきたのは当然ですが、そもそも回勅や公会議決定などの大枠に不満があるなら、そもそも洗礼など受けません。これで回答になりましたでしょうか。この記事のダメな点は、少なくとも数十冊以上はあるルフェーヴル一派に関する研究書の一冊も参考文献として挙げられていないところだと思います。Tizizano会話2013年2月8日 (金) 18:17 (UTC)[返信]
さきほど、『カトリック教会情報ハンドブック2013』カトリック中央協議会のp.94にパリ外国宣教会の住所・電話番号が載っていたので電話をして確認させて頂きました。この団体は団体として、未信者に洗礼を施してはおらず、小教区を持ってもおらず(というか日本では修道会が小教区を司牧することはあり得ないと思いますが)、確かに小教区に司祭を派遣しています。しかしそれは東京大司教区内では一か所、志村教会のみ、とのことです。
日本の小教区にはパリ外国宣教会所属の司祭もイエズス会の司祭もフランチェスコ会の司祭もいくらでもおります。
ですから、最前者に対してはこんなことはあり得ないわけです。日本でカトリックを明治時代に布教した団体として有名ですので、キリスト教史を知っている人ならこの団体の名前くらいはわかります。逆にカトリック信者の中においては、知名度はとても低いんですよ。滅多に耳にすることのない団体です。キリスト教史を勉強することがあって初めて、出てきます。
「法皇」とか「「パパ様」(様は余計)」とかカトリック信者にしては、不自然な単語を並べられていますので、随分変だなぁと思っていましたが、おかしいですね。幼児洗礼でなくても教皇という言葉は誰でも使います。法王では勉強会で訂正される可能性が高いし、まして法皇なんてあり得ません。
ただ、幼児洗礼ではないので、バチカンの首長に対する呼称はどれも使います。所詮翻訳語なので使い分けに特に深い意味はありませんが
いえ・・・「使い分け」なんかしていないです。「バチカンの首長に対する呼称はどれも使います」こんなこともあり得ません。教皇一本です。私も相当数の信者の知人はいますが、全員教皇様かパパ様、一名だけ法王様と言っていた聖母の騎士修道会が好き?な方がいました。要するに法王でさえ本当にレアです。どうやら嘘がばれてしまったようですね。--Michael tiara会話2013年2月9日 (土) 00:38 (UTC)[返信]

2013年2月10日(UTC)~2013年2月12日(UTC)

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水差し コメント
えーーーっとですね(インデント戻し)
正直、お二人がカトリック信者かどうか、は記事作成に当たって問題になりません。カトリックの信者だから教会法に通暁しているとは限らないし、カトリックの信者でなくとも信者より教会法を知る人も存在し得ます。
論じられるべきは記事「聖ピオ十世会」がどのように書かれるべきかのみです。
さて
私から申しますと、「破門は解除」「秘跡は有効」しかし「批判的に言う人は極めて多いし、距離を取れと指導する人が大半」という状況は「有り得る」というのが私の感覚です。
Tizizanoさんは「司祭であることには違いないが、ミサや洗礼などその職務は禁止されている状態にある。教会法的には彼らの執り行うミサは有効であり」などという記述は、まともな知性のある読者なら誰でもおかしいと思うでしょう。「聖職停止の処置を受けて」いるということは、聖務を執行してはならないということですからね。」と仰いますが…
前半についてですが、似た表現を使いますと、「ローマカトリックの司祭も司祭であることには違いないが、聖体礼儀や洗礼などその職務を正教会で行うことは出来ない状態にある。」と書けば、正教会の見解そのものです。私はこの前半部分につきましては、全く違和感なく「なるほど、そうなのかな」と思い、すらすら読んでしまいました(もちろん論争の多い対象ですしウィキペディアの記事ですから「異論もあるかもしれないし間違っているかもしれない」という留保付ではありましたが、「有り得ない、ナンセンス」とは思いませんでした)。
後半についてですが、「教会法的には彼らの執り行うミサは有効であり」というのは、たとえば「聖変化した聖体をぞんざいに扱ってはならない」といった結果が生まれるという意味で「有効」なのか、陪餐しても良いという意味で「有効」なのか、表現が曖昧だと思います。「教会法的に有効」にも様々な次元がある筈でして、たとえば「一応有効に聖変化しているので、彼らによる聖体を『異端者のものだから』と言って、ただのパンのように扱ってはならない。しかし『有効』ではあるが『陪餐』はしてはならず、祈りに参加してもならない」という事は「有り得る」というのが、私の判断です。
そういう意味では後半は「【何がどのような意味で】有効なのか」につき、もっと表現を明快にする必要があるでしょう。--Kinno Angel会話2013年2月10日 (日) 08:22 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、こんにちは。私は勿論カトリック信者であり、極右と intégralisme に関してもっとも精通している研究者の一人ではあると思います。パリ・ミッションの司祭たちがこのノートを読んだら(それほど暇ではないと思いますが)、噴飯物でしょう。それから、基本的に正教会に言及する必要はないと思います。交流のあるプロテスタント諸派と違いあまり考えにくい仮定ですから。また、原典がラテン語とフランス語なのに英語から重訳されている段階でこの記事はアウトであり、典拠はどこの何頁からのものか明らかにする必要があると思います。聖務停止そのものが教会法に準拠しているのですから、「教会法的には彼らの執り行うミサは有効であ」るなどという表現は法矛盾であって、法形式の相互関係において「聖務停止」令とという上位法がまずあるからには、違法状態におけるミサの有効性などそもそも問題にする方がおかしいのです。もし採り上げれば、カトリック教会からそのミサに出席しないように奨められ、司祭が接触を禁じられているルフェーヴル一派の策略にはまることになってしまいます。それこそ連中の狙いのですから。この記事は、文体といい内容といい子供の作文のようなものであり、無知、不見識、非常識は、当然訂正されなくてはなりませんが、時間が少しかかりそうですね。大体、参考文献がゼロなどというのは、ふざけているとしか思えません。第二バチカン公会議に大きく関与したイヴ・コンガールの著作(La crise dans l'Église et Mgr Lefebvre, Cerf, 1976)さえ入っていません。管見は ポインセチア氏やLorettibarrend 氏と大体同じであり、ポインセチア氏やLorettibarrend 氏が示された方向で今後編集されるべきだと思います。無知な知ったかぶりが、カトリックの内か外かなどというくだならい議論を蒸し返そうとしているようですが、それは「聖ピオ十世会」がカトリック教会として宗教法人格を持っているか否かを考えれば自明のことでしょう。Tizizano会話2013年2月10日 (日) 23:37 (UTC)[返信]
Biyue さん、こんにちは。
> この理屈を適用しますと、正教会の叙階は無効であり、したがって聖職者に
> よる聖変化も無効となってしまいます。それに、レオ13世教皇様も教皇書簡
> 『アポストリチェ・クーレ(Apostolicae Curae)を出さないはずです。
→ まったく関係のない事柄でしょう。ルフェーヴル一派は、ローマ・カトリックと自称しているからこそカトリックの法規が問題になるのですから。【ローマ・カトリックと自称する者】でありながら、「聖務停止」令が無視されたことがまず問題なのですよ。ミサを執行する権限そのものがないのに聖変化云々など問題になるわけがないでしょう。「聖変化」に関する考え方をひとつ抽出して云々されているあなたの考え方からは、ルフェーヴル一派に関する問題という特異な条件付けが無視されているのではないでしょうか。Tizizano会話2013年2月11日 (月) 05:31 (UTC)[返信]
とりあえず、未信者と疑ってしまいました件については、お詫びします。無礼をお許しください。書きたいことが何点かありますが、まずurlについては、英語版記事を見てみたところ、http://www.fsspx.org/en/ で通じるようです。要するに、orgの後に言語を指定しないと表示されない仕様に改定していたのでしょう。よって、enでもfrでも、どちらか貼り付けておけばいいのではないでしょうか。また彼らは「カトリックを詐称する集団」ではなく、悪く言ってもせいぜい離教者(カテキズム用語で教義的な問題から、カトリックであったがカトリックから離れてしまった人を指す)か、離教になりかけの人達であり、普通のカトリックの学者の中にも、そうでないという主張(沢田昭夫)もあります。全く無関係な人たちが、カトリックを装ってなにやらやらかしているなら、そうした言葉は適切でしょうが・・・彼らに対しては、やや過激な表現と思いますので、もう少し穏当な言葉を使われては、とは思います。また時間のある時に、コメントさせて頂きます。--Michael tiara会話2013年2月11日 (月) 05:54 (UTC)[返信]
Michael tiara さん、こんにちは。いえ、こちらこそ言葉が過ぎたとと存じます。たしかに Wikipedia は百科事典なので、表の記事はもっと無味乾燥のものにしなくてはなりませんね。反動派の代表格の沢田氏はそう考えるのでしょうが、凡庸な歴史家で、思想家でも哲学者でも神学者でもないでしょう。「新しい歴史教科書をつくる会」の会員の極右への共感など誰でも予想がつくことであり、「普通のカトリックの学者」は批判するか無視するかどちらかでしょう。また、カトリックは大所帯で保守的な方も左翼的な方もいるのが寛容で魅力的ですが、聖職と平信徒とは役割が違うと思います。前者が公会議決定や回勅に反旗を翻すということは由々しいことですから。ただ、日本の思想界ではあまり採り上げらたこともなく、フランスなどヨーロッパでも報道でも、シャルル・モーラスやペタン元帥の擁護者とその弟子たちが極右との結びついたトンデモ事件が時々採り上げられるだけですね。今年も新年早々、ベルナール・フェレー総長の反ユダヤ主義的発言があり尾を引きそうです。懲りない連中です、本当に。「近代主義」に対する批判というなら、そういう考え方があってもおかしくありませんが、カトリック内でルフェーヴル一派に共感を示す反動派たちは、反ユダヤ主義にまつわるさまざまな事件が、カトリックの精神に根本的に反するものであるということを理解していないと思います。Tizizano会話2013年2月11日 (月) 06:28 (UTC)[返信]
以下は、項目「マルセル・ルフェーヴル」から削除した部分ですが、何の注釈もなく提示された、「1976年3月51号のキエザ・ビバ(Chiesa Viva)によれば、リエナール枢機卿は30階級のフリーメーソンであると特定されていたという」という個所からもわかるように、ルフェーヴル一派は、保守派でも反動派でもなく、(オ)カルトなのです。どうやら、Wikipedia と雑誌『ムー』を間違えているらしく、参考文献が “Apologia pro Marcel Lefebvre” なのですから処置なしです。これは、辞書の一項目ではなく、ルフェーヴル一派の宣伝文書以外の何物でもありません。Tizizano会話2013年2月11日 (月) 23:03 (UTC)[返信]
1976年3月51号のキエザ・ビバ(Chiesa Viva)なるものを脚注に載せればいいだけではないでしょうか。まあ、その辺は多言語版も見て、その兼ね合いで決めるべきでしょうが。なぜオカルトになるのか、とかは、わけがわかりません。フリーメーソンの言葉は確かに登場していますが、そもそもフリーメーソン陰謀論は良くも悪くも、歴史的にカトリック教会・ローマ教皇庁で起きた運動ですよ?プロテスタントでも、正教でも、ヒトラーのナチスでも、日本のオウムやムーが最初に始めた運動でもありません。フリーメーソン自身の主張するところによると、中世の迷信や思想抑圧からの自由、開放を求めたフリーメーソンは、しかしまだ前時代の精神を引く諸般の法律を顧慮して、秘密的に活動せざる得なかった。それを、迷信的な教皇庁がわけのわからない理由から、弾圧・拷問を繰り返し、歴代教皇は狂ったように口汚く罵った回勅を発布してメーソン制裁を加え続けた、となっています。(この辺は俗にいう怪しい陰謀論ではなく、メーソン系の学者とかの本を見てもいくらでも出てきます。『ローマ教皇とフリーメーソン』ダットレイ・ライト、綾部恒夫解説、吉田弘之訳、等)ムーや向こうのオカルト雑誌でも脚注に書いているなら、確かにオカルトでしょうが、その辺は脚注等の検証可能性を元に考えるべきです。メーソン弾圧・告発は、歴史的にカトリックで起きた運動ですので、お国柄、というかある意味カトリックの古い時代の伝統が出たのでは・・・とは思います。(ciniiでフリーメーソンで検索すれば、研究誌上の論文など結構見つかります。要するにこうしたテーマ自体が即、オカルト、というわけではない)Tizizanoさんは、沢田氏を凡庸と言ったり、以前から少なくともこのノートページでは、偏見で物を書きすぎています。“Apologia pro Marcel Lefebvre”は確かに聖ピオ十世会側の創設者の伝記でしょうから、他に客観的な資料もあったほうがいいかもしれませんが、この辺は、他の記事の亡くなったばかり・存命人物の自伝の扱われ方との兼ね合いで扱いを考えては、とは思います。--Michael tiara会話2013年2月12日 (火) 01:46 (UTC)[返信]
「聖務停止」令とという上位法がまずあるからには、違法状態におけるミサの有効性などそもそも問題にする方がおかしいのです。
聖務停止で、しかしその者の繰り出す秘跡自体は物理的(というと変ですが^^;霊的に、というべきか)に有効になる、というのは、カトリック教会ではあり得ます。ですから、例えば、ふしだらな行為などで聖務停止処分を受けた司祭が、しかしどこかで勝手にミサを奉げたりすれば、そのミサは違法にはなりますが、しかし聖変化は起こすとされます。カトリック信者として変な言い方になってしまうかもしれませんが、Tizizanoさんも上で仰っていますように、Wikipediaはフリー百科事典です。そこに載る記述には、論拠と論拠には検証可能性がなければいけませんが、それらがあるなら、カトリックに有利になろうと不利になろうとに関係なく載せるべきです。ここはカトリックの利益を図るために存在する空間ではないですから・・・。そうした資料があるなら、聖ピオ十世会が利益を得てしまおうと、あるいは全然関係ない弟三者が風評上の利益を得てしまおうと、それで仕方がないではないですか。--Michael tiara会話2013年2月12日 (火) 02:03 (UTC)[返信]
Michael tiaraさん、こんにちは。あなたは私の主張をまったく理解していませんね。典拠は、信憑性があるものでなくてはならず、「〜という」ような伝聞・また聞きのようなものが典拠になるわけではないでしょう。フリーメーソンそのものが問題なのではなく引用の仕方です。つぎに、「聖変化」云々という前に、「聖務停止」令とという上位法があるという主張も理解されてない。しかも「聖変化」そのものに関して何も論じていないにもかかわらずです。それから、沢田さんがどこのどういう性質のメディアで主張しているのですか?具体的に明示されて下さい。「普通のカトリックの学者」は「新しい歴史教科書をつくる会」などに入会しますか?さらに、第三者的な研究者による「客観的史料」云々というのは、仏語版に掲載されているようなものです。Nicolas Senèze のものを所有しています。「マルセル・ルフェーヴル擁護論」(“Apologia pro Marcel Lefebvre”)などという文書が資料などになるわけがないでしょう。Tizizano会話2013年2月12日 (火) 02:19 (UTC)[返信]

そりれから、沢田さんがどこのどういう性質のメディアで主張しているのですか?具体的に明示されて下さい。 『第二バチカン会議の影と光』世のひかり社、pp.52-57の中で述べています。--Michael tiara会話2013年2月12日 (火) 02:24 (UTC)[返信]

どのように主張されているのですか?Tizizano会話2013年2月12日 (火) 02:31 (UTC)[返信]
ルターと並べて書いていますから、一応離教者的な扱いですね^^;私の記憶違いでした。去年10月頃、この団体について調べた時、「ルフェーブル大司教の運動にはついていけないが、さりとて彼らを離教者と呼ぶのもどうであろう」みたいに書かれていた(と思った)記憶があったので。今読んでみましたが、扱われ方は、こうです。①、ル大司教らの分裂については、我々カトリックの責任と思い、痛みを持って受け止めるべき、②、進歩主義者達は、伝統を大切にする者たちをル大司教に追従していようといまいと十把ひとからげに、破門に値すると言わんばかりにローマなり公会議の決定なりを振りかざして、非難する。なのに、自分たちに不利な決定に対しては、言論の自由を元に反発する。こんな態度はけしからん。彼らの聖座への忠誠などは空々しい・・・こんな感じでしょうか。今読む限りでは、彼らは肯定されていませんでした。済みませぬ・・・。要約すると、伝統擁護と伝統擁護派への批判者たちに対する批判、です。--Michael tiara会話2013年2月12日 (火) 02:53 (UTC)[返信]
他にも言及はありますが、「他の点ではことごとくローマに楯つき、ローマを無視しておきながら、ル大司教のことになると「ローマに服従しない分裂主義者」と非難し、自分たちの進歩的意見がローマから叱責されれば・・・」要するに彼は、「ルフェーブル派への批判者たち」を非難しています。しかしだからといって、ルフェーブル派を離教者でない、と言っているわけではないです。この箇所を少し誤記憶していました。済みませんでした。--Michael tiara会話2013年2月12日 (火) 03:02 (UTC)[返信]
Michael tiaraさん、こんにちは。いずれにせよ、何事にも「影と光」はあるので、興味深い指摘ですね。これはバランスのとれた指摘なので、そのまま表に掲載できるのではないでしょうか。興味深い著書をご案内下さり、ありがとうございました。Tizizano会話2013年2月12日 (火) 03:30 (UTC)[返信]

2013年2月12日(UTC)~

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(もう一度インデントを戻します)
すみません、失礼ながら、また話があらぬ方向へいってるみたいなんですけど、いまここで議論するのは、本文の記述について
  1. 聖ピオ十世会はカトリック教会内部の団体なのか
  2. 聖ピオ十世会の(特に1988年以降の)司教叙階・司祭叙階は有効なのか、そして教会法的にどうなのか
  3. 同様に、聖ピオ十世会の司教・司祭によるミサ、秘跡は有効なのか、教会法的にどうなのか(一般のカトリック信者(聖職者、信徒)が聖ピオ十世会の司祭によるミサに参加したり、秘跡を授かるのは?)
  4. 2009年に聖ピオ十世会の司教の破門は解除された(らしい)が、現在の教会法的地位はどうなのか
などのことではないかと思います。1.については、本文には1975年に同会をカトリック教会内の団体とは見なさないという決定がローマで下され、という文があり、私の前回の編集で冒頭文にもこの分をもってきたのですが、よく見るとこの文については出典がありません。おそらくマルセル・ルフェーブルの記事中にある「フライブルクの司教は、聖ピオ十世会に対する仮認可を撤回する意図を表明した...(中略)...司教は1975年5月6日にその意図を実行に移した」つまり聖ピオ十世会という団体の設立を認めないということ意味するのかな、と思いますが、[要出典]を貼るべきかもしれません。団体としては(もちろん修道会としても)教会法で認められてないけど、司教・司祭個人や支持する信徒は(この時点では)「カトリック教会の外」とは言えないのではないかと思いますが、どなたか確認をお願いしたいところです。
2.3.については、上の方でMichael tiaraさん が示してくださったサイトからリンクをたどると、「エクレジア・デイ(ECCLESIA DEI)」の英語文フランス語文を参照することができました。(これは教皇庁公式サイト(The Holy See) であり、これ以上の出典・根拠はないと思います。)それによると、この非合法な司教叙階はローマ教皇への不服従行為であり、分離(離教)行為ということになります。また、「カトリック教会のカテキズム」には「司教の合法的叙階には、今日ではローマ司教の特別な介入が必要です。」(カテキズム:1559)、「カトリック教会の教え」(監修・日本カトリック司教団)には「司教叙階の場合には、教皇から委任された司教だけが、司教叙階を執行することができます。」とハッキリ書かれています。これらを読むかぎり、聖ピオ十世会やその支持者が何と言おうと、1988年に教皇庁の任命・許可を受けずに執行された司教叙階は、(秘跡として有効ではあっても)合法的なものではないことになります。しかも同時にこれらの司教は破門されていますから、ローマ・カトリック教会において(教会法上の)法的地位を何ら持たないことになり、当然彼らが執り行うミサ・秘跡も(たとえ秘跡としては有効であっても)決して合法的なものではないことになります。ですから、一般のカトリック信者が聖ピオ十世会のミサに参加したり秘跡を授かるのは違法行為ということになるはずだと思います(その証拠に(?)、ECCLESIA DEI の中でも、聖ピオ十世会への支持を止めるように、また公式に支持するなら破門という罰を受けることになる旨が明言されています)。これらのことは、整理して記事本文に明記してよいのではないかと思います。そして Biyueさん は、上の記述で正教会のことを引き合いに出して叙階が有効であると主張しておられるようですが、それは聖ピオ十世会の問題とはまったく関係ないことであり(それを言うなら聖ピオ十世会は正教会と同様にローマ・カトリック教会(の中)とは違うと言うようなもの)、たとえ司教叙階・司祭叙階が有効であっても、カトリックの教会法にのっとって合法的に叙階されていなかったり、聖職停止処分を受けて(ローマ・カトリック教会の中で)法的地位を持たない以上、常識的に考えれば合法的に司教・司祭職を執行できるはずがありません。これは叙階が有効だから良いということではないはずです。Michael tiaraさん が「例えば、ふしだらな行為などで聖務停止処分を受けた司祭が、しかしどこかで勝手にミサを奉げたりすれば、そのミサは違法にはなりますが、しかし聖変化は起こすとされます。」という例えを示しておられていて、たしかにそのとおりで、しかし聖変化や秘跡が有効だからといって他のカトリック信者が(聖職停止処分の事実を知りながら)そのミサにあずかって聖体を拝領していいということにはならない(=違法行為になる)はずです。(別の例えだと、教員免許を持っている教師がどこかの公立学校を退職した後(あるいは免職処分を受けた後)自分で生徒を集めて授業を行うようなものではないかと思います。生徒がその教師から授業を受けても、学校で正規の授業を受けたことにはならず、これが高校・大学なら単位や卒業資格を得られないはずです。)しかも、自分たち(聖ピオ十世会)が教皇庁やローマ・カトリック教会から離れた存在であると認めて別の道を歩むならまだしも、自分たちの正当性を主張して教皇庁が間違っているかのように主張するのは、悪質だと思います。これについて記事本文では「司祭であることには違いないが、ミサや洗礼などその職務は禁止されている状態にある。教会法的には彼らの執り行うミサは有効であり、」と書かれていますが、より正確に書くなら「司祭であることには違いないが、ミサや洗礼などその職務は禁止されている状態にある。教会法的には彼らの執り行うミサは有効ではあっても、違法なものであり一般のカトリック信者は参加してはならない、」のようにするべきではないかと思います。また Biyueさん は、現行の教会法844条第2項(いかなる時でも、必要性が生じるか真の精神的便宜に繋がり、かつ誤謬や無関心の危険が避けられるならば、カトリック教徒が身体的または道徳的にカトリック聖職者に近づく術が無いか又は非常に困難な時、秘蹟の有効な非カトリック教会の聖職者から告解、聖体、終油の3つの秘跡を受けることが許される)を持ちだしていますが、これが聖ピオ十世会にあてはまるとでも主張しておられるのなら、同会は「カトリック教会の外」と言っているに等しいことになります。この教会法の規定が適用されるのは、(普通に読んで解釈すれば)国や地域内にカトリック教会が所在せず司祭もいない状況や政治的な理由で信教の自由が侵害されている状況のため信者が秘跡を受けるのが物理的もしくは政治的に極めて困難な場合です。しかし日本には(フランスなど他の多くの国でもそうですが)複数の司教区とその中の小教区(カトリック教会)がいくつもあり、その教区長は全員ローマ教皇庁の任命・許可を受けて教会法に沿ってそれこそ合法的に叙階された大司教・司教です。この状況にもかかわらず、聖ピオ十世会やその支持者が教会法844条第2項の適用を主張するなら、現在のカトリック教会・司教区の存在・適法性やその司教・司祭の秘跡の効力を認めないことになり、それは「自分たちはカトリック教会とは関係ない」と言うようなものと解釈できると思います。
そして4.について。2009年に破門が解除されたことにより、聖ピオ十世会の司教・司祭の教会法的地位がどうなったのか、確認したいところです。本文には、アメリカのウイノナ教区の事例=「教理上の問題がはっきりしない限り、聖ピオ十世会はカトリック教会の中で法的な地位はなく、叙階は有効ではない」ということが書かれていますが、出典による裏付けや、その後の教皇庁の声明・文書などの根拠がほしいところです。 --Lorettibarrend会話2013年2月12日 (火) 07:40 (UTC)[返信]
コメント すみません、念の為申し上げますが(多分ここの参加者の皆様には誤解は無いと思いますが)、私が正教の例を持ち出したのは「叙階は有効であるが聖体拝領しないように、近付かないように指導される」事は「有り得るのでは」ということの一例として申し上げましたもので御座いまして、ピオ10世会が「正教会と同様の扱い」をされている云々と申し上げたいのではありません。
なお、ここでの議論で「カトリックの外か内か」というのは、議論として難しいのではないですか?「秘跡は有効」しかし「教会法上違法」、「近付くなと指導する」という状態がローマカトリックでは有り得る筈ですが、これを「ウチ」「ソト」に単純に区分け出来るのかどうか?という問題だと思うのです。
本文上では敢えて「カトリックと言えるかどうか」について限定せず、教皇庁の判断を淡々と「有効無効」「合法違法」「接近可否」について書くしか無いと思われます。--Kinno Angel会話2013年2月12日 (火) 08:46 (UTC)[返信]
コメント Lorettibarrend さん、KinnoAngel さん、こんにちは。

項目「マルセル・ルフェーヴル」は、まず日本語として不明確であり、多くの部分が英語版を和訳されたものではないでしょうか。項目1.〜4. の内容は必ずしも分離できない性質を具備しており、1. でご指摘のフライブルクの司教とは、ローザンヌ、ジュネーヴ及びフライブルクの司教であるシャルル・モルロー(Charles Morerod, OP)のことでしょう。同司教は、2013年1月3日付で教令を発しています。「1975 freiburg lefebvre」のキーワードで検索すると、上から5番目に出てくるPDFファイルです。この教令のなかで、モルローは、エキュメニカルを進めているプロテスタントや正教会と性質の異なる「聖ピオ十世会」への対応の苦慮を語り、1976年7月22日を回顧して、「あらゆる司牧行為が禁じられている。管見によれば、聖ピオ十世会の司教たちの破門の場合とはことなり、この処置は撤回されていない」として、ベネディクト16世による破門の解除は、聖務停止の処置を撤回するものではないと再確認しております。問題にすべきは「聖変化」云々ではないと再三再四強調しているのはこのためであり、2.と3. に関しまして、Lorettibarrend さんと、さらにKinno Angel さんの付言とまったく同意です。この場合「聖変化」云々などまったく論外であり、そもそも「聖ピオ十世会」の司祭たちには聖務を執行する権利そのものがないのです。Tizizano会話2013年2月12日 (火) 08:56 (UTC)[返信]

KinnoAngel さんへ。すみません、私自身、ピオ10世会が「正教会と同様の扱い」を・・などとは考えていませんが、「この理屈を適用しますと、正教会の叙階は無効であり、」などといって正教会の例をここへ持ち出した方がおられたものですから、それに対していろいろ書いてしまいました。正教会の信者の方にイヤな思いをさせてしまって失礼な表現だったかもしれません、すみませんでした…。「叙階は有効であるが聖体拝領しないように、近付かないように指導される」というのは、まさにそれが実情ではないかと思います。また内か外かというのも難しいところのように思いますが、Tizizano さんがいろいろ事情にお詳しいようですので、できれば教皇庁文書などの出典も探しながら、冷静な議論・編集を進めていきたいと思います。 --Lorettibarrend会話2013年2月12日 (火) 09:10 (UTC)(補足)--Lorettibarrend 2013年2月12日 (火) 09:26[返信]
Lorettibarrend さん、こんにちは。私が詳しいのは、研究分野である極右などの政治的コンテクストであり、Lorettibarrend さんのように、教会法に精通しているわけではありません。ただ、「内/外」の問題は、霊的な関係を言い出したらきりがなく、そもそも宗教法人格を持っていない「聖ピオ十世会」と司教区ごとに法人格を登録しているカトリック教会は世俗法的には無関係、つまり「外」だと思います。霊的関係を言い出したらきりがないと申し上げたのは、一部共通の祈祷文を使用している聖公会とカトリックを「内」で考え人はあまりいないからです。いかがでしょうか。Tizizano会話2013年2月12日 (火) 09:22 (UTC)[返信]
コメント
Lorettibarrendさんへ
私の宗旨は明らかにしていませんが、少なくとも私は不愉快には思って居ませんし、少なくとも正教会の例を始めに出したのは私ですので、どうぞお気になさいませんよう。
Tizizanoさんへ
「聖変化」云々などまったく論外であり、そもそも「聖ピオ十世会」の司祭たちには聖務を執行する権利そのものがない
いや、えーっと…私の思い違いかもしれませんが…
「政務停止されている聖職者による違法なミサ」であるが「言葉と儀礼を満たしており、聖変化は行われている」という状態は、ローマカトリックでなら有り得ると思うのですが…だからこそ教会法に詳しい方による精細な文言調整が、出典確保の上で必要だと思う次第です。--Kinno Angel会話2013年2月12日 (火) 10:00 (UTC)[返信]
コメントKinno Angelさん、こんばんは。これは、二つの問題が混同されているのではないでしょうか。「聖務停止」云々とは上位法と下位法という法形式の問題です。一方、「聖体」云々とは、アリストテレスからルイ・マランまでをレフェランスとするキリスト教の思想史上の問題であり、プロテスタントでもいろいろ違うわけで、現在の項目「聖変化」もいささか粗雑ではないかと思います。「政務停止されている聖職者による違法なミサ」とは、参加すべきではないミサということで、臨終が迫っているとか(例えば、松岡洋右の場合)、戦乱状態であるとか極めて特異な状況でもないのに、何故、「政務停止されている聖職者による違法なミサ」の聖変化について考えなくてはならないのですか。それが、Kinno Angel さんの個人的な神学的関心というなら話はわかりますが、「聖ピオ十世会」の項目の執筆とは関係のない問題ではないでしょうか。「聖務停止」という教会法上の規定に従っていないという上位法の侵害があるのに下位法を考慮せよというのはおかしな話であり、問題なのは、二つあるもののうちの前者ですから。Tizizano会話2013年2月12日 (火) 11:51 (UTC)[返信]
コメント
「聖体」云々とは、アリストテレスからルイ・マランまでをレフェランスとするキリスト教の思想史上の問題
お言葉ですが、「思想史上の問題」ではありません。「ピオ十世会による『聖変化』は聖変化に非ず。彼らの『聖体』と称するパンは(わざわざ出かけていって破壊することはしないでしょうけれど)ただのパンなり」と、ローマカトリックでは考えて居るのでしょうか?という問題です。
何故、「政務停止されている聖職者による違法なミサ」の聖変化について考えなくてはならないのですか。
一応、「事典」だからです。ローマカトリックの信者は、考える必要は無論ありません(無論他教派の一般信徒も考える必要の無い問題です)
それが、Kinno Angel さんの個人的な神学的関心というなら話はわかりますが、「聖ピオ十世会」の項目の執筆とは関係のない問題ではないでしょうか。
関係が大有りなのです。ここにこそローマカトリックに特徴的な「秘跡の有効無効」「教会法上合法違法」の考え方が反映されますので。ですので「個人的関心」ではない、純粋に神学的問題です。そしてそれは、事典であれば精緻に扱わなければならない問題です。--Kinno Angel会話2013年2月12日 (火) 12:35 (UTC)[返信]
追加 コメント
たとえば「秘跡が有効かどうか」というのは実は問題になります。聖ピオ十世会からローマカトリックに「帰順」した場合、聖ピオ十世会での洗礼の秘跡は有効なのかどうか?というのは、想定し得るパターンです。こういう場合、事典が秘跡の有効無効について間違いを書いて居たら、現実に小さくない亀裂・問題を引き起こすとはお考えになりませんでしょうか。ですから慎重にならざるを得ないのです。
この場合でも「洗礼は無効なので洗礼やり直し」という通達が出て居るなら出て居るで結構です。ただ出て居ない場合、「ざっくりとした書き方」では、執筆者として(法的にとは言えなくても道義的に)責任が問われる事になるでしょう。--Kinno Angel会話2013年2月12日 (火) 12:46 (UTC)[返信]
コメントKinno Angel さん、こんにちは。どうも話がかみあっていないと思います。「純粋に神学的問題」なら項目「聖変化」「聖体」「秘跡」等々の個所にお書きになられればよいことであり、辞書項目の「聖ピオ十世会」というのは、同会に specific な問題のみを扱うところですよ。「わざわざ出かけていって破壊する」なんて、そんなヒマな人がいるわけないでしょうし、そもそもそ司祭は接触を禁止されているのですよ。帰順を求める高位聖職者による接見は特例です。以下のサイトに、先にご紹介致しましたモルロー大司教を仲介者として「聖ピオ十世会」と教義上の事柄についての交渉があったことが報じられていますが、具体的にどのような内容であったのかは書かれていません。何となく想像できますが、まだ外に出ていない事柄を憶測であれこれ言及するのもいかがなものかと思います。教皇庁側は、オプス・デイやウナ・ヴォーチェのような形の落としどころを考えているのでしょうが、うまく行くとは思えません。また余談ですが「純粋に神学的問題」などというものが存在するか否かについてははなはだ懐疑的です。表に参考文献を少しあげておきましたが、「聖ピオ十世会」に、カトリックの原理主義という観点から関心を持っているのは、多くが政治学者や歴史学者、あるいは社会学者であり、それは実際の復古主義的主張が、彼らが嫌っているプロテスタントの福音派などと重複する部分があるからでしょう。また、「聖体」の問題は「純粋に神学的問題」などということはあり得ず、周知のようにプロテスタントの儀礼が簡素化している原因は、そもそもカトリックの化体説への疑義から始まっているわけです。それを例えば「象徴」ととらえれば、必然的に「象徴するもの/象徴されるもの」という二分法が発生し、後者はイエスの身体という「象徴するもの」より劣るものと見なされるわけです。これは哲学上の問題でもあれば、言語学上の問題でもあるでしょう。一般の社会では、どうでもいいような瑣事に拘泥することを「神学論争」と呼びますが、それは実際を知らない方の発想で、「聖体」をめぐる問題は、宗教改革やポール・ロワイヤル修道院の時代から、ルイ・マランなど現代思想にもかかわるヨーロッパ思想史の背骨なのです。東京の教父研究会に時々参加していますが、そこには神学者だけでなく、哲学者、文学者、歴史学者などさまざまな専門家がいます、神学者だから発言権が大きいなどということはまったくありません。そもそも主宰者の加藤信朗先生自体が、アリストテレス学者で神学者ではありませんからね。表の内容は、いまくらいのもので後は細部を追加して行けば良いとおもいますが、引用文献の Apologia pro Marcel Lefebvre というのは「中立性」という観点からはなはだ問題であり、pro なのだから宣伝文書と思われても仕方ないと思います。著者も伝統主義のシンパです。また、ページ数が書かれていないのは不思議でならず、「検証可能性」という観点から問題なしとは言えないと思います。項目「マルセル・ルフェーブル」に関するポインセチア氏の疑義は、もっともだと思います。
http://www.magazinelavieestbelle.com/actualites/20937-entretiens-doctrinaux-avec-la-fraternite-saint-pie-xTizizano会話2013年2月12日 (火) 21:38 (UTC)[返信]
とりあえず、聖ピオ十世会の司祭の叙階は違法ですが、有効です。それは現教皇様が明言しておられます。(教会法によれば、違法ではあるが有効な叙階があります。私たちはこれらの若い人々の人間的側面をも考慮しなくてはなりません。彼ら(聖ピオ十世会の司祭たち)は、教会の目から見れば、「真の」司祭('true'priests)です。正常ではない状況下にいますが。"The Ratzinger Report",Ignatius,1985,pp32-33)そしてまたその司祭職の行う秘跡も管区司教の裁治権発給が必要な告解と婚姻以外は有効です。また一度、有効に叙階された霊印はカテキズムにおいては洗礼や堅信と同じく取り消せ得ません。(教会法 第290条 聖なる叙階は、一度有効に授けられたならば決して無効にはならない。CCC 1582 洗礼と堅信と同様に、このキリストの職能の分与は一度かぎりで完全に伝えられる。他の二つと同じように、叙階の秘跡は取り消しえない霊印を与え、繰り返すことはできないし、一時的に授けることもできない。)またこうした事実を事典に載せない理由も存在しないと思います。--Michael tiara会話2013年2月13日 (水) 02:28 (UTC)[返信]
Michael tiaraさん、こんにちは。「聖ピオ十世会の司祭の叙階」とは、元々はカトリックであったが後に「聖ピオ十世会【に入会した】の司祭の叙階」なのか、「聖ピオ十世会【による】司祭の叙階」なのかどちらのことでしょうか?また、破門ないし聖務停止中の有効性に関する付帯条件についてはいかがですか?Tizizano会話2013年2月13日 (水) 02:48 (UTC)[返信]
Michael tiaraさん、こんにちは。「聖ピオ十世会の司祭の叙階」とは、元々はカトリックであったが後に「聖ピオ十世会【に入会した】の司祭の叙階」なのか、「聖ピオ十世会【による】司祭の叙階」なのかどちらのことでしょうか?
両方だと思います。そもそも、ルフェーブル大司教による4人の司教の聖別は違法なのですが、その司教聖別すら秘跡的には有効なようです。(有効性はその行為の実質にかかわり、合法という語は法に適っているかどうかにかかわる。例えば、溯ること1988年に、ルフェーブル大司教は、前もって教皇ヨハネ・パウロ2世からの委任状を得ることなく、四人の司祭を聖別した。この行為は有効(valid)である。なぜなら、ルフェーブル大司教は有効に司教に叙階されており、したがって、他の司教を聖別する権能を有するからである。しかし、大司教は教皇許可なしの司教聖別に対する教会法による禁止命令を守らなかっただけでなく、実際、そうしないようにという聖座の直接の命令の後に、司教聖別を実行した。この違法行為の結果として、教会はルフェーブル大司教と違法に聖別された四人の司教を破門した。
それにもかかわらず、聖ピオ十世会のためにルフェーブル大司教が聖別した司教たちは本物の司教(real bishops)である。カトリックの司教がすべてそうであるのとまったく同じように、彼らは秘跡を執行する力を有する。ルフェーブル大司教の離教運動を離れてカトリック教会に戻ってきた諸個人を、教会は再堅信しない。また、聖座に歩み寄り、カトリック教会との和解を求める聖ピオ十世会の司祭職(Priesthood)を、教会は承認している。"Surprised by Canon Law",SERVANT Books,2004,pp7-8)またこうした資料もありますので、添付しておきます。(離教した司教アカキウスが洗礼を授けた者、また彼が規定に従って司祭、聖職者に叙階した者はアカキウスの離教によって影響を受けない。秘跡の恩恵は悪人によって授けられても弱められないことは明らかだからである。(略)
したがって、悪人は善を取扱うことによって自分自身だけを傷つける。悪人によって授けられた秘跡は神聖さを汚されることなく、それを受けた者にその力を与える。Exordium pontificatusu mei(DS 356))
また、破門ないし聖務停止中の有効性に関する付帯条件についてはいかがですか?
聖務停止中の司祭が秘跡を執行した場合、その行為は違法行為ですので多くの場合罪になりますが(死の危険にある時、など緊急時を除く)、その秘跡自体は有効とされます。--Michael tiara会話2013年2月13日 (水) 02:59 (UTC)[返信]
http://defencecatho.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=78074502

すでに似通った議論は、あちこちでなされているようですね。しかしながら、ご案内の文書の該当個所(But Lefebvre, I object, has ordinated priests and continues to do so. “Canon law speaks of ordinations are illicit but not invalid. We must also consider the human aspect of these young men who, in the eyes of the Church, are ‘true’ priests, albeit in an irregular situation.)によれば、教会法によれば違法とされており、「これら若者たちに関して人間的側面も考慮」する必要が説かれいる、つまり例外状況における情状酌量を求めているのに、そこにまた教会法によってその行為を擁護する文面を載せるのは、いかがなものでしょうか。「有効」なのではなく「無効ではない」という二重否定に見られる苦渋のニュアンスが消えてしまうのではないでしょうか。Tizizano会話2013年2月13日 (水) 03:07 (UTC)[返信]

この記事の不備:

2 .カミーユ・ペルル師の書簡 → リンク切れ(どうしてUna Voce のサイトから引用されるかも不明) 9. リンク切れ 10. リンク切れ 13. リンク切れ 18. リンク切れ 19. こんな註記の書き方はない。“Vade retro soutanas”in Libération, 11 octobre 2006. “il célèbre les obsèques du milicien” を「公的にレクイエム・ミサを催した」とはちょっとおおげさというか、フランス語が読めない英語版の執筆者にも同じ引用があり、執筆者の機械翻訳みたいな感じですね。そして、そもそも引用者は“Vade retro soutanas”というタイトルに見られる、意味合いがわかっているのだろうか?ラテン語典礼の擁護者たちは、ラテン語とフランス語をまぜ司祭の「スータン」と「サタン」をひっかけたこの絶妙な地口がわかっているのだろうか?この引用一つで、ルフェーブル一派がフランスで左翼からカトリックに至るまでどのように思われているかよくわかるので、この引用は残しておくべきかもしれませんね。ちなみに、「リベラシオン」紙というのは、カトリック紙ではなく、左翼系の新聞で、日本で言えば『週刊金曜日』みたいな感じです。しかし、左翼紙といっていも、一般のカトリックに対してはこれほど辛辣ではありません。20.リンク先が[   ]内に入っていない。項目「マルセル・ルフェーブル」よりはいくらかましですが、この記事も問題は少なくありませんね。Tizizano会話2013年2月13日 (水) 04:21 (UTC)[返信]

コメント Tizizanoさん、すみません、枝葉末節を私の発言のメインと捉えないで頂けませんか…?貴方様が「個人的な神学的関心というなら話はわかりますが」と仰ったので、(個人的ではないという意味で)「純粋に神学的問題」と申したのです。そしたら「純粋な神学的問題など有り得ない」云々と反論されておいでですが…(では「神学的関心というなら話は分かる」は、なん、だったんでしょうか…)ちょっとどうなんでしょうかね…
で、「秘跡が有効かどうか」については、Michael tiaraさんの方に説得力を感じます。
そもそもすみませんが、私の発言をちゃんと全部読んでおいでですか?
「わざわざ出かけていって破壊する」なんて、そんなヒマな人がいるわけないでしょうし、
ですから私も「(わざわざ出かけていって破壊することはしないでしょうけれど)」と書いていますよね?「しないでしょうけれど」と私が言い、Tizizanoさんはこれに対し「そんなヒマな人がいるわけないでしょう」と…繰り返します、ちゃんと私の発言を読んでおいでですか?
そもそもそ司祭は接触を禁止されているのですよ。帰順を求める高位聖職者による接見は特例です。
誰もそうした事について否定していません。秘跡として有効かどうか、についてだけが論点になっているんですよ。ですから「ピオ10世会で洗礼を受けた人がローマカトリックに帰順する際、洗礼は有効と看做されるのか」といった、問題に成り得る状況例まで挙げて、この記述の重大さを指摘しているわけです。
「問題の多い団体だから弁護の必要無し」とお考えなのかもしれませんが、そうではなく、事典としての正確性が要求される問題なのです。--Kinno Angel会話2013年2月13日 (水) 11:35 (UTC)[返信]
追加 コメント
大体からして、「秘跡が有効かどうか」という議論において「批判がこれだけある」「司祭が接触禁じられている」云々は関係ありません。そして「批判の多い団体」「極右団体との繋がりが批判される団体」「近付かないように指導されている」事について、どなたも異議は出していませんよね?Tizizanoさん、何が論点になっているか、落ち着いて把握し直して頂けませんか。--Kinno Angel会話2013年2月13日 (水) 11:45 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、こんばんは。「有効」云々という点は表でも訂正しておりませんよ。また、「個人的な神学的関心」と「純粋な神学的問題」というのは、まったく違う事柄ではありませんか。後者は、一般論であり、あらゆるイシューは関係の束であり、「純粋な神学的問題」などというものはあり得ないというのが私の反論です。聖体論はとりわけ「純粋な神学的問題」などではありません(というか「純粋な」などという日常語を神学の形容詞として使う例に初めて遭遇し、いささか驚いております)。「問題の多い団体」ということは、英語版の項目では巧妙に隠されていますが、「聖ピオ十世会をめぐる問題」という項目があるだけ英語執筆者たちの方が良心的だと思います。ということで「関連項目」を追加しておきましたので、後は適当にご訂正下さい。「有効かもしれない」が「そのミサには参加すべきではない」とありますが、蓋然性の示唆が断定に変わっていますので訂正しておきました。Tizizano会話2013年2月13日 (水) 11:56 (UTC)[返信]
追加 コメントそれから、リンク先がたくさん切れています。さらに、元々の執筆者がすべて一次資料からリンク先をつくるべくであり、英語等の重訳はすべてダメだと思います。教会法ならラテン語とその和訳、またその多くがフランス語である典拠も示すべきであり、改竄し得る重訳は信用できないし、一般的な引用の慣習とことなると思いますが、いかがでしょうか。Tizizano会話2013年2月13日 (水) 12:07 (UTC)[返信]
コメント
聖体論はとりわけ「純粋な神学的問題」などではありません
そもそも私の言う「神学」が「シングルイシュー」ではありません。東方教会では「生活・生き方」まで含めて「神学」です。その辺の「神学」という概念についての認識の差があるようです。
「聖ピオ十世会をめぐる問題」という項目があるだけ英語執筆者たちの方が良心的だと思います
ちょっと問題多い発言です。お気を付け下さい。「日本語執筆者は良心的では無い」のでしょうか?とも受け取られかねません。
大体からして「問題の無い団体である」という人は居ないのですから、節構成含めて堂々ノートにて文章案を提案され、その上で本文編集されれば、あっさり通る話です。既に右翼団体との繋がり云々に対する批判的記述があり、批判的記述は誰しも妨害していません。
「関連項目」を追加しておきましたので、後は適当にご訂正下さい。
議論が終わるまで、私は編集するつもりはありません。
すべて一次資料からリンク先をつくるべくであり、英語等の重訳はすべてダメだと思います。教会法ならラテン語とその和訳、またその多くがフランス語である典拠も示すべきであり、改竄し得る重訳は信用できないし、一般的な引用の慣習とことなる
そこまで難しい事を考えなくとも、出典の無い記述は出典のある記述に置き換える事だけで対処可能です。ノートにて素案を提示され、その上で皆で議論し練った後、本文に移す。それだけの話だと思うのですが。--Kinno Angel会話2013年2月13日 (水) 12:11 (UTC)[返信]
コメント

そもそも私の言う「神学」が「シングルイシュー」ではありません。東方教会では「生活・生き方」まで含めて「神学」です。その辺の「神学」という概念についての認識の差があるようです。 「神学」という用語が常識的なコノテーションを超えて使用されているのなら、そもそも「神学」などという語を使われるべきではないのではないでしょうか。 >ちょっと問題多い発言です。お気を付け下さい。「日本語執筆者は良心的では無い」のでしょうか?とも受け取られかねません。

大体からして「問題の無い団体である」という人は居ないのですから、節構成含めて堂々ノートにて文章案を提案され、その上で本文編集されれば、あっさり通る話です。既に右翼団体との繋がり云々に対する批判的記述があり、批判的記述は誰しも妨害していません。そこまで難しい事を考えなくとも、出典の無い記述は出典のある記述に置き換える事だけで対処可能です。ノートにて素案を提示され、その上で皆で議論し練った後、本文に移す。それだけの話だと思うのですが

いやいや、違いますね。Kinno Angelさんは、項目「聖ピオ十世会」「マルセル・ルフェーブル」の英語版と日本語版のリンク先までほとんど同じということに関しておかしいと思われませんか。「良心的では無い」/あるというのもちょっと違いますね。関連項目の内容が英語版への丸投げでいいんでしょうか。カーボーン・コピーのような記事を平然と載せ、批判的視座がまったくないというのは、該当分野に関してしかるべき知見を持っていないというもっとも雄弁な証ではないでしょうか。Tizizano会話2013年2月13日 (水) 12:25 (UTC)[返信]

取り敢えず、「神学」という用語自体には拘りがありません。
「日本語執筆者は良心的では無い」
という仰り様は、全ての執筆者に向けられかねない言葉です。御発言においてサブジェクトがクリアではありません(大体こういう風に片仮名を多用する事はお止め頂きたく存じます、シングルイシューとかカーボン・コピー・とかコノテーションとか…不愉快に思う者も居るのです)。
「誰が丸投げしているのか」「誰が知見を持って居ないのか」「誰が平然と載せているのか」その辺、「自分以外の皆」のようにお考えではありませんか?
項目「聖ピオ十世会」「マルセル・ルフェーブル」の英語版と日本語版のリンク先までほとんど同じということに関しておかしいと思われませんか。
どうも私が言っても居ない事で批判されているようですが、誰がこの記事に問題無いと申しましたか?もっと言えば言われるまでも無くおかしいところだらけですよ。多分この記事に基本的には異議が無かったのは、議論参加者の中でも一人位の筈です。私もこの記事は問題だらけだということに聊かも異議ありません。--Kinno Angel会話2013年2月13日 (水) 13:07 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、おはようございます。大変失礼致しました。後者の「私もこの記事は問題だらけだということに聊かも異議ありません」とお聞きし、表に注意喚起のタグを付けて頂き、ありがとうございます。御気分を害しましたこと、重ねてお詫び申し上げます。当初は不備を網羅しようと思っておりましたが、お付け頂いたタグの意図で当方の考えも網羅しておりますので、時間がある時にリンク先など改善させて頂きたいと存じます。感心したのは、英語版の項目*Controversies surrounding the Society of St. Pius X(ピオ十世会をめぐる議論 ← 表と同じようにしたのですが、うまくリンク付けができません)で、戦犯隠匿やホロコースト否定論のみならず、高校のバスケットボールの試合でレフリーが女性であることに関して難癖をつけ物議を醸したことまで書いてあります。履歴を見るとシンパが恣意的な編集をした場合、典拠を明示すべきとの注意喚起がなされており、よく交通整理もなされています。ご一読下されば幸甚です。最後のものは、ベルナール・フェレー総長が「ユダヤ人は教会の敵」としたことに関して教皇庁が激怒したことが報じられているAFP電です。とりわけ内外のカトリック信者が同一視されるのを迷惑がっている理由がおわかりと存じます。http://www.bfmtv.com/societe/juifs-ennemis-leglise-vatican-sinsurge-418628.htmlTizizano会話2013年2月13日 (水) 21:22 (UTC)[返信]
[要出典]他の引用を若干整備しました。Tizizano会話2013年2月14日 (木) 00:05 (UTC)[返信]

Tizizano様、お聞きしたいことがございます。「司祭が接触禁じられている」のソースが「先のフランス人の司祭から直接にルフェーヴル一派とカトリック司祭が接触できない旨うかがいました」ということですが、「叙階の有効性」はどなたの説でしょうか?また、Michael tiara様のノートに「GA執筆者」と書いておられますが、それは「おかしなことはしません」という保証になるのでしょうか?ご教示ください。また、それから、貴方のノートでの態度につきましても問題があるように思えますので、Wikipedia:コメント依頼で他の方からコメントを頂く事に致しました。御了承下さい。(先にコメントの方を投稿してしまいました、失礼いたしました)--Biyue会話2013年2月14日 (木) 09:51 (UTC)[返信]

意見は、あなたの「会話」欄に書き込みましたので、それをお読み下さい。「『叙階の有効性』はどなたの説でしょうか?」とは、設問の意味がわかりません。少し上のところで、Michael tiara さんに関して「叙階の有効性」に関してお尋ねし、長文のお答えを頂きましたが、「どなたの説でしょうか?」とは何をお尋ねなのでしょうか?「おかしなことをしない」というのは、まっとうな知性があれば理解できることを書く用意がいつでもある程度の意味です。他に何かお尋ねがあれば、何でもどうぞ。Tizizano会話2013年2月14日 (木) 10:01 (UTC)[返信]
Tizizano様、先に書いた質問の内容が十分ではありませんでした。「叙階の有効性の否定」、すなわち「教皇の回勅、公会議決定、カトリック法に基づかない除階は、すべて無効」という主張を貴方が他の方からお聞きになったのだと思いましたのて、質問した次第です。2月13日から四旬節が始まりました。穏便な態度で議論を心がけたいと思います。--Biyue会話2013年2月14日 (木) 10:38 (UTC)[返信]
Biyue さん、ありがとうこどざいます。

>/Tizizano -「プレビュー機能のお知らせ」をノートに何度も書かれているにもかかわらず、短時間で連続投稿されている行為、および聖ピオ十世会のノートでの発言が発言が個人攻撃にあたるかについてのコメントをお願いいたします。--2013年2月14日 (木) 09:21 (UTC) 「穏便な態度で議論を心がけたい」と思われるなら、上掲のようなご投稿は直接ここでおっしゃって下さい。この記事に関しての不満は多くありますが、Kinno Angelさんから、そんなことは自分もわかっているとのご指摘がありましたので、それで結構なのです。この記事の不備は簡単に纏めれば、i) 参考文献が一冊も挙げられていない。← だから挙げておきました。双方の立場のものが混ざっています。ii)英語版の妥当性か十分検証されないまま、踏襲されている個所が多々ある。iii)注記を読むと Apologia pro Marcel Lefebvre から多々引用があり、辞書の中立原則から疑義がある。iv) 英語版の「聖ピオ十世会をめぐる議論」に書かれているような内容が少ししかない。等々です。同会やマルセル・ルフェーブルに関しては、『バチカン・シークレット』(河出書房新社)の「9章 無益な分裂 -- ルフェーブル事件で本当に教会は分裂したのか」(pp.172-193)など日本語で簡単に読める文献さえあるのだから、それらを精査した上で書き直されるべきだというのが、私の「穏当な」意見です。どこか、おかしなところがありますでしょうか?私が印税も原稿料も出ない記事のいくつかにこだわりがあるのは、あなたと同様に信仰的契機があるからです。とにかく、カトリックとは嘘じゃないかとかわけのわからない質問にさえ丁寧に答え、それでなくとも不愉快なのに、誤字脱字を直したり、文章を整えたりする程度のことで、いちいち注意喚起などされないで下さるようお願い致します。ここで、直接言えばいいことなので。よろしくお願い申し上げます。Tizizano会話2013年2月14日 (木) 11:53 (UTC)[返信]

コメント依頼からこちらに再度書かせていただきます。Tizizano様、短時間で連続投稿の件ではご自分のノートに9回の指摘および貴方の回答がありますので、 そちらを再度お読みください。「トンデモ団体」という呼称ですが、議論ではエチケットとして中立的な呼称を使うようにするべきではないでしょうか。 小生はそのシンパという立場となっておりますので。つまり、小生も「トンデモ」であるといっているのも同然かと思われます。もし、私が「教父研究会」 に反対の立場だとして貴方と議論するときに「トンデモ研究会」と読んでもよいのでしょうか?ご一考ください。

それから、英語リンクの件ですが、2月7日に「外部リンクには、パスワードを入力しなければ入れないサイトまで載っており、この項目の骨子を書いた、トンデモ集団のシンパの意図は明白ではないかと思います」と書かれておりますが、「トンデモ集団のシンパ」とは誰のことでしょうか?そして、その外部リンクを記事に追加した方を確認されたのでしょうか?ここは個人への中傷とみなします。

Michael tiara様、破門の件ではローマ教皇庁と聖ピオ十世会では見解が異なるのではないでしょうか。英語版を読まれたのならわかると思いますが・・・。

Kinno Angel様、今カトリック教会では四旬節およびコンクラーベという重要な時期を迎えております。お祈りや犠牲が必要とされる時期です。貴方の2人のユーザーに対する行動はウィキペディアのためを考えてのことでしょうが、信仰的な配慮が足りないのではないかと思います。実に遺憾です。

そして、この記事には中立のタグもつけさせていただきます。叙階等の聖ピオ十世会側の主張が十分には表記されてはおりませんので。--Biyue会話2013年3月9日 (土) 10:37 (UTC)[返信]

>実に遺憾
シンパを公言して下さる方が現れられました。私が果たすべき役割(穏便では無いやり方にブレーキをかける志向)は歓迎されざるものと判断し、新しいミサミサ聖ピオ十世会関連の議論から完全撤退させて頂きます。Tizizanoさん、Biyueさん、Lorettibarrendさんなど、カトリックの信徒の皆様に不愉快な思いをさせてしまったようで申し訳ありませんでした。無関係の人間が横槍を入れてお邪魔しましたこと、深くお詫び申し上げます。--Kinno Angel会話2013年3月9日 (土) 14:10 (UTC)[返信]
私こそ、話を混乱させてしまいまして申し訳がありませんでした。できましたら今後も、気の向いたときにちょくちょくいらして頂けましたら幸いには思います。ただこの団体にはいろんな評価があり、中にはセクトである、という情報さえあります(韓国語版wikipedia等)。ですので、単にwikipediaのルールから、というだけでなく、良心から微妙な問題にはそれなりに対処し、みたいな上手なスタンスで仲裁にご協力下さいましたら嬉しく思います。問題が微妙な為、経験豊富な部外の仲裁者もいらして下さった方がいいと思うんですよね。--Michael tiara会話2013年3月12日 (火) 10:15 (UTC)[返信]

>もし、私が「教父研究会」 に反対の立場だとして貴方と議論するときに「トンデモ研究会」と読んでもよいのでしょうか?ご一考ください。

「トンデモ」云々に関しましては、すでに Biyue さんのノートですでに「問題のある」に訂正させて頂いており、それ以上お話すべきことはございません(カトリックもプロテスタントも、およそ組織なるものはすべて「問題はある」わけですから)。また、教父研究会は、宮本久雄、加藤信朗等々、日本を代表する神学者や哲学者が主催し、ギリシア教父やラテン教父に関する発表をして邦文あるいは欧文(英独仏語)で研究誌を出す研究会です。Biyue さんが何とお呼びになろうがご勝手ですが、「聖ピオ十世会」とは、日本語の「会」のところが同じなだけで、そもそも位相の異なる「会」です。大変失礼とは存じますが、ご質問は考えるに値するものか否かご一考なさった後にしていだくと幸甚です。「カンドウ神父についてどう思うか」等々とか。また、中立云々に関しましては、主要な執筆者が「シンパ」を自称されているわけですから「中立」なわけはないでしょう。「英語版の記述の妥当性がどう担保されているのか」という質問に誰もお答えにならないので、こちらとしては少々拍子抜けです。なかなか面白いと思ったのは、英語版から転載されている注[22]の仏『リベラシオン』紙のタイトル“Vade retro Soutanas”で、このタイトルの意味がおわかりですか?これは言葉尻を捉えて悪口だ云々などというレベルの批判ではないんですよ。どうしてこんな記事が転載されたのか不思議でなりません。この項目も、いろいろな意味で「中立」ではないんですが、どうしてあなたはそれを見過ごされているのでしょう。不思議でなりません。Tizizano会話2013年3月10日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
とりあえず、Tizizanoさんがお話しのバスケットボールのレフェリーの話は、私も伺って驚きではあります。ただし、同種の話は初耳ではなく、前にも聖ピオ十世会経営の高校に通う男子生徒が好きな女の子の写真を財布の中に持っていた、というだけで退学処分になっている、等、2、3件聞いたことはありました。そしてまたこの団体には複数の評価が存在し、中には、セクトである、とするものさえあります。(ある退会者はそんな手記を書いているようです。だけでなく、韓国語版wikiにもこの団体がジャンセニスムとガリカニズムに偏ったカルトである、と書いてあります)ところで問題意識をお持ちのTizizanoさんに提案させて頂きたいのですが、まずこの団体がセクトであるかそうでないか、カトリックの中にいるか外にいるか、異端かそうでないか、離教かそうでないか、のように人によって意見が分かれそうなことを先に編集されるより、まず外堀を埋められてはいかがでしょうか。要するに、異様な事実があり、脚注付記可能な研究書も十分量お持ちなら、それからまずノートではなく本編の方にそうした話を沢山盛っていって、最後に本丸に取り掛かってはどうでしょう。そうすれば、例えば、Kinno Angelさんとの間で交わされたような議論もせずに済んだかもしれないし、より諍いや誤解少なく、結果的により省エネで生産的なページ編集ができるかとは思います。--Michael tiara会話2013年3月12日 (火) 09:01 (UTC)[返信]

残念ながらここではよく本題からずれて大変感情的な意見表明が多い様です。個人攻撃的なメッセージも見受けられます。やはり論点を既に一旦上記にて纏められた如くに、しっかり絞って議論を進めるのが肝要だと思います:

  1. 聖ピオ十世会の(特に1988年以降の)司教叙階・司祭叙階は有効なのか、そして教会法的にどうなのか
  2. 同様に、聖ピオ十世会の司教・司祭によるミサ、秘跡は有効なのか、教会法的にどうなのか(一般のカトリック信者(聖職者、信徒)が聖ピオ十世会の司祭によるミサに参加したり、秘跡を授かるのは?)

確かにこうした事柄を理解するには教会法の「有効(valid)」と「合法(illicit)」の区別(一般的には理解しにくいかも知れないが)をきちっと抑えておくのが大事です。この件に関しては英語版のウィキペディアに(確かに不十分な面はあるが論点整理には役立つ)入門的な記事がありますので添えておきます:http://en-two.iwiki.icu/wiki/Valid_but_illicit --Sonus peregrinus会話2013年3月13日 (水) 01:51 (UTC)[返信]

教会法的には、裁治権が必要な告解と結婚の秘跡以外は、有効ではあるが違法行為なので罪になる、という状態です。告解と結婚は、聖ピオ十世会の司祭は、管区司教から裁治権を与えられていないので、秘跡的にも無効になるようです。(ただし、物理的にカトリック教会に行けないような特殊な状態では、可とされることもあるようですが、これはレアなケースだと思います。)またここと関わりを持つことで、即座に破門とは言わないまでも、次第に離教状態を形成していく、と懸念されておられる枢機卿もいます。--Michael tiara会話2013年3月13日 (水) 05:19 (UTC)[返信]
形相、意向、質量が揃っていれば、司教や司祭の叙階自体は有効になる模様です。1988年以後に叙階された司祭の霊印も、ぎりぎり有効ではあるようです。が、現状、聖務停止状態になりますので、秘跡的には有効ですが法的には罪になり、その秘跡を行うこと、及び関わることには、教会法的にはその逐一に罪が発生します。--Michael tiara会話2013年3月13日 (水) 05:31 (UTC)[返信]
とても解り易く、一切の無駄を省いた形にまとめて頂き有難うございます。正に「秘跡的には有効ですが法的には罪になり」という表現は「秘跡」の超越的神秘と教会「法」の実践的機能性の2つの視点を的確に言い当てていると思います。この2つの視点がカトリック教会をめぐる諸事情を理解する鍵になりますね。
それに関連しまして、例えば2007年5月27日にベネディクト16世が出された「中華人民共和国におけるカトリック教会の司教、司祭、奉献生活者、信徒への手紙」を読むにあたっても(教皇庁の愛国教会に対する今後の政策展開の解釈に際して)大変参考になる視点であります:「其祝聖是屬『非法』,然卻是『有效的』」(公式のラテン語文書では"illegitimi ... sed valide ordinati"、英語では"illegitimate, but validly ordained")といった表現がよく出てきますね。
「『非法』(illegitimate)であると同時に又『有効』(valid)である」という一見矛盾して逆説的に見えてしまいそうな観点が両立するカトリックの考え方を理解することが先ず肝心であると思われます。--Sonus peregrinus会話2013年3月13日 (水) 14:38 (UTC)[返信]
いや、まったく違う話であり、聖ピオ十世会側に都合の良い我田引水の詭弁でしょう。愛國教會は、中国共産党の御用組織に過ぎず、離教派のルフェーヴル一派とは立ち位置が異なります。「一見矛盾して逆説的に見えてしまいそうな観点が両立するカトリックの考え方」という場合の「カトリック」という含意もあいまいですね。「異教の集会の要素もあるかもしれず、行くだけで最低でも小罪か、時には大罪(汚聖)が発生し得るので避けるように、と主張している」(←リンク切れ)云々についても、異教的要素などと言い出したら、クリスマス、復活祭、三位一体の教義、ラテン語使用と次から次へと問題になるわけで、「何に対して」異教的なのかも述べられていない、ルフェーヴル一派の知的訓練の乏しさには辟易します。「行くだけで最低でも小罪か、時には大罪(汚聖)が発生し得る」なら、そもそも何の目的で「『非法』(illegitimate)であると同時に又『有効』(valid)である」などと言う点に拘泥するのかもおかしな話であり、もう少し筋道の通った主張を期待したいところですが、これもないものねだりでしょう。一方で教会法を問題にしながら、他方で教会法上の正規の手続きを踏んで登位した教皇の意向には従わない(ルフェーヴルは、厚顔にも「私たちはローマ教皇の首位性に対する信仰、そしてペトロの岩の上に立てられた教会に対する信仰を保ちます」と述べていますが、やっていることはまったく逆)・・・このような表裏ある態度に説得力があると考えるの者はあまりいないし、都合の良いところだけを利用するエコンが勝利することは今後もないでしょう。Tizizano会話2013年3月13日 (水) 20:06 (UTC)[返信]
「いや、まったく違う話であり、聖ピオ十世会側に都合の良い我田引水の詭弁でしょう。」確かに聖ピオ十世会に都合のよく、且つ詭弁に見える要素があるかもしれません。しかし、「『非法』(illegitimate)であると同時に又『有効』(valid)である」という(ひょっとして詭弁とも思える)考え方は、ローマカトリック教会が普遍的な意味で聖職の「叙階」及び「聖別」に関して伝統的にとってきたスタンスです。別にここでは「ルフェーヴル派の厚顔さ」や某団体の「立ち位置」等を問題にしているのではありません。また、カトリック神学や教会法の体系が詭弁の塊であるかもここでは問題にしません。ただ単に「叙階」に関して、ローマ教皇庁公式文書の一例を引用して、「一見矛盾して逆説的に見えてしまいそうな観点が両立するカトリックの考え方」を纏めておいただけです。その教皇庁の公式見解が筆者個人にとってどうであるか(はたして詭弁、それとも全う?)等の価値判断はここではテーマにするつもりはありません。--Sonus peregrinus会話2013年3月20日 (水) 17:13 (UTC)[返信]
(一部補足させて頂きます:)
「愛國教會は、中国共産党の御用組織に過ぎず、離教派のルフェーヴル一派とは立ち位置が異なります。」確かに仰る通り、組織の来歴や内容に関しては立ち位置が全く異なりますが、教会法的に見て教皇庁の認可を受けていない聖職の叙階をどう取り扱うか」が問題になった点に関しては、同類項に属します。
論点整理の為に、ここではもう一つピオ十世会に関して、教皇庁の委員会「Ecclesia Dei」が出した文書を引用させていただきます:"There is no doubt about the validity of the ordination of the priests of the Society of St. Pius X. They are, however, suspended a divinis, that is prohibited by the Church from exercising their orders because of their illicit ordination."(http://www.ewtn.com/library/CURIA/CEDSSPX.HTM) ここでも正に「『非法』(illegitimate)であると同時に又秘跡としては『有効』(valid)である」というある意味で特殊な考え方がローマカトリック教会(即ち教皇庁)によって普遍的に適用されている事がお分かりいただけると思います。というわけで、以前申し上げたようにここでは、カトリック神学及び教会法に於ける「有効(valid)」と「非合法(illicit)」との区別(一般的には理解しにくいかも知れないが)をきちっと抑えておくのが肝心であります。--Sonus peregrinus会話2013年3月20日 (水) 19:31 (UTC)[返信]
いえ、私はカトリック信者なので、洗礼や叙階などの秘跡の重みは承知しており、「理解しにくい」ということはないのです。要するに、「有効」かつ「合法」というのがあるべき姿なのに、このような変則的なあり方をあたかもカトリック教会が認知しているかのような印象を少しでも与える記述は、カトリックの僅少な日本では、誤解を与えかねないということです。ルフェーヴル自身が「私たちはローマ教皇の首位性に対する信仰、そしてペトロの岩の上に立てられた教会に対する信仰を保ちます」と述べており、この姿勢は、カトリック信者として正しいあり方です。しかし、ルフェーヴル派はそれを必ずしも実行しておりません。教皇の指示を部分的に受け入れるだとか、公会議決定を拒否するなどというカトリックの立場はあり得ません。それは、カトリックではないのです。この記事になかった参考文献を挙げたのは私であり、最初の L'Intégrisme. Histoire d'une histoire(Paris, Nouvelles Éditions Latines, 1964)を書いたJean Madiranは、アクション・フランセーズのシンパであり、伝統派の流れを追ったものです。私自身はルフェーヴル派など伝統派の前史も現在のあり方、またその主張などを精確に把握しております。そして、何故ルフェーヴル派が「ピオ10世」の名前をとりわけ尊重するのかも承知しています。それは、極めて保守的だった「ピオ10世の」つぎの「ピオ11世」のときにアクション・フランセーズが断罪(1926年)され、この右翼組織に好意的だった伝統派に衝撃を与えたからです。このとき、シャルル・モーラスの弟子であり、アクション・フランセーズを擁護して近代主義(アジョルナメント)に批判的だった大物文学者にジョルジュ・ベルナノスがいますが、ルフェーヴル派の刊行物でこの作家が称賛されているのはそのためです。

http://www.laportelatine.org/publications/presse/2008/fideliter184/fideliter184.php

日本でも、ルフェーヴル派に好意的なカトリックが、正平協や真生会館でおこなわれる講演等を嫌うのとまったく同じです。しかし、このような消息に通じている日本人は、研究者やジャーナリストのなかでも数十人ほどしかおりません。Wikipediaは、フリーの百科事典であり、特定団体の宣伝媒体ではないので、特に、Apologia pro Marcel Lefevbre などという明確に擁護目的で書かれた典拠を元にした英語版に記述を丸投げすることには疑義があるということです。Tizizano会話2013年3月20日 (水) 21:45 (UTC)[返信]
コメント有難うございました。「カトリック信者なので、洗礼や叙階などの秘跡の重みは承知して」おられる、と伺って安心いたしました。私のほうも念のため単に「一般的には理解しにくいかも知れないが」という風に断っておいただけであります。確かに通常は「『有効』かつ『合法』」である方がすっきりしていますし、望ましい姿であると思います。しかしながら、一般向けのフリー百科事典であるからこそ、なるべく分かり易く「『有効』かつ『非合法』」という変則的というか一般的には理解されにくい特殊な考え方にも、しっかり言及しておくことは大切であると思われます。ヴァティカン内部に於きましては、特にCardinal Ratzinger即ちBenedictus XVI.に近い人脈&関係者がこうした論法をこれまでよく採っておりました。
一応論点整理のため、教皇庁の公式ドキュメントによく採用されて来た考え方をちゃんと分かり易く解説すべし、と申し上げた次第です。それも「教会法」及び「神学」の体系という限られた視点に絞って。しかしながら仰る通り、Wikipediaは特定団体の宣伝媒体ではないので、特に聖ピオ十世会のように極右組織に好意的な傾向が目立ったり、社会的にも問題の多い団体となりますと、あまり限られた視点に限定せずに、やはり組織の来歴や人脈の背景にフォーカスを当てて、むしろきちっと批判的な解説を実行する事も必要であると思われます。(しかしながら、例えばColomboの大司教Albert Malcolm Cardinal Ranjith Patabedingeのようにカトリック教会内部の枢機卿クラスの人脈の中にも、部分的にではありますが聖ピオ十世会に好意的な傾向が見受けられることも事実です。)--Sonus peregrinus会話2013年3月21日 (木) 05:43 (UTC)[返信]
Sonus peregrinusさん、こんばんは。おっしゃっていることはよく理解できます。また、客観的事実なので、ご自由にご加筆下さい。まったく参考文献のなかった項目に研究書類を追加したのは私ですので、ご案内の消息も熟知しております。相手がどんな立場であろうが、議論とは Sonus peregrinus さんとのように冷静に理性的に行いたいと存じます。cum oratione. Tizizano会話2013年3月21日 (木) 12:11 (UTC)[返信]
コメント有難うございます。私も同様に:humiliter cum oratione.--Sonus peregrinus会話2013年3月23日 (土) 20:11 (UTC)[返信]

テンプレートについての整理案

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「正確性に問題がある典拠」とは、全て列挙するとどれでしょうか。現在4つものテンプレートがこの記事には添付されていますが、常識的に考えて、ひとつでも減らしていった方が記事としては良いとは思います。本当に正確性に問題があるなら、別の典拠を用いる、とか、記事自体を無難なように改変する、とかで改善のしようはあると思いますので、Tizizanoさんなどこの記事について問題意識をお持ちの方は、列挙して頂きましたらと思います。また「宣伝的性格」についての問題提起ももう外してもよくはないか、とは思いますが。それなりに、批判的情報は載っています。まだ問題が残るとしたら、あとはどこを改善すべきでしょうか。--Michael tiara会話2013年3月12日 (火) 11:03 (UTC)[返信]

Michael tiara さん、こんにちは。随分と元記事とは違いますから、冒頭の掲示は一番下のものだけでも良いと思います。「小生はそのシンパという立場となっております」とされている Biyue さんの書かれた元記事は、英語版とほとんど同じであり、この記事が「中立性に問題がある」のは当然でしょう。また、Michael tiara さんご自身が、「普通のカトリック教会が行う聖香油」云々とお書きのように、聖ピオ十世会が「普通のカトリック教会」と思っている者は、日本にも海外にもほとんどいないわけです。韓国ではカルト扱いとのご指摘がありますが、ナチスに協力した戦犯を匿ったルフェーヴル一派に対する反感は、フランスでは韓国の比ではありません。フランス語版のWikipediaでも、聖ピオ十世会拠点になっているサン・ニコラ・ド・シャルドネ教会が「暴力によって」占拠されたと書かれています。マルセル・ルフェーヴルは、こうした暴挙をとめるどころか、極右の週刊誌『ミニュット』でこうした行為を支持し、他の教会も占拠するように扇動する記事を書き、その結果、パリ4区のサン・メリ教会やブザンソンのノートル・ダム教会が極右の若者たちによって襲撃されました。フランス中から憎悪の的になるのは当然でしょう。そのことは、Biyue さんが書かれた元記事にある “Vade retro Soutanas” という新聞記事のタイトルに端的にあらわれています。このタイトルの元になっているのは、いうまでもなく“Vade retro satana”(退け、サタン)というマルコ8:33のラテン語訳です。しかし、ラテン語に“Soutanas”などという語はなく、これはフランス語で「僧服」を意味する「スータン」をひっかけているわけです。つまり、聖ピオ十世会の司祭たちに関連して、意訳すれば「サタンのような坊主ども、出て行け」という、これ以上ないような嫌悪と軽蔑の表現なのです。トゥビエ事件など現代史を扱ったどんな研究書にも掲載されているものなので、聖ピオ十世会にとってはなはだ都合が悪いタイトルの記事から引用する必要がありません。つまり、英語版の執筆者はラテン語典礼を擁護する聖ピオ十世会のシンパでありながら、ラテン語が読めないのです。ただ、英語版 Wikipeia には、聖ピオ十世会をめぐる論争英語版もあって、この項目で聖ピオ十世会がこれまで加担した、反ユダヤ主義、ホロコースト否定論、歴史修正主義、性差別などの問題が厳しく糾弾されています。イタリアでも、聖ピオ十世会は、内務省、つまり警察のカルトのリスト(下掲)に入っており、「普通のカトリック教会」とまざらわしいような記述は一切あるべきではないと思います。ただ、「それからまずノートではなく本編の方にそうした話を沢山盛っていって」云々という、Michael tiara さんのご提案には賛成です。http://web.archive.org/web/20050309063603/www.sspx-cult.com/ItalianCultsReport.htmTizizano会話2013年3月12日 (火) 22:44 (UTC)[返信]
私は「普通のカトリック教会」とは、小教区や認可を持つ聖座に一致したカトリック修道会に属する教会のつもりで書きました。彼らが仮にカトリック教会であるにしても、特殊な状態にあり、「普通」ではないと思いました。ですので、そうした表現をしました。--Michael tiara会話2013年3月13日 (水) 04:01 (UTC)[返信]
それならば、価値判断を含む「普通の」よりも、「現在の」の方がわかりやすいのではないでしょうか。Biyue さんが付けられたもの以外の表のタグをはずしました。Tizizano会話2013年3月13日 (水) 07:34 (UTC)[返信]
そうですね、「普通のカトリック教会」と聞きますと、何が「普通」でいったい何が「異常/特殊」であるのかといった疑問が生じますし、逆に「特殊カトリック教会」などという概念は矢張りちょっと無理がありますし。聖ピオ十世会の場合、「普通」の教会というより、「第2バチカン公会議以降のカトリック教会一般の有様」を問題視する事を基底にしていますので、その事実関係に留意して書くのが肝心ではないかと思われます。勿論Michael tiara さんがどういう意図でこのように表現されたのかはよく理解できますが。--Sonus peregrinus会話2013年3月13日 (水) 13:52 (UTC)[返信]
>有効な理由説明をノートでして下さい。>構成・順序は英語版準拠で結構と思う。

「マメセル・ルフェーヴル擁護論」という伝記を用いた、明確な宣伝文書的性格がある英語版の妥当性を問題にしているのに、それに何も考えずにそれに準拠するとはどういうつもりですか?しかも、ベルナール・フェレー総長当人が「私たちはローマ教皇の首位性に対する信仰(nous gardons la foi dans la primauté du Pontife romain )、そしてペトロの岩の上に立てられた教会に対する信仰を保ちます」と述べていることさえ忘れられています。以下のタグを差し戻します。某会の宣伝は他のところでやって下さい。http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/4c521338d55dbeb75475befd9594746c

{{告知|議論|本記事には宣伝文書的性格があるとの疑義|section=宣伝文書的性格があるとの疑義}}
{{参照方法|date=2013年2月}}
{{正確性|date=2013年2月}}

Tizizano会話2013年3月14日 (木) 00:35 (UTC)[返信]

とりあえず、前の話題から答えます。韓国語版の訳はこうです。「ルフェーブル死後は、ジャンセニスムとガリカニズムの方向性を帯びたカルト化が始まっている、という評価もある」ただ、その出典は果たして検証可能性はあるのでしょうか、よくはわからないのですが・・見て感想をお持ちであれば、仰って戴けましたらと思います。フランスは、創価学会幸福の科学ワールドメイト崇教真光など主だった日本の新興宗教団体をみんなカルトリストに入れているように割とセクト対策に熱心な感じがするのですが、そのフランスにおいて(しかも、フランスは聖ピオ十世会の最大の活動先)この団体はカルトとして挙がっていないようですので、現状ではカルトとして言及しなくても良さそうには思いました。極右団体ではあるかもしれませんが。(参考:フランス政府のカルト指定団体リストwikipedia内にもあり、リンクを辿って、ドイツ、ベルリン市、カナダのも見てはみましたが、SSPXは挙がってはいないようです。--Michael tiara会話2013年3月14日 (木) 09:38 (UTC)[返信]
出典は果たして検証可能性はあるのでしょうか、← あなたは誰のどの言及個所について論じられているのですか。 自分で提示した問題に自分で答えて、何を考えられているのはまるでわかりません。私はイタリア内務省の例しか出しておりませんよ。ついでですが、「ジャンセニスムとガリカニズムの方向性を帯びた」云々ですが、どちらも聖ピオ十世会の思想と関係ないと思います。ジャンセニストたちは「隠れプロテスタント」(カルヴァン派的傾向)を疑われていたわけで、ガリカニスムは、異端でも離教派でもありません。それから、韓国語版がどうとか英語版がどうとかですが、私がまとまった記事を書く場合は、主要な研究書を読んだ後のことですので、英語版の執筆者に訂正を求めたことはありますが、必ずしも外国語版には依存しておりません。ニュースソースを疑うというのが、メディア・リテラシーの基本ですからね。Tizizano会話2013年3月14日 (木) 11:01 (UTC)[返信]
韓国語版の話は、私の見つけて紹介した情報です。それについて、Tizizanoさんが上の方で、韓国ではカルト扱いとのご指摘がありますがみたいな形で意見を展開されたので、訂正も兼ねてコメントしたまでです。正確には、断言ではなく、そうした書かれ方であり、検証可能性は不明なのだ、と。断定的な口調で始めた私の初回の書き方も悪かったと思いますので、それについてはお詫び致します。それと沢山研究書をお持ちとのことですが、でしたら前にも言ったことですが、それを参照されて、ノートではなく本編の方に盛っていかれるといいんじゃないですか?ノートページに幾ら書こうと、ここは編集者以外はあまり見ないですよ。私だって、自分が編集にかかわらないページは、本記事は見てもノートまでは面倒で見ることは少ないですし。その方が生産的かと思われます。ただし、脚注ある記事の殆ど説明のない削除はなるだけご遠慮頂きたいですが・・常識で考えて、wikipediaで他人の書いた記事を投稿したそばから全削除など繰り返せば、それはトラブルの元になると知るべきです。他のことは、またコメントします。ペトロ会の記事等は、脚注は英語版になかったのでつけませんでしたが、まあでも教皇庁に帰順した団体ですし、あなたが懸念されているように聖ピオ十世会の利益になるわけでもないですから、この辺は残しておいてもいいと思うのですがね。敢えて出典を、というなら、聖ペトロ会の英語版の本記事を訳してきて、翻訳記事としてwikipediaの慣習に従って転記、とかそれと現状との上手な統合、とかなるでしょうが、それもなかなか手間がかかるので・・・。--Michael tiara会話2013年3月14日 (木) 12:58 (UTC)[返信]
有効な理由説明をノートでして下さい」「ノートページに幾ら書こうと、ここは編集者以外はあまり見ないですよ」← あなたがいかなるお考えでこのようなことを書かれているのでしょうか。一方では、合意の形成を求め、他方ではまた別のことを求める。ご主張が支離滅裂なので、応答するのに、二重三重の手間がかかりますので、ご議論を統一されてから書き込まれて下さい。また、「普通のカトリックの学者」という言葉に過剰反応されているようですが、これはあなた自身の言葉(カトリックであったがカトリックから離れてしまった人を指すか、離教になりかけの人達であり、普通のカトリックの学者の中にも、そうでないという主張(沢田昭夫)もあります。)なのですよ。あなたは、その場の都合では権威に頼り、また別の都合ではそれを否定する。こういうご都合主義の真意もまるでわかりません。私が「凡庸」と述べたら「偏見だ」とおっしゃいましたが、通俗的な入門書と翻訳しかない研究者は、私にとっては「学者」ではないので、そのような権威付けなど、私には何の意味も説得力もないのです。とこかく、どちらでも良いですから、早合点はなさらず、考え方のブレをご自分のなかで統一されてから、議論されて下さい。「聖ペトロ会の英語版の本記事を訳してきて、翻訳記事としてwikipediaの慣習に従って転記、とかそれと現状との上手な統合、とかなるでしょうが」← あなたは何度同じ事を書いてもまったく読まれていないようなので、太字で再掲させて頂きますが、「小生はそのシンパという立場となっております」とされている Biyue さんの書かれた元記事は、英語版とほとんど同じであり、この記事が「中立性に問題がある」のは当然でしょう。ということです。なにしろ、典拠が“Apologia pro Marcel Lefevbre”(マルセル・ルフェーヴル擁護論)なのですからね。英語版の Talk:Society of St. Pius X にも22節に渡って議論があり、また Controversies surrounding the Society of St. Pius X という項目さえあり、これほど問題と不都合の多い記事はまれでしょう。ただ単に「〜と考えている」とだけあればよいところを、一節一節にカトリック教会に対する誹謗中傷が付加されているですから、それも当然だと思います。 Wikipedia:中立的な観点 >「中立性を達成するために」>「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」という観点からも、極めて例外的な少数意見であることが明確にされるべきだと思います。Tizizano会話2013年3月14日 (木) 22:09 (UTC)[返信]

Tizizano様、「問題のある」も同じようなものだと思います。それから、貴方が「教父研究会」の会員というだけですので、他の研究者や研究会自体を悪く言うつもりは全くありません。前回した記した件で、返事がありませんでしたので、貴方のノートにも書きました。返事はここでも貴方のノートでも結構です。

ノートに返信させて頂きました。Tizizano会話2013年3月16日 (土) 19:34 (UTC)[返信]

Kinno Angel様、先の書き込み内容ですが、十分でなかったです。大変失礼いたしました。遺憾であると思ったのは、貴方が聖ピオ十世会等の件でアンチ側にだけ編集を奨励するようなことを書かれ、しかもTizizano様にはカトリック教徒にとって重要なコンクラーベ直前でもそうだったことです。立場が違うとはいえ、信仰者としてこの時期にあのような事を書くのは配慮が足りないのではなかったと感じました。とはいえ、編集について貴方には一定の配慮があったのも事実です。この点については感謝いたします。--Biyue会話2013年3月16日 (土) 11:47 (UTC) [返信]

>貴方が聖ピオ十世会等の件でアンチ側にだけ編集を奨励するようなことを書かれ
一言申し上げます。(新しいミサなどにおいて)Tizizanoさんが大量削除をされ続けていたので、「ノートでの議論提起、加筆、編集という流れで記事を改善して下さい」と促していた流れの一環であって、当ノートページにおける私の提案も、聖ピオ十世会の側の主張との両論併記を(当初から)主張していたものです。Tizizanoさんよりは(相対的には)聖ピオ十世会側の見解を尊重してきた筈であり、何か誤解されているのではないでしょうか。ともあれ、肯定派と否定派のお詳しい両者がお揃いなので、私の出る幕は既にありません。特にコメント依頼でも出されない限り、こちらの議論には参加致しません。--Kinno Angel会話) 2013年3月18日 (月) 02:03 (UTC)一部補足--Kinno Angel会話2013年3月18日 (月) 02:05 (UTC)[返信]

Kinno Angel様、新しいミサは小生とは関係がありませんので、こちらではなく他の編集者に知らせればよかったと思います。誤解があったというのでしたらすみません。ただ、貴方が「プロジェクト」に誘われなかったのは何か理由かあったのでしょうか?--Biyue会話2013年3月21日 (木) 10:56 (UTC)[返信]

記事の信憑性

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Michael tiara さんが加筆された、「また、1982年5月12日(前年の暗殺未遂事件の一年後の一日前)には、この団体所属のスペイン人司祭が、教皇ヨハネ・パウロ2世を襲撃し、負傷させる事件を起こしている」← これって、本当のことですか?もしそうだとしても何か「出典」が必要だと思いますが、いかがでしょうか。項目ヨハネ・パウロ2世にも同様な記述がありますが、これにも典拠がありません。いろいと噂のようなもの([1])があることは存じていますが、ソースの不確かなものは、書かなくてもよいことのような気も致しますが、いかがでしょうか。Tizizano会話2013年3月19日 (火) 01:07 (UTC)[返信]

ヨハネ・パウロ2世の英語版記事に出典と共に詳しく載っています。全文訳そうと思いましたが、とりあえずそれが済むまで出典なしで一行だけ挿入しておいたんです。--Michael tiara会話2013年3月19日 (火) 04:21 (UTC)[返信]
そうなのですか。このあたりですね。“The assailant, a traditionalist Spanish priest named Juan María Fernández y Krohn , [ 150 ] was ordained as a priest by Archbishop Marcel Lefebvre of the Society of Saint Pius X and was opposed to the changes caused by the Second Vatican Council , claiming that the pope was an agent of Communist Moscow and of the Marxist Eastern Bloc . [ 153 ]”でも、内容が内容だけに、典拠は絶対に必要だと思います。典拠なしで暗殺未遂などという内容が目に入ると、閲覧者がギョっとしますからね。それにどんな組織だって多少は不穏な人物はいるし、大多数の会員とは異なる「極めて稀な例外」を持ってこられ、無理に「両論併記」されなくてもいいですよ。Tizizano会話2013年3月19日 (火) 05:01 (UTC)[返信]
事実なら・・・というか、多くの出典と共に書いてあるから事実なのでしょうが、私には少なくともポール・トゥビエ以上の問題だとは思います。
無理に「両論併記」されなくてもいいですよ。
無理に・・というか、これは真実なら書くべきでしょうが、現状ピオ会側の主張が英語版ほども盛られておらず、その為「観点」のテンプレートがいつまでも外せないのは問題だと思います。もしピオ会への宣伝になる懸念があるなら、さらにそのまた反論を書く等で調整を図り、彼らの主張自体は多少は盛るべきだとは思うのですが。--Michael tiara会話2013年3月19日 (火) 05:12 (UTC)[返信]
いや、もちろん問題ですよ。しかし、例外的な個人の単独犯による犯行と、組織ぐるみの隠匿とは次元が違うわけで、そのスペイン人は例外中の例外であり、そんな人がたくさんいたら、もはや宗教組織としても認可されないでしょう。それから、「中立性」云々のタグは、Biyue さんが付けられたものですよ。その他は別人ですが。Tizizano会話2013年3月19日 (火) 06:23 (UTC)[返信]

ダグの件

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Michael tiara様、Tizizano様、貴方方の編集経歴を見ますと、上記の件のように記事の内容に正確性や中立性に問題があるように思えます。ですからタグを2つ再度追加いたしました。それから、もうこの記事で何度も議論や編集に参加している方はシンパかアンチか自分の立場をはっきり述べたほうがよいのではないでしょうか? それから、聖ピオ十世会側の主張がまだ十分にはっきりしておらず、たとえば修道会の主張について説明が全くありません。Michael tiara様あと、プレビュー機能をお使いください。お願いします。--Biyue会話2013年3月21日 (木) 10:56 (UTC)[返信]

Biyue さん、何か勘違いされていませんか。Biyue さんが削除された個所は、すべて Michel tiara さんが加筆された個所ですよ。「編集履歴」をご覧になられ、誰が書いたのくらい確認してから発言して下さい。あなたの「シンパかアンチか」という発想は、どう考えても Wikipedia 向きではありませんね。「中立性」云々のタグを掲げられた当人が、およそ中立性を念頭に置かない「シンパかアンチか」などという発想でどうするんですか?典拠の明確な事実を信頼すべき参考文献から淡々と記述すればよいだけでしょう。上の「記事の信憑性」という節を精確にご覧下さい。私は、それがたとえ事実だとしても「例外的個人の単独犯」のやったことだから、そんなことまで書かなくてもいいんじゃないですか、と反問しているのがわかりませんか?Tizizano会話2013年3月21日 (木) 11:24 (UTC)[返信]
Biyueさんは「もうこの記事で何度も議論や編集に参加している方はシンパかアンチか自分の立場をはっきり述べたほうがよいのではないでしょうか?」との意見のようですが、一般参加型のwikipediaの「醍醐味」ともいうべきものはやはり、いろんな立場の人々が専ら(ジャコウネズミさんが別の場所で指摘された様に)「多数を納得させるだけの証拠の提示、明快、緻密かつ正当な論理展開及び賛同を得られやすい文章の書き方」により、有意義な議論形成および記事作成に寄与していく事だと思います。つまり、所謂実社会においては「識者」や「専門家」に対して「素人」や「「門外漢」、「先生」vs.「生徒」といった排他的・差別的メカニズムが働くわけですが、wikipediaのオンライン一般参加型辞典プロジェクトの魅力は、敢えてそうしたメカニズムを排して議論を展開していく事にあるのではないでしょうか。私自身これまでwikipediaの議論・編集に参加した場合、自分の経歴及び資格や、専門の研究分野、政治的乃至宗教的スタンス等を含めた自身の立場を明示してこなかったのもその為であります。--Sonus peregrinus会話2013年3月23日 (土) 05:38 (UTC)[返信]
とりあえず正論ですね。それに「シンパかアンチ」などという発想になると、カトリック全体からすれば前者は僅少なので、カトリック信者がこの項目に関心を持てば、議論の帰趨は誰でも容易に予測できます。Apologia pro Marcel Lefebvre を用いて書かれた英語版は、明確に「シンパ」の立場から書かれています。なにしろ、典拠が読んで字の如く「マルセル・ルフェーヴル擁護論」なのですから。加えて難点は、言語の問題にもあります。関係文書の大多数はフランス語で、少々ラテン語なのですが、引用のほとんどの部分が英語からなされており、さらに、私が「参考文献」を付け加える前は、それまでの執筆者の誰もそのようなものを所有もしていなければ、読んだこともないということです。このような異様ともいうべき例外状況で「シンパかアンチ」などという発想が持ち出されれば、支離滅裂な混沌に陥ることは自明でしょう。(そのような神のごとき視点が措定できるか否かは別にして、またここで認識にまつわる煩瑣な哲学的議論を展開する場でもないことを前提として一般論として述べますが)、百科事典の項目なのですから、一応は各項目を「外部から」記述することが求められているわけです。現在の最新版は、英語版の簡略版のおもむきですが、英語版をただ翻訳すればよいなどという発想ではお話にならないと思います。Tizizano会話2013年3月23日 (土) 09:11 (UTC)[返信]
Tizizanoさんのおっしゃる通り「参考文献」でしっかりと事実関係を整理し、記述を固めて行く作業が大事ですね。英語版をただ翻訳すればよいなどというのは確かに安易な発想だと思います。小生の方としては、これまでヴァチカンの公式文書を幾分かじった程度で、まだまだ未熟というか勉強不足であります。
未だ文献が読み足りない私ですが、欧州滞在歴(特にドイツ)が長かった事もあり、現地で聖ピオ十世会の関係者と多少なりとも面識になる機会がありまして、中には一定の見識と教養を兼ね備えている方も居られるようですが、会の執り行うミサの参列者の面々を拝見すると、なんとネオナチ・グループと関わりのある人々を見受ける事が多々ありました。これはどうやら、例外的・個別的事例として安易に片付け得る事ではなく、寧ろ会の組織的体質には明らかに右翼的傾向のある人達を引き付ける要素があるようです。実際ドイツでは聖ピオ十世会を公安当局の特別監視下に置くべきではないかという議論がなされたのも、その事と関係しています。
私自身、特に少数意見を掲げるグループに関心を示すという意味においては、もしかしてBiyueさん御提案の「シンパ」に属するかもしれません。実際、ローマ教皇庁から分離して別派的行動をとる集団があったとしても、それ自体べつに問題視すべきとは思いません。しかし、聖ピオ十世会に関しては、社会的に問題となる傾向が頻繁に観察されて来た事実があります故、百科事典特有の一般的な関心事項の範囲を超えない程度ではあっても、批判的な記述はしっかりと(参考文献等に基づく事実関係の整理を経たうえで)なされるべきであると思います。--Sonus peregrinus会話2013年3月23日 (土) 22:48 (UTC)[返信]

議論について

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コメント本項目の編集及び本ノートでの議論の内容への言及は今は致しませんが、議論の在り方としてWikipedia:方針とガイドライン以下の各ページの言及するとことに従っていただくよう要請するとともに、以下に私個人の議論に対する基本的立場を私の利用者ページから転載致します。参考にして頂ければ幸いです。

Wikipedia上の議論は記事編集における編集合戦を避けるための合意形成及び一編集者では判断しかねる事象についての相談のためのものであって、議論の目的化は厳に慎まれるべきであるという立場を取ります。また、指針において「合意は多数決ではありません」と「腕ずくで解決しようとしない」とは同等の重要性を持ち、かつ双方とも遵守すべきであるという立場を取ります。「腕ずくで解決しようとしない」の「腕ずく」には「いつまでも「納得」しない」ことも含まれます。自らに都合の良い指針だけを盾にとる態度は、自分においても余人においても非難されるべきであるという立場を取ります。異論が存在する中で自らの意見を合意形成において採用させる正当な手法は、多数を納得させるだけの証拠の提示、明快、緻密かつ正当な論理展開及び賛同を得られやすい文章の書き方により、議論の形勢を自らの意見に引き寄せる以外に無いという立場を取ります。仮に本来的に優位である意見において合意に至ることができなかった事態があれば、それは、発言者の意見陳述における証拠提示不足、論理展開の稚拙さ又は他人に反感を買うような物言いによるものであり、即ち発言者の力不足又は戦略ミスによるものであるという立場を取ります。合意形成は人間同士によってなされるものである以上、感情論が介入することが避けられず、特に他人に反感を買うような物言い又は文章量や投稿頻度に任せた腕ずくの論駁は、本来合意形成できたはずの議題を合意形成不能に陥らせる議論の非効率化又は本来的に優位ではない案での合意形成(論駁が効果又は逆効果のいずれに作用した場合でも)という、本来より好ましい合意形成が可能であった議論を反故にする危険性を孕むという認識に立ちます。

--ジャコウネズミ会話2013年3月23日 (土) 00:26 (UTC)[返信]

複雑な論議を呼ぶ宗教団体である「聖ピオ十世会」のテーマは、とかく議論参加者の間で感情が介在してしまい合意形成が難航する可能性が高い故、ジャコウネズミさんの基本的立場はとても参考になると思います。ところで、「仮に本来的に優位である意見において合意に至ることができなかった事態があれば、それは(...)即ち発言者の力不足又は戦略ミスによるものであるという立場を取ります」との事ですが、その場合いくら「発言者」自身が適切な論理展開などを心がけていても、誰か「議論参加者」の中で建設的態度を取らず、ジャコウネズミさん御指摘の「腕ずくで解決しようとする」姿勢が見受けられますと、残念ながら「本来的に優位であるはずの意見に基づく合意形成」には至りにくくなる事態も考えられます。やはり、なるべく参加者全員で建設的議論形成に寄与していく態度を心がけたいものです。--Sonus peregrinus会話2013年3月23日 (土) 05:02 (UTC)[返信]