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ノート:田中吉政

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作為的なものを感じます

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出典自体の問題について

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出典がいくつかつけられ、ウィキペディア全体から見ても、大変よい傾向です。ただ、出典自体の質があまりよくないものもありますので、いくつか挙げておき、ご意見がなければ1週間経過後に削除します。

  1. 「織田信長から「長」一字賜って長政と名乗る」(出典『田中興廃記』)
『田中興廃記』自体が後代の軍記物で、信用のおけるものではありません。また、田中吉政自体が近江に所領を持ち、八幡に在城(城主は豊臣秀次)するようになったのは信長死後3年を経た天正13年閏8月22日で、一次資料も残っています(『武家事紀』所収)。また、八幡城が築城されたのがこの後なので、信長存命中に「八幡城」自体が存在しません(すぐ近くに安土城があるため、必要性がありませんね)。また、確かに天正12年以前の田中吉政の行動を明確にする史料はありませんが、宮部継潤の譜代の配下であった(継潤の子、宮部長煕の身上書より)ことは間違いなく、信長に与力につけられたという事実もあり得ません。以上の矛盾から、軍記物の『田中興廃記』一つで史実と認定することは困難です。ただし、この説を採用している学者さんがいたら話が変わりますので、教えてください。
  1. 「西軍の最前線で戦った明石全登(田中吉政の娘婿という説がある)を、黒田長政(明石全登の親族)とともにかくまって、逃走の手助け」
これについては、私が削除したあとで、差し戻しの上で加筆された出典、「森本繁『明石掃部』(学研M文庫、2006年) 」でよろしいでしょうか。ただし、これは小説で、出典には採用できませんし、してはいけません。ほかの史料があるなら挙げてください。

ひとまず以上です。加筆者の方は、他の出典を挙げていない部分も、出典をつけておいてくださいね。出典のない場合は、時期を見て削除します。ウィキペディアは、書き手の信用が担保できないシステムであることから、出典が重要視されざるを得ないということ前提があることをよろしくお願いします。Aboshi 2008年3月14日 (金) 16:18 (UTC)[返信]