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ノート:田中千里 (哲学者)

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改名提案

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曖昧さ回避の括弧内を明確にするため「田中千里 (哲学者)または「田中千里 (哲学史研究者)に改名を提案します。移動後に自動作成されるノートページのリダイレクトは削除することも併せて提案します。ご意見よろしくお願いします。--NXA90D(会話) 2016年1月19日 (火) 20:24 (UTC)下線部追記--NXA90D(会話2016年1月21日 (木) 06:08 (UTC)[返信]

  • 「曖昧さ回避の括弧内を明確にする」ことには賛同します。ただし、カッコ内の文言については、「哲学史研究者」がいいのではないかと思います。高田三郎 (哲学者)のカテゴリを一部編集した際に要約欄に少し書いたのですが、「哲学者」と「哲学史研究者」は分けて考えた方がいいと考えています。なぜなら、この二つは業績が全く別物、別種のものであり、少なくとも古代哲学/中世哲学においては分業が進んでいると思われるからです。ということで、「田中千里 (哲学史研究者)」への改名の方が、より適切ではないか、という意見を提出します。--QuirkyQuidnuncY会話2016年1月20日 (水) 00:47 (UTC)[返信]
    • コメント 他の学者記事と記事名を合わせるため「田中千里 (哲学史学者)」が良いかと考えているのですが、QuirkyQuidnuncYさんは「田中千里 (哲学史研究者)」が適切とお考えでしょうか? どちらか、もしくは両方を改名候補に加えようかと考えています。特に拘りがないのであれば「田中千里 (哲学史学者)」を改名候補に加えようと考えていますが、いかがでしょうか。--NXA90D(会話2016年1月20日 (水) 03:06 (UTC)[返信]
      • コメント うーむちょっとそれは。「哲学史学者」だと「哲学史学」という歴史学の一ジャンルがあるかのように誤認させかねないので反対です。といっても、正直言って、私は哲学や哲学史にあまり詳しくないので、もっと詳しい人がいそうなところで幅広く意見を集める方がいいかもしれません。とりわけ複数の記事を同時に改名しようとしているのであれば。哲学プロパーの人に聞けば、そもそも哲学者と哲学史研究者を区別しないという答えが聞けるかもしれませんし。--QuirkyQuidnuncY会話2016年1月20日 (水) 07:12 (UTC)[返信]
        • コメント 「哲学史学」という言葉でウィキペディア内を検索してみたところ京都大学の人物一覧がヒットしました。全く使われない言葉ではないのかもしれませんが一般的ではないようで、私も哲学史学者はおかしいと思い始めてしまいました。哲学史は文字通り、哲学の歴史ですから歴史学者と言うべきでしょうか。ただ、哲学者か歴史学者かで言えば、やはり哲学者ではないでしょうか。では、改名候補に「田中千里 (哲学史研究者)」を加えて改めて改名を提案します。改めて賛否を表明して頂けますでしょうか。--NXA90D(会話2016年1月21日 (木) 06:08 (UTC)[返信]
  • コメント いろいろ議論があるようですし、どれでもよい気もしますが、「田中千里 (哲学者)」に1票入れておきます。一般的に哲学者と称する人々の多くは、先達の誰かの説についての検討から入って自分の議論を広げることが多く、哲学者と「哲学史学者」の境界線はあってないようなものです。表現としては「哲学者」が最も一般的なわけですし、強いてあまり使われない表現を使うことも無いように思います。--山田晴通会話2016年1月21日 (木) 11:59 (UTC)[返信]
    • コメント ちょっとモヤモヤが残りますが、改名されないまま時間が経つよりはマシなので、「田中千里 (哲学者)」への改名に(も)賛同します。--QuirkyQuidnuncY会話2016年2月1日 (月) 06:53 (UTC)[返信]
      • 報告 1週間以上経過して反対票がありませんので改名を実施しました。--NXA90D(会話2016年2月1日 (月) 07:29 (UTC)[返信]
        • コメント ちなみに田中千里氏は、1975年頃に日本哲学会大会における発表後の質疑で「自分で哲学することを忘れているのではないか」という問いかけを受け、以来それへの返答として、日本における「二重真理」のあり方を考えたと著書で述べています(『イスラム文化と西欧』p.296)。そして、「(日本の欺瞞に満ちた二重真理の)矛盾をしっかりと見つめて、可能な力の範囲で、人間の自由と幸福と進歩に逆行する歯車に力を貸すことだけは避けねばならぬ」、これが、「アヴェロエスの思想の伝播を研究しての私の哲学である」と述べています(ibid. p.301)。端的に言って、「日本には、人間の自由と幸福と進歩に逆行する体制派の真理と、個人の真理とがある二重真理状態になっているが、自分は反体制派でありたい」というのが氏の哲学であろうと思われます。--QuirkyQuidnuncY会話2016年2月1日 (月) 14:28 (UTC)[返信]