ノート:箱男
この記事は2014年7月13日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
テレビ番組内企画とゲームソフトについての記述を削除した理由を述べます。 まず、有名な劇作品にはたいていオマージュ作品がいくつもあるものです。したがって、 「元作品には、特にたくさんのオマージュが存在する」あるいは 「非常に有名な、地位の高い大きな作品が元作品のオマージュである」と示す事により 評価の材料とするなら可ですが、単に何々というオマージュがあると述べても格別意味が加わりません。 本件の場合、そのテレビ番組とゲームがどんなもので出演者や監督が誰々であるという情報が加わる事で 小説「箱男」そのものについて認識が進む事はありません。つまり雑談的な関連はあっても 百科事典の項目「箱男」の記述としては意味がありません。したがって削除するべきと判断しました。 なお、元作品を中心に作家の系統・流派や師弟関係を述べるに役立つオマージュの記述は有意義です。 また、オマージュ作品の方が項目名である場合は元作品を示すことは有意義です。 --Sunano 2008年3月22日 (土) 05:55 (UTC)
4月7日版を3日版に戻した理由
[編集]問題の1ページは、長い記事「箱男を読み解く」から〔推理小説であることのみ客観的に論証するための抜粋〕を行ったものです。7日説では両者が同じとなっていますが抜粋ページに解釈の幅すなわち主観はありません。7日説の「異常者だから何をするかわからない」には事実上制限があります。無制限に何がなんだかわからないなら小説を読んで楽しむ事はできないからです。書類だけで構成された小説は「足長おじさん」「瓶詰めの地獄」などたくさんあり、劇中のリアリティとしては嘘が書いてある可能性はありますが、〔読んで楽しむ小説が成り立つための条件として本当の記述であるという不文律〕があります。「箱男」では例外的に疑わしさが強調されていますが、全部が疑わしいのでは誰も読みません。〔明らかな嘘と明らかな本当とニュートラルな部分に読みわけること〕が出来なければ読みようが無いからです。また、もし主人公が劇中の他者に即嘘とわかることを書いた、あるいはその可能性があるなら筆記具筆跡についての記述は無意味になります。しかし小説に含まれる手記であり、小説に無意味な部分はありません。筆記具筆跡についてはノーマル小説の手法でノートの外に書かれた箇所すなわち主人公で はなく小説家が直接書いた箇所がいくつもあり、小説家は異常者ではないのでこれは本当のことです。 7日説に従っても、ノートの外と内の記述が矛盾することは同じで「嘘つき」を「異常者」と変えてもノート内外の矛盾により主人公が異常者であると〔推理できる〕点は同じです。したがって推理小説であることの論証性自体は損なわれません。ノート内に書けない文章を主人公がノートに書いたとしたらまったく狂っており、手記からはなにひとつ読み取れないのだから小説全部が意味を失います。以上の論証は二律背反の連鎖なので、反論は具体的にお願いします。--Sunano 2008年4月8日 (火) 12:54 (UTC)
独自研究
[編集]Sunano氏の編集が独自研究に当たると判断し、2008年2月25日 (月) 09:17の版まで差し戻させていただきました。--l0_0l 2008年4月8日 (火) 16:47 (UTC)
独自研究について
[編集]では、そのページが独自研究であるとして、それを削除すればよいですね。他の点には反論がありません。書類内の記述によるキャラクタは基本的に不確定です。ショパンと老父については特に夢の中と示されています。また、あらすじの域を越えた詳しい説明は無い方がよいし、それらの展開が劇中の現実か常に疑わしいのだからストーリーの説明にもなりません。--Sunano 2008年4月8日 (火) 17:21 (UTC)
- えー、各種方針をお読みいただけないでしょうか。そもそもニートに関する記述が既に独自研究であり、匿名性や認識論に関しての記述もSunanoさんの主観に頼ったもので、検証可能性を満たしておりません。WikipediaにはWikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:検証可能性という3大方針があり、少なくともSunanoさんの投稿よりは、それ以前の版のほうが基準を満たしております。もし、Sunanoさんの編集が信頼できる情報源から検証可能性を証明できる外部出典を出せるようならば出して下さい。それまでは、編集は控えていただけませんでしょうか。
- 今回もリバートさせていただきますが、もしまた理解されずに差し戻されるようならば保護依頼も検討しなければならなくなりますので、重ねてお願いいたします。--l0_0l 2008年4月8日 (火) 18:58 (UTC)
根拠について
[編集]ニートについてはおっしゃるとおりかと思いますので削除しました。 他の点についてはそちらのご意見に根拠がありません。 この辞典のルールを示しても、私の記述が「それに該当する」と言うためには具体的根拠が必要です。
ここに私の記述の根拠をすべて書きます。全文と参照してください。
「匿名性や自他関係の認識論などがテーマ」 箱の製法の序盤に匿名性の尊重が書かれ、最後の別紙にも箱男殺し関連で匿名性が弁ぜられています。 なによりも物理的に、箱に〔隠れる〕大きな目的のひとつが匿名性であることはいうまでもありません。 自他関係については、どちらが心理的になにゆえ強いか弱いかさかんにこだわって書かれており、 大半のシーンが該当すると言えるほどです。前の版の「見る見られる」はそのひとつで、私の版の のぞき穴の記述と合わせれば同様の意味が含まれるでしょう。
「劇中に登場するフィルムの一コマの他、安部公房の写真作品8枚が挿入されている」 「劇中に存在する書類の内容が文章の99パーセントを占め、書類外の記述は例外的」 これは小説本の物理的状態です。
「書類内容によると、頭から腰までのダンボール箱をかぶった浮浪者が主人公である。箱には工夫を凝らした内から外への覗き穴など工作がなされている。主人公の他に若い看護婦とその上司の医者、麻薬中毒者、或る箱男を追い払った人物、覗き屋の中学生などが登場する。突然別人が書き始めたり、さらに脈絡不明の章があったりする」 これはごく粗い要約でありすべて作品に含まれています。(書類内容を示す構造と突然別人・脈絡不明は前の版と共通しているので両版の比較に関係しません)別人は供述書からでありこれ自体が脈絡不明。〔Dの場合〕も直接にはつながりが示されません。
「よく読みかえせば説明はつけられる」 こまかに謎を解けないとしても〔異常者の手記であり別紙は彼と係った別人の筆記〕と いう説明はつけられます。
要するに、すべて作品そのものが根拠となっており各点作品と直結しており複雑な考証などありません。したがって独自研究ではありません。 この状況で私の版を全部消して前の版を全部復活させるのはおかしいでしょう。私は具体的に指摘された誤りを毎回修正しており、単に自分の版を復活させているのではあまりせん。 また、前の版にはオマージュ作品と無意味なネタバレと(書類内容が不確定であることは認めているのに)キャラクタ説明の誤った確定(ショパンと老父に至っては作中に「夢の中」と示されている)があり、これらを削除すべき根拠を私が述べたのに対して反論がありません。 --Sunano 2008年4月8日 (火) 22:50 (UTC)
- いや、だからその「すべて作品そのものが根拠となっており」っていうのがすでにあなた自身の解釈で、記事自体もあなたの評論になってしまっているんですよ。必要なのはあなた以外の解釈であって、それは信頼できる情報源から検証可能性を満たした形での出展が必要になります。
- それに、あなたの論拠で今までの版を全て除去して、まったく新しい記事にするのははっきり言って荒らしにも等しい行為なんですよ。今までの編集を無為にしているんですから。というか、もしよろしければ他の文芸作品の項目もごらんいただけますが?明らかにあなたの編集が異質なのがわかりますから。せめて登場人物紹介や、他作品への影響部分は除去しないで、新たに節を設ける形で加筆いただけませんか?
- 編集合戦を避ける為これ以上リバートしませんが、ここでご納得いただけないとなるとコメント依頼を出して、第3者にご意見をいただくことになります。--l0_0l 2008年4月9日 (水) 04:16 (UTC)
正確性
[編集]現行版の主執筆者のコメント依頼Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140528#著作権に対する理解・引用の問題などでKojidoiさんから情報提供があり、すこしそちらの方で議論がありましたが、とあるブログにおいて本記事の内容に疑問が提示されています[1]。ただちに詳しい検証はできませんが分かる範囲では概ね妥当な見解と思われるため、執筆者以外の判断と修正の協力を仰ぐため{{正確性}}を貼りました。前後しますが転載に関して削除依頼も出しています。『箱男』は好きな作品なので長い間放置されるなら自分で直すことも検討しますが、他に優先的に取り掛かりたいものも多いのでできれば他のかたにお願いしたいと思っています。--新続頭痛(会話) 2014年7月13日 (日) 04:36 (UTC)
上記のブログですが、みしまるもも氏の記事の「作品評価・解説」のセクションについて
- みしまるもも氏の「作品評価・解説」は引用の羅列であり、あのような解説に奇異な印象を受けるのはわたしだけだろうか(引用された「作者の言葉」などは適切にその意図や意味が「解説」される必要があるだろう)。それらの引用箇所は書籍やネット上で散見されるものであり、「作品評価・解説」は、それらをただ寄せ集めただけのように思われる(つまりコピペ)。自分の言葉で「適切な解説」が出来ないのであれば、あのような場所での解説の執筆は控えるのがマナーではないだろうか(わたしの率直な感想)。
と書かれています。継続的に指摘していることですが、私もまったく同感です。過去のコメント依頼で、このような書き方は著作権的には問題はないという判断が行われていますが、それは記事の品質についての判断ではありません。事典の記事としての質に問題のあるものとして{{Cleanup}}を貼り注意喚起と修正の呼びかけを行っておきます。--新続頭痛(会話) 2014年7月20日 (日) 13:08 (UTC)
ブログ「小夜川町〇番地 詩的な空想ノート」さんのご指摘のように、私のあらすじの書き方は雑なところがありましたので、「章」ごとに整理しました。元々この作品は、多くの断章から成る複雑な構成になっておりますので、分かりやすく直しておきました。そして、物語世界において、どの章(ノート)が空想で、どの章が現実かは明確でない仕組みになっていることは(読者はあくまで推定で判断するだけ)、どの論者も認識していることなのであり、特にそのことは小夜川町ブログ主さんだけが指摘していることではありません(そんなことは当然のことですが)。
また、それぞれの章をどう解釈しようが、相互間で何らかのパラドックス・矛盾が残り、矛盾が解消不可能な仕組みになっていることも、専門的な論者から指摘していることなので、たとえ、前半の《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》の章を空想・シュミレーションと解釈し、後半の《………………………》の章以降が現実だと見なしても、完全には全体の矛盾は解消されません。そして、前者を空想と見なすとしても、それをこの記事の「あらすじ」において、「…と〈ぼく〉は空想、シュミレーションしている」と私が書いて「断定」してしまうことは、それこそ、この『箱男』という作品の「物語世界における不確定」の構造を侵害することになるので、逆に「正確性」を損なうことになります。なぜかというと、安部公房自身がその章を、主人公〈ぼく〉の空想だと明確に示してはいないからです。
あと、少し横道に反れるかもしれませんが、なぜその後半の章で、〈彼女〉が「ぼくを贋箱男(もしくは贋医者)と思い違えて」というふうに、〈ぼく〉が思うことができるのかが不可解です。〈ぼく〉は医者が「贋の医者」だと知らないはずだと思います(まあ、これは私自身の感想なので、どこかに見落としがあるかもしれませんが)。
この作品内の物語を「因果律や整合性の観点」から突き詰めていけば、〈贋医者〉と〈軍医〉の絡み合う物語世界の数章も必然的に「虚構」となり、結果的には、彼ら二人が架空の人物となることが論理的に導かれていってしまうことも、大方の論者の見方となっています。でも、〈軍医〉が架空の人物だと解釈すると、後半の《………………………》の章内における〈軍医〉の遺体の存在に矛盾が生じてしまいますから、いずれにしても、パラドックスは解消されない物語の構造となっているのです。なので、この『箱男』の物語世界に整合性や因果律を求めて、誰が本物だとか贋物だとか、箱男の正体は誰か等という推理小説的な「謎解き」は、はっきり言って究極的にはどうでもいいことなんです。これも多くの論者が結論的に総括していることです。
ちなみに、あらすじをまとめる際に、例えば苅部直などは、物語世界を一応そのまま概略としてまとめるやり方をしており、〈ぼく〉と〈贋医者〉が箱の所有権をめぐって交渉する前述の例の章も現実のことのように捉えていました。
それから、小夜川町ブログ主さんが私に対して言っていた点で、勘違いなさっていることがありますので、指摘させていただきます。それは、《Cの場合》の章において、〈軍医〉=〈ぼく〉(箱男)と見なされるような場面(〈ぼく〉とそっくりのノートをCが所持しているのを、語り手である〈軍医〉が発見するところ)があるために、杉浦幸恵([2])がそう解釈しているとブログ主さんは解釈していますが、小夜川町ブログ主さんは杉浦幸恵の論文をよくきちんと読んでいないために、それが杉浦の主張だと早合点しているようです。
杉浦幸恵はそのすぐ後に以下のように述べ、その図式を「否定」してから論を進めているのであって、その後の論旨でも〈軍医〉=〈ぼく(箱男)〉などという導きに全くなっていません。
〈ぼく〉が語っているのだとしたら視点の侵略ということになる。ここでは、〈ぼく〉の語る物語に無関係な〈軍医〉が語り手となりうる仕組みを示したい。 — 杉浦幸恵「安部公房『箱男』における語りの重層性」
今回改めて様々な論文を読んでも、〈ぼく〉とそっくりなノートの場面があるからといって、〈軍医〉が〈ぼく(箱男)〉と同一人物だという短絡的な導きには、やはり誰も進んではいませんでした。時間的な矛盾やその他の観点から見て、それがありえないことは明白なので、そのような断定など誰もしていないことは、各論文をよくきちんと読めばわかることです。なので、〈軍医〉が〈ぼく(箱男)〉ではないという解釈は、特別、小夜川町ブログ主さんだけの特異な発見や解釈ではありません。皆さん、論旨を進めるための導入上の「見かけ上の仮定」で言っているだけなのは、少し読み進めれば解るはずです。そのことを無視して、殊更に導入部分だけをクローズアップして、《Cの場合》の章を「〈軍医〉=〈ぼく(箱男)〉」が一般的な大方の解釈だと言ってしまう小夜川町ブログ主さんの見方も、何かご自身だけが特別な発見をしていると言いたいがための、部分的な抜粋だと思います。
清末浩平([3]の主張も、その図式を肯定しているわけではないのは、小夜川町ブログ主さんが意図的に省いてしまった後述をよく読めば明らかなことです。
「軍医殿」はどうやら箱男のようであるが、彼の周囲の人間関係は〈14〉までの「ぼく」と「贋箱男」=医者と「彼女」との三角関係に類似しており、また、「軍医殿」が「戸山葉子」の裸を裸を見たいと「贋医者」に要求するという点など、〈14〉までの物語と同じモティーフが多数現れる。しかし、ここが重要なのであるが、「贋医者」―「軍医殿」―「奈奈」―「戸山葉子」という人物たちは、〈14〉までの「ぼく」―「贋箱男」―「彼女」ではない。関係として類似してはいるが、明らかに別の人物としてテキスト上に登場しているのである。 — 清末浩平「『箱男』論《6》類似と連合」
そして杉浦幸恵の論文の最終的な結論では、〈軍医〉も〈贋医者〉も、〈ぼく〉の「空想の産物」という解釈がなされており、簡単に言えば、誰が本物だとか贋物かという問題は究極的には無意味なことだと論じています。こういう見方は、ほぼ多くの文学論文の主流となっていて、平岡篤頼もやや杉浦とは異なりますが、ノートの記述者は〈ぼく〉(箱男)一人であり、他の人物の語りのノート(章)はフィクションだと論じています。
新潮文庫の平岡篤頼の解説について小夜川町ブログ主さんが、
「軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり~」と、軍医殿も箱男であるというふうに書かれている。 — 小夜川町ブログ
と言ってましたが、読み方がとても雑です。平岡篤頼が言おうとしていることは、〈ぼく〉が「見る、記述する」立場(箱男)から、「見られる、作中人物」の立場に「逆転」するという「概念からの意味づけ」であり、それまで作中人物だった〈贋医者〉との立場との入れ替わりに伴っての「役割交換」の意味の連鎖から導いているだけであって、〈軍医〉と〈ぼく〉(箱男)が同一人物だという意味の解説ではありません。平岡篤頼はその後に、「軍医殿が贋医者によって殺されることによって作中人物と化し、記述者として失格する」と明確に説明しています。
これは後段でも、「絶えず対になることばを誘い出す言語そのものの自律的な運動の発現に等しい」と平岡篤頼が言っているように、「軍医殿がほんものの医者であるがゆえに、ほんものの箱男になり~」というのは、「相互の入れ替わりからの対の概念転換」の解説であり、「誰が本物の箱男か」みたいな推理小説の犯人探し的な解説ではないのです、解説者の主眼はそういうところにはなくて、この小説自体が「反小説」の構造を持ち、「箱男」が「書いている箱男」について書くという、ある意味、作家(見る立場、認識者、記述者)が自分自身を描くこと、「書くという行為」(小説)の寓意になっているという文学的な問い、つまり、この作品の根本的な主題について言っているのです。これは平岡篤頼だけではなく、多くの論者でほぼ一致している方向性ですので、今回私はそれらの論調をまとめて整理しておきました。--みしまるもも(会話) 2014年11月29日 (土) 13:15 (UTC)
《死刑執行人に罪はない》
[編集]「自分が殺されて死ぬ瞬間の場面を「ぼく」はシュミレーションしている。 」とありますが、「シュミレーション」は原文ママですか?--116.81.95.153 2014年11月30日 (日) 10:21 (UTC)
- 116.81.95.153さん、こんにちは。「原文のまま」ではありませんが、この章の物語世界では、「ぼく」(軍医)が「君」(贋医者)に殺されることを「待っている場面」であることが明らかな状況説明となっています。「ぼく」が「君」に注射をされて絶命してゆく過程や、死体となった「ぼく」の肺に「君」が海水を注入し、箱をかぶせてリヤカーに乗せる場面が、「ぼく」の手によって「ノートに記録されている」ことになっていますので、当然これは「ぼく」の想像・シュミレーションということになります。死んでしまった後に、自分の死の過程をノートに記録することは物理的に不可能なので。
- 「ぼく」が幽霊だという設定ならば、その状況(死後に記録すること)は物語としては成立しますが、一応この物語世界では、「ぼく」(軍医)は生きてベッドの上でペンを走らせノートを書いていることになっています。
- ちなみに、この章(ノート)の真の筆者が誰であるかということは、また別の次元の観点からの話になり、それは作品研究論文や個人のブログでやることなので、この記事のあらすじ内で推理して書くことはできません。--みしまるもも(会話) 2014年12月1日 (月) 01:01 (UTC)
- そういうことではなく、単純に「シュミレーション」は「シミュレーション」の誤記ではないかという指摘なのではないでしょうか?ただ、作中でも「シュミレーション」と書かれているなら「シミュレーション」に書き換えるよりも(原文ママ)と注記して「シュミレーション」にしておくのが良さそうにも思えますし、そのための確認なんだろうと思います。--重陽(会話) 2014年12月1日 (月) 22:36 (UTC)
- ああそういう意味ですか、失礼しました Σ( ̄。 ̄ノ)ノ 。。。 ご指摘ありがとうございます。--みしまるもも(会話) 2014年12月2日 (火) 02:42 (UTC)
- 重陽さんの仰る通りです。言葉足らずですみません。--116.81.95.153 2014年12月2日 (火) 09:36 (UTC)