ノート:社史/過去ログ1
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公開学術文献
Ciniiで公開されている関連文献で本文にオープンアクセス扱いのものを列挙します。本文執筆の際の参考にどうぞ。執筆の際脚注で順次明示してください。corporate archive,Business Archives等英題のキーワードを抽出しGoogleで検索すると海外の同種文献、サイト等が結構見つかりますが、今回はそれらは省きます。
(議論ではないため冒頭に掲示)
- 米川伸一 イギリスにおける企業史研究の伝統と現状 一橋論叢 67(5), 601-623, 1-May-1972
- 村橋勝子 社史 (<連載> 情報の探し方 第4回) 情報の科学と技術 42(4), 361-370, 1992-04-01
- 菅野俊一 産業情報の保存と学外への提供 情報の科学と技術 43(11), 1014-1019, 1993-11-01
- 森泰博 日本の証券会社の社史刊行 商學論究 43(2/3/4), 523-534, 1996-01
- 村橋勝子 埋蔵資源・社史に関する考察 : 社史1万冊に目を通して 情報の科学と技術 52(10), 504, 2002-10-01
- 村橋勝子 社史の実態分析と情報源としての魅力 レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (45), 34-40, 2002-11-30
- 馬渕浩一 技術経営の視点からみた企業史料の記録保存の意義と情報再編集の場としての博物館 レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 3-10, 2004-10-10
- 大村英正 企業史料を考える レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 11-28, 2004-10-10
- 黒済晃 近年の法的規制・自主規制が文書管理に与える影響 : 医薬品企業の場合 レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 29-48, 2004-10-10
- 末吉哲郎 実業家アーカイブス : 日本工業倶楽部プロジェクトについて レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 49-53, 2004-10-10
- 小谷允志 新しいレコード・マネジャーの役割論 レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 54-56, 2004-10-10
- 武田晴人 企業史料に関わってきて レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 57-59, 2004-10-10
- 関野陽一 『企業史料協議会20年史』, 企業史料協議会編 レコード・マネジメント : 記録管理学会誌 (48), 104-106, 2004-10-10
- 鈴木良雄 公立図書館とアイデンティティ 情報の科学と技術 56(2), 46-51, 2006-02-01
- 松崎裕子 多文化コミュニティへの図書館サービス コミュニティ政策研究 9, 55-62, 2007-03
岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年2月2日 (水) 17:45 (UTC)
牧歌社による投稿の取扱
「社史の近縁に記念誌という企業出版物がある」とのことですが、社史と記念誌とは元来別物であり、たまたま記念誌として社史がつくられる場合があるというだけのことではないでしょうか。少し概念整理をして書き直されるべきと思います。また、「正史」「略史」「小史」の説明もかなりひどいと思います。正史(通史と同義語ではない)の反対語は略史でなく外史ですし、略史は部分的偏りのある圧縮で小史は全体的圧縮だなどという説明は百科事典として恥ずかしいものです。略史と小史は同義語とするのが常識というものです(そう説明している辞書もあります)。さらに「社史を編纂するには多額の費用がかかり、発行する企業に予算がなければ発行できない。いくら伝統がある企業でも業績が良くなければ、発行できないということになる」とは何を言いたいのでしょうか。「業績がいいことを証明するためには社史を発行せよ」と言いたいのでしょうか。この項目の説明は社史制作業者さんが書かれているのですか。業者さんが書いてもいいですからもっとレベルの高いことを書いてください。非常にまゆつば的なものを感じてしまいます。最後に断言しますが、社史は「企業に予算がなければ発行できない」ものではありません。手書きの社史でもコピーの社史でも立派な社史ではありませんか。少なくとも私はそう信じます。--Bokkasha 2008年6月7日 (土) 03:18 (UTC)
現状の記述について
さて、この記事は私は始めて書き込むのですが、業績の悪い企業でも、簡略化する、配布先を限定するなどしてコストダウンをはかり、発行するケースはあるかと思います。さて、私が申し上げたいのは本文に「社史出版業者の宣伝に注意」とコメントアウトされている点です。自社の社史を自社以外の組織・団体が手がけると言うことも、また重要な事実であります。誰もが知っているわけではないし、自社の歴史は自社で全て書くと思うのは自然ですからね。中には日本経済新聞のように、自社のデータベースを売りにしているケースなどもあります(最近では2008年8月31日朝刊テレビ欄下に自社広報してます、日経はソースが少ないため一応注記です。)。例えば、電化製品でも産業機器でも出版物でも建築物でもいいですが、世に存在する品物の記事を書いた際に、その製品を製造する企業の名を紹介しないと言うことは、Wikipedia内でも行われておりません。皆様のご意見を頂戴したいので、お願いいたします。
岩見浩造 2008年9月3日 (水) 15:43 (UTC)
鈴之助です。
少し気になったので岩見浩造さんにお尋ねします。岩見さんはこの下の「鈴之助さんの加筆の取扱」という節において、
「現に、上述のように以前牧歌社が同じ趣旨で投稿を実施し、差し戻されています。」
とお書きですが、「上述のように」というのはどこを指すのでしょう。上の節のことだとすれば、これははノートへの書き込みであって、本文への投稿ではなく、差し戻されてもいないようですが。
Bokkashaさんが書いているのは質問と意見であって、本文には不適当でしょうが、内容は至極まともなもので、ノートには歓迎すべきもののようです。
岩見さんの言われる「同じ趣旨で投稿を実施し、差し戻されています。」というのはどこを見れば参照できるのでしょうか。その投稿文を見てみたいので、ご教示いただければ幸いです。
--鈴之助 2010年11月20日 (土) 00:38 (UTC)
鈴之助さんの加筆の取扱
2010年6月の加筆について
鈴之助さんは2010年6月ごろ色々加筆されたようですが、出典が皆無です。また、大企業の場合自社で出版・広報部門を持っており、社外への発表についても何らかのチェックが入るのが常識で、外部への情報発信について経験は蓄積されている筈ですが、現状の本文の記述は余りに主観的ではないですか?岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年10月16日 (土) 13:23 (UTC)
鈴之助です。長年、企業の社史制作をサポートする職業に就いている者です。岩見さんが、「企業は出版・広報部門を持っており、社外への発表についても何らかのチェックが入るのが常識で、外部への情報発信について経験は蓄積されている筈」とお考えになるのはごもっともですが、だからといって「社史を作る場合のトラブルに要注意」とする私の記述が「主観的」と排される理由にはなりません。「企業に経験が蓄積されている筈」というのは通念であり「トラブルに気をつけて」というのは現場の当事者である私の実体験から申し上げる注意喚起です。それを「余りに主観的」と断定されることこそ主観的ではないでしょうか。「通念」を根拠として当事者の証言を否定するのは本末転倒ではないですか。
出典が皆無と言われますが、当事者が直接知っていることを書くのに当事者でない人が書いた「出典」を元にしなければならないのでしょうか。検証可能性について言えば、私が証人であり、文献的な「出典」以上の証明力があると思うのですが。
また、私は企業の「外部への情報発信」の内容については何も触れていません。社史づくりにおけるトラブル回避について専門的な立場から注意点を示しているだけです。何か少し見当違いのご批判になっていると思います。--鈴之助 2010年10月28日 (木) 09:11 (UTC)
- 岩見です。お返事が遅れまして申し訳ございません。私の上記のレスは検証可能性について重きを置いたつもりです。上記投稿の後半は専門の業者ではない者が眺めた際の疑問点なので、鈴之助さんが体験を否定する意図はありませんでした。また、私の疑問に対して否定にせよ肯定にせよ、出典つきで明記を頂きたいというのが本意でした。
- その上で、もう一つの問題について回答を申し上げます。
- >出典が皆無と言われますが、当事者が直接知っていることを書くのに当事者でない人が書いた「出典」を元にしなければならないのでしょうか。検証可能性について言えば、私が証人であり、文献的な「出典」以上の証明力があると思うのですが。
- はい。「自分が証人」は認められません。下記に抵触します。
- Wikipediaでは記事に関わる当事者の投稿は許容されていません。当事者が自分自身の記述を実施した時点で宣伝とみなされます。また、Wikipediaは真実性より検証可能性を重視する場です。当該の職業に就いている人には常識でも出典は必要であり、それが検証可能性を明示している意味です。鈴之助さんの解釈は正反対であり誤りです。現に、上述のように以前牧歌社が同じ趣旨で投稿を実施し、差し戻されています。
- また、同じ仕事に就いていても意見の違いがあるのは普通ですし、鈴之助さんの「意見」だけが真実と言う保証はどこにもありません。鈴之助さんの記事への加筆は上記の全ての指針に抵触していますので、削除対象となります。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月17日 (水) 13:36 (UTC)
:鈴之助です。やはり少し杓子定規で見当違いなご意見だと思います。まず、よくお読みいただければお分かりになると思いますが、私は「<自分自身>の記事」をどこにもつくっておりません。自分の知識を書いているだけです。たとえば私が交通安全担当の警察官で、あまり人に知られていないが職務上起こりやすいことを知っている事故原因について一般に注意をうながす記事を書いた場合、<自分自身>の記事として宣伝とみなされ削除されるのでしょうか。また、「Wikipediaは真実性より検証可能性を重視する場です。」というのは、そんな規定がどこかにあるのでしょうか。岩見さんが作った規定なのでしょうか。「検証」とは真実であるかどうかを検証するのですから、「真実性よりも検証可能性を重視する」という言葉自体が意味をなしません。今は時間がないのでこれ以上書けませんが、反論がおありでしたらもっとどんどんやりましょう。普通に考えれば読者にとって益はあり得ても害はないはずの私の記事を躍起になって削除しようとされる意図も確かめたいと思います。--鈴之助 2010年11月18日 (木) 18:28 (UTC)
>また、「Wikipediaは真実性より検証可能性を重視する場です。」というのは、そんな規定がどこかにあるのでしょうか。
- 検証可能性、Wikipediaは何でないかを熟読してください。というか、上述の指針もお読みになられてのレスなのですか?鈴之助さんの体験された内容と言うことであれば如何なる内容でも記述は認められません。更に、鈴之助さんの場合は「警鐘のつもり」という部分も意見表明に見做される可能性があるでしょう。貴方の体験と言う時点で自分自身の記事になっていることを自覚してください。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月19日 (金) 13:32 (UTC)
- >「検証」とは真実であるかどうかを検証するのですから、「真実性よりも検証可能性を重視する」という言葉自体が意味をなしません。
- なお、Wikipediaで言う「検証可能性」には定義が与えられています。なので鈴之助さんのこの説明はWikipediaに対しては間違いと言えます。Wikipediaの指針で検証可能性という用語を使っている場合、平たく言えば新聞とか、本、公的団体のウェブサイトといった形で出典が明記されているという程度の意味です。詳しくは出典の明記を読んで頂くとして、そこから例示するなら
- 村上春樹 『ノルウェイの森(上)』 講談社〈講談社文庫〉、1991年、200頁
- 福見秀雄 「感染論から見た化学療法論」『科学』24号、1954年、175-179頁。
- こんな感じですかね。繰り返しますが編集者自身は出典にはなりませんよ。それを定めたのが私が最初に提示した指針です。あれも私が決めたことではなく、元々ここのルールとして決まっていたことです。例え執筆者が著名人でも斯界の権威でもそう扱われます。ついでに言えばその本や雑誌の記述が出鱈目かどうかは問わないのがここでの基本です。正直、ここで編集する際の極基本的なルールであるため、この点に関して議論の余地はないです。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月19日 (金) 13:50 (UTC)
鈴之助です。
コミュニティにおけるルールは、コミュニティの理念を守るために、本来制限されるべきでない人間の自由を制限する「必要悪」です。ですからこれを「必要悪」でなく「善」であるとして「必要」以上に積極的に運用すると、コミュニティの理念が逆に損なわれてしまうことになります。法律はその「趣旨に照らして」運用されなければならないというのは法曹界の常識ですが、その常識の確立までには様々な反省すべき事案が生じたことでしょう。岩見さんはまず、「Wikipedia:編集方針」をよくお読みになるべきではないでしょうか。 そこには、
1 完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんでください。
2 多様な参加姿勢が受け入れられます
3 他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください
ということがまず書かれています。
そこから読み取れることは、Wikipediaは多くの人がそれぞれの知識を「自由に」持ち寄って公開し、お互いの人生に生かそうとするもので、そのことが基本理念ということです。
しかし、誰でも自由に書き込みができるために過失または故意の間違った記事、有害悪質な書き込みが生まれる危険性があり、それを防ぐために「必要悪」としてルールが設定されています。「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」というようなのがそうです。「書くべきです」であって「書かなければなりません」でないところに私は注目します。 Wikipediaの目的は「有益な知識の収集」であって「有益性のない書き込みの排除」ではなく(必要悪ではあっても)、それゆえルールのために「有益な知識の収集」が阻害されることは求めていないのです。 そこで、「Wikipediaは何ではないか」のページ、岩見さんが私に熟読を勧められるまさにそのページには、岩見さんには関心がないのかもしれませんが、こんな記述があります。
<ウィキペディアは規則主義ではありません> 「ウィキペディアはきまりで縛られているわけではありません。模擬裁判ではありませんし、規則はコミュニティの目的ではありません。ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありません」 ここのところを熟読していただきたく存じます。私はこれを、「ルールは必要ではあっても悪であり得るので自己目的化してはならない」という認識を示したものと考えています。「創設」とはおそらくestablishの訳語で、「確立」としたほうがよいかもしれません。
私が体験に基づいて書いた記事をそれだけで「自分自身の記事」とされ、それだけでもはや除外の対象のように言われますが、そのように明言された箇所は私が目を皿にしてWikipediaの各ページを読んだ限りでは見当たりませんでした。
それらしいものは確かにあります。たとえば、「Wikipediaは何ではないか」の項目の一つに「ウィキペディアは演説台ではありません」というのがあり、 「自己宣伝――自分自身や自分が深く関わっていることがらについて書きたい誘惑にかられるかもしれません。しかしながら、百科事典的な記事に関する基準は、そうしたページにも他のページと全く同様に適用されることを覚えておいてください」 とあります。よく読めばわかると思うのですが、これは「自分が関わっていることについて書けば自己宣伝になる」と規定しているのではなく、「自己宣伝になるようなことで書きたい誘惑にかられて書く」ようなら、それはやめてほしいというものです。Wikipediaは非常に慎重な表現で「ルールによって理念が阻害される」ことを勧めないようにしているのです。
そのような表現はほかにもあります。「自分自身の記事をつくらない」の項目には、 「あなたが個人的に関わっていることがらについて記事を書くときには、あなたは、いつも以上に注意を払い、あるいはそれを控えなければなりません」 とありますが、「個人的に関わっていることがらについて書いてはいけない」とは言っていません。また「特筆性」のページには、 「ウィキペディアの記事は完璧でなくともよく、編集を楽しむものであることを思い出してください。特筆性を証明できるような情報源が現時点で追加されていないような記事でも、それが実は存在して、特筆性を示すことができるのかもしれません」とあります。
また、「信頼できる情報源」のページには、 「情報源のない編集や不適切な情報源に基づく編集にはいつでも異議を申し立てられたり除去されたりすることがあると留意のうえで、あなたの投稿は読者の役にたつことができます」 とまで「注意深」く書かれています。さらに、これは出版物などに関してではありますが、 「彼らは本当にそこに実在しましたか?出来事の目撃者による説明と解説者によるものを注意深く分けて考えるようにしてください。前者は一次資料で、後者は二次資料です。どちらも信頼できます」とあります。また、最も危なそうな「意見」についてさえ、 「意見とは、誰かが抱いている見解であり、その内容は検証できる場合もできない場合もあります。しかし、ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます」 と、条件付きではありますが、公開の場を与えています。
もちろん、「信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」とか「信頼できる公刊された情報源を使うべきです」と強く記述者に求めていますが、これは「有害無益で無責任な書き込みをあくまで阻止しよう」とする思いの表現であって、それでもほとんどが「べきです」にとどまっている理由を私たちはよく考えねばなりません。
岩見さんの超厳格主義は、 「Wikipediaは真実性より検証可能性を重視する場です」 とのお言葉に最もよく表れています。
本当にそんなことが書かれているのかと探した結果、 「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です」 という一文に行き当たりました。おそらくこれを「Wikipediaは真実性より検証可能性を重視する場です」と言い換えられたのでしょうが、致命的な読み誤りというほかありません。解説するまでもないでしょうが、「真実とされるためには検証が不可欠である」ということを表現技術的に強調しているのであって、決して「真実性以上に優先されるものがある」などと言っているわけではありません。Wikipediaが求めるものはあくまで「真実」なのです。
そういう意味では、「信頼できる公刊された情報源」とされる出版物について「その本や雑誌の記述が出鱈目かどうかは問わないのがここでの基本です」と言われることにも驚きます。「ここ」というのはWikipediaでしょうが、Wikipediaは、信頼できる出版社の出版物だから出鱈目はないだろうということで「出典」になりうるとしているのです。そのことは、Wikipediaが当然ながら根本的に真実を求めて「出鱈目かどうか」を問うているからなのであって、「本に書いてあることなら出鱈目かどうかは問わない」というのは根本理念に逆行する解釈と言わざるをえません。まさに悪しき形式主義です。
岩見さんはさかんに「これは~に抵触します」「これは~とみなされます」「~であれば如何なる内容でも記述は認められません。」というような裁判官的強権表現を使われるのですが、そんなルールがんじがらめの硬直した形式主義を捨てていただくため、Wikipediaの根源的な理念がよく表れており、私がWikipediaを尊敬し愛する理由でもある前掲の一文をもう一度掲げます。
<ウィキペディアは規則主義ではありません> 「ウィキペディアはきまりで縛られているわけではありません。模擬裁判ではありませんし、規則はコミュニティの目的ではありません。ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありません」 以上です。--鈴之助 2010年11月19日 (金) 20:40 (UTC)
- 私のことを厳格主義と指摘されるのは良いでしょう。ただ、裁判がどうのと言われるとちょっと誤解されているのかなと思ってしまいます。私の編集能力の問題から言えば当該の記述はすぐ除去することも可能なわけです。しかし、まずはノートでの議論からスタートしようと判断しました。そこは、誤解しないで頂きたい。
- 次に、信頼できる情報源についての解釈は編集者の独自研究や個人体験を載せたり、増してや「世間へ警鐘を鳴らす」ためのものではありません。そう言った目的であれば、Wikipedia以外の手段をお使いになられるべきでしょう。
- >情報源のない編集や不適切な情報源に基づく編集にはいつでも異議を申し立てられたり除去されたりすることがあると留意のうえで、あなたの投稿は読者の役にたつことができます
- 全部指摘するととても長くなるので「注意すべき論点」節に絞りますが、この文の末尾にある「あなたの投稿」も情報源が担保されているとか、その話のソースを誰かが探して補完するという意味です(そういう前提で編集している為)。編集者自身の意見OKという意味ではありません。この社史の記事で言えば異議申し立ての対象は「情報源のない編集」(編集者の個人体験)や、不適切な情報源(編集者自身)に基づく編集」たる、鈴之助さんやかつての牧歌舎の投稿が該当します。また、鈴之助さんの挙げられた節には
- >底意や関係者間の対立、強硬な見解、そのほか報告に影響する先入観はありますか?
- >ほかの編集者が確認するのに使えますか?
- と言う記述もあり、これらを切り捨てることは到底出来ません。今回の社史一つとっても、発注者、受注者、一般読者、或いは同業他社、といった観点が存在します。また、鈴之助さん御自身の体験を直接投稿されても、他の編集者は確認できません。真実という言葉にも固執されているようですが、見解に対立がある議論など世の中幾らでもあります。政治絡みの記事が良い例でしょう。ある意味では社史(およびその発注、編集過程)自体も政治的に見られる可能性を持ってますね。そこで一方だけを真実と断言すれば当然独自研究になりますよ。
- >ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありません
- それ、解釈に微妙なずれがある場合であって、今回はあなた自身が「自分が出典」「警鐘鳴らす」と言明されてるので極めて明快です。大体それが書かれているウィキペディアは何でないか節は、
- >ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません
- 等々ある筈ですが。完璧な記事でなくて良いってのも、最初から記述内容が充実している必要はないということでは?
- 最後に、ウィキペディアは何でないかやWikipedia:基本方針とガイドラインには下記の記述があります。
- >この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。
- 牽強付会の屁理屈で独自研究を投稿するのはおやめ下さい。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月20日 (土) 03:01 (UTC)
鈴之助です。
「牽強付会の屁理屈」という表現は、こちらから何も言わなくとも岩見さんご自身から謝罪の上取り消されるものと思いますので、ここでは問題にしません。
岩見さんが、Wikipedia:基本方針とガイドラインの、
「この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。」
という文言を非常に重視しておられることは分かっているのです(私も重視はしています)。だから私は、ウィキペディアは何でないかの、
<ウィキペディアは規則主義ではありません>
「ウィキペディアはきまりで縛られているわけではありません。模擬裁判ではありませんし、規則はコミュニティの目的ではありません。ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありません」<br /
という言明を取り上げて、岩見さんのハードな感覚は「少し違うのではないですか」と申し上げているのです。それに対して、「いや、Wikipedia:基本方針とガイドラインのところには「この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。」と書かれている」と言われても仕方がないのではないですか。もっと本質を見てください。
簡単にとりまとめて言えば、岩見さんは「記事の誤りなきを期するためにルールに関する許容範囲は狭いほうがいい」との立場に立たれ、私は「有益な知識を収拾するために許容範囲は広いほうがいい」との立場に立っていて、私としてはWikipediaの根本理念に添うのは私の立場だろうと考えているわけです。岩見さんが思っておられるように「文献など出典がなければ投稿してはならない」(Wikipediaにそんな言明はありませんが)のだとしたら、Wikipediaは現在も将来的にもすでに地球上に存在する文献等以上のものではありえず、高々、よく出来た「百科事典のWeb版」でしかなくなってしまうからです。
それはさておき、岩見さんは私の記事を「独自研究」と位置づけておられます(私は単なる「知識」であると言っているのに)。Wikipediaでは学術上の記事では当然「独自研究を勝手に発表している論文」は問題されるべきですが、私の記事がそれと同様に同様の裁きを受けるべきだと主張されるのはあまりにも過剰ではないでしょうか。
また、「一方だけを真実と断言すれば当然独自研究になりますよ」と言われるのですが、本文の投稿を見ていただけば分かるように、私は対立する主張の一方を支持しているわけでもなんでもなくて、私の投稿のあとから出てきた反論さえありません。「一方だけ」と言うためには当然「他方」があるはずですが、どこにもそれはないのです。この段階で「ガイドラインに添って除去するぞ」と居丈高に言うのは、
1 完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんでください。
2 多様な参加姿勢が受け入れられます
3 他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください
とするWikipediaの「編集方針」に反すると思います。だいたい、投稿の規則論からすれば変則の言い方ですが、私の「トラブルが存在する」という記事については、これが有益な知識になりうる人は存在しても、有害な知識になると考えられる人はいないのですから、「ルール」に照らして除去だ除去だとはやるのは変ではないですか。いずれ問題が表面化すれば、岩見さんが喧しく言われる「出典」が出てくることも考えられますから、それを待つのがWikipediaの理念からして正しい対応であろうと考えます。Wikipediaの「特筆性」のページにも、「ウィキペディアの記事は完璧でなくともよく、編集を楽しむものであることを思い出してください。特筆性を証明できるような情報源が現時点で追加されていないような記事でも、それが実は存在して、特筆性を示すことができるのかもしれません」とあるではないですか。
これまでの私の加筆に対する出来事の流れは、次のようなものです。
- 私が「社史」の項目の本文に「悪質な業者が存在するから要注意」という内容の加筆をした。
- 岩見さんが「出典を示せ。企業では外部への情報発信について経験は蓄積されている筈だからそんなことはないだろう」という内容の批判をされた。
- 私は「自分はこの項目について当事者で専門的な知識をもつ立場から加筆した」と説明し、岩見さんの通念に基づく批判は当たらないことを指摘した。
- 岩見さんは「当事者なら<自分自身の記事をつくらない>というWikipediaの方針があるからここに書いてはならない」と通告された。
- 私は「体験上知っている知識を書いただけで<自分自身の記事>を作ったわけではない」と反論した。
- 岩見さんは「個人の体験を書けば<独自研究>になるからなおさらここに書いてはならない」と再度通告された。
- 私は「そんなルール至上主義は却ってWikipediaの理念にそぐわないのではないのではないか」と私の主張を裏付けうると考えられるWikipediaの文言(ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありませんなど)を出典を示して引用し呈示した。
- 岩見さんは私の論証を「牽強付会の屁理屈」とし、基本方針の「この文書はウィキペディア日本語版の公式な方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。」の文言を提示された。
- 私は岩見さんの主張を超えうる根拠として再度「ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありません」とのWikipediaの言明を呈示した。
念のために付け加えますと、私は「企業の社史制作をサポートする職業に就いている」とは言いましたが、「自分は社史制作業者である」とは言っていません。また「社史制作のサポート」だけが自分の職業だとか専門だとかも言っていません。仕事の専門性からたまたま社史制作を長くサポートする結果になっている人はいくらでもいます。この条件で、岩見さんから制作業者あるいはそれと同等の者とみなされ、だから「記事が政治的」とされる必要はありません。
岩見さんには、上の節「現状の記述について」に書き加えた私の質問にも答えていただきたいと存じます。--鈴之助 2010年11月20日 (土) 18:28 (UTC)
- >私は「有益な知識を収拾するために許容範囲は広いほうがいい」との立場に立って
- 複数のガイドラインに思いっきり抵触しており、広くとっても許容範囲外だと思いますが。
- >岩見さんが思っておられるように「文献など出典がなければ投稿してはならない」(Wikipediaにそんな言明はありませんが)のだとしたら、Wikipediaは現在も将来的にもすでに地球上に存在する文献等以上のものではありえず、高々、よく出来た「百科事典のWeb版」でしかなくなってしまうからです。
- 「よく出来た百科辞典」のレベルにすら達していない記事が多数あり、そういうレベルの記事を出典明記して書くのが大変なことであると私は理解しています。また、それ以上のものをWikipediaは求めていないと解釈していますが。体験記や警鐘は他所でやるべきことです。それを指して「独自研究」と言ってるに過ぎません。あと基本的な指針に書かれているこの記述はご確認されたのですか?
- >百科事典を創り上げること、これ以外に目的はありません。詳細はウィキペディアは何ではないかを参照してください。
- というか、自分でサイト開設の努力も、ソース集めの努力もせずにWikipediaを利用して言いたいことを書いてやろうとか、傲慢だと思いますね。これだけレスする暇があるなら私に指摘された時点で、あなたが持論に近い出典を探す努力を一つでもするべきでしょう。
- >私は「企業の社史制作をサポートする職業に就いている」とは言いましたが、「自分は社史制作業者である」とは言っていません。
- それがどうしたのですか?社史製作において業者だけが当事者であると私は書いてないですよ?しかも長年従事した体験に基づき書く旨表明されてるのですから、記事に対しての当事者性は十分に表明されています。
- >私は岩見さんの主張を超えうる根拠として再度「ウィキペディアにおける行動規範は、基本方針やガイドラインの文言によって創設されるわけではありません」とのWikipediaの言明を呈示した
- その記述の上に書かれてる下記の一文をよくお読み下さい。
- >上記の方針はウィキぺディアの内容に関するものです。 以下の方針はウィキぺディアの管理と諸手続きに適用されます。
- 鈴之助さんは方針改訂の為の議論を何もしていないでしょう。その種の議論は指針関連のノートなどでやるべきことでしょう。「自分が証人という記述を容認せよ」という鈴之助さんの主張が認められるにはそういう議論をくぐり抜ける必要性がある。
- >これが有益な知識になりうる人は存在しても、有害な知識になると考えられる人はいないのですから
- >制作業者あるいはそれと同等の者とみなされ、だから「記事が政治的」とされる必要はありません。
- いや、金絡みの話を持ち出して業者に批判的な記述をしているので検証可能性が担保されなければ十分有害ですよ。鈴之助さんが業者でないなら尚更です。牧歌舎みたいにここでの記述に興味持ってる業者だって居たのは事実なんだから、業者によっては読んだら切れるんじゃないかな?発注者バイアスのかかった独自研究ですよね。今のままじゃ。余談ですが、社史製作に携わっておられながら私が社史にまとわりつく政治性を例示したレスに対して上記のような回答を返されるのは、非常に由々しい事態だと思いますね。
- とりあえず鈴之助さんとは意見の溝が埋まらないので議論をしていても平行線でしょうし、私も鈴之助さんの加筆部分以外の箇所に問題を感じているので、ソースを探してきました。後ほどそれに基づいて編集させていただきます。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月20日 (土) 21:23 (UTC)
鈴之助です。
岩見さん、「現状の記述について」の節に書き加えた私の質問にも答えてください。岩見さんが言われる「上述のように」「牧歌社が同じ趣旨で投稿し差し戻された」記事を確認したいのです。--鈴之助 2010年11月21日 (日) 03:28 (UTC)
- 本文の「社史」ページ上部にある履歴をクリックすると変更履歴一覧が表示されます。2007年から2008年にかけて投稿された後削除されていますね。「前」と書かれてる部分をクリックすると前後の版との差分がとれます。また、投稿時刻をクリックするとその版の記事が分かります。また、この件については、利用者‐会話:Bokkashaをご確認下さい。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月21日 (日) 06:20 (UTC)
鈴之助です。
2010年11月下旬の本文への加筆
岩見さん、私は本文の履歴でなく、このノートページに岩見さんが書いておられる「現に、上述のように以前牧歌社が同じ趣旨で投稿を実施し、差し戻されています。」の文言についてお尋ねしています。「上述のように」とはどこですか。--鈴之助 2010年11月25日 (木) 14:33 (UTC)
- 長くなったので一旦切ります。
- 「上述のように」とは本文の編集を含む牧歌舎の一連の投稿に決まってるでしょう。最初は履歴が追えないのかと思っていましたが、わざと引き伸ばしているのですか?牧歌舎は自分のサイトが検索で上位に来るから掲載するのは義務などと言うアクセス乞食でもしないような主張を元に自社のリンクを加えたのですよ。
- さて、鈴之助さんは昨日本文に加筆を行われました。これが直前の版との差分になります。一部には出典が示されていますが、かなり独自研究などの問題があります。前にも述べましたが明示されているガイドラインを無視して曲解を重ね、「自分が証人」などと言う理屈を通そうとするのはやめて下さい。ルールを変えたいのならそれ相応の場所で自分の主張を説得してからにしてください。
- 今回の投稿に関しては下記の点で問題です。
- 用語の区分ですが、正史の説明では他の呼称の社史は例えその会社が発行していても「自社の標準の社史として正式に認め」ていないと読めるので、文章的におかしいです。また、略史の場合、出版文化社では次のように説明しています。現状ではただ辞書から引っ張ってきただけであまり推奨されるやり方ではなかったと記憶しています。当面は私が提示したこの出典の記述を参考にするのが適当です(異論は勿論歓迎しますが出典は出してください)。小史も略史とは意味が違います。
- >そういうものについては記念誌でもあり社史でもあるのであって、記念誌と社史を区別しようとすることに特段の意義はない。
- 現状では独自研究です。
- >『労働組合史』
- 現状では独自研究です。また、労働組合史とは何かを説明する文章を勝手に削除しないで下さい。更に、「御用組合」という言葉はマイナスのレッテルとして使用される言葉です。こんな言葉をああいう文脈で使用する貴方の神経を疑います。また、組合のない会社では組合史は生まれません。一方で、世の中には組合のある会社と無い会社があります。勝手に文章を丸めないで下さい。
- それは視点が経営側では無いというだけの話です。企業別組合の構成員は普通はその会社の従業員の目線で書かれたものであり、外部の第三者的な目線で執筆するものではありません。更に、JTBのウェブサイトにあるように、商業的な扱いは同じ括りです。ここにあるように、
- >労働組合でも年史・記念誌が発刊されるが、その目的は企業・団体と大差はない。
- >目的の筆頭は、やはり「資料の保存」「温故知新」であろう。
- としている場合もあります。神奈川県立川崎図書館の例のように、受け入れる公共図書館でも社史と同じように扱っていますね。
- >また小予算でも小規模で内容的に立派な社史は制作可能であるから、「社史」の項目において予算の裏付けを云々することに意義は無いとする意見もある(ノート参照)。
- 個々の社史が立派に製作出来るかどうかは鈴之助さんやWikipediaの編集者が判断することではありません。また、ノートの主張をそのまま取り上げるなど論外ですよ。しかもその投稿を行ったのは牧歌舎ではないですか。牧歌舎がWikipedia外で言っているならともかく、これは情報源になら無いでしょう。
- >さらに、名だたる大企業でも戦前、戦時中に大陸からのいわゆる「強制連行」者を酷使したり~そうした意味では社史も非常に人間的な産物であるといえる。
- 貴方の勝手な意見と感想(つまり独自研究)に過ぎません。そのように批判した出典を挙げないで批判的記述を加筆するのはやめてください。
鈴之助です。
「「上述のように」とは本文の編集を含む牧歌舎の一連の投稿に決まってるでしょう。」とは驚きます。「上述」とは「上に述べたように」あるいは「上に述べられているように」という意味ですから、このノートページ内であなたの「現に、上述のように以前牧歌社が同じ趣旨で投稿を実施し、差し戻されています。」という記述の上にあるものでなければなりません。ですから最初の節のBOKKASHAによる書き込み部分を指すものと思い読んだのですが、この書き込みが私の趣旨と同じとは私には思えなかったため、どこが「抵触」するのかと思い、お尋ねしたのです。あなたの言う「本文の編集を含む牧歌舎の一連の投稿」など、どこにも「上述」されていないのではないですか。それなのに「「上述のように」とは本文の編集を含む牧歌舎の一連の投稿に決まってるでしょう。」とはあまりにも理不尽な対応です。
「本文の編集を含む牧歌舎の一連の投稿」と言われますが、履歴を見ましても牧歌社が本文の編集をした形跡はありません。リンクが他の業者とともに宣伝とみなされて外され、「会話」で抗議したことはわかりますが、それだけです。「本文の編集」はしていないのではないですか。「アクセス乞食」などという品位を欠いた表現もありますし、今回のあなたの書き込みには常軌を逸したものを感じます。
さて、先日、本文について、私があなたの編集の誤っている部分を正したのに対し、それをまた誤った記述に書きなおされたのには呆れました。「小史」は、BOKKASHAも一番上の節で述べているように、「略史」とほぼ同義語です。「特定の出来事に絞って書かれたのが小史」だなどと、国語力を疑うような投稿をされるとは、しかもそれを訂正してさしあげたのに、また誤った説明に書き直されるとはどういうことなのでしょうか。本当に、何を根拠にそんな変なことを書かれるのですか。今回は辞書を出典として訂正しましたので(多くの人にはそこまでするのはバカバカしいほどの常識ですが、ここまでしなければならない人がいるのですね)、ちゃんと辞書を見て学習してください。
確かに、あなたが辞書以上に「この出典の記述を参考にするのが適当」とされる社史制作業者のサイトページには、「正史」「略史」「小史」の説明がありますが、読んでみると、本当にこれが社史制作専門業者の書いたものかと首をかしげるような、誤謬を含む不備な記述で低レベルのものです。これも辞書に照らせば明らかです。何をもってこれを辞書以上に信頼すべき情報源とされるのか、その理由をお尋ねします。
最後に、「労働組合史」を「社史」であると強弁するのはやめていただけませんか。これも、私が正したのにまた元のご主張に戻しておられます。「労働組合史」は「社史」ではありません。ホントに、なぜそんな、変なことを言うのですか。こんなことも、何か出典を示して説明しなければならないのでしょうか。しかし「労働組合史は社史ではない」と書いた本などないでしょう。当り前すぎて、あるほうがおかしいのですから。--鈴之助 2010年11月26日 (金) 23:18 (UTC)
- >「アクセス乞食」などという品位を欠いた表現
- 本文で業者の悪口(あなたは警鐘のつもりかもしれませんが、怨恨と取られてもしょうがないですよね)を書いたり、御用組合と言う単語を安易に使用されていた筈ですが。
- >わが社は国内最大手の検索エンジンにおいて、わが社の重要な業務である「社史」「記念誌」制作に関し、これらのキーワードで長い間上位に表示されてきております(Yahooでは常に第一位)。それゆえ「牧歌舎」を調べようとする人々が毎日いることをアクセスログからも確認しております。こうして、わが社について知りたい人が少なからずいることから、Wikipediaに掲載することをほとんど義務と思って投稿した次第です。Wikipediaは知りたい人に情報を与えることが第一義的な存在理由のはずです。
- これが牧歌舎が会話ページでしていた主張です。アクセスには言及していますが、アクセス乞食と同列に並べられるわけが無いし、私はそんなことは書いていません。ちゃんと読み直してください。大体アクセス乞食に失礼でしょう。
- >「本文の編集」はしていないのではないですか。
- 上に「本文」「ノート」「移動」「履歴」とあるのが読めないのですか?記事自体に関わる当事者が編集していた点において鈴之助さんと同じだと言う意味ですが。
- >読んでみると、本当にこれが社史制作専門業者の書いたものかと首をかしげるような、誤謬を含む不備な記述で低レベルのものです。
- 辞書は確認してますが(広辞苑とかではないですが)、慣用的に特定の業界で使う意味がある可能性を考慮しただけです。出版文化社の社史編さん部署の認識が低レベルとは今日初めて聞きました。
- >「労働組合史」は「社史」ではありません。
- 関連刊行物欄に移動しています。また、労働組合が自分の会社について書いた書物であり、只の外野の第三者の論評ではないことは事実です。商売や収集においても社史とセットで扱われているのも事実です。確かに、本文でよく引用した村橋氏は余り出しませんが、村橋氏は経団連の所属研究員か何かをされているという事実がある。経団連の催しで講演する人は例え井上ひさし氏のような方でも言及しませんが、それも主催者が主催者ですから。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月27日 (土) 04:09 (UTC)
鈴之助です。
「本文」「ノート」「移動」「履歴」ですか。「本文」「ノート」というのは見えるのですが。そしての右の方に行くと「閲覧」「編集」「話題追加」「履歴表示」とあって、岩見さんの言われるのと少し違いますが、要するに一番上の「牧歌社による投稿の取扱」という節にあるbokkashaの記述は「本文」に投稿されてから管理者によりノートのページに移動された、ということなのですね。つまり本文から除去はするがノートに残してみんなに見てもらうのが最善と管理者が判断したというわけなのですね。細かい疑問は残りますが、この解釈で当たらずといえども遠からずと判断しましょう。だいたい分かりました。
確かに「当事者の投稿は、ただ当事者の投稿であるという理由だけで一律に除去されるべきではない」という考え方は私の考え方に通じるもので、管理者としては削除せずに残すという処理を選んだことについては納得できます。ガイドラインに照らせば本文としては不適切だがノートの議論としては有意義であると判断されたということで、岩見さんの当事者記事全面否定論とはかなり違いますね。
じっさい、当該の節を読んでみますと、前にも言いましたがまともな意見で、「当事者」の「意見」ということで本文にはそぐわないですが、私が今回行った本文の誤謬部分の訂正(編集)とも重なっており、ノートに「残されるべき」記述であったことは結果が証明しています。今回私の行ったあなたの「小史」の説明の訂正を、あなたは除去することができないでしょう。せいぜい、「社史においては特定の出来事に絞った記述の場合この語を使用することもある」と付け加えて無理矢理自分の書き込みの片鱗を残すくらいしかできないのではないですか。
それほど当事者の記事を否定する岩見さんが、一方では特定の業者サイトに書かれている記述を根拠として本文を編集され、「正史」「略史」「小史」を説明するのは矛盾ではないですか。「慣用的に特定の業界で使う意味がある可能性を考慮しただけです」と苦しまぎれの弁解のようなことを書かれていますが、国語辞典とも異なるような説明を本文に書き込む根拠としては信頼性が乏しすぎると言わざるをえません。
「出版文化社の社史編さん部署の認識が低レベルとは今日初めて聞きました」も疑問です。初めて聞いたからどうだということを書いていただかなければ文意が理解できません。それに私は「出版文化社の社史編さん部署の認識が低レベル」というような包括的なことは言っていません。ちゃんとしたページもあるのかもしれませんが、あなたが根拠とするページについて「「正史」「略史」「小史」の説明がありますが、読んでみると、本当にこれが社史制作専門業者の書いたものかと首をかしげるような、誤謬を含む不備な記述で低レベルのものです」と言っているのです。じっさいにその部分を読めば、多くの人は首をかしげるのではないですか。なにしろ、次のようなものなのですから、
「
・正史
正しい歴史という意味で、創業前史から発刊タイミングまでの全ての年代を網羅した社史です。通史という表現も同じ意味で使われます。通常はその社史を指して○○正史とは呼ぶことはありませんが、内容の認識として正史であるという位置づけで編集されたものと言えるでしょう。
・略史
何度か社史を発刊した場合など、発刊後の歴史を中心にまとめる場合、略史という表現が使われます。たとえば30年史を発刊した経験のある50年の歴史を持つ会社の場合、30年史発刊後の20年分のみをまとめたような社史は、この20年分をきっちり書き、前の30年はダイジェストで書くというケースが多くあります。この場合を略史と言います。また、この略史という言葉には全ての歴史を網羅しないという意味もあります。
・編年史
一年ごとに歴史をたどりながら追っていく編年体の編集物を指します。
・外史
正史の反対の意味で使われます。会社の本社や当局が出版するのではなく、外部のもの、社員達だけで制作する社史を指します。
・小史
ある出来事や、イベント、ある特定の人物に関してのみ歴史をまとめる場合、こう呼びます。
・稗史
事実の確認ができないようなものを集めて歴史書として出版する場合の呼び名です。
」
もちろん、出版文化社が自分のサイトで何を書こうと自由ですから、私はそのことをとがめるつもりはありません。ただ、これを根拠として、一般に信頼できる言葉の意味づけの根拠とされている国語辞典と異なる説明を岩見さんがWikipedia本文に投稿されるのは変でしょう、と申し上げたいのです。
また、いくら岩見さんが言い張ろうとも、ある会社の労働組合史がその会社の社史だとするのは無茶な拡大解釈ですから、今回も是正しておきます。--鈴之助 2010年11月27日 (土) 08:30 (UTC)
- そもそも当事者である貴方の投稿自体、どんな内容であれ遠慮して欲しいわけですが。何を勘違いしているのですか?要するに「当事者が編集するなら出て行け」というのがWikipediaのガイドラインの意味ですよ。もうコメント依頼で議論するしかないでしょうね。また、今回も「説がある」、「飛躍的である」と個人的見解を出されていますね。労働組合史は組合の視点で書かれた会社の歴史であり、組合員は当事者だという事実の何がおかしいのですか?
- >当事者の記事を否定する岩見さんが、一方では特定の業者サイトに書かれている記述を根拠として本文を編集され
- 貴方がWikipediaに無理解なまま編集し忠告を無視しているのは知っていますが、検証可能性を読み直して下さい。私は当事者ではありません。出版文化社の説明は情報源として利用しているだけです。そもそも、貴方が根拠にしている辞書自体、出版社が発行物であり、情報源を問うならそこに優劣は無いですが。
- 岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月27日 (土) 10:12 (UTC)
鈴之助です。
岩見さん、いろいろお手数をかけていただいて感謝します。なるほど、「コメント依頼」というのがあるのですね。多くの人から意見を頂ければ幸いです。
ところで、質問を2つします。
まず、岩見さんは私を「当事者」だから編集禁止だと言われるのですが、私は「長年、企業の社史制作をサポートする職業に就いている」と言っており、それだけで「編集に参加できない当事者」と決めつけられなければならないのでしょうか。たとえばプロの校正者として、いろいろな出版社や新聞社に長年出入りしており、その中で社史という商品や商品市場にも自然に詳しくなっている場合、それが、記事を削除すべきであるほどの「当事者」とされる要件にあてはまるのでしょうか。見当違いのお答えを頂かないために端的にまとめます。「校正だけを担当する出版社の外部スタッフも、長年その仕事をしているが現時点では具体的な仕事を請けていないとしても、この項目の編集に参加できない当事者とされるのですか」
また、当事者かどうかに関係ないような編集、たとえば単なる誤字を直すというようなことでも、項目に関する当事者は手を出してはならないとお考えでしょうか。誤字訂正などは当事者かどうかに関係なくなされるべきではないでしょうか。私が最近行っている本文への編集は、主に字義に関することで、たとえば「略史」や「小史」の説明は当事者かどうかに関係なくできることです。というか、されなければいけないことと考えます。見当違いのお答えを頂かないために端的にまとめます。「当事者は誤字訂正にも参加できませんか」
以上です。--鈴之助 2010年11月27日 (土) 12:10 (UTC)
- 社史の項目で議論している限りはあらゆる、と言うことになるかと思います。また、望ましく無い方の投稿だと私は認識していますが、今回は出典を提示されたので、略史の部分はそのままにしてある筈です(過去の神社、結社のくだりもスタイルを変更した以外は同様に残しています)。鈴之助さんの場合は、検証性さえ満たしていただければ、社史関係以外の項目なら問題は無いとは思いますが。また、一般論としてWikipediaの記述に問題を感じる場合は当然あり、様々な記事においてガイドラインに反した投稿が続けられている現実もあります。Wikipediaの記述に対して記事対象となった人物が自身のブログなどで反論すると言う事例もあります。
- 職業についてですが、注記の部分などは自身の経験に基づいているということで論外と言うのは変わりません。ただ、念のためお伺いし
ますが、「企業の社史制作をサポートする職業」とは具体的にはどんな業務になるのでしょうか?お聞きしている限りは社史編さん室のような部署を想像しますが。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月27日 (土) 12:39 (UTC)
鈴之助です。
具体的な質問になかなか1対1対応のお答えが頂けないので困惑するのですが、つまり、「校正だけを担当する出版社の外部スタッフも、長年その仕事をしているが現時点では具体的な仕事を請けていないとしても、この項目の編集に参加できない当事者」と解すればよいのですね。
また、<当事者>であるかぎり、「誤字の訂正にも参加できない」というわけですね。岩見さんのご主張はよく分かりました。
私の職業についてお尋ねなので、議論の前提を明確にしておくために「フリーの校正者」とお答えしておきます。--鈴之助 2010年11月27日 (土) 16:36 (UTC)
- 御質問に回答を頂きありがとうございます。
- ><当事者>であるかぎり、「誤字の訂正にも参加できない」というわけですね。
- ええ、私はそのように解釈しています。ただ、3点ほど申し上げたいことがあります。
- 第一に、本議論の本質は当事者が自分の体験や価値観を盛り込むことの是非で、問題としてはシンプルです。「具体的な質問になかなか1対1対応のお答えが頂けないので困惑する」程複雑な問題ではないと思います。牧歌舎の投稿をめぐって鈴之助さんとやりとりが長引いた件なども、単なる意思疎通の不備でしかないからです。
- 第二に、私は鈴之助さんがWikipedia外で個人サイトやブログを立ち上げて自身の社史論を綴ることまでは否定していません。確率としては低くなりますが、雑誌投稿にチャレンジしてそれが掲載に至れば、誰かがこの記事に反映する可能性だってあります。自分の意見を広める為にWikipediaを使うのをやめて下さいと言ってるだけです。
- 第三に、鈴之助さんはガイドラインを盾に「楽しく編集」と繰り返されていますが、編集者の個人体験でしかないトラブルに基づき受注者を延々と罵倒したり、「御用組合」「名だたる大企業の~(以下略)」などと言う主観に基づいた批判も楽しく書き込むに包含されるのでしょうか?貴方の書き込みで具体的内容に踏み込んだ部分はそういうものばかりだったので実に疑問ですね。
- なお、下記のコメント依頼には「被依頼者のコメント」と言う節を設けてあります。鈴之助さんの主張については冒頭で紹介していますが、不足があれば、「被依頼者のコメント」欄への追記をお願いします。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月30日 (火) 15:43 (UTC)
鈴之助氏の行為についてコメント依頼を作成
- Wikipedia:コメント依頼/利用者:鈴之助を作成しました。検証性についての認識などは本項目のみならず、Wikipediaでは普遍的な問題だからということも含意しています。念のために書きますが、コメント依頼自体の仕組みについてはWikipedia:コメント依頼を熟読してください。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2010年11月27日 (土) 11:26 (UTC)