ノート:空気系/過去ログ2
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ブームの先節について
頭痛氏により、私が加筆した(本節の出典の一つである)『日刊サイゾー』に基づく記述が、独断で「本文」から、人目に付きにくい「出典節」に移動させられました。もし、この『日刊サイゾー』が出典として信頼するに値しないのでしたら、「他の本文での出典として使う」のも中止するべきでしょう。
御自分に都合の良い部分だけは「本文」の出典として使い、都合の悪い部分は「本文」には記述させないという、恣意的な編集はお控え下さい。なお、私自身の編集で加筆部分は「注釈」に移しており、「本文」とは並んでおらず、頭痛氏の恣意的な編集方針にも適ってるはずです。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 08:32 (UTC)
- 井戸端で指摘を行いました。評論家の評に保留を与えるような注釈を無記名の記事で行うべきではありません。--頭痛(会話) 2013年5月11日 (土) 08:48 (UTC)
- コメント ならば『日刊サイゾー』を本節(あるいは本項)の出典とすること自体を止めるべきでしょう。現段階では、他の箇所では堂々と「本文」の出典として使っている以上は、本文出典としての信頼性はあると認められているわけです。気に入らない部分は「本文」に使わせないという、頭痛氏の恣意的な編集方針には賛成できません(その上で、私の加筆部分の「本文」から「注釈」への移動は、「落とし所」と妥協しているわけです)。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 09:28 (UTC)
- 出典に使うべきでないというような話はしていませんが。記名の記事と同列には扱えないと言っているのです。違いが理解できませんか。--頭痛(会話) 2013年5月11日 (土) 09:30 (UTC)
- 注釈に移したから云々という主張をされていますが、記名の評に保留を与えるような使い方を無記名の記事で行うべきではない、と言っているのです。他の箇所は関係ありません。--頭痛(会話) 2013年5月11日 (土) 09:32 (UTC)
- 繰り返しますが、『日刊サイゾー』に出典としての信頼が置けないなら、本項(少なくとも本文)での出典としては一切使わないでください。それができないのならば、片や本文として堂々と使い、片や本文の外へ追い出すという「出典のつまみ食い」はやめましょう。
- なお、「違いが理解できませんか」ということですが、それを考慮(妥協)して、私の加筆部分は「本文」から「注釈」へ移し、既に「同列」にはなっていません。既に同列には扱っていない物を、さらに頭痛氏の趣向に合うように編集する事にまで、妥協はできません。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 11:23 (UTC)
- もう一度直前の私のコメントをよく読み返してください。あなたのコメントは私のコメントの要諦を何一つ踏まえることができていません。わからないなら諦めたほうがよいでしょう。--頭痛(会話) 2013年5月11日 (土) 11:27 (UTC)
- なお、出典のありかたについて納得できないのであれば方針文書のノートページやWikipedia:井戸端で意見を聞いてみるといいかもしれませんよ。--頭痛(会話) 2013年5月11日 (土) 11:33 (UTC)
- ですが頭痛氏による、「(作品ヒットの理由に関してだけは)日刊サイゾーは他の出典と同列に扱わない」、という意見も考慮して、頭痛氏が独断で「本文」から「出典の付記」へ移した私の加筆部分は、「本文」に戻すのではなく「注釈」へ移しております。よって、頭痛氏の意見は私の編集でも通っており、リバートなさる理由はありません。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 12:26 (UTC)
- 前節までの経緯をふまえ、一応管理者伝言板に報告を行ってあります。もういちど言いますが、どうしても納得できないのであれば井戸端や方針文書のノートなどで聞いてみるといいですよ。このまま続けても「いつまでも「納得」しない」ユーザとしてブロックされるだけです。--頭痛(会話) 2013年5月11日 (土) 13:11 (UTC)
(インデント戻します)
コメント 初めに言っておきますが、私は井戸端を読んで「本節」から登場した者ですので、「前節までの経緯」というものは存在しません。次にですが、私の譲歩(加筆部分は本文へは戻していない)により、頭痛氏の「同列に扱えない」という意見は既に通っており、頭痛氏のリバートはその理由を失っています。私は(形式的には)とっくに「納得」しているわけです。
さらにですが、本項目は脚注が「注釈」と「出典」に分かれています。私の加筆内容は「出典」ではありません(明白です)。よって加筆部分を「本文」から移動するなら、行き先は「注釈」になります。「注釈」に移すべき記述を、「出典」という不自然な場所に移し続ける頭痛氏の方が、「いつまでも納得しない」ユーザーなのです。--221.189.23.200 2013年5月12日 (日) 00:53 (UTC)
改定案
提案 井戸端の方に書き込みましたが、「空気系#ブームの先」の節にはジャンル全般に対する論説を集め、特定の一作品に対する説明は省くべきかと思います。 下記のようなかたちに改稿できればと思います。
宇野常寛は、東日本大震災が発生した2011年以降の日本において、悲惨な災害の反動から短期的には空気系の流行が続くだろうとの見解を示した[1]。
文芸批評家の坂上秋成は、日常的幸せを求める空気系が震災後すぐに廃れることはないが、大震災の影響や世界経済の不安定さから、空気系を白々しく感じることで強い物語が求められるようになると予想し[2]、 社会学者の宮台真司は『けいおん!!』のような日常ドラマが東日本大震災以降も支持を維持するのは難しいと述べている[3]。
TBSのプロデューサーとして『けいおん!』シリーズなど多くのアニメ作品を手がける中山佳久は[4]、日常の幸せをテーマとする作品は今後も支持されてゆくとの見通しを語った[2]。
宇野は、空気系が長期的に人気を維持するのは厳しく、最終的には「定番ジャンルのひとつ」に落ち着くとの予想を示しつつ、空気系のブームは虚構の中の日常が強靱で魅力的なことの証明でもあると指摘した[5]。
--ディー・エム(会話) 2013年5月12日 (日) 05:00 (UTC)
(すみません。出典の“空気系 物語なき楽園 穏やかな日常描き人気”. 朝日新聞朝刊13版: p. 30面. を基にした記述に不正確なところがありましたので一部訂正(差分)。--2013年5月12日 (日) 08:39 (UTC))
- ディー・エムさんの修正案は羅列的になってよくないです。文章間の相互のつながりが絶たれている。『けいおん』については記事内で「空気系」の作品として特筆しているのですから、震災後にも成功を収めた一例として挙げるのはなんらおかしなことではありません。
- 221.189.23.200さんは「無記名の記事で記名記事への留保となるような注釈をおこなうべきではない」という私の指摘に正面から向き合ってください。出典の無記名記事が「空気系としての評価ではなく、AKB商法が功を奏したものとして評価している」というのは出典に対する注釈ですので、記事本文の注釈を行っている「注釈」節に移動すべき意義も必然性もありません。少しは一般の研究書の脚注・出典の体裁がどうなっているか、図書館に行って学んできてください。--頭痛(会話) 2013年5月14日 (火) 13:32 (UTC)
- 単純な各論併記が一番無難で簡単かと思ったのですが、無理のない範囲で作文するとなると、こんな感じでしょうか?
宇野常寛は、2011年に発生した東日本大震災の影響について、悲惨な災害の反動から短期的には空気系の流行が続くだろうとの予測を示した。一方、社会学者の宮台真司は、2011年1月よりテレビ放送された『魔法少女まどか☆マギカ』が新たな人気の受け皿となった可能性があると述べ、気楽な日常ドラマが同震災後に支持を維持することは難しいと予想した。『魔法少女まどか☆マギカ』は従来の「魔法少女もの」の設定を逆用したといわれるシリアスな作風で大きな反響を呼び、第15回文化庁メディア芸術祭 アニメーション部門大賞、第11回東京アニメアワード 優秀作品賞(テレビ部門)、第16回アニメーション神戸賞 作品賞(テレビ部門)など多数の賞を受賞した作品である。
2011年夏、「百合」と呼ばれる女性同士の恋愛ものを扱う漫画雑誌『コミック百合姫』に連載中の4コマ漫画『ゆるゆり』がアニメ化、テレビ放映された。アニメ愛好家のブログなどを通じて話題が拡散する形で徐々に人気が拡大、癒しを主眼とした日常系作品としての需要に加え、巧みなキャラクター設定と高度な作画、声優陣の活躍などが支持され、第17回アニメーション神戸賞 作品賞(テレビ部門)を受賞するなど、注目を集めた。2012年夏、『ゆるゆり♪♪』のタイトルで第2期が放送された[1]。
2011年12月に公開された『映画けいおん!』は、リアリティのある日常描写が幅広い層の共感を呼び、第35回日本アカデミー賞 優秀アニメーション作品賞を受賞、興行収入が19億円に達するなど商業的にも成功を収めた[1][2]。映画というメディアの性質上、作品にスケール感を加味するという要請からロンドンを舞台としたエピソードが盛り込まれたが、放課後の部活動風景をはじめ些細な日常の中の青春譚を描くテレビシリーズの作風を踏襲し、「ファンタジーになることは避けた」と山田尚子監督は述べている。
空気系作品の長期的な動向について、TBSのプロデューサーとして『けいおん!』シリーズなどのアニメ作品を手がける中山佳久は、日常の幸せをテーマとする作品は今後も支持されてゆくだろうと述べている。一方、文芸批評家の坂上秋成は、空気系が震災後すぐに廃れることはないとしつつも、大震災の影響や世界経済の不安定さから『魔法少女まどか☆マギカ』のようなストーリー性の強い作品の需要が高まってゆく可能性を示唆した。宇野は、空気系が一過性のブームを経て長期的には定番ジャンルのひとつに収束してゆくとの見通しを示しつつ、この一連の空気系作品のブームは、虚構の中の日常が強靱で魅力的なことの証明でもあると指摘した。
- ^ a b 出典追加→『アニメーション神戸』「第17回アニメーション神戸賞 受賞者・受賞作品」
- ^ 出典追加→『日本アカデミー賞』「第35回に本アカデミー賞優秀作品」・『一般社団法人日本映画製作者連盟』「2012年 (平成24年) 全国映画概況」
--ディー・エム(会話) 2013年5月19日 (日) 14:50 (UTC) (2013年5月20日 (月) 13:22 (UTC)推敲により微修正)
- 「ブームの先」の節の主題は「震災後の評論家の予想(それに対する現実の展開)」というところにあると思います。上記の文案はその点が曖昧になってしまっており、「発生・流行までの経緯」と節が分かれている意味が薄れてしまっています。宇野・宮台の予想と坂上の予想が離れている理由もよくわかりません。--頭痛(会話) 2013年5月26日 (日) 09:30 (UTC)
- 説明不足でした。『映画けいおん!』の言及を後段に移動する構成ということですから、節構成は必然的に変更する前提になると思います。「ブームの先」節を前節と統合して、「発生・流行までの経緯」節を時系列にサブセクション化することを想定しています。「2000年代以前」、「2010年頃まで」、「2011年以降」というような感じで。
- 各評論の記載順は単純に時系列で、
- 短期予想(宇野(短期)、宮台)
- 直近の状況(実例)
- 長期的予想(中山、坂上、宇野(長期+総評))
- です。--ディー・エム(会話) 2013年5月26日 (日) 10:38 (UTC)
- (追記)個別作品(『ゆるゆり』と『映画けいおん!』)に関する言及部分については特に問題ないと思いますので、とりあえず先にそこだけ「発生・流行までの経緯」節に加筆したいと思います。--ディー・エム(会話) 2013年5月26日 (日) 13:56 (UTC)
- 「ゆるゆり」の部分についてですが、加筆はいいと思いますが、その出典からわかる範囲では「人気を得た→賞を取った」というところまでであって「~を受賞するなど、注目を集めた」と書くべきではないと思います。節の統合についてはちょっと判断を保留します。他の方の意見(可変IP等以外)もお聞きしたいです。--頭痛(会話) 2013年5月29日 (水) 15:35 (UTC)
- 報告『ゆるゆり』の「注目を集めた」を省いて本文に加筆しました。
- 「ブームの先」という節名を残すとすれば、『映画けいおん!』以降の記述を分けてそこに含めれば基本的な構成は変わらないのでとりあえずその形でも。--ディー・エム(会話) 2013年5月29日 (水) 16:19 (UTC)
- (追加報告)とりあえず「ブームの先」節を残す形で本文を改稿しました。もともと個人的にはこのようなトピックで震災を論評の材料に持ち出すことに強い違和感を感じていて、表層的な作風の流行り廃りを予想しあう図式だけを記述することに大した意味を見いだせなかったので、クリエイター当事者側の視点を加える意図で、新たに新海誠監督のコメントを追加しました。別の案があればさらに改稿を検討ということで。--ディー・エム(会話) 2013年6月1日 (土) 14:01 (UTC)
- 「ゆるゆり」の部分についてですが、加筆はいいと思いますが、その出典からわかる範囲では「人気を得た→賞を取った」というところまでであって「~を受賞するなど、注目を集めた」と書くべきではないと思います。節の統合についてはちょっと判断を保留します。他の方の意見(可変IP等以外)もお聞きしたいです。--頭痛(会話) 2013年5月29日 (水) 15:35 (UTC)
「新日常系」は車輪の再発明では?
「新日常系」についての記述が加筆されていますが、出典を探してニュースサイトを検索しても『結城友奈は勇者である』の製作スタッフが、自作品のキャッチコピーとして宣伝的に用いているに過ぎず、評論家による定義とは言えないもののように見受けられます。
この出典は、自主公表された情報源として公表者自身についての記事内で使用する、すなわちウィキペディアの「結城友奈は勇者である」の記事中で「スタッフが本作を新日常系と自称している」と記述するための出典としては問題ありませんが、「対象とは無関係な信頼できる二次情報源から有意な言及」ではないことに注意する必用があります。そもそも『結城友奈は勇者である』のスタッフが提唱する「新日常系」の定義に当てはまるような作品は、個人的に思いつくだけでも『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』やアニメ版『ガンパレード・マーチ 〜新たなる行軍歌〜』など、この作品以前にもありますし、そもそも空気系(日常系)のジャンルが隆盛する以前から「泣きゲー」などで見られた構図であって(空気系#他の作品類型との関係)、「新」どころか先祖返りのように思えます。これは車輪の再発明であって、新しくも何ともないのではないでしょうか?
同作の他には『ゆるキャン△』の宣伝に「新日常系」の語が用いられているのが幾つか見受けられますが[1][2][3][4]、『ゆるキャン△』を「過酷な状況や運命によって壊れる可能性を孕んだ日常を描く作品」と言われると、同作を第1話から最新号まで欠かさず、掲載誌のまんがタイムきららフォワードで毎月読んでいる身としては、大いに違和感があります。まあキャンプ場でのレクリエーションであっても、事故や事件に巻き込まれたり、熊に襲われたりするような過酷な状況はあり得ますけど……。いずれにせよ、少なくとも「新日常系」の定義は確立していないことを示すものでありましょう。--Kanohara(会話) 2018年1月2日 (火) 01:29 (UTC)
- 私はWikipediaに空気系も新日常系の項も不要だと思います。空気系はらき☆すたのファンだけが、新日常系は勇者であるファンだけが、それらの作品が何かの新しい潮流を起こしたかのように見せかけたいというエゴにより言葉を押し付けているようにしかみえません。どちらも他のサブカル系Wikiサイトに任せてこの項はバッサリ削除して頂きたいです。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月2日 (火) 02:08 (UTC)
- 返信 (うぃきっぺさん宛) 「空気系(日常系)」に関しては評論家による評価や出典が十分に存在し、「対象とは無関係な信頼できる二次情報源から有意な言及」という立項基準を満たします。「らき☆すたのファンだけが何かの新しい潮流を起こしたかのように見せかけたいというエゴにより言葉を押し付けている」というのは、うぃきっぺさん個人の印象、あるいは専門家ではないネット利用者の有象無象の意見であって、独自研究です。ここで議題にしている「新日常系」の問題とは全く事情が異なります。--Kanohara(会話) 2018年1月2日 (火) 02:16 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) あなたがそのらき☆すたファンでしたか。評論家と岸誠二というアニメ監督を比較すれば、社会的知名度の観点から発言に重みがあるのは後者の方だと思う人が多いと思いますが。だったらまずこの不条理な同居をやめて、新日常系を分けたらどうですか?孤立させた方が新日常系の内容を削除に追い込めるんじゃないですかね。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月2日 (火) 02:20 (UTC)
- 返信 (うぃきっぺさん宛) 言いがかりで話題を逸らすのははおやめ下さい。私は『らき☆すた』については原作もアニメ版も見たことがないのでコメントできません。私個人の私情とは関係なく、ウィキペディアの公式な方針としては、アニメ監督が自身の監督作品について語った内容のような一次資料よりも、評論家の意見のような二次資料に重みを置くのが原則です(「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源」「Wikipedia:検証可能性#独自研究」を参照)。これらはウィキペディアの全ての利用者が従うべき方針とされているものですので(Wikipedia:方針とガイドライン)、この方針に不満があるのであれば他国語版を含む全言語のウィキペディア利用者を説得してルールを改定するか、他の方針を採用するウィキサイトなどに活動の場を移すか、どちらかにしてください。
- 「新日常系を独立させる」という提案についてですが、私がこの議題の冒頭で述べたように、「新日常系」という概念はウィキペディアにおける独立記事作成の基準を満たしていません(「Wikipedia:独立記事作成の目安」を参照)。記述を移転するとするなら、分割ではなく「結城友奈は勇者である」の記事への一部転記という形が妥当でしょう(「Wikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記」を参照)。それであれば自主公表された情報源として公表者自身についての記事内で使用することが可能ですが、だとしても「#主な新日常系作品」の一覧については出典が示されておらず、独自研究として除去が妥当かと考えます。--Kanohara(会話) 2018年1月2日 (火) 07:23 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) そちらを参照しても監督が公式に定義付けたジャンルを削除しなければならない理由はさっぱりわかりません。ただ私は勇者であるシリーズや新日常系というジャンルには別に思い入れが無いので(新日常系と同様に空気系という人に通じない明確に定義できない言葉をWikipediaに掲載することに固執する行為は疑問に思いますが)、あとは新日常系の削除に反対する第三者に議論をお願いしたいところです。なおこのようなあるジャンルに基づく作品一覧を載せた記事はWikipediaにたくさんあることを知っていますが、それを挙げるとそちらに被害が及ぶのでここには伏せておきます。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月2日 (火) 08:32 (UTC)
- 返信 (うぃきっぺさん宛) 「監督が公式に名付けた」という説明は、『結城友奈は勇者である』という作品それ自身の解説としては妥当だとしても、一般化するには不適当だと申し上げています。
- 例えばの話ですが、ある監督が「私の作品はアニメ史上最高の大傑作である」と自称していたものの、実際には作品のDVD/Blu-rayの売り上げがランク外で、批評家からは無視されていたような作品があったとして、監督の発言をソースとしてあちこちの記事に「アニメ史上最高の大傑作は○○である」と書いて回ることが不適切であることはお分かりでしょう。
- そして、この「新日常系」の場合、「新」というからには従来の「日常系」に含めることができなかった新しいジャンルというニュアンスのはずですが、実際のところ、うぃきっぺさん自身がこの記事にせっせと加筆しておられるように、『結城友奈は勇者である』という作品以前にも類似するものが幾つもあり、新しくありません。車輪の再発明に過ぎませんし、監督などのスタッフが「今までになかった」と自称しているのも、作品の宣伝という利害のために自称しているに過ぎないでしょう。もし重要な分類であれば、他の批評家がこぞって取り上げたり使ったりしていそうなものですが、『結城友奈は勇者である』以外に用例がなく、第三者からは無視されているのが現状かと思います。
- > 空気系という人に通じない明確に定義できない言葉
- いいえ。「空気系」の定義については、批評家が記した複数の書籍に記されてありますし、「対象とは無関係な信頼できる二次情報源から有意な言及」があり、きちんとした出典が示されているので何ら問題ありません。決して「人に通じない明確に定義できない言葉」ではありません。
- > なおこのようなあるジャンルに基づく作品一覧を載せた記事はWikipediaにたくさんあることを知っていますが、
- まあ、中には独自研究に基づいた一覧記事も時々見かけますが、少なくともこの「空気系」の場合は定義が明確化されており、複数の批評家が「この作品は空気系(日常系)である」と形容している作品があるのですから、ウィキペディアが禁じている独自研究には当たらないはずです。定義自体が監督の自称で、それ以下の記述も監督の発言の拡大解釈にすぎない「新日常系」とは事情が大きく異なります。--Kanohara(会話) 2018年1月2日 (火) 10:51 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) こちらの方ですが、Kanoharaさんの「独自研究として除去が妥当かと考えます。」に賛成します。上の方の議論で、まず最初のステップとしてこの記事の内容を純粋に空気系だけにするべきであると気づきました。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月11日 (木) 12:45 (UTC)
- 返信 (うぃきっぺさん宛) ジャンルがブームになり、「空気系」と「日常系」の語の使用率が拮抗していた頃の、批評家たちの議論を紹介する記事に書き直す……という意味なら同意できます。そうでないなら別の議題にて。まあ、ブーム後の動向や空気系(日常系)の概念が後世に与えた幾つかの影響のひとつとして、記事の後半で「結城友奈は新日常系を名乗った」ことに軽く触れる程度ならいいのでは、とも思い始めていたのですが、いずれにせよ今の「新日常系」の扱いは大きすぎるでしょう。
- 特に異論がなければ、除去または扱いを縮小する方向で記事を修正しようと思います。--Kanohara(会話) 2018年1月12日 (金) 11:52 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) 「空気(日常)系から派生した作品群[要出典]、新日常系についても言及する。」となっているので、その出典が無い限りは除去するしかありませんね。結城友奈は勇者であるの頁に移転でもいいですし、完全除去でもいいと思いますが。独立させて頁全体を独自研究とするでもいいと思います。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月15日 (月) 00:26 (UTC)
- 返信 (うぃきっぺさん宛) 「独立させて頁全体を独自研究とする」のは「Wikipedia:独立記事作成の目安」や「Wikipedia:ページの分割と統合#分割の検討」のガイドラインに沿わないので、駄目だと思います。作ってもすぐに削除対象になるでしょう。残すなら「結城友奈は勇者である」の記事に項目一部転記提案の手続きを経てから転記するか、該当記述の執筆者であるKaijoooさんが転記するか(Wikipedia:ウィキペディア内でのコピー#帰属表示が必要ないケース)、一から書き直すかでしょう。前田俊博プロデューサーの発言を見る限り[5][6]、前田氏は別に「新日常系」の概念を創出して後継者を募ったり、新日常系の体系を作り上げたり分類したりしているわけではなく、あくまで自作品の作風を形容するのにこの単語を使っているだけのようなので、「主な新日常系作品」の一覧は除去すべきかと思います。現段階では「新ジャンル!」として記事にしたり、発言を忖度して一覧やカテゴリを作ったりするのは不適切かと。--Kanohara(会話) 2018年1月15日 (月) 01:08 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) 「空気(日常)系から派生した作品群[要出典]、新日常系についても言及する。」となっているので、その出典が無い限りは除去するしかありませんね。結城友奈は勇者であるの頁に移転でもいいですし、完全除去でもいいと思いますが。独立させて頁全体を独自研究とするでもいいと思います。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月15日 (月) 00:26 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) こちらの方ですが、Kanoharaさんの「独自研究として除去が妥当かと考えます。」に賛成します。上の方の議論で、まず最初のステップとしてこの記事の内容を純粋に空気系だけにするべきであると気づきました。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月11日 (木) 12:45 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) そちらを参照しても監督が公式に定義付けたジャンルを削除しなければならない理由はさっぱりわかりません。ただ私は勇者であるシリーズや新日常系というジャンルには別に思い入れが無いので(新日常系と同様に空気系という人に通じない明確に定義できない言葉をWikipediaに掲載することに固執する行為は疑問に思いますが)、あとは新日常系の削除に反対する第三者に議論をお願いしたいところです。なおこのようなあるジャンルに基づく作品一覧を載せた記事はWikipediaにたくさんあることを知っていますが、それを挙げるとそちらに被害が及ぶのでここには伏せておきます。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月2日 (火) 08:32 (UTC)
- 返信 (Kanoharaさん宛) あなたがそのらき☆すたファンでしたか。評論家と岸誠二というアニメ監督を比較すれば、社会的知名度の観点から発言に重みがあるのは後者の方だと思う人が多いと思いますが。だったらまずこの不条理な同居をやめて、新日常系を分けたらどうですか?孤立させた方が新日常系の内容を削除に追い込めるんじゃないですかね。--うぃきっぺ(会話) 2018年1月2日 (火) 02:20 (UTC)
- 返信 (うぃきっぺさん宛) 「空気系(日常系)」に関しては評論家による評価や出典が十分に存在し、「対象とは無関係な信頼できる二次情報源から有意な言及」という立項基準を満たします。「らき☆すたのファンだけが何かの新しい潮流を起こしたかのように見せかけたいというエゴにより言葉を押し付けている」というのは、うぃきっぺさん個人の印象、あるいは専門家ではないネット利用者の有象無象の意見であって、独自研究です。ここで議題にしている「新日常系」の問題とは全く事情が異なります。--Kanohara(会話) 2018年1月2日 (火) 02:16 (UTC)
終了 結局、記述転記先についての議論が未解決のまま、なし崩し的に解決という気もするのですが、問題の記述が除去されたため議論をクローズします。過去の版から「結城友奈は勇者である」の記事へ内容を(ウィキペディアの転記ルールに従って)転記したり、新たに書き直す形で「結城友奈は勇者である」の記事で「新日常系」というキャッチコピーについて解説する、というような編集に対しては反対意見がなかったと思いますが、それについて何らかの形で解決すべき議題がある場合は、新たなトピックを立てて下さい。--Kanohara(会話) 2018年1月15日 (月) 18:22 (UTC)
- コメント すみません。「新日常系」除去の議論場所はこっちだったのですね。
- 特に異論も出ませんでしたので当該節を除去しました。作品記事での加筆は強く反対はしませんが、必要かと問われれば、正直あんまり……これ[7]がソースなのだとしたら、仮に作品記事に書くとしても「局のプロデューサーがファンに対してSNSで「日常系(切実)」や「新日常系」のタグ付けして作品を宣伝するよう呼びかけていた。」とかいうぐらいの話でしかなく。
- 作品一覧表の方も独自研究がどうこういう以前に合点がいかないのは、上記の出典の中で「新日常系」の発言者自身が「ジャンル自体は定番の変身ヒロインもの」だと言い切っているぐらいですから、話の文脈上、かわいい系コスに変身する女子中高生グループが主人公の日常ドラマベースの作品だけど実は世界全部が崖っぷちの危機みたいなストーリーのことを指す言葉ではないはずなので(それって普通にプリキュアシリーズとかと一緒やんみたいな話にしかならないので)、「日常系だと思って見始めたら……」という発言から察するに、ソース記事にある前田Pの発言趣旨としては『メガゾーン23』とか『涼宮ハルヒの憂鬱』とか『彼女がフラグをおられたら』とかみたいなことを言いたかったのではないのかなと思ったのですが(結論が真逆の「そんな嘘日常いらんわ」的な作品も入れるなら『地球へ…』とか『楽園追放』とか)、なのに全然違うベクトルで「新日常系」作品がリストアップされていたりして、正直これの特筆性も一体どの解釈が正しいのかも全くわかりません。
- しかし出典に基づいて作品記事に加筆する分には、情報の重要性と質的に個人的にはあんまりおすすめはしかねますが、そのあたりの扱いはどちらでも強い拘りはありません。--ディー・エム(会話) 2018年1月16日 (火) 10:46 (UTC)
- 返信 (ディー・エムさん宛) まあ、こちらの出典[8]には「第1期で我々が「新・日常系」というジャンルをうたった以上……」という発言が出てくるので、「ジャンル」を自称している、とすること自体に問題はないと思います。さきほど、あちらの記事に少し加筆しておきました。
- 嘘日常系といえば『BLOOD-C』とか印象的で、あれはなんであのような嘘くさい日常になっているのか出典もあるのですが……まあ、アンチ日常系、ポスト日常系について総括した文献はあまり見かけないので、思うところはあっても記事に書けることは少ないのが現状でしょう。--Kanohara(会話) 2018年1月17日 (水) 04:20 (UTC)
疑義いろいろ
主に、記事の定義的な記述について、複数の疑義があります。
- 冒頭部
- 「『空気系』と物語 ―『けいおん!』にみる成長の物語―」『立命館文學』第652号を、本記事概要の一番主題の箇所の出典としていますが、当該出典は「空気系を定義しようとする論」に対する異論が主題のようです。反論的記事を概要の出典とするのは、あまり適切でないと思えますが…それを差し置いても、実際にリンク先の80pに似たようなことは書いてあるが、表現がどこかズレているように見えます。出典に沿った形に修正してもいいですが、どちらかというと要出典に変えたほうがいいのかな。いや出典自体はあるかもしれませんが、どうもリンク先を出典とした文ではないという印象です。
以下「空気系作品の特徴」節について
- 物語性の排除
- 文献『本格ミステリー・ワールド2012』を確認した結果、「ドラマツルギーの排除」に相当すると思われる記述は見当たらない、僕には見当たらなかったため、出典から外そうと思います。ただし他の部分には一致する記述があるため、他の本と結び付ければ、もしくは拡大解釈すれば出典といえるかもしれない(しないほうがいいはずである)。…で、この一文には3つも同時に出典がついてるのですが、本文は他のふたつの出典を正しく反映しているんでしょうか?
- また、この節は一見すると出典がしっかりあるようですが、「舞台が狭いエリアに限定されること」と「物語性の排除」の出典がそれぞれ独立しており、両者の因果関係が示されていません。場所は物語性に関連する意味のある要素に僕にも見えますが、「意味があること」は出典によって示されなければ意味がない。それとも各出典を実際に読むとそれは示されているのでしょうか?
- 関係性
- 逆にこちらの節に「物語性の排除」のことが書かれており、節の名前である「関係性」についての出典が少ない、そしてやはり関係性と物語性の因果を示す出典がないように見えますが。あるいは記事は伝わる表現をできていないだけで、「キャラクターの関係性を使うことでチョココロネの話をやっている」というような書き方で出典にちゃんと書いてあるんでしょうか…?出典に使われている朝日新聞の記事には書いてないように見えますが。
- 萌え系の美少女に絞ったキャラクター配置
- ここで『本格ミステリーワールド2012』が人数と世代についてのみの出典として使用されています。しかし本書には「男がいない」とまでは書いていません。さらに、本書で小森氏が挙げている「みなみけ」は男性もかなりメインで出る漫画なので、本記事の定義に該当しません(だから小森氏が書いていないのは自然)。
- 虚構への現実の混入
- リンク先“なぜ日常系が流行る?「攻殻機動隊S.A.C.」神山監督が感じたアニメファンの世代交代 という記事ですが、これは神山監督の心境について迫る記事で、単に「日常系は現実的な舞台である」という単純な事実を示す出典としてはかなり変な気がします…どうしても使えないわけじゃないですが、「ファンタジー色が薄い」という事実だけについてならもうちょっと適切な出典がありそうな気がしますが。ありていに言うと、無理して出典記事を探してきた感じがする。
- いつか終わる日常
- サザエ時空の排除(超意訳)は、「本格ミステリーワールド」に書いてあることと真逆で、氏は空気系作品の特徴として時間経過しないことのほうを重視しています(ていうか、これは本記事でも離れたところに書いてある)。いくつか記事を参照しましたが、氏以外にも時間経過「しない」ことのほうを空気系の特徴として述べている人は複数いるようです。年代経過の起きない「みなみけ」「ゆるゆり」を空気系に含むとする小森氏の想定は、少なくとも本記事の定義しているものとかなり違うように見えます。本記事でも「ゆるゆり」だけ違うと指摘されてますが、そもそも本記事の定義に沿わないゆるゆりを何で本記事が空気系に含めているのか、これまた記事中で何度か使われている『立命館文學』第652号がソースということですが、そのさらに引用元は小森氏の別の著書でした(僕はまだ確認していませんが、この小森氏の『神、さもなくば残念。」はどうも『本格ミステリーワールド2012』とかなり内容が近いらしい。記事の再録や加筆かもしれない)。
そもそも、「空気系作品の特徴」節に傾向として選抜すべきものが上記5項目である出典はあるんでしょうか?必要なのは、「これら5つの傾向が空気系で特に主要な傾向である」という出典ではないのですか?しかも、これらは本記事でそこそこ名前の出てくる方の主張と矛盾していることは上記の通り。立命館の文でも別の著書から引用されていますが、小森健太朗氏は「本格ミステリーワールド2012」で5つの共通性を簡潔にまとめ、空気系の定義的なものを提示していますが、これが本記事の定義とは違うものです。そりゃ人によりけりでしょうが、本記事の示す「傾向」に出典がないのなら、それを小森氏のものより優先する理由がありません。そうなると、本記事は「小森健太朗は以下のような条件を挙げた(人によって矛盾する条件を挙げていることもある)」と書き方を改めるべきである。もっとも小森氏以外に簡潔な条件をまとめた人間がいないとは思えないのですが…立命館の記事でも他に上がっていないということは、ないのかもしれない。本当にこの5項目が適切なのか。根拠不明で選ばれた5項目にいくら出典があっても困るだけです。
僕の疑義は言い換えれば、本来どの出典もそれぞれ違うことについて書いてあることをかき集めた結果、出典はついているが独自研究になっているのが本記事なのではないか?という疑義です。たまたま小森健太朗氏の『本格ミステリーワールド2012』など一部出典だけを確認した結果が上記ですが、氏の記述を結構重要な出典に使いながら本記事にその主張がまともに反映されていないのはとても気になります。他の出典も同じような使われ方をしていないか不審に思う。
実際に独自研究をつけたり、内容に手を入れる前にノートに書いたのは、個人的にもう少し文献を調べてから動こうと思っているためもあります。が、上記は現段階でもノートには書いておいたほうがいいと判断したものです。
なお、ノートでの数年間の議論について、記事の変遷とともに完全に把握したとは言えないので、疑義の中に重複する内容があるかもしれないことをご了承ください。--Higasikatatom(会話) 2018年10月14日 (日) 04:23 (UTC)
- 冒頭定義文の出典を追加、文面を若干調整しました。併せて、禧美の出典を戻しました。その箇所の記述は単に「空気系」の論陣による言説を総体的に概説した解説であればよく、「空気系」の概念がどのように批判あるいは評価されているかということとその出典の信頼性の評価とは全く無関係ですので(それは「空気系」なる概念のクオリティの問題であって出典著者の批評のクオリティの問題ではないので)、記事の説明対象を高評価していないという理由で主観的に出典を除去するのは適切でないと思います。もし仮に、「空気系」を否定的に解説する資料群に書かれた「空気系」の定義や理解が誤りだと断定できる出典が存在するのであれば、それらの異なる内容の出典同士を比較した上でより信頼性の高い記述に置き換えるか、両論併記とすることは問題ないと思いますが、そのためにはまずは反証となる出典が必要です。
- 特徴の節のところは上記ご指摘のように、小森の定義(未成年女子4〜5人がメイン、目標への邁進・達成がない、恋愛からの隔離、家族ドラマが主題にならない、過度の不幸の排除)を軸に修正いただく方が、独自研究排除の方針からすればベターかと思います。
- その後の節の方が個人的には気になりますが、いじると大変そうなのでそっちに手を付けるのは見合わせ中です。--ディー・エム(会話) 2018年10月22日 (月) 13:45 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。否定的な出典をそこに使うのは嫌だというのは僕の個人的好みの話ではあるのですが、出典を除去し要出典にしたのは純粋にその出典先と内容が異なるという判断からです。この部分の表現はそちらの編集で改めていただき、問題なくなったと思います。ありがとうございました。…履歴を見たところ、この箇所は先に無出典で書いてあった文章をそのままに後から出典をつけられていますね。他にもそのような箇所がないかは調べておきます。
- 小森定義を使うのがベターというご意見ですが、僕自身がそう言い切れないところがあるので相談しました。どうも小森健太朗氏はたまたまシンプルな定義を出したというだけで、このジャンルの話題によく出てくる人物でもないようです。立命館の文章でも小森氏の定義を用いつつ、宇野氏らの語る「空気系」に対する批判を行っていますが、まず小森氏の想定する「空気系」は宇野氏らの文脈と結構違っている可能性があり、立命館の文自体がそこを考えずごっちゃにしている気がします。気がするだけで僕も宇野氏らの文献を確認してはいないのですが。
- なので小森定義以外がないのかということを、この記事に実際に出典をつけてきた方なら何らかの答えを出せるかもしれないと思い聞いてみています。しかし、このまま意見がなければ大改造(出典のある箇所も消えるかもしれない)することもやむを得ないとも思っています。
- 「経緯」以降の節に関しては、僕も出典がついてるだけでほとんど独自研究じゃないかと思えますが、優先順位としては定義から何とかしたいです。--Higasikatatom(会話) 2018年10月22日 (月) 14:47 (UTC)
- 新たに数冊の参考文献を読みました。本記事の中心的登場人物となっている宇野常寛氏が本当に定義を出していないのか不審に思っていたのですが、宇野氏の著書も別にアニメの話を中心に書いてるわけではなかったのですね。宇野氏は『ウォーターボーイズ』や『仮面ライダー555』が「関係性」の作品であるという論の中で、関連しているものとして空気系作品についても触れる、という順であったため、空気系アニメだけを話題の中心にしておらず、必ずしもはっきりした定義をしていない、また『みなみけ』のような例外的条件のある作品まで考えていないのも自然なことでした。(ぶっちゃけ氏はらきすたけいおんより555の話をしたがっていると思えた)
- とはいえ「関係性」は宇野氏がとても重視している特徴であることは僕も確認できました、が、氏は「関係性」と「ドラマ性がないこと(Higasikatatomによる雑な要約)」を切り離して考えていないこともわかりました。現記事のように別項目に分けるのは宇野氏の意見も正しく反映しているとは言えません。
- また、既に述べたように本記事は複数の独立した出典を関係あるように書いているという印象はますます強まったほか、出典に書かれていない表現をほんのり付け足していたり、内容が大きく相反するわけではないが編者の意訳がすぎると思われる記述や、脇道的に書かれたものをやけに大きい出典として使っている箇所(前述の神山監督の例と似る)も散見されました。ちょっと、大幅に書き直す案を考え始めていますが、正直僕以外でもなんとかできる方がいるならなんとかしてほしい。出典を確認できる方がいれば今一度精査をお願いしたい。--Higasikatatom(会話) 2018年10月27日 (土) 11:07 (UTC)
- コメント 調査お疲れ様です。宇野の各出典は一部しか目にしたことがありませんが、他の論者とは若干毛色が異なる印象は確かにありますね。ただ、空気系という用語の細かい定義にはこだわっていないようにも思えます。小森の書誌だけでなく他の論者の主張も反映したほうがベターであるのはおっしゃる通りだと思いますが、一方で、何かしら軸になる部分がないと整理がつかない気もします。一応後発の論文でも複数引用されている小森の定義をまずはひととおり提示した上で、それに対する異論や別の定義などを補足していく形が一番現実的ではないかと思います。小森の定義への異説としては
- 広瀬、禧美が、空気系の代表作とされる『けいおん!』が空気系の概念に当てはまらないと主張(定義自体は小森を踏襲)。一作品の特殊性の指摘ではなく、実質的に空気系論自体に対する異論。
- 本記事「広義の空気系/メタ空気系」節の記述が正しいとするなら、宇野の定義では(恋愛の成就や社会的意義のある記録達成ではなく)連帯による達成感を描いた部活ものの青春映画に萌え要素が加わったアニメ作品が(狭義の)空気系。その定義だと達成目的やコンフリクトを伴う物語も含まれることから、他の空気系論者の主張(キャラクターの可愛さだけでコンテンツを売るためストーリーが必要ない)とは発想が根本的に異質で小森の定義にも合致しない。
- ただし「空気系という論説への批判」節2段落目の記述によると、宇野は「狭義の物語性を決定的に排除する」という言及もしており一貫性には欠けるので、そもそも空気系の厳密な定義解釈にはあまりこだわっていない可能性あり。
- 恋愛要素が排除される理由について、小森はそれを物語性や時間要素排除の一手段とみなしているのに対して、氷川竜介は視聴者のキャラクター所有欲の保護(「俺の嫁を奪うヤツ」の排除)を理由としている。おそらくは言外に男性視聴者を専ら前提としているものと推測されるものの、対象視聴者の性別について直接的な定義の明示は無い模様(仮にそうだとすれば、男女問わず人気を博したとされる『けいおん!』の作品説明と食い違うほか、原作が百合専門誌連載のため多数の女性ファンを抱える『ゆるゆり』なども空気系作品に例示されていることとの齟齬などが指摘される可能性あり)。
- 小森自身の例示の矛盾として、『みなみけ』はメインが実姉妹3人なので家族ドラマの排除原則と矛盾する。ただしそれを指摘する出典がなければあえて言及は不要(ウィキペディア的に記事には書けない)。
- などが考えられるでしょうか。とはいえ、空気系という概念自体、全体的に深堀りしてもおそらくスッキリした説明にはならないかと思いますので、定義・概説のところはあまり各論の是非や評価には踏み込まずさらっと基本的な部分だけでやり過ごせる形が無難かと想像します。
- 従来の記事が細かい情報の継ぎ接ぎになってしまっている点は同感です。しかしここの記述には一応の出典提示がついているだけに確認が容易でなく、なかなか手が出せません。
- ちなみに当記事中、
- 「空気系という論説への批判」節の1段落目
- 「2001年から2010年頃」節内の3段落目(『けいおん!』関連)
- 「2011年以降」節のほぼ全文
- 「ブームの先」節
- の箇所については過去に私が編集した内容ですのでその部分の精査・確認については対応可能です。過去の議論仲裁(参考:#改定案)であったり部分毎に一応言及意図があったりはするものの、若干個別作品に入り込みすぎているところや空気系と直接関係の薄い記述も目につくかもしれませんので、バランスが悪いようなら適宜改稿いただければと思います。—ディー・エム(会話) 2018年10月27日 (土) 15:56 (UTC)
- 何箇所か書き直しましたが小手先の編集では難しいようです。まさに現状がご指摘の「軸がない」状態だと思います。
- 軸のひとつとして小森定義(原文の表現は「共通性」)を使うのは良さそうですが、宇野氏の記述からも「共通性」程度のものは見出せるのと、広瀬、禧美両氏の批判文書が宇野氏を想定していること(宇野氏の著書を確認した結果、僕は批判の内容にほとんど同意できないことがわかったのですが、それは無視する)より、この2論者の話が軸になることを考えています。「小森は共通性から時間について見出した。宇野は関係性の論から関連付けて語っている。(そして反論意見がある)」こんな感じ?
- 宇野氏は空気系の細かい定義にそれほどこだわってもいないというのは僕も同じ意見で、氏の論は平成ライダーなどと結びつけたものでアニメに限定した話題とは言いにくいものですが、ただ別に小森氏も空気系アニメの話を主軸で語ってるわけではないんですよね。両者の定義の相違については話の切り出し方が違っているだけで、微妙な食い違いしかない、というかどちらも例外が発生する程度のゆるい条件にすぎないので食い違っても大した影響はない、と考えています。ただ、両者は別人であり意見を組み合わせることは難しい。
- しかし参考文献『“日常系アニメ”ヒットの法則』に関してはメインで空気系を語ってきたわけではない宇野、小森のどちらとも違い、完全に日常系(空気系)を主題に扱ったものだろうと予想されますので、これには何かあるかもしれません。この本は近いうちに読める見通しですので、案を固めるのはその後にします。出典が正確であれば、時間経過についての矛盾する主張はこの本にあるらしい。
- ところで広義の空気系/メタ空気系節ですが…ここは宇野定義の重要な部分でもあるため、概要から文節するべきではないと思うのですが、それはともかく『ゼロ年代の想像力』ハードカバー版と『思想地図〈vol.4〉特集・想像力』のどちらもウォーターボーイズが先にあって、そこに空気系の話題が加わるという順序なんですが、もしかして本記事はウォーターボーイズのほうに対して「広義の空気系」という表現を創造して主従を逆転させているんじゃないかという予感がします。あるいはレンザブローってところで連載していたらしい宇野氏のコラムに書いてあった可能性はゼロではないんですが、記事が消えて全く確認できなくなっています。困る。僕もどこか読み飛ばしていたかもしれないので、また書き直す際に文献を確認しなおしますが。
- 氷川竜介氏の発言についてはジャンルというより『けいおん』への言及で、しかもこれは座談会の中での発言なので、あまり重視しすぎるものではないと思います。ジャンルの記事であるここでけいおんについて言及しすぎるのはあまり良くないと思うのですが、参考文献もけいおんしか見てないんじゃないかというのはそこそこあるようですね…。--Higasikatatom(会話) 2018年10月28日 (日) 12:59 (UTC)
- コメント 記事の応急処置ありがとうございます。以下雑感です。
- 宇野の言説に関して。おそらく空気系そのものの本質を解明しようという意図はなくて、フィクション作品の流行の変遷を俯瞰する中で当該年代の観測結果として空気系なるキーワードがでてきた、ぐらいの感覚で論じておられるような印象を持ちました。
- 広瀬、禧美の空気系批判の内容に関して。実質的には宇野よりもむしろ東や氷川などの方が(彼らは『けいおん!』放送当初に空気系の典型的作品として批判対象としていた経緯があるので今さらジャンル定義から除外できないため)主要な批判対象になっているように思います。
禧美の方はそもそも宇野を他の論者より特別視しているようには読み取れませんし、広瀬の方は宇野の論説への言及にかなりの紙面を割いてはいるものの、批判内容そのものは空気系論の一般通則に対してのみなので、実際にはさほどリンクしてない感じはあります。
宇野は逆に、従来も『けいおん!』を特別とりたてて空気系を論じていたわけではないと思いますので、むしろ他の論者よりもこの問題の外にいるのかなという印象を受けます。宇野は『けいおん!』を高評価している雑誌記事もあるようですし、彼は過去にディスっていないだけにそこはフリーハンドなので特に固執する理由もないのだろうと思います。 - 『“日常系アニメ”ヒットの法則』について。その本は読んではいないのですが、当記事を見る限りではかなりざっくりした読み物なのではないかという印象を持ちます。他の出典で表現の正確性や情報の精度をうまく補完できれば実質的な考察内容は一番核心に近いのではないかと推察します。物語性がある無し関係なく女の子キャラ4〜5人をメインに据えるのが売れやすく製作側がそれを要求するというのはおそらく事実で、脚本的にキャラをあまり動かさなくて良ければ予算をケチれるのも事実ですし(ただし大ヒット作はそれなりの枚数使っているはずですが)、なおかつ2000年代頃から芳文社が萌4コマ雑誌のアニメ化攻勢を積極展開した(そして一迅社とか他社もそれに乗っかった)のでそういう作品が量産されたという理解で間違っていないと思いますので、それを考察してまとめている出典さえあれば空気系ブームなるものの核心的な説明はほぼ書けるのかなという読みはありますが、なかなか都合よく情報源が無さそうです。その文脈で言えば『けいおん!』も含めてすっぽり収まるのですが。
- 参考まで、一応こちらのページで『「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション』の(1)と(2)が一部(冒頭部分のみ)再掲載されていました→『PLANETS』連載一覧。『思想地図〈vol.4〉』の対談記事も過去にネット上で閲覧した記憶があるのですが紙面が閲覧できるページは現在既に見つかりません。--ディー・エム(会話) 2018年10月28日 (日) 14:46 (UTC)
- コメント 記事の応急処置ありがとうございます。以下雑感です。
- 『“日常系アニメ”ヒットの法則』ですが、想定よりかなり質が低い。読むば読むほど著者の無知、論理の飛躍、根拠のない考察が頻出し、読むのが苦痛で、内容をかみ砕くのにもう少し時間がかかりそうですが、とりあえず出典でついてる部分については手を入れました…。売上15000いかないとヒット作ではないそうです。そうかあ。根拠のない考察を本記事で出典として使うのは、どうかなあ。--Higasikatatom(会話) 2018年10月31日 (水) 14:14 (UTC)
- 無理に使用しなくていいですよ。査読されていて信頼できる情報源であっても品質が低いため使用しない、というのは問題ありませんし。著者名を出さない(責任を個人で負わない)本書にそこまで信頼をおけるのかというのもあります。キネマ旬報映画総合研究所は2013年に閉鎖されてますことですし、思い切ってバッサリカットしてもらってもよろしいかと。--Haetenai(会話) 2018年10月31日 (水) 17:46 (UTC)
- 当記事の記述を読む限りでも、「一部の例外を除けば空気系はそんなにヒットしてません」と(タイトルに偽りありみたいなことを)言いつつ「空気系アニメはDVDセールスに適した作品形態である」とちぐはぐなことを言ってみたり、そもそも整合性が無い感じなので同書の記述そのままでは出典として使うには厳しいクオリティなのだろうという予感はありましたが、やはりそんな感じですか……。
- 谷口功・麻生はじめ『図解入門業界研究最新アニメ業界の動向とカラクリがよ〜くわかる本[第2版]』(秀和システム社、2017年)という書籍の一節(pp.44, 45)に本記事「空気系アニメとアニメビジネスとの関係」節と類似内容の記述があるようですが、もしかしたら『ヒットの法則』からの要約もしくは抜粋かもしれません(書籍のプレビューで一部閲覧しただけですので書籍の全容は確認していません)。同書に「ヒットした日常系アニメの主な作品」というリストが掲載されていて、『ひだまりスケッチ』『らき☆すた』『日常』『ゆるゆり』『男子高校生の日常』『ゆゆ式』『たまゆら 〜もあぐれっしぶ〜』『ご注文はうさぎですか?』『SHIROBAKO』『だがしかし』『ふらいんぐうぃっち』という2007年〜2016年の11作品が挙げられているのですが、その年代で男性キャラ作品も含んているのに2015年放送の『おそ松さん』は入っていなかったり、本文で代表的作品と紹介されていた『けいおん!』も同リストに挙がっていなかったり、選別基準がわからないのでおそらくこれも記事には使えません。--ディー・エム(会話) 2018年11月1日 (木) 14:27 (UTC)
- おそ松さんは現版の本記事の定義する空気系とはだいぶ離れてる感じですが、定義の根拠自体がいい加減なので、入れられるように本記事の定義のほうを変えることもやろうと思えばできそうですね(しない)。しかし『日常』(小森健太朗氏も述べていたが、本作は空気系の条件に意図的に合わせられているように見えるが全く空気系ではないと思える)はまだしもSHIROBAKOを日常系に分類するというのは明らかに無理がありますね。ちゃんと分類を定義してる参考文献、本当にないのかもしれません。
- 『“日常系アニメ”ヒットの法則』について続きを書きますが、本書の基本は東浩紀氏のアニメ論に宇野氏の論の一部を組み合わせた感じですが、先の議論にあるように本書は2011年4月ごろのwikipedia空気系[9]を引用している箇所があり、本文全体としても参考にしていると思われます。本書オリジナルの指摘もそれなりにありましたが、基本的には宇野説に近く、物語性がないことを重視しています。サザエさんとの違いとして美少女キャラクターが中心であることを指摘していますが、これも他の論者と同じようなものでしょう。
- ここまではいいんですが、この後に舞台が日本でもちびまる子ちゃんと違って聖地として現実の地形が出てくるとか、サザエさんと違って時間が経過するとか、このへんの特徴は思いついた順に書いてる感じです。本書でも数回言及のある『みなみけ』はこれといった聖地がなくて時間経過もしない(&やたら存在感のある男も出る)作品なのですが、著者は中身までは興味がなかったようですね…
- まず全体的に日常系アニメや視聴者のことを舐めている印象があります。だから24やコードギアスやグレンラガンと違って途中から見ても大丈夫とか軽率に書いてしまえるんでしょう…比較対象が何でその3作なのかわかりませんが。宇野氏あたりはポルノグラフィなどと挑発的な表現を使いながら実態は好意的にさえ感じられるのですが、逆に本書はうわべの「物語性がない」という表現をそのまま信じているようです。そして最後に物語がないというのは短絡的に見てる人の言い分だ、とTBSの中山プロデューサーの反論(本書のために直接インタビューしたらしい)を載せているわけですが、短絡的に見てるのはどう見ても本書の著者自身です。
- また本書は日常系が流行するまでの歴史的な記述、社会的背景にはかなりのページを割いているのですが、研究というより著者の独自予想と言うべき内容でした。特にビデオゲームの記述については、この著者はファミコンというものを見たことがないのではないかというくらい酷いものだったことを述べておきます。しかしこういう記述もやはり本記事に反映されておらず、本記事の出典の使い方の印象は質の劣る本書においても同じものでした。本書から本記事に反映されているものは「日常系と空気系は同じ」「現実的舞台」「途中から見ても大丈夫」「卒業や進級がある」「売上」「ラブひなとの関連(実際にはセーラームーンかららき☆すたにつながるいい加減な歴史解説の中にラブひなが出てくる)」あたりでしょうか。
- この中で売上データに関しては『けいおん』関連商品のヒットについてはそう外れたことは言ってないと思いますが、DVDの売り上げについては15000本が本書の絶対基準です。そして13000あれば製作費を回収できるだろうと予想を書いているのですが(別の文献「アニメビジネスがわかる」に基づいて著者が計算したもの。正しいのか不明)、それで結局13000いった日常系がどのくらいあるのか、他のアニメより売れてるのか売れてないのか、製作費が安かったりするのかといった比較は一切ありません。けいおん以外の売上についてはまったく参考にできるものがない。「空気系アニメとアニメビジネスとの関係」節については改善を考えず除去を提案します。これは空気系の特徴を述べていない虚無の記述です。
- 視聴率についてはけいおんは平均視聴率が1期1.9%、2期2.1%であり(ビデオリサーチのデータとしているが地域不明)、深夜アニメの合格ラインが2.0%(ソース不明)、比較としてはじめの一歩が2.3%、東のエデンが3.9%なんだそうです。他の日常アニメも2%いかないのは少なくない、と書いてあるんですが、データがやけに断片的なうえ、根本的に著者のデータの見方が正しいのかどうかよくわかりません。これも一緒に消してしまっていいと思っていますが意見があればお願いします。--Higasikatatom(会話) 2018年11月4日 (日) 08:39 (UTC)
- ラブひなのくだり、内容を検討したものの丸ごと消去が最適と考えましたのでよろしくお願いします。この部分の原書の記述をおおざっぱに説明しますと、セーラームーン(ヒロイン多数)→天地無用(セーラームーンと違って月野うさぎ的なヒロインのリーダーがいない、ヒロインの並列化)→ラブひな(ハーレムもの、内容もバトルなどがない、現実的)→恋愛要素を削ってあずまんが大王のできあがりという、ものすごくツッコミ所の多い歴史解説になっていました。著者は『ラブひな』が自身の定義する「日常系」の条件と全然一致しないことに気づいてないとしか思えないのですが、それはこれが書き足された版[10]においても同じことです。
- こういう奇妙な記述は気付いた編者が消していけばいいわけですが…本書はこのように奇妙ながらも、本記事の空気系の前史とは違うアプローチからも切り込んでいたのですが、該当版はあからさまに間違ってるラブひなの部分だけを無批判に抽出したうえ変な位置に書いて、セーラームーンと天地無用はスルーしているのはなぜでしょう?
- ここまで僕は主に宇野・小森・『ヒットの法則』の3人の著者のものについて見てきましたが、このいずれの著者の意見もちゃんと反映されていると思えなかった。これらを書き加えた編者に何らかの意図があり、自説に都合のいい記述だけを抜き出していたという疑いを抱くものです。もちろん僕が読んでいない他の資料についても正しく引用されているとは全く思えません。「発生・流行までの経緯」節については(出典の質はともかく)編者は別の出典を見ているはずなのに無視されており、編者の意図が感じられる記述になっていると指摘させていただきます。…まあ個人的評価では質が低いので僕も書きたくないんですが、節自体の信憑性を揺るがす証拠にはなるということで。--Higasikatatom(会話) 2018年11月5日 (月) 11:55 (UTC)