ノート:純粋理性批判
ねんのため、初版および第二版の google チェックをお願いします。気のせいでなければよいのですが、オンライン書店の紹介なのじゃないかと思われる節もあります。--Aphaea* 2005年1月23日 (日) 14:43 (UTC)
ひっかからないので一応残しておきます。
多様の統一、図式、構想力、統覚、存在についての議論など重要な論点の掘り下げがまだかけているとおもいます。方法論についても触れる必要があるかと思います。とりあえず概略だけをいれましたが、この部分はテキストに即した記述に書き改める必要があるかと思います。カント専門の方が大胆に修正していただければよいなと思っています。--Aphaea* 2005年1月26日 (水) 15:22 (UTC)
文末の「ただし」から、形式的と質料の問題における可能性に、実践理性の自由を含めて書きました。 2005年8月25日 (金) 12:10
プロレゴメナに言及した箇所のコメントアウト
[編集]プロレゴメナに依拠した箇所をコメントアウトしました。この項目はKdrVについての項目で批判哲学全般を扱う項目ではないので、KdrVの理論そのものを説明する箇所で、プロレゴメナとの異動を検討せずに記述をまぜるのはうまくないと思います。
また思うに、tranzendental について説明するのにプロレゴメナを使う必要はなく、例の "Ich nenne alle Erkenntnis tranzendal ..."を引用して説明に変えたほうがいいように思います。自分でやればいいんですがいまテキストがすぐ出てこないのでご勘弁。
プロレゴメナにおけるそうした概念のネットワークについては、別に項目をたてて、プロレゴメナの項で論じるほうがよいのではないでしょうか。KdrVを理解するうえでプロレゴメナが無益だとはいいませんが(特に統覚論などABで記述の異同が大きいところでは有益だろうと思います)、しかしこの項目でプロレゴメナとKdrVの理論的な関係についてきちんと説明を加えていない以上、なぜそこでプロレゴメナが引かれるのか読者にはわからないのではないでしょうか。その意味でやや不親切な記述でありまた不用意であるように思います。--Aphaia 2006年12月25日 (月) 09:02 (UTC)
すみません。元通りに差し戻しましたので、よろしくお願いいたします。--Yuu6676 2006年12月25日 (月) 16:59 (UTC)
- 毎度毎度、ありがとうございます(小姑みたいでごめんなさい)。それで、考えたのですが、いまイマヌエル・カントで書名のそこここについている青リンクをすべて除去し、タイトルをひとつのリンクとしてそれぞれの著作についての独立項目にしてはどうでしょうか。少なくとも批判期および後批判期の著作は(プロレゴーメナも含め)、1項目割いて、内容、成立事情、研究史と受容について専門家ではなくても相当量のことを書けるのじゃないかと思います。Aphaia 2006年12月26日 (火) 09:56 (UTC)
言葉を節約しないで説明を書いてほしいです
[編集]岩波文庫にありがちな難解な文章(たとえば、"この原理は理性に経験にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、"という記述)をなるべく少なくしていただければ幸いです。残念ながら、門外漢の私にはちっともわかりませんので、うまく編集できません。それでも、「カントは理性(Vernunft)がそれ独自の原理(Prinzip)にしたがって事物(Sache, Ding)を認識すると考えるが、この原理は理性に経験にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、」の後段はひどすぎます。「~に~に」と続いてますし。私の解釈がただしければ、次のように書き直したいです「カントの考えでは、理性は ... 事物を認識する。つまり、経験・認識というものが起こるよりも前に、先験的に、理性には事物認識の原理が備わっているとした。」 言葉をつくしてわかりやすく説明することは決してそのものの価値を引き下げるわけではありませんし、このwikiは専門家でない人たちが読むことも前提にしているはず。できれば私のような分野の違う読者にもわかるように皆さんの知識を整理してほしいです。--
素人に解る様に、素人が注釈を付けます
[編集]誤りや不正確であれば、消すか、書き直してください。 カントの普及版を1/4くらい読みましたか。流し読み。 すべて誤りと思っております。 書き込みを、素人の誤解として、それを材料に書き直してください。 踏み台のつもりです。 --列島(会話) 2021年1月24日 (日) 23:43 (UTC)