コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:縁起

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

図の除去の提案

[編集]

初期仏教」という節に掲載されている下記の2つの画像には出典情報がありません。

((此縁性」というキャプションの画像)

(「十二因縁」というキャプションの画像)
この2つの画像は、利用者:Amedamachaによる自作画像であるそうです(参照1)・(参照2)。利用者による自作画像であり出典情報の無いものを、「此縁性」や「十二因縁」の解説としてWikipediaのページに掲載することは、独自研究の披露に該当するものだと考えられます。この図の除去を提案します。7日待ってコメントが付かなければ除去します。--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 01:31 (UTC)[返信]

利用者:Amedamachaによる作画内容が仏教の教理に沿ったものであれば独自研究とは言えないと思量します。記事の理解を妨げることがなければ図の除去は不要でしょう。この図が仏教の教理に適っているか否かを審議し、その結論により除去・残置を決めるべきです。会話2015年9月17日 (木) 08:44 (UTC)[返信]
>この図が仏教の教理に適っているか否かを審議
コメントその「教理」というモノの出典が必要であって、それがこの「初期仏教」という節に無い、というのが現状の状態です。
「此縁性」というキャプションが付いているほうの画像について。この画像内には「苦」と「楽」「煩悩」と「苦」という文字がありますが、本文によれば、【「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)の命題における「此」と「彼」が各々、「煩悩」と「苦」を指している】のだそうです(図の3つ上の段落を参照)。この【「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)の命題における「此」と「彼」が各々、「煩悩」と「苦」を指している】という理論・主張そのものに出典がありません。(※ただし、「此」と「彼」という用語は“小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)”からの引用であることが示されています)。
図の直上の段落には【既述の通り、この「此」と「彼」とは、「煩悩」と「苦」を指しており】と書いてありますが、この「既述」という表現が指しているのは、明らかにこの記事の冒頭の部分↓です(これ以外には「既述」と呼べる部分がありません)。
“開祖である釈迦は、「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」という、「煩悩」と「苦」の認知的・心理的な因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)を説いたが”(以下略)
この「開祖である釈迦は〜」で始まる段落そのものにも、やはり出典がありません。
従いまして、「此縁性」というキャプションの付いた図の中に出てくる「苦」と「楽」「煩悩」と「苦」という文字が、この記事の本文で“小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)”からの引用として掲載されている「此」・「彼」という用語の指す対象であることを示す出典情報が存在していないということになります。
“小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)”からの引用として掲載されている「此」・「彼」という用語と、「此縁性」というキャプションの付いた図の中に出てくる「苦」と「楽」「煩悩」と「苦」という文字は、出典情報に基づく関係性(用語とその指示対象という関係性)が保証されていないということになります。図の中に出てくる言葉と「ページ本文のテキスト」との関係性が出典によって結び付けられていないとなれば、そのような図は本文のテキストと関係のないものとして除去すべきだと考えます。--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 09:34 (UTC)[返信]
取り消し線で一部修正↑--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 09:54 (UTC)[返信]
取り消し線で一部修正、下線部を追記。--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 11:57 (UTC)[返信]
>記事の理解を妨げることがなければ図の除去は不要でしょう。
コメント「理解」の対象たる記事の内容(テキストや画像)には出典が付いていなければならない、というWikipediaの編集方針に関する話を私はしています。「自分はこの画像が載っていても記事の理解が妨げられなかった」と主張する人が現れても、「出典が付いていない」という事実は変わりません。--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 09:54 (UTC)[返信]
コメント「十二因縁」というキャプションが付けられた画像について。この記事の本文で「十二因縁」という用語が出てくるのは2箇所です↓。
まず1つめ。
“仏教の縁起は、釈迦が説いたとされる
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
という命題に始まる。これは上記したように、「煩悩」と「苦」の因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)であり、それをより明確に説明するために、十二因縁(十二支縁起)や四諦・八正道等も併せて述べられている。”
この部分は、十二因縁に関しては要するに「十二因縁は、此縁性縁起を明確に説明するためのものである」という文意だと見てよいでしょう。
次に、2つめ。
“この「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)の命題は、「彼」が「此」によって生じていることを示しており、この独特の言い回しは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、前後の小命題が論理的に結び付けられていて、「此があれば彼があり」の証明・確認が、続く「此がなければ彼がない」によって、「此が生ずれば彼が生じ」の証明・確認が、「此が滅すれば彼が滅す」によって、それぞれ成される格好になっている。
既述の通り、この「此」と「彼」とは、「煩悩」と「苦」を指しており、その因果関係は、「十二因縁」等や「四諦」としても表現されている。”
この引用部いわく、「十二因縁は、此縁性縁起における〈“此”と“彼”〉つまり〈“煩悩”と“苦”〉の因果関係を表現したもの」だそうです。そう読めますね?
この2つの引用部の文意をまとめると、次のようになります。【十二因縁は、此縁性縁起を明確に説明するためのものであり、此縁性縁起における〈“此”と“彼”〉つまり〈“煩悩”と“苦”〉の因果関係を表現したものである】。これ自体に出典情報がありません。なぜなら、元々の引用部に出典情報が無いからです
となりますと、この「十二因縁」というキャプションが付けられた画像は、「出典情報の無い本文」の中に出てくる「出典情報の無い用語(=十二因縁)」を解説するという役回りになっています。解説をする側(図)ばかりか、解説される側(テキスト)にも出典が無いのです。
利用者:Amedamachaによる作画内容が仏教の教理に沿ったものであれば独自研究とは言えないと思量します。
コメント麓さんが言う「教理」というものが、この記事の本文に書いてあるとお考えなら、その「教理」つまり本文には出典が必要です。上述のとおり、現状では、この記事には「十二因縁」に関する出典情報はありませんから、いま問題にしている「十二因縁」の解説図が「十二因縁」に関する「教理」に沿っていると言い得るための資料上の根拠は挙げられていません。「教理」なり本文の出典が挙げられないかぎり、〈利用者:Amedamachaによる作画内容が仏教の教理に沿ったものであるかないか〉という議論は始められないでしょう。--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 11:49 (UTC)[返信]
一応そこまで確認しておいてから、この「十二因縁」の解説図の中身について検討してみます。

この図に出てくる要素は、おおまかに分けると下記のようになるでしょうか。
  • 用語(無明〜老死までの12個の仏教用語)
  • 図形4種類(円、四角形、放射線、多角形)
  • 記号2種類(矢印、×印)
各要素が何を意味するのか。横向き矢印は、上述の〈“此”と“彼”〉の因果関係でしょうか?(明示されていないから明らかなことが分かりません。どうして執筆者が明示しなかったのでしょう?)。「十二因縁#十二支縁起の要素」というページがWikipediaに存在していて、そこにはこの図に対する解説めいた記述がありますが、そもそも、その「十二因縁#十二支縁起の要素」という節の中身たるテキストが無出典です。ですからこの図は「十二因縁に関する無出典の解説を図示した図」であるということになるでしょう、現状では。となれば、この図が「十二因縁」の図示として適切であるという資料上の根拠(出典)は挙げられていない、ということになります。
従ってこの図は、「縁起」や「此縁性」や「此縁性縁起」などと切り離して単に「十二因縁」の解説図として見た場合にも、その適切性を資料で裏付けることができない図であるということです。このような図はページから除去するか、さもなければ「十二因縁#十二支縁起の要素」という節の本文に適切な出典が付けられるべきです。--Leonidjp会話2015年9月17日 (木) 11:49 (UTC)[返信]
上記2015年9月17日 (木) 01:31 (UTC)の提案から7日以上経ち、麓さんからの再反論(特に、この2つの図の「作画内容が仏教の教理に沿ったものである」旨の主張)もありませんでしたので、この2つの図の除去を実行しました。--Leonidjp会話2015年9月25日 (金) 10:34 (UTC)[返信]