ノート:福山城 (備後国)
この「福山城 (備後国)」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2008年1月22日 | 査読依頼 |
分割・修正提案
[編集]かなり重くなっていますし、以下の分割・修正を提案します。
- 「観光」を福山城址公園として新規作成し分割。
- 「城下・周辺」は福山市で対応し削除(福山市もかりなり重いから「福山市の歴史」として新規作成した方がいいのかなと。上水道は福山上水として新規作成したほうがいいかと)。
- 「形式と構造」、「建造物」、「失われた建築物」は再編集し一つにまとめる。
--218.40.21.87 2008年6月6日 (金) 17:40 (UTC)
- (賛成) ただし
- 「観光」を福山城址公園として新規作成し分割。本ページには「現在、福山城は福山城址公園として整備され観光地となっている」と記述し、新ページへの誘導をする。
- 「歴史・沿革」と「城下周辺」は主要な物のみ抜粋して記述。詳細は「福山市の歴史」として作成し、そこへ記述。本ページにて誘導をする。福山市のページには記入しない方が良いと思う。上水道は、今のところ記述が少ないので、新ページの「福山の歴史」内で項目を作って記述するのが適当だと思います。あとで記述が多くなってきたような場合は、その時に分割すればいいと思う。
- 「形式と構造」、「建造物」、「失われた建築物」は再編集し一つにまとめる。
という感じが良いかと思います。--ネコニャン 2008年6月28日 (土) 07:53 (UTC)
- (条件付賛成)
分割が必要なことには異論はありません。ただし、2.「福山市の歴史」または「福山の歴史」への分割については以下の理由により適切ではないと思います。
- 定義が明確でない。「福山市」とすれば、対象範囲が極端に拡大してしまいます。そこれそ、山の奥から海に浮かぶ島まで扱うことになってしまいます。また「福山」であれば、福山藩の範囲なのか、城下町の範囲なのか、それとも福山市の範囲なのか?を決めないといけなくなりませんか?
- 時代により対象範囲がかなり変わってしまう。福山市であれば沼隈郡や神辺町をどう扱うのか、福山が存在する前についてはどう扱うのでしょうか?歴史的には福山以前の方が遙かに長いですしね。
- 福山城の記述が埋没してしまう。上記の通り福山(市)の歴史から見れば福山城の歴史はほんの断片に過ぎません。その中で福山城についてのみ詳細に扱えば記事のバランスがおかしくなりますし、純粋に福山城の歴史を知りたいひとにとっては不便ですよね。ちなみに、福山市でも備後福山藩でも歴史の記述は大きいですので、これらをある程度統合するとそれこそ膨大な記述になってしまいます。
以上から、歴史で分割するなら、「福山城の歴史」とした方が適切だと思いますが、それでは逆に範囲が限定されすぎて記事の発展性が見込めないように思えます。そのため、歴史ではなく地理的な範囲、すなわち、「福山 (城下町)」あるいは、「福山の城下」で分割してはいかがでしょうか?具体的には、「城下・周辺」、「上水道」、「歴史の一部」などはこちらに移せると思います。また、城下町についてはまだまだ部分的な記述に留まっていますので、記事の発展性も見込めます。また、福山城自体も歴史を含めた城郭としての記述に純化されるのではないでしょうか?--たなしん 2008年6月28日 (土) 13:00 (UTC)
- (賛成)分割には賛成いたします。
- 私は、観光と、歴史の一部(明治維新~福山大空襲以降の、本丸は明治7年(1874年)に歴史的記念物の破壊を惜しむ周辺自治体の誓願により下賜され、明治8年(1875年)に「福山公園」として整備された。以下と戦後の復興~現在まで)、についてを福山城址公園として分割し、城下・周辺等の城下と城の周辺のことについては、福山城城下等として分割するようにした方がよいと考えます。
- ちなみに、形式と構造にある「松山」と「小丸山」に関して、城下とは柵で隔てられたのみであったとあり、また、松山は「本来であれば三の丸に含まれるべき位置にあるが」と、城内というわけでもないように読むことができる記述があることから、城下・周辺として扱うべきものではないのでしょうか。--ムカイ 2008年6月30日 (月) 13:48 (UTC)
- 「松山」と「小丸山」について説明させていただきますと、城下が描かれず城自体のみを描いた絵図(福山城博物館内に展示してあるものなど)では何れも両方が描かれておりますし、文献(備陽六郡史)でも城内として扱われておりますので、江戸時代には「城内」に含まれると認識されていたのは間違いありません。だだし、本文にもありますように城としての防備はほとんど構築されていませんでしたので、設備がない=城内でない、と切り分ければ城下に含めることもできますし、現在では城外との認識が定着しているのも事実だとは思います。しかしながら、歴史的経緯からは両者(特に小丸山)は城内に含める方が妥当に思えます。ご参考までに。--たなしん 2008年7月1日 (火) 12:41 (UTC)
- (コメント)ありがとうございます。了解いたしました。--ムカイ 2008年7月1日 (火) 14:00 (UTC)
- (コメント)皆様の意見を聞いておりますと、分割後の記事名は福山 (城下町)が適切ではないでしょうか。一応、当時の町の名称(正確には通称)は、「福山」なので。--ネコニャン 2008年7月2日 (水) 10:55 (UTC)
- 提案者さんが動かれないようですので、皆様の意見を総合したいと思います。
- 「観光」及び「明治8年(1875年)に「福山公園」として整備された」以降の歴史を福山城址公園として新規作成し、本ページには「現在、福山城は福山城址公園として整備され観光地となっている」と記述し新ページへの誘導を促す。
- 「城下・周辺」は福山 (城下町)として新規作成する。
- 「形式と構造」、「建造物」、「失われた建築物」は再編集し一つにまとめる。
以上に集約できると思いますが、いかがでしょうか?
218.40.21.87さん対応をお願い致します。--たなしん 2008年7月30日 (水) 22:23 (UTC)
- 私は、たなしんさんのまとめられた内容でよいと思います。--ネコニャン 2008年8月3日 (日) 13:18 (UTC)
- 同じく、たなしんさんの示された案を支持します。--ムカイ 2008年8月4日 (月) 14:47 (UTC)
- 提案から3ヶ月近く経過しましたが提案者様が動かれる様子がありませんので、上記同意に基づき「福山 (城下町)」を作成いたしました。--たなしん 2008年8月25日 (月) 13:33 (UTC)
筋鉄御門について
[編集]伏見城から移築されたといわれることもある[7]が、これは二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたもので実際には築城時に新規に建てられたものである。というのは、伏見城から移築された建物のリストが記載された文献(江戸時代のもの)は数多くあるにもかかわらず、それらの中に筋鉄御門を載せるものはなく(鉄御門は多く記載されている)、大正時代までの書籍にも移築の記述は見られないからである[要出典]。そして、筋鉄御門は構造的にも伏見城の時代(慶長初期)の特徴は見られない。移築説は昭和初期頃から書籍に載せられ始めたようで、この誤りは近年の書籍や論文等で度々指摘[要出典]されているが、筋鉄御門の案内板や福山城博物館のパンフレットなど、未だ(2007年現在)に記されるものもある。
との記述についてです。
「この誤りは近年の書籍や論文等で度々指摘されている」とありますが、幾つかの文献(西ヶ谷『復元 名城天守』、『ポケット図鑑 日本の城』平井聖『城 6中国』、日本城郭協会『日本100名城 公式ガイドブック』等)を参照しましたがそういった記述は見られませんでした。私のほうでは確認できませんでしたので伏見城からの移築または転用ではないと指摘する書籍や論文、大正時代までの書籍などをご存知の方は出典の明記をよろしくお願いいたします。--ムカイ 2008年8月3日 (日) 04:38 (UTC)
- 筋鉄御門が移築でないとする出典ですが、古くは建築學會論文集No.24「備後福山城伏見櫓建築考」P.5 城戸久 1941年(昭和16年)、最近では芸備地方史研究No.166・167「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」吉田和隆 1989年、などがあります。なお、後者の論文(P.18)では「移築された」記述の初見として1932年(昭和7年)の大坂毎日新聞が示されています(逆にこれ以前に移築を示す記述がある資料をご存じの方がいらっしゃいましたらお教え下さい)。また、本文にあるように一次資料、二次資料で移築を記述したものはひとつもありませんので、ムカイ様の参照された資料を含め移築説を載せる本は全て昭和以降の文献が参照されているはずです。ちなみに、福山城の専門書「新版 福山城」福山市文化財協会編、2006年 では、「元和創建であるとする説もある」P.19と、無難な表現で記述されています。ここに示した論文、書籍は何れも国会図書館に蔵書されています。--たなしん 2008年8月3日 (日) 12:45 (UTC)
- 早速、お返事していただきありがとうございます。詳しく示していただいたことに大変感謝いたします。
- 要点を纏めてみました。恐らく明記されると見られる箇所に番号を振っていますが、いかがでしょうか。
- 伏見城から移築された建物のリストが記載された文献(江戸時代のもの)
- 大正時代までの書籍
- 筋鉄御門は構造的にも伏見城の時代(慶長初期)の特徴は見られない。(伏見城の時代には3つあります。またどういった特徴を以って慶長初期のものではないとしておられるのかの説明があるといいと思います。)
- 移築説は昭和初期頃から書籍に載せられ始めたようで[3]
- この誤りは近年の書籍や論文等で度々指摘[1][2]
- [1]建築學會論文集No.24「備後福山城伏見櫓建築考」P.5 城戸久 1941年(昭和16年)
- [2]芸備地方史研究No.166・167「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」吉田和隆 1989年(仮に吉田論文)
- [3]吉田論文(P.18)移築された記述の初見として1932年(昭和7年)の大阪毎日新聞
- [4]福山城の専門書「新版 福山城」福山市文化財協会編、2006年 「元和創建であるとする説もある」P.19
- 「また、本文にあるように一次資料、二次資料で移築を記述したものはひとつもありませんので、ムカイ様の参照された資料を含め移築説を載せる本は全て昭和以降の文献が参照されているはずです。」
- 昭和以前の1次・2次資料についてはまだ、明かされておりません。明記をお願いできますでしょうか。
- 移築説が立てられた経緯には筋鉄門と鉄門を取り違えたことが考えられる、とする主張や説の記された文献についてもご存知の方はよろしければお願いいたします。
- しかしながら、説明されておられる文面から、このくだりの問題はほかに「移築説は誤りである」としているところにもあるように思えてきました。
- 私が参照した文献の何れも移築説を取り上げていることについて、また、たなしんさんが示していただいた「新版 福山城」にも元和築説が一説のように取り上げられているところをみる部分では、まだ、移築説が全く否定的には見られていないように見えます。全くの誤りであるとする説が検証され、説を裏づける事実が報告されている文献などがあると「誤りである」と指摘できるものと思われますが、いかがでしょうか。そうでなければ、移築説と元和築説の間では議論の余地があり、決着されていない論争の事実があるということですので、中立的な観点に則していないということになりかねませんがいかがでしょう。
- --ムカイ 2008年8月4日 (月) 14:47 (UTC)
- まず前提としてご理解いただきたいのは、福山城は
- 筋鉄御門に限らず昭和初期に根拠のない逸話が数多く発生している。
- 現在まで多くの書籍等に昭和初期の逸話が引用され続けている。
- 根拠が「ないことの証明」は困難である。
- という状況にあるということです。
- まず前提としてご理解いただきたいのは、福山城は
- どういった特徴を以って慶長初期のものではないとしておられるのかの説明があるといいと思います。
- こちらはどこに慶長時代がないのかよりも、(もしあるなら)どこに慶長時代の様式があるのかが示されるべきだと思いますが、あえて挙げると、「備後福山城伏見櫓建築考」においては押長の突出が少ない点が慶長期の特徴と異なる点として指摘されていますし、「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」では伏見城の刻印が存在しないことが挙げられています。
- 昭和以前の1次・2次資料についてはまだ、明かされておりません。明記をお願いできますでしょうか。
- こちらも「ないものはない」ということですから、どんな資料でも構わないわけで前回あえて示しませんでした。例をいくつか並べますと、「寛政重修諸家譜」、「水野家記」、「福山城開基覚」、「水野記」、「福山領分語伝記」、「水野様御一代記」、「備陽六郡史」、「西備名区」、「福山志科」、「福山の今昔」などがあります(詳しくは図書館で検索してください)。
- 移築説が立てられた経緯には筋鉄門と鉄門を取り違えたことが考えられる、とする主張や説の記された文献についてもご存知の方はよろしければお願いいたします。
- これについては「備後福山城の研究」吉田和隆 1995年 が比較的閲覧が容易ですのでお勧めいたします。
- しかしながら、説明されておられる文面から、このくだりの問題はほかに「移築説は誤りである」としているところにもあるように思えてきました。
- 私が参照した文献の何れも移築説を取り上げていることについて、また、たなしんさんが示していただいた「新版 福山城」にも元和築説が一説のように取り上げられているところをみる部分では、まだ、移築説が全く否定的には見られていないように見えます。全くの誤りであるとする説が検証され、説を裏づける事実が報告されている文献などがあると「誤りである」と指摘できるものと思われますが、いかがでしょうか。そうでなければ、移築説と元和築説の間では議論の余地があり、決着されていない論争の事実があるということですので、中立的な観点に則していないということになりかねませんがいかがでしょう。
- 「新版 福山城」は前回に示した表現の前文として「伏見城から移建されたことは、諸書にのっている拝領の建物目録の中に「大手門」「鉄御門」とあって、そのひとつがこの門をさしているとしている。しかし、二ノ丸にあった鉄御門がそれであり、この筋鉄御門は元和創建であるとする説もある」と記述されています。このように、このように本文は否定的に書かれています。ただ、「多くの書籍に移築と書かれているじゃないか」と言われれば、その通りですので、「新版 福山城」もこうした反論を懸念して結論は「説もある」と婉曲な表現を用いているのでしょう。つまり、「移築説の記載数」VS「否定の根拠」といった非対称の論争をすれば決着されていないといえなくもないかもしれません。しかし、先に示した論文等をお読みになればご理解いただけると思いますが、学術的な見地からは議論の余地はないかと思われます。「中立的な観点」というのであれば、移築説も(むしろ移築説こそ)根拠を示さないとアンフェアではないでしょうか。もし、移築説が根拠となる資料が提示できるのであれば議論の余地はあると思いますが、それが何ひとつない状態では移築説を併記する方が「中立的な観点」からは問題だと考えますがいかがでしょうか?--たなしん 2008年8月5日 (火) 12:45 (UTC)
- ありがとうございます。
- 「新版 福山城」が移築説の根拠も取り上げて「であるとする説もある」という表現を用いているのではなく1次2次史料を元にしているにもかかわらず、そのような曖昧な表現で以って示しているということについて理解いたしました。移築説に根拠があるのでしたら、バランスよくできると思った次第なのですが、そもそもないとのことでは論争の事実が認められそうもありませんのでどうも書きようがありません。理解いたしました。
- 投げやりな締め方で申し訳ありませんがこの議論についてはここまでにいたしたいと思います。
- 余談ですが、「どういった特徴を以って慶長初期のもの」というのは、慶長期の特徴とはどういったものなのかということでした。本文中では「構造的にも伏見城の時代(慶長初期)の特徴は見られない」というものでしたので、この書き方では、「どう違うのか」分かりづらいのではと思い、指摘させていただきました。
- また、明記されると思われる箇所に以下の番号(示していただいている文献)を振っておりますがこの通りでよろしいでしょうか。
- 伏見城から移築されたといわれることもある[7]が、これは二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたもので実際には築城時に新規に建てられたものである[4][5]。というのは、伏見城から移築された建物のリストが記載された文献(江戸時代のもの)は数多くあるにもかかわらず、それらの中に筋鉄御門を載せるものはなく(鉄御門は多く記載されている)、大正時代までの書籍にも移築の記述は見られないからである[6]。そして、筋鉄御門は構造的にも伏見城の時代(慶長初期)の特徴は見られない。移築説は昭和初期頃から書籍[3]に載せられ始めたようで、この誤りは近年の書籍や論文等で度々指摘[1][2]されているが、筋鉄御門の案内板や福山城博物館のパンフレットなど、未だ(2007年現在)に記されるものもある。
- [1]建築學會論文集No.24「備後福山城伏見櫓建築考」P.5 城戸久 1941年(昭和16年)
- [2]芸備地方史研究No.166・167「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」吉田和隆 1989年(仮に吉田論文)
- [3]吉田論文(P.18)移築された記述の初見として1932年(昭和7年)の大阪毎日新聞
- [4]福山城の専門書「新版 福山城」福山市文化財協会編、2006年 「元和創建であるとする説もある」P.19
- [5]「備後福山城の研究」吉田和隆 1995年
- [6]「寛政重修諸家譜」、「水野家記」、「福山城開基覚」、「水野記」、「福山領分語伝記」、「水野様御一代記」、「備陽六郡史」、「西備名区」、「福山志科」、「福山の今昔」
--ムカイ 2008年8月5日 (火) 16:17 (UTC)
- わざわざ修正提案まで行って頂きありごとうございます。
- 私としては上記にご提案のもので概ね問題はないと思います。ただ、仰られるように「伏見城の時代(慶長初期)の特徴は見られない」については「伏見城からの移築を示す特徴は見られない」あたりに変更した方が適切かもしれませんね。それと、文末も「記されるものもある。」から「根強く残されている。」といった感じに強調した方がいいように思いました。いかがでしょう?おそらくムカイ様の方が客観的かつ適切な記述をされると思いますので、ご判断頂きたく思います。--たなしん 2008年8月6日 (水) 13:02 (UTC)
- 提案へ合意、またご協力に感謝いたします。
- 中立的な観点には自信がないほうですが、できるだけ誤りのないものにいたしたいと思います。
- 「伏見城からの移築を示す特徴は見られない」とされると、「伏見城の特徴とは何か」となることも考えられますので、この際、特徴は記さずに、示していただいている論文に上げられている記述を以って、それらによって、それらが見られないことによって上記学者は論文において否定している、といった記述がいいように思われます。
- 「記されるものもある。」の部分は、事実を示せば強調する必要はないものと思われます。
- 「この誤りは」は、移築説が発生した経緯を持って修正しました。「この文献は、こういった理由により誤りであることがb著者による『B文献』において指摘されている。」とすることは、誤りであるとする見解が示されている事実を記述することですのでよいと思われますが、はっきり「この文献は誤りである」と文献がまるで誤りであることを示したり暗に示唆するようなことを執筆者が書くことは、中立的な観点とはいえないものと思われますがいかがでしょうか。
- 以下のようにして見ました。
- 提案文
- 伏見城から移築されたといわれることがある[7]が、これは二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたもので実際には築城時に新規に建てられたものであるとされている[4][5]。というのは、伏見城から移築された建物のリストが記載された文献(江戸時代のもの)は数多くあるにもかかわらず、それらの中に筋鉄御門を載せるものはなく、大正時代までの書籍にも移築の記述は見られないからである[6]という。また、「備後福山城伏見櫓建築考」においては長押形の突出が少ない点が慶長期の特徴と異なるとしており、「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」では伏見城の刻印が存在しないことによって、移築説を否定する見解を示している。移築説は昭和初期頃から書籍[3]に載せられ始めたとされ、近年の書籍や論文等において度々指摘[1][2]されているが、現在(2007年以降)の筋鉄御門の案内板や福山城博物館のパンフレットなどに記述が見られる。
- ご意見などをお願いいたします。--ムカイ 2008年8月6日 (水) 14:56 (UTC)
- ご提案ありがとうございます。早速ですが、
- 「伏見城からの移築を示す特徴は見られない」とされると、「伏見城の特徴とは何か」となることも考えられますので、この際、特徴は記さずに、示していただいている論文に上げられている記述を以って、それらによって、それらが見られないことによって上記学者は論文において否定している、といった記述がいいように思われます。
- 「伏見城の特徴」ではなく、「移築を示す特徴」のつもりでしたが、いずれにても同様の懸念はありますので上記の提案に同意いたします。
- 「記されるものもある。」の部分は、事実を示せば強調する必要はないものと思われます。
- 「この誤りは」は、移築説が発生した経緯を持って修正しました。「この文献は、こういった理由により誤りであることがb著者による『B文献』において指摘されている。」とすることは、誤りであるとする見解が示されている事実を記述することですのでよいと思われますが、はっきり「この文献は誤りである」と文献がまるで誤りであることを示したり暗に示唆するようなことを執筆者が書くことは、中立的な観点とはいえないものと思われますがいかがでしょうか。
- 「強調」というのは、「より明確に表現する」という意味だったのですが、表現が適切ではありませんでした。事実を示せば強調する必要はないというのは、その通りだと思います。言いたかったのは、「記されるものもある。」では、文脈から「記されるものもあるから、実際のところどうなんだ?」と受け取られかねないのでは?ということです。つまり、事実の部分をはっきりさせたかったということで、文脈が明確なら文末は「記されるものもある。」で問題はないと思います。そして、「この誤りは」の「この」は、「文献」ではなく、「移築説」のことですので中立的な観点から問題はないと考えておりますが、いずれにしろ誤解を与えていますので、表現を変えた方がいいかもしれませんね。
- それと、提案文は「~とされる」といった表現が多様され過ぎているように感じました。これは「Wikipedia:言葉を濁さない」にもありますが、文を曖昧にしてしまっているのではないでしょうか。「~とされる」を用いるのであれば、なるべく「誰によって」「~される」のか記述した方がよいように思います。また、移築説の根拠を明確にした方がよいように思えてきました。といっても、根拠と言えるべきものはないのですが、単に「根拠はない」で片付けるより、根拠が根拠とならないことを明示した方がより中立的な観点ですし読者が理解しやすいように思うのですがいかがでしょう。
- 以上を踏まえてムカイ様の提案文に修正を加えてみますと下記のようになりましたがいかがでしょうか?
- 伏見城から移築されたといわれることがある[7]が、これは二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたものである[4][5]。というのは、移築の根拠とされるのは伏見城から移築された建物のリストが記載される文献(江戸時代のもの)に「鉄御門」と記されていることであるが、鉄御門は二の丸にあった別の門で筋鉄御門の記載はひとつもないからである。また、移築説はこれ以外に根拠を示すことができず、大正時代までの書籍にも移築の記述を見出すことはできない[6]。物証面からも「備後福山城伏見櫓建築考」においては長押形の突出が少ない点が伏見城が建てられた慶長期の特徴と異なるとしており、「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」では伏見城の刻印が存在しないことによって、移築を否定する見解が示されている。移築説は昭和初期頃から書籍[3]に載せられ始め、近年の書籍や論文等には説の誤りが指摘[1][2]されているものもあるが、現在(2007年以降)も書籍や筋鉄御門の案内板、福山城博物館のパンフレットなどに移築の記述が見られる。
- 修正範囲が大きくなって申し訳ありませんが、ご検討よろしくお願いいたします。--たなしん 2008年8月7日 (木) 13:32 (UTC)
- ご意見、ありがとうございます。早速ですが、
- 「二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたものである[4][5]。」
- についてですが、[4][5]の文献について、事実を記しているようではあるものの、広く支持されているというわけではないようですし、この論文をもって移築説の立説元を結論付ける記述は両説の間を説明するに当たり、問題はないのでしょうか。(Wikipedia:言葉を濁さない#基本的ガイドライン 曖昧なことを断言してはいけません)
- 「移築の根拠とされるのは伏見城から移築された建物のリストが記載される文献(江戸時代のもの)に「鉄御門」と記されていることである」
- この間、質問させていただいた際は移築説には根拠がないとのことでしたが、これは、具体的に移築説が初めて著された文献やそれ以降のその説が取り上げられた文献にあるものでしょうか。
- 余談ですが、移築かどうかを結論付けるには、検証されなければならないと思われますが、実際に門の構造や意匠に関しての調査が行われているのでしょうか。--ムカイ 2008年8月7日 (木) 15:50 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。
- 「二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたものである[4][5]。」
- についてですが、[4][5]の文献について、事実を記しているようではあるものの、広く支持されているというわけではないようですし、この論文をもって移築説の立説元を結論付ける記述は両説の間を説明するに当たり、問題はないのでしょうか。(Wikipedia:言葉を濁さない#基本的ガイドライン 曖昧なことを断言してはいけません)
- まず、一般的に福山城に対する関心は薄いので、「広い」支持というは微妙なのですが、あえていえば、移築説を間違いと主張するひとはいますが、移築説を正しいと主張するひとはいません。つまり、学術的には支持率の比は複数:0ですので、否定派が支持されているといえるのではないでしょうか。ただ、そもそも事実は多数決で決まるものではありませんので、支持が多いか少ないかは問題にならないと思います。また、上記部分は「この論文をもって」結論付けるわけではなく、一次資料、二次資料からも移築説は否定されますので、「この論文」は資料のひとつということです。脚注が足りないということでしたら「[6]」を追加してはどうでしょうか。繰り返しになりますが、移築説を載せる書籍は「そういわれている」と検証もなしに昭和以降の記述を引用するものしかありませんので「移築説の立説元」自体は存在しません。
- ここで、議論が平行線となっているようですので例えを持ち出しますと、徳川家康には影武者説がありますが、これも本人説が広く支持されていることを明らかにしなければ影武者説が誤りと断言すべきではないのでしょうか?また、議論の余地があり、決着されていない論争の事実があるということですので、影武者説を誤りとすることは中立的な観点に反することになるのでしょうか?筋鉄御門で問題となっているのは、根拠のない説が広範囲に流布してしまっていることですが、これに迎合して真実を見失っては正確な記事を書くことはできないのではないでしょうか。
- 「移築の根拠とされるのは伏見城から移築された建物のリストが記載される文献(江戸時代のもの)に「鉄御門」と記されていることである」
- この間、質問させていただいた際は移築説には根拠がないとのことでしたが、これは、具体的に移築説が初めて著された文献やそれ以降のその説が取り上げられた文献にあるものでしょうか。
- 記事としては以前も書きましたように1932年の大阪毎日新聞が初見のようですが、一方で1936年発行の「福山城誌」には移築の記述は見られません。ちなみに、新聞の人物と本の著者は同一人物ですので、言動が矛盾しているのですが、いずれにしても昭和初期に移築説が発生したのは間違いないと思われます。なお、「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」では1933年に筋鉄御門が国宝に指定されるのを契機として箔付けされたのではないかと推定しています。しかし、この後は戦中・戦後で書籍類の発行にかなりの空白期間が生じていますので、初めて移築説が著された書籍としては、1866年発行の「福山城」のようですが、実はの本は先に示した「新版 福山城」はこの焼き直しで「伏見城から移建されたことは~」の部分は全く同じ、つまり移築説に否定的なんですね。他に「山陽新幹線建設地内遺跡発掘調査報告(福山城三の丸出枡形櫓跡)」(1973年)では「大手門、筋鉄御門を下賜して…」と鉄御門がなく替わりに筋鉄御門が記載されていますので、1970年代には両者が混同されていることがわかります。
- 余談ですが、移築かどうかを結論付けるには、検証されなければならないと思われますが、実際に門の構造や意匠に関しての調査が行われているのでしょうか。
- 検証の必要性についてはWikipedia:検証可能性の観点からこの場では必要ないと考えます。また学術的には移築説は顧みる余地はありませんので、されておりませんし、されることもないでしょう。ただし、報告書の類が作成されていないのですが筋鉄御門は1952年に解体修理が行われていて、その際には伏見櫓にあったような刻印は発見されておりませんし、移築の痕跡も発見されておりません。--たなしん 2008年8月8日 (金) 10:52 (UTC)
- お返事ありがとうございます。
- ただし、報告書の類が作成されていないのですが筋鉄御門は1952年に解体修理が行われていて、その際には伏見櫓にあったような刻印は発見されておりませんし、移築の痕跡も発見されておりません。
- これについては、解体修理の際の調査結果を載せてある文献もあわせて執筆するべきものと思います。この記述があることにより全く断言できるというわけではありませんが誤りである可能性について執筆することができるものと思われます。以下のように修正案を考えて見ましたが、いかがでしょうか。
- 伏見城から移築されたといわれることがある[7]が、伏見城から移築された建物のリストが記載されている文献(江戸時代のもの)に「鉄御門」と記されているものはあるが、筋鉄御門の記載はなく[6]、意匠からは「備後福山城伏見櫓建築考」においては長押形の突出が少ない点が伏見城が建てられた慶長期の特徴と異なるとしており、「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」では1952年に解体修理が行われた際に門の部材からは伏見櫓に見られたような墨書や、移築された痕跡が確認できなかったことによって、移築を否定する見解が示されている。近年の書籍や論文等には説の誤りを指摘[1][2]しているものがある。
- 移築説は昭和初期頃の新聞に載せられたものが初見である[3]とされている。この説の発生した原因として二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたものである[4][5]、若しくは、1933年に筋鉄御門が国宝に指定されるのを契機として箔付けされたのではないかとの説がある[2]。移築説は現在(2007年以降)、書籍や筋鉄御門の案内板、福山城博物館のパンフレットなどに記述が見られる。
- これについては、解体修理の際の調査結果を載せてある文献もあわせて執筆するべきものと思います。この記述があることにより全く断言できるというわけではありませんが誤りである可能性について執筆することができるものと思われます。以下のように修正案を考えて見ましたが、いかがでしょうか。
- また余談なのですが
- また学術的には移築説は顧みる余地はありませんので、されておりませんし、されることもないでしょう。
- 私の申し上げている、「移築かどうかを結論付けるには、検証されなければならない」というのは「遺構調査はされているのか」ということでした。
- これはWikipediaにおける検証可能性のことではありませんが、関連のあることです。例えば、信用のある人が書いた一切れのメモ紙があるとします。信用のある人が書いたものですのでほとんどの人は、このメモ紙に書いてある事実を信用するかも知れません。しかし、間違いである、または、ジョークであることもあります。その中身(情報)が公表しなければならないものであるとします。信用できるので簡単な事実確認もせずにそのまま公表し、後で「あれは間違っている」と指摘されることは避けなければなりません。そのための検証です。なにも、出典の明記がされていることを読者が検証するというときにだけ使われる用語ではないはずです。信憑性のない事実であっても本当のことかを確かめるにあたり実際のものに触れて調査することは必要です。そうでなければ、根拠なく立説されたとされる移築説と同じになってしまいます。
- 「徳川家康には影武者説がありますが、これも本人説が広く支持されていることを明らかにしなければ影武者説が誤りと断言すべきではないのでしょうか?また、議論の余地があり、決着されていない論争の事実があるということですので、影武者説を誤りとすることは中立的な観点に反することになるのでしょうか?」
- 一方の説を支持するような表現や暗に示唆するような記述は、Wikipediaにおける中立的な観点に基づいているものとはいえません。意見がある事実を書くことであり意見は書いてはいけません。「こちらは誤りである。」「こちらが正しい。」と断言するのは意見です。
- 移築説は恐らく誤りである可能性は高いように私も思いますが、私たちは、その立場に立った執筆をすることが中立的な観点が求められているWikipediaにおいてはできないのです。事実を並べるだけであり、誤りであるかどうかは読者に判断していただくということです。Wikipedia:中立的な観点に「意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。」と、あるようにです。また、「ある意見についての事実を述べる時には、その意見に対立する意見についての事実を述べ、かつ、それらの意見のどれか一つが正しいと示唆せずにおくことも重要です。」ともあります。
- 伏見城から移築されたという説がある事実や新築説が確実であることは確認していますが、「ただ、「多くの書籍に移築と書かれているじゃないか」と言われれば、その通りですので、「新版 福山城」もこうした反論を懸念して結論は「説もある」と婉曲な表現を用いているのでしょう。つまり、「移築説の記載数」VS「否定の根拠」といった非対称の論争をすれば決着されていないといえなくもないかもしれません。しかし、先に示した論文等をお読みになればご理解いただけると思いますが、学術的な見地からは議論の余地はないかと思われます。」と、されておられることの、議論の余地はないと思われるとのことは、文献の雰囲気を読み取った、たなしんさんの私的見解であると見え、論争があるのか決着しているのかについては、事実としては確認できていないと見えます。これは、前に上げさせていただいていると思いますがWikipedia:言葉を濁さない#基本的ガイドライン 曖昧なことを断言してはいけませんを参考にしていただけると思います。--ムカイ 2008年8月9日 (土) 02:27 (UTC)
- お返事ありがとうございます。
修正案については非常に良くできていて、私としては問題ないと思います。
ただし、ご意見には若干の反論を述べさせていただきます。
解体修理の際の調査結果を載せてある文献もあわせて執筆するべきものと思います。この記述があることにより全く断言できるというわけではありませんが誤りである可能性について執筆することができるものと思われます。
解体修理の際の調査結果は先に述べましたように調査報告書が発行されておりませんので、Wikipedia:検証可能性の観点から執筆するべきではないと考えておりましたが、修正案のような書かれ方であれば問題なさそうですね。
信憑性のない事実であっても本当のことかを確かめるにあたり実際のものに触れて調査することは必要です。そうでなければ、根拠なく立説されたとされる移築説と同じになってしまいます。
仰るように、実際のものに触れることは大切ですね。幸い筋鉄御門は現存しており下部から見上げれば構造がよく把握できますので、ムカイ様の知識があれば移築説の真偽をご判断頂けるものと思います。
一方の説を支持するような表現や暗に示唆するような記述は、Wikipediaにおける中立的な観点に基づいているものとはいえません。意見がある事実を書くことであり意見は書いてはいけません。「こちらは誤りである。」「こちらが正しい。」と断言するのは意見です。 移築説は恐らく誤りである可能性は高いように私も思いますが、私たちは、その立場に立った執筆をすることが中立的な観点が求められているWikipediaにおいてはできないのです。事実を並べるだけであり、誤りであるかどうかは読者に判断していただくということです。Wikipedia:中立的な観点に「意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。」と、あるようにです。また、「ある意見についての事実を述べる時には、その意見に対立する意見についての事実を述べ、かつ、それらの意見のどれか一つが正しいと示唆せずにおくことも重要です。」ともあります。
記事が偏っていると仰りたいのだと思いますが、私は「いくら探しても移築説の根拠は見つからない」、「筋鉄御門と鉄御門を取り違えたとしか考えられない」という「事実」を並べているだけです。この事実は結果的に移築説を否定していますが、これが中立的な観点に基づいていないと思われるのであれば、是非「移築説の根拠」あるいは「筋鉄御門は鉄御門の取り違えでないこと」をお書きになってはいかがでしょうか。書きようがない以上は中立的な観点から問題ないのではないでしょうか。
議論の余地はないと思われるとのことは、文献の雰囲気を読み取った、たなしんさんの私的見解であると見え、論争があるのか決着しているのかについては、事実としては確認できていないと見えます。これは、前に上げさせていただいていると思いますがWikipedia:言葉を濁さない#基本的ガイドライン 曖昧なことを断言してはいけませんを参考にしていただけると思います。
議論が決着しているのは私的見解であり論争が存在すると仰るのであれば、何を示せば「事実として確認」できるのでしょうか。むしろ、論争が存在するというのであれば、移築説を唱えている論文、文献などをお示しになればよいのではないでしょうか。曖昧なことを断言してはいけないというのは、その通りだと思いますが「曖昧なこと」とは何でしょうか?移築説の根拠は曖昧ですので移築説の存在を断定すれば基本的ガイドラインに反するとは思いますが、他に曖昧なことがあるようには思えません。
繰り返しになりますが、「書籍に書かれているじゃないか」といった「非対称の論争」をすれば決着されていないといえなくもないかもしれませんが、「中立的な観点」というのであれば、移築説は根拠を示さないとアンフェアではないでしょうか。根拠のまるでない、はっきり言ってしまえば「俗説」に対し一次資料、二次資料、三次資料、論文まで提示しましたが、それでも俗説も説として対等に扱うべきと仰るのであれば、私としてはこれ以上議論することに意義を感じませんので、これまでの主張は取り下げたいと思います。--たなしん 2008年8月16日 (土) 16:06 (UTC)
こんにちは、お返事ありがとうございます。
合意されたということでよろしいのでしょうか。
記事が偏っていると仰りたいのだと思いますが、私は「いくら探しても移築説の根拠は見つからない」、「筋鉄御門と鉄御門を取り違えたとしか考えられない」という「事実」を並べているだけです。この事実は結果的に移築説を否定していますが、これが中立的な観点に基づいていないと思われるのであれば、是非「移築説の根拠」あるいは「筋鉄御門は鉄御門の取り違えでないこと」をお書きになってはいかがでしょうか。書きようがない以上は中立的な観点から問題ないのではないでしょうか。
Wikipedia:中立的な観点に「全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くべき」という一文があります。例えば、「根拠のまるでない、はっきり言ってしまえば「俗説」」とおっしゃられていることから、たなしんさんは、移築説を否定する観点にのみ立って執筆しようとしていると見えます。こういった観点を排した記事を執筆しなければないということです。 Wikipedia:中立的な観点のオリジナルの声明に「百科事典の記事では、執筆者にそういう確信があったとしても、営利企業は犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません。そのかわり、一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明し、それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。」 という一例があります。これは、この問題に置き換えると、たなしんさんには移築説は誤りであるという確信があると思います。しかし、移築説は誤りであると述べるべきではなく、その代わりに、事実とその理由を述べてどういった意見が述べられているかを紹介すべきということです。
議論が決着しているのは私的見解であり論争が存在すると
「論争があるのか決着しているのかについては、事実としては確認できていない」とは論争があるのかないのかはっきりしないということです。論争が決着したという状態は論争の事実があったということでしょう。論争の事実が確認できないというのは論争があったか、なかったかが確認できないということです。「ただ、「多くの書籍に移築と書かれているじゃないか」と言われれば、その通りですので、「新版 福山城」もこうした反論を懸念して結論は「説もある」と婉曲な表現を用いているのでしょう。つまり、「移築説の記載数」VS「否定の根拠」といった非対称の論争をすれば決着されていないといえなくもないかもしれません。しかし、先に示した論文等をお読みになればご理解いただけると思いますが、学術的な見地からは議論の余地はないかと思われます。」の「学術的な見地からは議論の余地はないかと思われます」は推測を意味しておられます。これを私的な見解と見ました。このこのとから、事実に論争は確認できないと考え、この状態を曖昧であると表現いたし、断言するべきではないとしました。
ムカイ様の知識があれば移築説の真偽をご判断頂けるものと思います。
何か、誤解されておられるようですが、私は、筋鉄御門が伏見城から移築されたかどうかは、どうでよいと思っています。ここでの論点は、筋鉄御門移築説の信憑性ではなくの記述の信憑性に関する事(出典の明記と使用されている表現について)についてです。--ムカイ 2008年8月17日 (日) 14:45 (UTC)
- お返事ありがとうございます。
- 筋鉄御門が伏見城から移築されたかどうかは、どうでよいと思っています。
- 誤解しておりました。移築説の信憑性は「どうでもよい」と仰られるのでは私のこれまでの主張に意味を見出せそうにありませんね。記事については同意いたします。ありがとうございました。--たなしん 2008年8月18日 (月) 11:55 (UTC)
- こんにちは、お返事を頂きありがとうございます。私が初めから「検証可能性」の方針に基づいていることをはっきりと示さなかったことで、長い主張をさせてしまったのだと思います。議論を長引かせてしまい申し訳ありません。また、新しい情報がありましたら加筆や修正をよろしくお願いいたします。
- ちなみに「どうでもよい」はWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に基づいて述べさせていただきました。
- (要約)合意いただけたとのことで、以下の案を以って修正を加えたいと思います。
- 伏見城から移築されたといわれることがある[7]が、伏見城から移築された建物のリストが記載されている文献(江戸時代のもの)に「鉄御門」と記されているものはあるが、筋鉄御門の記載はなく[6]、意匠からは「備後福山城伏見櫓建築考」においては長押形の突出が少ない点が伏見城が建てられた慶長期の特徴と異なるとしており、「福山城筋鉄御門・御湯殿および曲輪の構成について」では1952年に解体修理が行われた際に門の部材からは伏見櫓に見られたような墨書や、移築された痕跡が確認できなかったことによって、移築を否定する見解が示されている。近年の書籍や論文等には説の誤りを指摘[1][2]しているものがある。
- 移築説は昭和初期頃の新聞に載せられたものが初見である[3]とされている。この説の発生した原因として二の丸南側にあった「鉄御門」を取り違えたものである[4][5]、若しくは、1933年に筋鉄御門が国宝に指定されるのを契機として箔付けされたのではないかとの説がある[2]。移築説は現在(2007年以降)、書籍や筋鉄御門の案内板、福山城博物館のパンフレットなどに記述が見られる。
- 出典は、このノートに於いてたなしんさんが示していただいているものを明記いたします。
- 今後も、ご意見や提案がありましたらお願いいたします。議論にご参加頂きありがとうございました。--ムカイ 2008年8月18日 (月) 14:59 (UTC)
月見櫓について
[編集]福山城博物館公式サイトによると「1879年(明治12年)頃、廃城令のあおりを受け取り壊され、葦陽館と呼ばれる貸会場が建てられる」となっています。特別:差分/100055750 で 現在ブロック中の 2400:2411:e3:b00::/64 による連続4版の投稿を取り消しました。投稿には、廃城令で解体となった際に「・・・月見櫓を残すのみ」、米軍空襲で「月見櫓と」共に消失した、とありましたが虚偽ということになります。このIPは「予算の関係で・・・復元計画はない」と多くの城記事に投稿していましたが、それ以外の記述も虚偽を書き込んでいる可能性が高いことを付け加えておきます。--Krorokeroro(会話) 2024年4月18日 (木) 04:59 (UTC)