ノート:相馬大作事件
『岩手県の歴史』について
[編集]森嘉兵衛の『岩手県の歴史』は良い本で私も所有していますし、実際他の項目では記事の記述に利用させていただいています。 しかし、相馬大作事件のことに関しては「地雷を地面にふせ、駕籠に発砲した」など荒唐無稽な表現が目立ち、他の冷静な書籍や津軽藩の記録との差異があり、講談の影響が強いのではと疑ってしまいます。もし本当にそんな事をしたなら、江戸での裁判でも必ず言及されるのではないでしょうか。
最近、下斗米哲明の『文政四年の激震<相馬大作事件>』が出版され、この書籍の記述が詳細で、異論がなければこの書籍の記録を元に、記事を再編成したいと思っています。また、荻田如牛の『萬歳安国一代記 : 江刺の刀工』も第三者の視点で事件の記述が詳細なのでこれも参考にしたいと思っています。 本当は『相馬大作と津軽頼母』の記述をかなり採用して記事を作っても良いと思っていたのですが、これは一応史実に沿っているとはいえ小説ですし。--らんで(会話) 2023年3月29日 (水) 14:30 (UTC)
色々調べていくと、森嘉兵衛『岩手県の歴史』や長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』などの資料の元は、下斗米与八郎『下斗米大作実伝』のようです。大作は岩名昌山という人に計画を話し、岩名はこの本でその事実を記述していますが、長谷川伸はこれを作品の中に組み込んでいます。この本では相馬大作の家系や成長、事件のエピソードが書かれておりかなり講談系ではない本の記述に影響を及ぼしていると思います。この本では「地雷を地面にふせ、駕籠に発砲した」という記述もあり、『岩手の歴史』はこれを採用したのでしょう。しかし、長谷川伸や荻田如牛『萬歳安国一代記 : 江刺の刀工』ではこれを採用していません。なぜなら、犯行現場までつきそい詳細にその内容を語った徳兵衛の証言と矛盾するからです。長谷川たちは徳兵衛の証言の方を採ったのでしょう。後で、これを踏まえて修正します。--らんで(会話) 2023年4月15日 (土) 06:03 (UTC)
最近、戸部民夫『図解「武器」の日本史』(ベスト新書、2006年、p.182-183)を読んでいると、忍者が使った火器として「埋火」というものがあり、地雷のような使い方をしている図があります。相馬大作の師匠の平山行蔵は伊賀忍者の末裔。もしかしたら、実際には使用していないにしても、この手の兵器は現場に所持していたのかも知れません。実際には徳兵衛には見られなかったとしても、もしも大名行列が現場に近づいたならそれを埋没していたかも?--らんで(会話) 2024年6月9日 (日) 11:27 (UTC)
疑問点
[編集]相馬大作事件を調査していくうちに疑問点が幾つか浮かび上がってきました。さらに調査しようとする人や、書籍を記述しようとする人は参考にしてください。
菅江真澄の関与?
[編集]当時秋田藩にいた菅江真澄は相馬大作と南部藩の鹿角郡花輪で会っていた可能性があります。菅江真澄全集第11巻のp.507の「上津野の花」では菅江真澄が文化4年4月5日に花輪の小田嶋氏の家に宿泊しそこから鹿角を散策したことが書かれています。そして、それ以降は記述されていません。さて、この小田嶋というのは相馬大作の弟子である関良助の実家の名字で、相馬大作は犯行現場視察のために文化4年3月21日に関良助、徳兵衛を伴って花輪の小田嶋右平太の大和屋に宿泊し、そこには相馬大作の協力者がいたとされています。そして、犯行直前の4月18日頃にもその周辺にいたことが分かっています。花輪には小田嶋姓の家が幾つかあるのですが、実際に2人が会合する機会はあったことになります。 菅江真澄は実際に津軽寧親に会ったことがある人物で、彼の人となりを知っている人物です。しかも、菅江真澄は老境の68歳、文化3年の冬に突如現在の秋田市からわざわざ危険な積雪が激しい峠を越えて(「雪の山踰え」)藩を越境し南部藩の鹿角に入っています。まるで、追跡者がいるかどうかを確かめるようにです。さらに、菅江真澄はしばらく秋田藩から命じられた仕事の地誌づくりで2年間中断していた日記をこの期間で再開しています。まるで、旅行の様子を誰かに報告するかのようです。 確かに実際に2人が会ったかどうかの証拠はありませんが、アリバイ?・動機ともに充分あるのではないでしょうか?
大館、釈迦内の富豪、日景八右衛門の関与?
[編集]相馬大作は2度めの犯行計画現場の視察の後に、縁故がある現在の大館市釈迦内の富豪日景八右衛門の家に宿泊しています。この日景家は後に日景温泉を経営しますが、日景温泉では相馬大作事件の発生地の一つの説が近くにある矢立峠であることを宣伝に利用しています。矢立峠に碑があるのもこの影響だと思います。ただ、渡辺喜恵子の『湯治場風土記』(1972年)では、当時の日景温泉の支配人の娘あつこ(早稲田大学英文科前年度卒)は素直に長谷川伸の岩抜山説を支持していますが。ちなみに、渡辺喜恵子は母の故郷が現在の二戸市で、そこで相馬大作の話を沢山聞いていて、相馬大作の著作が焼失した経緯も直木賞受賞作『馬淵川』で描いています。また、幼少期は秋田に住んでいて日景温泉にも逗留したことがあります。 私は書名は失念しましたが大館市の栗森記念図書館で、日景氏の子孫が相馬大作の良い印象を書いた文章を読んだことがあり、また長谷川伸の作品でも事件の失敗後に、津軽候の突然の参勤路の変更を少数の浪人を恐れたと揶揄する歌が、明確にはどこで流行ったか書かれていませんが、大館で流行ったと思える話も書かれています。大館市の図書館でも日景氏の子孫の記述で実際に大館で当時その歌が流行ったと書かれていました。秋田の一般大衆には関係ない話ですし日景家の何らかの関与がなければこんなことは発生しないのではないでしょうか。まして、秋田戦争では南部藩によって大館市はほとんど焼き払われてしまったというのにです。ちなみに、日景家の宿は菅江真澄も利用しています。(『贄能辭賀樂美』)--らんで(会話) 2023年9月17日 (日) 07:17 (UTC)