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ノート:百済

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報告と未検証Templateについて

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上記の通り一通り整理してみました。また、残存する無出典箇所については出典を見つけられる限り付与しました。構成その他改善可能な箇所はまだかなりある気がしますが、「未検証Template」は外せる状態になったのではないかと思っています。しばらく待って反対意見等でなければ、Templateを外したいと思います。何かあればよろしくお願いします。--TEN会話2018年2月19日 (月) 17:07 (UTC)[返信]

2月8日の編集差し戻しについて

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  • 以下のような理由により、2019年2月8日の4:20から05:05にかけて行われたIPさんによる編集を差し戻しました。
  • こちらの差分について(Template内)「『真番郡は所在地不詳』なんて歴史修正主義者のようなこと言ってますが、在南説が有力視されており、ある程度の所在地は判明している」という要約がIPさんによって記載されており、この要約自体は私の行った編集に対するコメントであると思いますので、これについても一応返信させていただきます。
  • 楽浪郡を前代とすることについて:疑問の余地なく楽浪郡は平壌に根拠地を置き、高句麗によって4世紀に滅ぼされたのであり、百済の前身として馬韓と併置しておくのは適切ではないです。
  • 真番郡の所在地について:在南説(この用語自体、百済を取り扱った書籍論文等で使用されているのをほとんど見ないのですが)は何の関係もなく、真番郡の所在地は2000年代でも有力な説、という形で提案されているにすぎません。「ある程度の所在地が判明している」のと、「所在地が確実」なのは全く異なり、説明なしに前代に置くのは誤解を招くだけです。また削除時の要約には書きませんでしたが、真番郡自体が紀元前82年に廃止されており3,4世紀頃に成立したとされる百済の前代に数百年の時間経過を無視して馬韓と併置するのも正しくありません。付け加えて、真番郡の所在地不明は一般的な見解であると理解しています。これを指摘することについて「歴史修正主義者のような」という形容がされるのは甚だ心外ですし、また歴史修正主義と何の関係があるのか理解できません。
  • 夫余を前代とすることについて:これも夫余と百済の間の繋がりは神話であって全く証明されたものでなく、領域的には完全に繋がりません。これを前代に置くのは不適当です。
  •  李基文の二重言語国家論について:同一の著者による『韓国語の歴史』を出典としてほとんど同じ内容が真上にあるのに、これを再度繰り返す必要性がわかりません。また、同一の内容を記述するのであれば日本語版Wikipediaとしては和訳されたものを出典とするのが検証可能性の上で優れていると考えます。(実際のところ、李基文の扶余語族説は、20世紀後半の間のいくつかの著作・論文で引用されているものの、21世紀以降にはほぼ言及されることがなくなっており、あくまで過去の説として触れるのが本来は適切であろうとは思うのですが・・。)
  • 「最終的に唐へと渡った百済王族、貴族もいたことが西安や洛陽で発見された入唐百済人の墓によって明らかとなっている。百済王子孝、泰、隆、演や豊璋の子孫、煙台百済王氏、漢姓王氏や百済の武将黒歯常之、祢軍など6人の百済人とその子孫たちの墓が2016年現在、合わせて10か所発見されている」という文章に直されているのですが、この修正を加えるなら出典を追加する必要があります。この文の変更前の出典に使用した葛継勇 「高句麗・百済人墓誌銘からみる高句麗末期の対外関係」には、発見された10基の墓の被葬者が全員記述されており、西安や洛陽で発見された墓の中に百済王子孝、泰、演、豊璋の子孫、煙台百済王氏、漢姓王氏の墓はありません。実際のところ、加筆後の情報はほとんどありえないもののように見えます。これはいかなる情報源によるのでしょうか?特に行方不明となった豊璋の子孫の墓が発見されたとすれば大発見のはずですが、Web検索でも直近の百済史を取り扱った本でも何の情報も見当たりません。また煙台百済王氏や漢姓王氏というのは一体何者なのでしょうか?(漢姓王氏は恐らく楽浪王氏の言い換えでしょうか?)。日本の氏族として成立した百済王氏と同様の名称で呼ばれる一族が中国大陸に居たという話を寡聞にして知りません。端的に言って 「高句麗・百済人墓誌銘からみる高句麗末期の対外関係」を出典にする限り、IPさんによる編集後の記述は完全に間違っています。--TEN会話2019年2月8日 (金) 16:20 (UTC)[返信]

2月9日の編集差し戻しについて

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  • 2月8日と同じく以下の理由により、2019年2月9日の5:54から06:15にかけて行われたIPさんによる編集を全てではないですが差し戻しました(差分)。
  • 王仁について:「史実であるかのように書かない。史実と考えている学者はほとんどいないと思いますよ。」という要約と共に王仁についての一文が削除されていますが、元の文章は「まず挙げられるのが『日本書紀』「応神紀」に登場する王仁(和邇吉師)であり、日本に『千字文』と『論語』を伝えたとされる」であり、伝存史料に基づいた言い伝えであることははっきりわかると思います。またすぐ後に続いて「王仁については『千字文』が実際に編纂されたのは応神朝よりもかなり後の時代であるため、その記録は伝説に過ぎないと見られるが、」と記述しており、「史実であるかのように」書いてなどいません。編集後は後者の文章のみ残っているため、突然王仁は伝説に過ぎないという話だけが登場しており文意不明となっています。
  • 帰属の問題:復帰されていますが、この節ははっきりいって特筆性が無いと考えます。多数の学者がその経過や歴史的経緯についてまとめ論考を発表している高句麗の帰属問題と異なり、百済のそれはほとんど言及されることすらありません。この節の削除自体はノート:百済/過去ログ2#記述の一部整理・削除についてで説明した通りです。学者が寄稿したわけでもない10年以上前の短いマスコミ記事のみ(その後の続報が全くない)を論拠に、しかも「§歴史」や「§文化」と同じ階層に大項目として設置する理由がわかりません。
  • 倭系百済官僚:「原因不明の削除」という要約がついていますので、理由について述べます。削除した一文は「時代が進むと、百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団がでてくるが、~」という一節であり、この文章は李成市氏『東アジアの民族と国家』から来ていることを確認しています。これを削除したのは後続の文章の出典である李在碩「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」と同じことを書いたものであるため、反復を避けたものです。また中国系人士についての話題は倭系百済官僚の話ではないです。李成市氏の著作の該当部分(p. 31)は倭系の権力層について具体的な考察を行っていませんが、李在碩氏の方がそれが「どのような人びとで」「どのような史料から抽出でき」「研究史と方法論がいかなるものであるのか」についてもまとめられたものであり、後者を元に記述した方が適当であると判断したものです。ここから倭系の姓(物部氏など)を持った権力層の官位が「徳率、奈率」(それぞれ四品官、六品官)であることがわかり、§官位節と対照することで概ね彼らが中堅層と言える地位にいたことも理解可能になると考えます。李成市氏の文章はより包括的な百済全体の発展について論じたものであるため、こちらは差し戻しではなく、若干訂正して歴史節に移しました。

以上、よろしくお願いします。--TEN会話2019年2月9日 (土) 02:09 (UTC)[返信]

中島信文という人物の説について

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中島信文という人物の書籍から『広開土王碑文』に百済が存在しない、四世紀頃まで遼西地方に百済があったというような記述が追加されているのですが、珍説というのも惜しい程に荒唐無稽な説明であり、このような文章を追加するべきではないです。また、「井上秀雄は古代中国史料の『宋書』や『梁書』や『南斉書』では百済は五世紀始めまでは中国大陸の遼西地域に居たと記述されているとしている」は少なくとも井上秀雄『古代朝鮮』(1972)の記述と比較してありえません。このような説明を追加すべきではないです。--TEN会話2022年1月12日 (水) 14:06 (UTC)[返信]

くだら=居陁羅説について

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馬韓に「居陁」という地名があるが、これは本来「居陁羅」であったのであり、この呼称が広まったものとする説もある」という記載が追加されましたが、一旦削除しました。この種の仮説を国語辞典を出典に掲載するのは適切ではないと思います。居陁羅=くだらであるという見解は戦前に展開された説で、私が知る限りでは最も古くは鮎貝房之進の『日本書紀朝鮮地名攷』などに見られます(彼自身の説なのかは不明です)。ただ、鮎貝房之進の地名語釈は今となっては相当時代がかったものであることが明らかで(彼は独自の論証によって日本書紀神功紀の「百済」を「弁韓」のこととし、居陁羅も弁韓の地名だとしています)、現代においても蓋然性が十分に認められる説であることを新しめの出典と組み合わせて書く形でない場合、記述はない方が良いのではないかと考えます。--TEN会話2022年7月3日 (日) 13:47 (UTC)[返信]

いかなる理由で「くだら=居陁」説が妥当でないのか指摘いただけると助かります。「クン・ナラ」説もです。これは出典を李寧熙の本から採りましたが、著者はこの説の提唱者でもなく、この説を否定しています。これらの地名語源説の非妥当性が論証された経緯については一言、註においてでも記載があった方が良いのではないでしょうか。--Ryo 625会話2022年7月3日 (日) 20:24 (UTC)[返信]
  • コメントありがとうございます。妥当でないと考える理由はいずれも出典に問題があると考える点です。長くなりますが以下にまとめます。
  • クン・ナラ説については李寧煕氏が研究者ではなく作家であること、彼の出版物が基本的に疑似科学の部類として取り扱われていること(李寧煕氏の評価については趙義成氏のサイトや西端幸雄『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』(1994)等を参照いただければと思います)等から、彼が説を取り上げていること、否定していることには重要性が全くないと思います。李氏の書籍は少なくともWikipediaでいうところの信頼できる出典に該当しないです。
  • 百済=居陁羅説についても、上に書いた通り国語辞典が出典として適切ではないと考えるのが理由です。この説の出元は既に書いたように鮎貝房之進氏かと思いますが、鮎貝氏の関連する記述は以下のようなものになります(『日本書紀朝鮮地名攷』)。
  • 「(神功紀・応神紀の)高麗(コマ)、百済(クタラ)は史實上三國の高麗(カウライ)、百済(ヒャクサイ)にあらざる疑あること~」、「日本にて『高麗』を『コマ』と訓ませたるは三韓名を三國名に移し呼びたる稱にて『馬韓』即ち全羅北道益山郡の古名三國志の「乾馬國」、李勣奏狀の「古麻山」、東國文獻の「金馬山」、「金馬渚」等皆「馬」の古方言「コマ」たる事。されば朱蒙建国の高句麗即ち高麗の日本朝貢は應神紀十八年が其最初にして是より以前の『高麗』は『馬韓』即ち『コマ』に追記されしものたる事。」「(百済を)日本にて古くより『クタラ』と訓じたるは三韓名を三國名に移し呼び足るものたる事。而して『クタラ』弁韓中の一大國名慶南晋州の古名『居陁羅』の音轉「久陀羅」たる事」「神功紀元年の高麗(コマ)、百済(クダラ)は馬韓、弁韓の方と解すべきものにして、三國の高麗(コウライ)、百済(ヒャクサイ)にあらざる事」
  • まとめると、日本書紀の応神紀以前に登場する高句麗・百済は、史実ではコマ、クタラと呼ばれた馬韓・弁韓の国が後世、高句麗・百済に置き換えられて『日本書紀』に記載されたものである。つまり、コマ、クダラという国名は本来それぞれ馬韓と弁韓の一国の名前であったものが、別の国であった高句麗・百済の名前に後世転用されたものである、というのが鮎貝の説であり、「百済=居陁羅」という推測はこの説の一部です。
  • 問題だと思うのは近年の日本史や朝鮮史の本、『日本書紀』の研究書に上記のような解釈を採用しているものは見たことが無いです。そのため90年近く前の説を国語辞典をベースに「こういう説もある」と紹介することは誤解を広めるだけであるように思うのが当該説を積極的に記載すべきはないと考える理由です。また、出典に使用されている国語辞典の引用の仕方自体が不正確であろうとも思います(「馬韓地方に原名「居陁羅」と推定される「居陁」という地名があり~」とありますが、この説では居陁羅はあくまで弁韓の地名です。鮎貝以外に独自の居陁羅説を唱えた人物がおり、国語辞典の担当者はそちらを見た可能性は否定できないですけれども)。--TEN会話2022年7月4日 (月) 15:14 (UTC)[返信]
返信 李寧煕氏の評価については重々承知していますし、私も氏の説を支持しているわけでは毛頭ありません。しかし「九州は東京よりも西にある」ということにも出典が求められるわけで、俗説の存在の一応の出典として提示したものです。また、国語辞典の項目執筆者は多々誤った解釈をしたり、誤読をするものだということは重々承知しております。とりあえず「語源」節には専門的な学者の出典ではないということで、いったん削除いたします。お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。--Ryo 625会話2022年7月4日 (月) 23:27 (UTC)[返信]
返信 ありがとうございます。このあたりは考え方にもよるとは思いますが、百科事典一般の枠組みではよほど特筆性のある俗説でない限り非学術的な説を逐一紹介するのは好ましくないだろうと思っています。1つ上の節の件もそうなのですが、古代史は珍説・奇説の宝庫でして、説が存在するからということで逐一追加しては記事自体が俗説まとめと化してしまうのではないかと考えています(実際そうなってしまっている記事もありますけれども)--TEN会話2022年7月10日 (日) 15:10 (UTC)[返信]