ノート:漢四郡
この記事は2011年2月17日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
朝鮮の歴史テンプレートについて
[編集]2010年8月に、{{朝鮮の歴史}} テンプレートが付加されました。これに続くように楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡記事にも、同様の処理がされています。漢四郡メイン記事内容としては、「前漢の武帝が設置した」(設置者)、および「漢四郡」という被統治地名から、前漢からあとにつづく歴史と認識できます。朝鮮王朝が設置したものではありません。
また記事中の異説節にあるように、「朝鮮民主主義人民共和国の歴史学者は、(中略)漢四郡が朝鮮半島にあったことを否定し、遼東半島にあったものとしている。」とあるように、その存在自体を否定する向きもあります。さらに、{{朝鮮の歴史}}テンプレートで出現するテーブル内のコンテンツには、朝鮮の国または王朝、人々にリンクが張られており、朝鮮半島の地理上の歴史の意味ではないと取れます。他の東アジア歴史関連記事をみても、多くは地理(場所)を主眼にした歴史として描かれていません。
中国側の視点の他に、朝鮮側の視点も様々と思われますので、この{{朝鮮の歴史}}付加が本記事に相応しいか、コメント・議論をお願いします。なおこのノート起票者(私)は、投票権を持たない一般ユーザであるため、権限を行使できる方に進行をお譲りしたいと思います。--218.110.182.98 2010年12月4日 (土) 08:30 (UTC)
- このぺージは過疎って誰も来ないので、その問題はTemplate‐ノート:朝鮮の歴史で議論するのが良いかと思います。--通りすがりの某 2010年12月22日 (水) 14:47 (UTC)
- 北朝鮮は漢四郡が朝鮮半島に存在してることを否定してるけど、檀君陵を発見したと主張しているのと同じで、北朝鮮以外で支持してる人なんていないけどね。--通りすがりの某 2010年12月22日 (水) 14:54 (UTC)
- 「漢四郡は朝鮮国家の歴史ではない。地域歴史と国家歴史は異なる」とテンプレートを外されてますが、このテンプレートは、「朝鮮の歴史」であって「朝鮮国家の歴史」ではありません。よって国家に限定されるものではなく、当然漢四郡は朝鮮の歴史です。やはり朝鮮半島北部を400年に渡って直接支配した漢四郡は外せない。武田幸男編集「朝鮮史」や田中俊明編集「朝鮮の歴史」は、当然漢四郡は朝鮮の歴史に含まれているし、年表にも記述してあります。ヤフー百科事典でも朝鮮の歴史に含まれています。朝鮮史は地域史でないと難しいと思う。朝鮮国家の定義が難しい。箕氏朝鮮・衛氏朝鮮は中国系だし、高句麗・渤海などのツングース民族国家に至っては、朝鮮半島を領有していたので地域史には含まれますが、朝鮮民族とは別の民族だし。--58.95.164.2 2011年7月28日 (木) 17:41 (UTC)
- 何駄目口言ってんの。これは韓国の歴史であって、韓国学会が出張していることを優先しすべき。もし日本史を韓国学会が勝手に記述していたらもちろんこれのように直すべきである。~~~~--以上の署名のないコメントは、118.36.147.60(会話・投稿記録)さんが 2012年2月18日 (土) 06:39(UTC) に投稿したものです(Dalaibaatur(会話)による付記)。
- あなたが中国歴史観をもっているのは勝手だが、高句麗は三韓の一つなんですよ。~~~--以上の署名のないコメントは、118.36.147.60(会話・投稿記録)さんが 2012年2月18日 (土) 06:42(UTC) に投稿したものです(Dalaibaatur(会話)による付記)。
- 漢四郡は韓国の歴史であり、中立的に記述されるべきです。漢四郡の位置は今でも議論中であり、韓国学会では漢四郡が植民地の機能をするのが難しいと認めています。私は中国で10年勉強しており、中国のwikipediaでも植民地という言葉は書いてないし、位置についても韓国学会の見解を中立的に書いています。
- 歴史というのはいろんな見解が存在してますよ。人の主張があれば反論もあります。漢四郡は正式に韓国歴史教科書に載る韓国歴史なんです。
- 日本学会と中国学会の見解は正しいとして韓国学会の主張は違うと言ったらおかしくないですか。別に漢四郡の存在を否定したのではなく、韓国学会の見解を書きました。日本学者が主張してるのも一つの見解で、事実ではありません。そして重要なのは司馬遷が書いた史記には漢四郡の名前も位置も記述されてません。明確な位置はまだ皆知らないのです。
- 中国側の視点の他に、朝鮮側の視点も様々と思われますので、この{{朝鮮の歴史}}付加が本記事に相応しいか、コメント・議論をお願いします。なおこのノート起票者(私)は、投票権を持たない一般ユーザであるため、権限を行使できる方に進行をお譲りしたいと思います
- 僕の意見ではもしこの文が中国側と日本側だけの視点から書かれたら{{朝鮮の歴史}}付加はしてはいけないと思います。wikipediaって日本だけじゃなく、いろいろな国の人々が見て利用するところじゃないですか。
- ネット上でそれもWIKIPEDIAで偏狭な視野を持ってはいけないと思います。あくまでも中立で紛争が起きないように管理者たちが頑張ってほしいです。--以上の署名のないコメントは、118.36.147.60(会話/Whois)さんが 2012年2月17日 (金) 23:49(UTC) に投稿したものです(13番目の男による付記)。
- 1.「韓国の歴史であって、韓国学会が出張していることを優先しすべき。」という118.36.147.60の意見は韓国POVで記述しろと主張してるようなもので論外。
- 2.というか、「遺物も発見された。しかしそれが箕子朝鮮か檀君朝鮮か議論は多い[1]」なんて檀君朝鮮が実在したと考えている韓国の民族主義者の妄想史観なんて何の価値もないし誰も知りたくねーよ(笑)。
- 3.118.36.147.60は神功皇后、三韓征伐、任那日本府等でも暴れているようだけど、何ムキになってんの?ノート:渡来人#118.36.147.60氏及びジェネレーションアッパー氏へにも書いたけど、アメリカ大使館なんて「朝鮮に歴史なし 昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」って言ってるんだよ(駐日アメリカ合衆国大使館#ウィキペディア日本語版書き換え問題)。それに、スペインの新聞なんて「朝鮮は4228年間、中国の植民地だった」なんて報道してるんだから(朝鮮半島を中国とみなす記述)。箕子朝鮮は中国人箕子で、衛氏朝鮮は中国人衛満で、箕子朝鮮の準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、その後は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡で朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地で、高句麗と渤海はツングース民族で同じツングース民族の満州族で、新羅は秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の辰韓の国で、百済の支配層はツングース系夫余族(現在の満州族)で、唐が旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として朝鮮半島全域が中国領になって、高麗時代には朝鮮半島北西部は東寧府、双城総管府の植民地となり、忠烈王以後のの高麗王はモンゴル人で、李氏朝鮮の建国者の李成桂は女真人で、朝鮮史なんて中国からの敗残者の残りカスが造った訳だから。--13番目の男 2012年2月21日 (火) 10:27 (UTC)
損齋へ
[編集]出版物・出版社にリンクすることは販促・宣伝となるためWP:ADV違反となります。英語版ウィキも出版物・出版社ではなく、無料で読むことができるグーグルブックスにリンクしています。否認論者も楽浪等漢四郡の存在自体を否認しているのではなく、北京・遼東にあり、朝鮮半島になかったと主張しているから、漢の武帝が紀元前108年に楽浪郡を設置した、漢四郡は楽浪・真番・臨屯・玄菟で構成される等の記事は削除しました。何故なら否認論者は楽浪等漢四郡の存在自体は否認していないわけですから。楽浪郡は朝鮮半島北部にあった、平壌にあった等の位置関係を言及している記事を残しました。また「古代韓国の歴史は、前朝鮮時代、朝鮮時代後期、衛満朝鮮時代、漢四郡、三韓、新羅、高句麗、後期高句麗、百済、後百済、渤海で構成されている。」等関係ない記事を誤引用している出典も削除しました。あなたが差し戻した[2]『Korea: Current Issues and Historical Background』の著者はMark E. Manyinではなく、Edgar V. Connorであり、出版物・出版社にリンクすることは販促・宣伝となるためWP:ADV違反となります。以上あなたの差し戻しはウィキのガイドラインに違反しています。--パオワイン99世(会話) 2017年1月31日 (火) 14:31 (UTC)
- わかりました。僕はその出典の方針違反は知らなかった。御免なさい。----無命燕居(会話) 2017年1月31日 (火) 16:53 (UTC)
分割の提案:「韓国の教科書における漢四郡」を「朝鮮の歴史観」へ
[編集]韓国の教科書における漢四郡は、節がまるごと本記事の主題である「漢四郡」そのものを扱っている記述ではありません。日本時代の朝鮮半島や独立後の韓国、北朝鮮における歴史観を扱った「朝鮮の歴史観」に移すのが妥当と考えます。--Dalaibaatur(会話) 2020年5月15日 (金) 17:28 (UTC)
- 分割(移動?)には反対しません。ただ、(考慮しておられるとは思いますが)その場合も本記事に「韓国の教科書では云々」と簡単に記して転記先に誘導(リンク)程度はしてよいのではないかと思います。--Colonan(会話) 2020年5月17日 (日) 12:33 (UTC)
漢四郡否認論に関するacademic consensus
[編集]- United States Congress『North Korea: A Country Study』Nova Science Publishers、2016年、6頁。ISBN 978-1590334430 。「Han Chinese built four commanderies, or local military units, to rule the peninsula as far south as the Han River, with a core area at Lolang (Nangnang in Korean), near present-day P'yongyang. It is illustrative of the relentlessly different historiography practiced in North Korea and South Korea, as well as both countries' dubious projection backward of Korean nationalism, that North Korean historians denied that the Lolang district was centered in Korea and placed it northwest of the peninsula, possibly near Beijing.」
- Connor, Edgar V.『Korea: Current Issues and Historical Background』Nova Science Publishers、2003年、112頁。ISBN 978-1590334430。「They place it northwest of the peninsula, possibly near Beijing, in order to de- emphasize China's influence on ancient Korean history.」
- Hyung, Hyung Il『Constructing “Korean” Origins』Harvard University Press、2000年、129頁。ISBN 9780674002449 。「When material evidence from the Han commandery site excavated during the colonial period began to be reinterpreted by Korean nationalist historians as the first full-fledged "foreign" occupation in Korean history, Lelang's location in the heart of the Korean peninsula became particularly irksome because the finds seemed to verify Japanese colonial theories concerning the dependency of Korean civilization on China.」
- Hyung, Hyung Il『Constructing “Korean” Origins』Harvard University Press、2000年、128頁。ISBN 9780674002449 。「At present, the site of Lelang and surrounding ancient Han Chinese remains are situated in the North Korean capital of Pyongyang. Although North Korean scholars have continued to excavate Han dynasty tombs in the postwar period, they have interpreted them as manifestations of the Kochoson or the Koguryo kingdom.」
- Xu, Stella Yingzi『That glorious ancient history of our nation』University of California, Los Angeles、2007年、223頁。ISBN 9780549440369 。「Lelang Commandery was crucial to understanding the early history of Korea, which lasted from 108 BCE to 313 CE around the P'yongyang area. However, because of its nature as a Han colony and the exceptional attention paid to it by Japanese colonial scholars for making claims of the innate heteronomy of Koreans, post 1945 Korean scholars intentionally avoided the issue of Lelang.」
- Barnes, Gina『State Formation in Korea』Routledge、2000年、17頁。ISBN 978-0700713233 。「Despite recent suggestions by North Korean scholars that Lelang was not a Chinese commandery, the traditional view will be adhered to here. Lelang was one of four commanderies newly instituted by the Han Dynasty in 108 BC in the former region of Chaoxian. Of these four commanderies, only two (Lelang and Xuantu) survived successive reorganizations; and it seems that even these had their headquarters relocated once or twice.」
- Kim, Jinwung『A History of Korea: From "Land of the Morning Calm" to States in Conflict』Indiana University Press、2012年、18頁。ISBN 978-0253000248 。「Immediately after destroying Wiman Chosŏn, the Han empire established administrative units to rule large territories in the northern Korean peninsula and southern Manchuria.」
- Lee, Peter H.『Sourcebook of Korean Civilization』Columbia University Press、1993年、227頁。ISBN 978-0231079129 。「But when Emperor Wu conquered Choson, all the small barbarian tribes in the northeastern region were incorporated into the established Han commanderies because of the overwhelming military might of Han China.」
- Ch'oe, Yŏng-ho『Reinterpreting Traditional History in North Korea』 40巻、3号、May 1981、509頁。doi:10.2307/2054553。「North Korean scholars, however, admit that a small number of items in these tombs resemble those found in the archaeological sites of Han China. These items, they insist, must have been introduced into Korea through trade or other international contacts and "should not by any means be construed as a basis to deny the Korean characteristics of the artifacts" found in the P'yongyang area.」
- Jr. Clemens, Walter C.『North Korea and the World: Human Rights, Arms Control, and Strategies for Negotiation』University Press of Kentucky、2016年、26頁。ISBN 978-0813167466 。「Chinese forces subsequently conquered the eastern half of the peninsula and made lolang, near modern Pyongyang, the chief base for Chinese rule. Chinese sources recall how China used not only military force but also assassination and divide-and-conquer tactics to subdue Chosŏn and divide the territory into four commanderies.」
- Seth, Michael J.『A Concise History of Korea: From Antiquity to the Present』Rowman & Littlefield Publishers、2016年、18頁。ISBN 978-1442235175 。「For the next four centuries a northwestern part of the Korean peninsula was directly incorporated in to the Chinese Empire.... The Taedong River basin, the area where the modern city of P'yongyang is located, became the center of the Lelang commandery.」
- Seth, Michael J.『A Concise History of Korea: From Antiquity to the Present』Rowman & Littlefield Publishers、2016年、19頁。ISBN 978-1442235175 。「The way of life maintained by the elite at the capital in the P'yongyang area, which is known from the tombs and scattered archaeological remains, evinces a prosperous, refined, and very Chinese culture.」
- Seth, Michael J.『A Concise History of Korea: From Antiquity to the Present』Rowman & Littlefield Publishers、2016年、17頁。ISBN 978-1442235175 。「The Chinese, having conquered Choson, set up four administrative units called commanderies. The Lelang commandery was located along the Ch'ongch'on and Taedong rivers from the coast to the interior highlands. Three other commanderies were organized: Xuantu, Lintun, and Zhenfan. Lintun and originally Xuantu were centered on the east coast of northern Korea. Zhenfan was probably located in the region south of Lelang, although there is some uncertainty about this. After Emperor Wu's death in 87 BCE a retrenchment began under his successor, Emperor Chao (87-74 BCE). In 82 BCE Lintun was merged into Xuantu, and Zhenfan into Lelang. Around 75 BCE Xuantu was relocated most probably in the Tonghua region of Manchuria and parts of old Lintun merged into Lelang. Later a Daifang commandery was created south of Lelang in what was later Hwanghae Province in northern Korea. Lelang was the more populous and prosperous outpost of Chinese civilization.」
- Bowman, John Stewart『Columbia Chronologies of Asian History and Culture』Columbia University Press、2000年、11頁。ISBN 978-0231110044 。「Han China resumes its effort to subdue Korea, launching two military expeditions that bring much of the peninsula under Chinese control; it sets up four commanderies in conquered Korea.」
- Bowman, John Stewart『Columbia Chronologies of Asian History and Culture』Columbia University Press、2000年、193頁。ISBN 978-0231110044 。「After a period of decline, Old Choson falls to Wiman, an exile from the Yan state in northern China. Wiman proves to be a strong ruler, but his ambitious program of expansion eventually brings him into conflict with the Han dynasty of China. The Han defeats Wiman Choson and establishes a protectorate over northern Korea in 108 b.c. Resistance to Chinese hegemony, however, is strong, and China reduces the territory under its active control to Nang-nang colony with an administrative center near modern Pyongyang.」
- Lee, Kenneth B.『Korea and East Asia: The Story of a Phoenix』Praeger、1997年、11頁。ISBN 978-0275958237 。「Chinese civilization had started to flow into the Korean Peninsula through Nang-nang. This was the only time in Korean history that China could establish its colonies in the central part of Korea, where occupation forces were stationed. The Han Empire not only occupied Korea, but expanded westward to Persia and Afghanistan.」
- Buckley, Patricia『Pre-Modern East Asia: A Cultural, Social, and Political History, Volume I: To 1800』Cengage Learning、2008年、100頁。ISBN 978-0547005393 。「Lelang commandery, with its seat in modern Pyongyang, was the most important of the four.」
- Brian, Brian M.『The Oxford Companion to Archaeology』Oxford University Press、2012年、361頁。ISBN 9780195076189 。「Chinese commanderies at Lelang (modern Pyongyang) functioned as the political and military arm of Chinese dynasties, beginning with Han, as well as the major contact point between the advanced Chinese civilization and the local population.」
- Mark E Byington, Project Director of the Early Korea Project『Early Korea 2: The Samhan Period in Korean History』Korea Institute, Harvard University、2009年、172頁。ISBN 978-0979580031。「The latter, associated with Han China, are important, as their discovery permits us to infer the existence of relations between the Han commanderies and the Samhan societies.」
- Hiltebeitel, Alf『Hair: Its Power and Meaning in Asian Cultures』State University of New York Press、1998年、113頁。ISBN 978-0791437421 。「These tombs are associated with the Lelang commandery, which was established by the Han dynasty of China, successor to the Qin. Han generals conquered the armies of Wiman's grandson Ugo and established control over the northern part of the Korean peninsula.」
- Preucel, Robert W.『Contemporary Archaeology in Theory: The New Pragmatism』Wiley-Blackwell、2010年、296頁。ISBN 978-1-4051-5832-9 。「The Wei Ji (compiled 233–97) places the Yemaek in the Korean peninsula at the time of the Han commanderies in the first century BC, giving them a specifically Korean identity at least by that time.」
- Dr. Brian, Fagan『Ancient Civilizations』Routledge、2016年、365頁。ISBN 978-1138181632。「In 108 B.C. most of the Korean peninsula was divided into four Han commanderies, the most important of which was Lelang.」
- Tuan, Yi-Fu『A Historical Geography of China』Aldine Transaction、2008年、84頁。ISBN 978-0202362007 。「Northeastwards Emperor Wu's forces conquered northern Korea in 108 b.c. and established four command headquarters there.」
- Kang, Jae-eun『The Land of Scholars: Two Thousand Years of Korean Confucianism』Homa & Seka Books、2006年、36頁。ISBN 978-1931907309 。「Nangnang commandery centered around Pyeong'yang was established when Emperor Wu of Han China attacked Gojoseon in 108 BC and was under the rule of Wei from 238. Wei is the country that destroyed the Later Han dynasty.」
- Armstrong, Charles K.『Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State』 19巻、University of Hawaii Press、1995年、12頁。doi:10.1353/ks.1995.0017。「North Korean historiography from the 1970s onward has stressed the unique, even sui generis, nature of Korean civilization going back to Old Chosön, whose capital, Wanggömsöng, is now located in the Liao River basin in Manchuria rather than near Pyongyang. Nangnang, then, was not a Chinese commandery but a Korean kingdom, based in the area of Pyongyang.」
- Pratt, Keith『Everlasting Flower: A History of Korea』Reaktion Books、2006年、10頁。ISBN 978-1861892737 。「108 BC: Han armies invade Wiman Choson; Chinese commanderies are set up across the north of the peninsula.」
- Nelson, Sarah Milledge『The Archaeology of Korea』Cambridge University Press、1993年、168頁。ISBN 9780521407830 。「The Chinese commanderies did not extend to the southern half of the peninsula, stretching perhaps as far south as the Han river at the greatest extent, but they did reach the northeast coast.」
- Jones, F. C.『The Far East: A Concise History』Pergamon Press、1966年、34頁。ISBN 978-0080116419 。「He then divided the country into military districts, of which the most important was that of Lolang, or Laklang, with headquarters near the modern Pyongyang. Tomb excavations in this area have produced much evidence of the influence of Han civilization in northern Korea.」
- Stark, Miriam T.『Archaeology of Asia』Wiley-Blackwell、2008年、45頁。ISBN 978-1405102131 。「The best known of these commanderies is Lelang, centered on the present city of Pyongyang, now the capital of North Korea.」
- Swanström, Niklas『Sino-Japanese Relations: The Need for Conflict Prevention and Management』Cambridge Scholars Publishing、2009年、13頁。ISBN 978-1847186201 。「Under Emperor Wu-ti, Han China extended her influence into Korea, and in 108 B.C., the peninsula became a part of the Chinese Empire, with four dependent provinces under the Chinese charge.」
- Meyer, Milton W.『Asia: A Concise History』Rowman & Littlefield Publishers、1997年、118頁。ISBN 978-0847680634 。「In southern Manchuria, and northern and central Korea, the Chinese established four commanderies, which were subdivided into prefectures.」
- Olsen, Edward『Korea, the Divided Nation』Praeger、2005年、13頁。ISBN 978-0275983079 。「The Han dynasty created four outposts in Korea to control that portion of its border.」
- Clemens Jr, Walter C.『Getting to Yes in Korea』Routledge、2009年、27頁。ISBN 978-1594514067 。「Chinese forces subsequently conquered the eastern half of the peninsula and made Lolang, near modern Pyongyang, the chief center of Chinese rule.」
- Hwang, Kyung Moon『A History of Korea: An Episodic Narrativea』Palgrave MacMillan、2010年、4頁。ISBN 978-0230205451 。「In the corridor between the peninsula and northeast China, the Chinese Han dynasty established four “commanderies” that ruled over parts of the peninsula and Manchuria, much as modern imperial powers governed their colonies.」
- Tennant, Charles Roger『A history of Korea』Kegan Paul International、1996年、22頁。ISBN 0-7103-0532-X 。「Soon after, the Wei fell to the Jin and Koguryŏ grew stronger, until in 313 they finally succeeded in occupying Lelang and bringing to an end the 400 years of China's presence in the peninsula, a period sufficient to ensure that for the next 1,500 it would remain firmly within the sphere of its culture.」
- Eckert, Carter J.『Korea Old and New: A History』Ilchokak Publishers、1991年、13頁。ISBN 978-0962771309。「The territorial extent of the Four Chinese Commanderies seems to have been limited to the area north of the Han River.」
- Eckert, Carter J.『Korea Old and New: A History』Ilchokak Publishers、1991年、14頁。ISBN 978-0962771309。「As its administrative center, the Chinese built what was inessence a Chinese city where the governor, officials, merchants, and Chinese colonists lived. Their way of life in general can be surmised from the investigation of remains unearthed at T'osong-ni, the site of the Lelang administrative center near modern P'yongyang. The variety of burial objects found in their wooden and brickwork tombs attests to the lavish life syle of these Chinese officials, merchants, and colonial overloads in Lelang's capital. ... The Chinese administration had considerable impact on the life of the native population and ultimatedly the very fabric of Gojoseon society became eroded.」--2001:268:C0D0:FE4C:D8D8:5E7C:B2B7:86AE 2021年12月24日 (金) 06:02 (UTC)
宇山卓栄氏の言説を削除することについて
[編集]ノート:宇山卓栄において歴史学の非専門家である宇山卓栄氏の言説を削除することを提案しています。--らりた(会話) 2022年11月30日 (水) 12:17 (UTC)