ノート:洗衣院
この記事は2013年1月13日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
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利用者:往来者(会話 / 投稿記録)さんが、この記事の問題点について、「Wikipedia‐ノート:削除依頼/洗衣院」に書かれていますが、削除依頼のノートではなく、こちらの記事自体のノートで議論した方が良いと思います。--211.14.203.59 2013年1月14日 (月) 00:05 (UTC)
最初に、当方はwikipediaで継続して活動する気はないので、あとどうするかはまかせる。この記事の抱える事情について書いていたらやたら長くなったが、短くまとめるのも面倒なのでそのまま載せる。
洗衣院や、金軍に連行された北宋女性については先行研究として張明華「“靖康之难”被掳北宋宫廷及宗室女性研究」(『史学月刊』2004年5期)[1](CNKIでの紹介)があるので、もし誰かこの記事を改良するのなら参考にされたい。以下、この張明華論文に基づいて述べる。
まず洗衣院とは何かについてだが、結論としては「靖康の変で金軍に連行された北宋皇族女性のうち一部が入れられた、金国皇帝専用の慰安施設」となる。不特定多数が来る「売春宿」の類ではないし、皇族以外が入れられたという根拠もない。
張明華論文に基づいておおざっぱに事件の経過をいうと、まず北宋の首都開封で皇族や民間の女性が金軍に拉致・暴行され、金の本国に連行された後、一部の皇族の女性が金国皇帝の洗衣院に送られた、それ以外の人は金の将軍や貴族によって分配されたということである。(他に欽宗らと一緒に五国城に幽閉されたのが若干名)
依頼提出前の日本語記事、そして中国語記事zh: 洗衣院には、洗衣院は妓院であり皇族以外も洗衣院に入れられたと書かれているが、もとのzh: 洗衣院で出典に挙げられている3つについて問題点を書く。
まず中国網(これは光明日報からの転載記事らしい)には「上京洗衣院实乃金人官方妓院」とあるものの、皇族以外の女性が入れられたとは書かれていないし、皇帝以外の人間が利用したとも書かれていない。(ちなみに中国網で主な話題になっているのは、北宋の韋太后(zh: 韋賢妃 (宋徽宗))が金の捕虜になった際に金の人間に妻として与えられて貞節を失ったかどうかについての議論。)何よりも張明華論文によれば洗衣院はあくまで皇帝用の施設との事。
別の出典とされる中国在線百科はwikipediaと同じく匿名の利用者が好きに書けるもので、権威はない。
更に別の出典とされる『zh: 靖康稗史笺证』は南宋期に書かれた野史とのことだが、素人が無批判に引用するのは危険。張明華もこの書を引用しているが、張論文には皇族以外が洗衣院に入れられたとは書かれていない。もとの中国語版zh: 洗衣院の編者が靖康稗史笺证を誤読した、或いはろくに読まずにいいかげんな事を書いた可能性もある。
次に日本語記事には皇族から民間人まで1万人近くが洗衣院に入れられたと書かれていたが、この記述の「翻訳元」である中国語記事zh: 北宋王室中被俘的女性にあるのは靖康の変で皇族から民間人まで1万人近くが金軍に賠償金の代わりとしてとして拉致・暴行・連行され、そのうち皇族女性が金国皇帝に差し出されて洗衣院に入れられたということである。これは張明華論文とも一致する。一方でzh: 洗衣院にある、皇族以外もことごとく洗衣院に入れられたという記述は根拠に乏しい。理由は前述した通り。
とりあえず履歴不継承直前の2012年2月22日 (水) 19:36の版の時点(http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E6%B4%97%E8%A1%A3%E9%99%A2&oldid=41345911])に差し戻したが、この版にも問題があるので修正した。まず「官設の売春宿」は明らかな間違い。連行された女性がことごとく洗衣院に入れられたという書き方も不適切。(入れられたのはあくまで一部だけ)
日本語版の記事の問題は、翻訳元の中国語記事が親トピックzh: 北宋王室中被俘的女性と子トピックzh: 洗衣院に分かれ、子トピックの方の記述が怪しいこと、更に日本語記事記述者が中国語記事の内容の是非を検証しなかったうえに両トピックを混同させて話を作ってしまったことにある。(他にも誤訳が散見されるのだがこれ以上指摘はしないでおく)
最後に、個人的にはこの記事をもしどうにか建て直すのなら、親トピックのzh:北宋皇室中被俘的女性にちゃんと対応する記事にしたほうがいいのではないかと思う。--往来者(会話) 2013年1月13日 (日) 06:58 (UTC)
別の出典を探して大幅修正、が必要な記事では?
[編集]そもそもこの記事は「靖康稗史箋証」しか出典がないようなもので、「呻吟語によると」「南征録匯によると」などとあるのがみな「靖康稗史箋証」にたどりついてしまうような状態で、この内容の記事がそのような怪しげな出典しかない状態で放置されていていいものでしょうかね。確かにこれが本当の話なら宋史にも金史にも載らないでしょうが、「正史に載らないだろうからいい加減な出典の記事でも構わない」ということにはならないはずです(なにしろ中国語版の靖康稗史箋証を見る限り、ほぼ誰が書いたのか誰が編纂したのかもわからない状態)。--弁五郎(会話) 2022年10月21日 (金) 12:56 (UTC)