ノート:死刑/過去ログ1
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「目的」について
[編集]死刑の目的の節が余りにも杜撰なので観点を貼りました。展開するのが面倒なので法律関係の方できたらお願いします。johncapistrano 2005年4月6日 (水) 07:30 (UTC)
死刑制度の世界地図ですが、韓国は2005年現在、「橙」つまり事実上死刑が廃止されている国ではないでしょうか? 死刑に反対の立場の金大中大統領就任以来、死刑は政府の考えにより行なわれていないはずです。2005年5月10日(火) 03:11
↑事実上廃止、というカテゴリー自体よくわかりませんが、これを善解すれば、制度上廃止されたに等しい状態が長期間に渡り継続されており、それが法的確信によって支えられていることが要件となるのではないでしょうか。そうだとすれば、韓国の例はこれにあたらないように思われます。政権交代にもかかわらず現在の政策が、一定の拘束力を以って維持されるという保障があるようには思われませんし。
「観点」テンプレートが張られていましたが、理由も適当なものですので外しました。テンプレートをはったまま放置することは無責任な行為です。--Ligar 2005年9月14日 (水) 09:38 (UTC)
rvに関して
[編集]- 貼った当時の記述は可笑しかったのでもし気付いたら確認願います。前回とは別で、賛成論者PoVの書き換えがなされたのでリバートし観点を貼っています。johncapistrano 2005年10月18日 (火) 07:17 (UTC)
- RevertでPoVを修正できたのなら別に観点テンプレートを貼る必要はないのでは。--Ligar 2005年10月18日 (火) 07:24 (UTC)
- リバート合戦の予防的な意味で、相手が(納得はしないでしょうが)なぜリバートされたか判る為に貼っておいていいかと。johncapistrano 2005年10月18日 (火) 07:31 (UTC)
- RevertでPoVを修正できたのなら別に観点テンプレートを貼る必要はないのでは。--Ligar 2005年10月18日 (火) 07:24 (UTC)
「リバート合戦の予防的な意味で、相手が(納得はしないでしょうが)なぜリバートされたか判る為に貼っておいていいかと」←何言ってるんですか?私はあなたのウィキペディア上での地位が分かりません。この項目(死刑のページ)は、あなたの主義思想を表明するべきものであって、反対説は受け付けないという意味でしょうか?
死刑反対論が、わが国の主流な観念とは言いがたいのが現実です(1999年9月の総理府調査では、死刑廃止論8.8%に対し、死刑存置論79.3%)。左の数字を抜きにしても、死刑については双方からの意見があり、死刑賛成論からの書き込みがあっても何も不自然なことはないのではないでしょうか?死刑反対論一辺倒の記事に、死刑賛成論からの書き込みがあることの、何がおかしいのでしょうか?ということです。そして、死刑賛成論の書き込みを削る形でテンプレートを貼ったということは、あなたもそちら側に与していると考えざるを得ません。あなたは「真実を追求したい」などと言っておられますが、自分に反対する論調を見下した格好で抹殺する人間は、真実に近づくことは永遠にできないでしょう。
あなたについて投稿された書き込みには、あなたはある特定の立場に偏った記事を支持し、自己の主張に反対する記事の存在を許さず、削除する傾向があるとするものがいくつか見られます。私もまさにその通りだと思います。「中立性テンプレートは、記事の中立性ではなく、あなたのイデオロギーを守るために貼られているとしか思えません」。220.46.236.182 2005年10月26日 00:16
- 記事に関係のない中傷はご遠慮願います。賛成論の意見を賛成論の意見と明記した上で書き込む分には反対しません。あなたの編集は概要を賛成論の視点(しかも極端なもの)に書き換えるものだったので戻したまでです。johncapistrano 2005年10月25日 (火) 15:44 (UTC)
反対論一辺倒の記事に賛成論の反論を書き込むときは、単に反対の意見を書くだけではなく、わざわざ「賛成論の立場からは~」と前置きでもしない限りは中立性を害するものであるということなのですか?
『あなたの編集は概要を賛成論の視点(しかも極端なもの)に書き換えるものだったので戻したまでです』←概要は、死刑反対論の論旨でなければ許さないという意味ですか?
私は、要所要所に、死刑賛成論からの反論を差し込んでいったのです。ゆえに死刑反対論の記述を削除するなどのことはしておりません。本当に何度も言っておりますが、『死刑反対論が、わが国の主流な観念とは言いがたいのが現実です(1999年9月の総理府調査では、死刑廃止論8.8%に対し、死刑存置論79.3%)。左の数字を抜きにしても、死刑については双方からの意見があり、死刑賛成論からの書き込みがあっても何も不自然なことはないのではないでしょうか?死刑反対論一辺倒の記事に、死刑賛成論からの書き込みがあることの、何がおかしいのでしょうか?』
括弧書きで、(しかも極端なもの)と入れて、極端な反対意見から項目の中立性を守っているのだというニュアンスを出しておられるようですが、この項目にある死刑賛成論に対する、現実的な反論を書いたまでです。反対論一辺倒の記事は極端なものではないとしておられるのに、それに対する批判は極端ものであるとおっしゃるのはいかがなものかなと。220.46.236.182 2005年10月27日 20:20
Johncapistranoさん、私にはあなたのおっしゃることが、どうにもよく分かりませんが。私が、記事の内容をどのようにしたいのか分からない、一向に見えてこない?
あなたは、話の通じる人間では無いのかな、という気さえしています。
- 私が記事に死刑賛成からの書き込みをした。
- あなたが、賛成論部分を削除する形で観点テンプレを貼り、死刑反対論のみの記事に戻した。
- それに対する私からあなたへの、苦情と疑義。
- あなたの一応の回答(少し噛み合っていなかったと思いますが)。
- その回答に対しての、私からの再度の疑義と苦情。
- 「ただ喚いているだけ」「記事の内容をどうしたいのかみえない」という趣旨のあなたの回答。
という順序をたどっていると理解していますが、どうして「記事の内容をどうしたいのか一向にみえてこない」と返ってくるんでしょうか。私は、始めに記事への書き込みをしました。その書き込みの内容が、私の望む記事の内容ですよ。当然でしょ?それに、死刑反対論一辺倒の記事というものへの批判・苦情も、何度も書きました。
むしろ、私のほうから「あなたは死刑の記事の内容をどうしたいんですか?」と訊きたいくらいです。
私は、死刑というものについて、あなたと議論しているんじゃありません。私からあなたへ発しているのは苦情と疑義です。上の2005年10月27日 20:20 に答えていただけませんかね?
220.46.236.182 05年11月2日15:47
加筆の妥当性について
[編集]チルダ4つ~~~~で署名できます。何度も同じことを書くのはスペースの無駄です。世論調査の設問については[1]にある通り設問が均等でなく、配分し直すと実質五分五分か存置派がいくらか多いかです。それはまあいいとして、真面目に応えるのも幾分馬鹿らしいのですが、
- 死刑は、人権保護を目的とした憲法上、合憲であるとされたのに、なおも人権上問題があるというのは、最高裁の法の有権解釈権の否定であり、自己主張の貫徹以外の何者でもないようにもみえるし、科学的観点からの疑問に全て答えうる刑罰など存在しうるのかという主張もある。議論の果てぬところであろう。
- まず憲法が「人権保護を目的とした」と呼べるのは制定段階と各種訴訟の提訴者の側からであって運用実態として人権保護を目的としていると呼べる代物ではない。死刑については「人権が制限される例に当る」という判例が維持されているのみで、「人権上問題がない」とまでは言っていない。また憲法には国際法を守るとあり、最高裁の一判例が国際法に優越するとの規定はない。
- ただし、この主張は、ともすれば、裁判所が死刑相当と評価するほどの犯罪者の命のほうが、社会の「文化」「道徳」よりも優先されるべきであるというに等しくなる面があり、危険でもある。しかも、現代日本の資本主義民主主義社会では、一部を除いて人的互換性というものが高度に達成されており、「人命という現代社会における至上の価値」などという表現は、いささか現実的な観察を欠いており、一種の感情論的な趣がある。それに、死刑の法的な正当性は、最高裁が答えていることであり、「特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもつて社会を防衛せんとした」ことが刑法上の存在理由であろう。
- 死刑合憲判断に意味不明な尾鰭が付けられている。近年流行の「信賞必罰」を刑法に当て嵌めるのが適切かどうかであって、論点がズレている。
- この点につき、「それこそ科学的観点からの疑問があり、その上、実証が不能。しかも、最高裁が死刑を合憲としているではないか。何が憲法的な承認を得ることが難しくなっている、だ。」との現実的な反論がある。
- 「科学的観点からの疑問」というのは言葉だけで論拠が示されていない。最高裁云々は繰り返しで無駄。「現実的」は何がどう現実的か不明。
- これまで死刑が相当と言われる事件の被告人たちの”悪業”に詳しく接してみれば、「更正が可能」と言い切るのは、非常な冒険といえるだろう。
- 言い切っている訳ではなく権力で断つのはどうかというだけ。
- ただ、冤罪というものは、刑事司法手続上の欠陥によりうまれるものであって、量刑上の死刑と裁判上の冤罪とは、別次元の問題である。「冤罪」という語は、死刑の批判ではなく、刑事司法手続きの批判に用いられなければ、理屈としておかしいのではないか、という再反論もある。
- 冤罪者の防御権について論じているので適切。量刑ではなく死刑囚の接見交通権の制限と刑の執行について論じている。
- この「残虐な刑罰ではない」という最高裁判決はもはや確定的なものであり、今日において「死刑の残虐性」を議論しても、象牙の塔の中でならばいざ知らず、現実的にはそれほど意味は無いといっても過言ではない。
- 判例が確定している例は多く、死刑についても条約の批准や法改正なく判例が変わるとは最高裁の実情からすれば考えられないが、断定はできない。
- 死刑は、人権保護を目的とした憲法上、合憲であるとされたのに、なおも人権上問題があるというのは、最高裁の法の有権解釈権の否定であり、自己主張の貫徹以外の何者でもないようにもみえるし、科学的観点からの疑問に全て答えうる刑罰など存在しうるのかという主張もある。議論の果てぬところであろう。
という感じで反論を付けてみました。論理的な文章での反論をお願いします。johncapistrano 2005年11月3日 (木) 07:33 (UTC)
もういい加減にしてください。
何でそこまで噛み合わない会話ができるんですか?
上の2005年10月27日 20:20と2005年11月2日 15:47を読んでくれているんですか。
しかもあなた、始めに言っていたことと、今言っていることと、どうにも繋がってないんじゃないですかね。賛成論の書きこみを削除したあなたの動機らしきものは、2005年10月25日 (火) 15:44に示されていると理解しています。それに対し、私が再度、詳しい確認を求めたら、それには答えず、私の書いたものへの再反論をかいてみろ、と。
あなた病気ですか?真面目に答えるのが馬鹿らしいとは、私の台詞ですよ。
ちなみに、あなたが今回リンクを貼っているサイトは、死刑の廃止を全面的に訴えている団体のものでしょう。それを引っ張り出してきて、誘導尋問であったとの見方で世論調査の数字を修正するというのは、通常やることなのでしょうか。
あなたは私の書いたものに対して、6個に分けて反対意見らしきものを付しています。「理論的な反論を」というあなたの、私の疑義には答えないが挑発はしておくという文章に対して一応のお答えをします。
-
- まず憲法が「人権~ というくだり。まず、あなたは憲法とは何だと思っているんですか。
- 次に、運用実態とやらが気にいらないと言う主張に対して、「最高裁の有権解釈権の否定」ではないか、と書いてあるでしょう。同じことの繰り返しじゃないですか。
- それに「人権上問題ない」という記述はどこにあるんでしょうか?あなた自身が一人で論理飛躍しています。また、何故に国際法と最高裁の判例の優劣を論じているのか分かりません。我が国の国内法である刑法9条11条をどう解釈するかは、国際法上の問題を持たないはずです。
-
- 死刑合憲判断に尾鰭も背鰭も付いていません。読まれる方に誤解のないようにと思い、「」で囲ってもいます。この合憲判断の部分は、『憲法(芦辺信喜)』という本にも同様の記述がなされています。
- 法確信についての批判に対する批判の部分ですが、そこの周辺文脈に、「信賞必罰」を刑法に当てはめるのが適切かどうかをいっている部分は見当たりません。あなたが、どこから信賞必罰というものを刑法に当てはめるべきか否かという議論を見出したのか、それも書いてください。批判になっていません。
-
- 死刑反対論側も「科学的」という言葉は用いています。私の記述の1の部分のすぐ上です。そこにある「科学的」と同じく、特定の根拠に基礎していない、広い意味です。あなたに「中立的な見方」というものが無いんだと、はっきり分かります。
- 最高裁のことを繰り返しているのは、「憲法的な承認を得ることが難しくなっている」の部分を批判するためです。ちゃんと意味があります。無駄なのはあなたの書いている内容です。
- 三つめは、単なる揚げ足取りでしかないようにも思いますが。あなたの頭はその程度ですか?
- それじゃ、更正が可能と言わないで、何と言ってるんでしょうか?死刑もだめ、隔離もだめ、更正するとも言わない、これで何が残るんですか。私の文章とも噛み合っていません。ただ何となくの権力批判は反論でも何でもありません。単なるネラーの書き込みです。
- これは私の記述への反論を構成していませんね。このくだりは、冤罪という言葉が、冤罪を生む本当の理由である刑事司法の批判に向かわず、死刑の批判に用いられることがよくあるので、差し込みました。
「過言ではない」と書いたら断定ですか?完全に断定してしまわないように「それほど」とか「過言ではない」というふうに書いているんですが。
あなたみたいに、人の言うことと噛み合わない返事をする人間の「理論的」というものが私には分かりません。
しかし、あなたの反論とやらは、結局は揚げ足とり、でしかないのではないのかなと思います。
あなたは、このような批判の仕方をしておいて、まさか自分は中立的な観点に立っているとは言わないでしょうね。
220.46.236.182 2005年11月3日 (木) 20:40 (JST)
- 誰の論であれ論理が通っていることが必要でしょう。
- 人権規定が侵害されるべきでないという宣言と最高法規との規定は別概念でまとめて論じるのは杜撰。実態に即して論じることに何の問題もない。
- 有権解釈とはただ権限を持つ機関による解釈というだけで、機関同士で有権解釈権の有無が争われたり、場合によっては違憲立法審査権をさすこともあるにせよ、違憲立法審査権と同一でない。
- 「なおも人権上問題あるとする云々」に対する反論であって、「人権上問題がある」と解釈されるのであれば反論しない。
- 死刑廃止の論拠は自由権規約や死刑廃止条約等の概念によるところが大きく、廃止論者はこれらの尊守、批准も求めている。
-
- 合憲判断の文章には異を唱えていない。その前の文章と論理的に接続していない。特に「人的互換性」を生存権の否定の論拠にするのは暴論。
- 「信賞必罰」は「死刑囚の命が文化や道徳より優先されるべきでない」との意見に対する例えで用いた。
- 論じるだけ無駄。
- そもそも可能性を可能と取っていることに問題がある。廃止国の事例や死刑代替刑論議などを参考にする。
- 日弁連などは刑事司法の批判もしている。
- 「もはや」「象牙の塔云々」も含め過剰な装飾は避けるべき。
- 無駄な中傷は止してください。johncapistrano 2005年11月3日 (木) 13:36 (UTC)
一応お答えします。それにしても、私からの疑義は、全部あなたへの中傷ですか。あなたは、わたしからの疑義に一度でも誠実に答えたことあるんですかね。
-
- 最高法規性は、憲法が人権確保を究極の目標として機能することに実質的根拠を持つ。「人権規定が侵害されるべきでないという宣言と最高法規との規定は別概念」←これは意味不明。どこの国の憲法の話ですか?その上で実態に即して論じていると言われても、無意味。というか何を言っているのか分からないと言わざるを得ない。
- 憲法81条。私が書いたのは、私人の解釈権を否定し、最高裁の解釈を尊重するための記述。その上、はじめから違憲立法審査制など問題にしていない
- 2と同旨。私が書いてもいない記述に対する批判や、それに対する反論を待つのはあなたの戦術ですか?
- だから何?国際法と国内法の判例の優劣に直接関連した問題を有する論旨じゃない。
-
- 人的互換性は生存権否定の論拠として用いていない。というか、25条の否定なんてどこにも書いてない。どっちが暴論ですか。拡大解釈もいい加減にして。それと、尾鰭が付いてるって、結局何だったの?
- 信賞必罰で例えるのって成功してるんですか?意味不明で理解に苦しんでる。未だに信賞必罰の例えで何を言いたかったのかよく分からない。
- それ、こっちの台詞。
- 始めからそう書け。それで、参考にしてどうするの?それらの意見は、わが国には完全になじむものではないが、今も一部では議論されているというのは知っていますが。というか、これ、頑張って参考にしてください、としか・・。
- 知ってます。死刑の反対にしか使われないなんて書いてない。
- 始めからそう書け。二段構えの批判は、答える側としてはとても迷惑。「もはや」のどこがダメなの?あなたも判例が変わるとは思えない旨を書いてるじゃないですか。それと「象牙の塔」を過剰とするかは、個人の文章の好みの問題では?
ってか、いい加減に、当初の私からの疑義に答えてくれ。もともと、私はそれだけを書いてた。220.46.236.182 2005年11月4日 (金) 00:40 (JST)
- 憲法81条を私人の解釈権の否定とする論は初めて見ました。詳しく説明をお願いします。記事と関係のない質問には応える必要はありません。johncapistrano 2005年11月3日 (木) 15:55 (UTC)
その前に、つい先ほど、1に加筆しました。01:16 220.46.236.182 2005年11月4日 (金) (JST)
- 最高法規性を人権規定に求めるのは社会契約説的解釈ですね。でも市民革命由来でない憲法などいくらでもあるし別の解釈もあるので普通社会契約説的解釈をとる場合規制対象は国であって死刑存置論と結びつけられることは稀です。明治憲法の改正での成立を強調する論法で社会契約説を軽視する人はよく見かけますが。さて。johncapistrano 2005年11月3日 (木) 16:49 (UTC)
・・・・・?いや、ですから、あなたはどこの国の憲法の話をしてるんでしょうか?そこは憲法が最高法規たる実質的な根拠を示すものでしょ(実質的最高法規性論)。「人権規定が侵害されるべきでないという宣言と最高法規との規定は別概念」というものは、日本国憲法の範囲外では?
あと、あなたは、私人にも有権解釈権があるとでも言いたいんですかね?その法的根拠は?220.46.236.182 2005年11月4日 (金) 02:17 (JST)
- いい加減署名お願いします。最高法規論と人権規定は当然に別概念でしょう。実質的というより理論的根拠でしょう。その意味で憲法学では併せて論じるだけで。後者はそんなこと書いてませんが、憲法81条を私人の解釈権の否定とする論拠をお願いします。この項目から外れますが最高法規という規定をなくそうという主張もあるようです。johncapistrano 2005年11月3日 (木) 17:42 (UTC)
あなたの言う最高法規性は、私には理解できません。日本国憲法が最高法規たりうるのは、実質的最高法規性に支えられているからではないでしょうか。当然に別概念などとすると、形式的最高法規性しか残らず、最高法規性が充分に裏打ちできなくなります。あなたの書いていたのは、現行の日本国憲法の話だったんでしょうか。それに、憲法学論争的なことを持ち出してきたのはあなたのほうでしょう。結局何が言いたかったのだろう、という気はします。
次に私人の解釈権云々のところですが、まずは、上の私の記述内容をよく読んでください。私の書き方がまずかったのでしょうか。あなたは誤読しておられる。憲81条を示したのは、あなたがどうしてか「解釈権を持つ機関の~~有権解釈権の有無が争われたり~~」という方向へ進まれたので、最高裁が終審裁判所であることを示すためです。そして、次に私が書いた「私が書いたのは、私人の解釈権を否定し、最高裁の解釈を尊重するための記述。」というのは、私の記述に対するあなたの機関が云々という反論は、当たっていませんよ、というためのものです。私人に有権解釈権が無いことの根拠が憲81条だ、という趣旨ではありません。
そして、右の「」の部分は、例えば、最高裁がAという憲法判断をしたときに、いくら私人が、それはBだと言っても、その解釈は有権なものではなく、最高裁の解釈が尊重され実行的な効力を持つという意味です。そもそも、あなたの機関がどうこうという批判は、わたしが死刑の項目に書いていた内容の批判として機能する内容なのでしょうか?正直、疑問です。つまり、従来から私が言ってることを、あなたが手を変え品を変えて揚げ足取りをしている状態です。
さて、あなたに何かを言うのも、これが最後です。
中立的な観点に目を通しました。
本当にびっくりしましたよ。
中立的な観点の2.7.6に、あなたが私の書き込みに対して行ったことは、なされるべきことでは無いと、明記してあります。だから、私からの疑義には、一切答えなかった或いは答えられなかったわけですか。得心がいきました。
ここまで来ると、①あなたは非常に熱心な死刑廃止論者(今までの私に対する書きこみの内容から推知して余りある)であり、賛成論からの書きこみの存在を許せないために「中立性の観点」の名を借りてその存在を抹消した。②私がテンプレについて疑義を唱えるので、記事の内容そのものを、執拗なまでに攻撃することにした(事実、あなたの私への批判は、中傷・批判するためだけの批判とも言い得るものが多かったです)。と理解せざるを得ません。
あなたには、何を言っても何を訊いても無駄であると、何の価値も無いとよく分かりました。あなたは精神的には悪質な荒らしのネラーと何ら変わり無い。
あなたの会話頁には、あなたに否定的な意見も見られますが、それは私の経験からしても、あなたに多分に責任があるものだと思いますよ。単に中傷としか考えられないのは、幼稚というほかありません。
あなたとこれ以上何を話しても無駄ですので、私はもうこの死刑のノートには来ないし、あなたの会話頁にも来ません。あなたのような人間が跋扈しているから、ウィキペディアにアクセスすることも極力避けるようにしたいと思います。
よって、これから私に対するあなたの書き込みは、如何なる内容であろうと一切無用です。何を書いても私は見ることはないでしょう。
johncapistrano さん、永遠にさようなら。
220.46.236.182 2005年11月4日 (金) 12:30 (UTC)
記事編集の問題
[編集]ノート
[編集]死刑判決が出ている者はいずれも殺人者であるので、重複を避けるために「特に凶悪な殺人犯に対してはその傾向が強い。」という部分は削除しました。
「刑罰は国民の規範意識から乖離することは出来ず、民主主義国家においての死刑存置理由は究極的にはここに起因する。」と書かれたからには、後段の「法確信」について「現代ではその正当性を法的に説明することが容易ではなくなっている。」を否定しなければならいでしょう。しかし、さすがにそういう否定をすることは「現代では、容易でなくなっている」という部分の認識は一致しているためにこの部分の削除を行われていないのだと思います。どちらかに論理を統一しないと話が矛盾して無意味になるので、後者の考えに一致させて前者を削りました。
「また、憲法自体が生命刑を予定している。」という部分ですが、憲法解釈において、古来からの有名な論理ミスの一つである「前件否定の虚偽」に陥っているという内容の木村亀二や正木亮らによる批判が存在します。実際に論理構造としてはミスそのものですが、長年、社会的に通用してきたミスであるということも法は評価しなければならない面も存在します。どちらかに偏った書き方をするのは不適切であり、公平性を欠く理由はPediaとしてふさわしくないと思われたので削除しました。 「日本国憲法自体は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」として、生命刑の予定をしており、」という部分も、同様の理由により削除しました。
「元々、各刑罰の相対的効果の測定自体が困難である。」という部分ですが、現代の人権制約の判断基準では、「各刑罰の相対的効果」の判定が同じ基準において行えなくなってきている点が問題になると思います。学説において「二重の基準論」等が多数を占める現代においては、「同じ規準で効果を説明すること」に対して確かに批判が存在するので、その事実がわかるように、少し古いと思われるタイプの「反論」は削除しました。
「犯罪を犯す者はまず捕まることはないと考えて犯罪を犯すものであり、死刑の効果は薄いというのがその理由である。だが、これはその逆の考えの者については効果がないとは証明できず、死刑判決を受けた者がなんとか生きながらえようと長期の法廷闘争をおこなっている事実から見て、また人間の「生」に対する欲求から見ても効果が皆無とはいえない。」という部分は、抑止力に関する論争を正確に捉えていないと思われるので、削除しました。抑止力の問題に関しては、変数の取り方、モデルの立て方、変数問題(関数関係の解決法)、データ処理の方法等々に関して多くの論争が存在し、殺人事件に関して「死刑には犯罪抑止効果はある」という単純な主張に対しても、多くの反対論文が提出されて決着を見たというにはまだ早い状態だったはずです。「死刑独自の犯罪抑止効果」についてはさらに判断が難しい問題として認識されています。
「死刑確定から執行までほとんどが数年から数十年もの間を要すのが暗黙の了解とされ、異例のスピードで死刑が執行されたと言われた池田小児童殺傷事件被疑者でさえ1年ほど時間を要した。精神に異常を来しておきながら死刑判決を受けた受刑者や冤罪疑惑がありながらも死刑判決を受けた受刑者について、ほとんど死刑執行されたケースが存在しない。」という部分についてですが、池田小の事件では刑事訴訟法第475条の問題よりも必要的上訴の制度が無いことが考慮されたのではないでしょうか?また、精神に異常を来たしている(ようだ)と言われていたり、無罪ではないかと言われながら処刑された人もいるので、上記文章に疑問を感じます。
「以前は凶悪犯罪に対しすぐに死刑になる判例が多く、身代金目的の幼児誘拐殺人件などはすぐに死刑になるケースが多かった。だが、最近では数名の人間を殺害した被疑者に対してでないと死刑判決が出るケースが少ない。また、裁判のなかで被疑者が反省の弁を述べなかったり、犯罪の共謀者と罪の擦り付け合いをしている場合も死刑判決が出るケースが多い。また無期懲役刑を受けた被疑者が仮出所後に殺人を行った場合も死刑判決を受けるケースが多い。」という部分は、死刑執行の現状を記した段落に、死刑判決の現状を書いてあるので、話を理解し易くするために他の段落に移して整理するべきではないでしょうか?
「日本における死刑」の最後の方は、死刑の現状を表したものではなく、死刑の存廃議論に関わる内容のものだったので削除しました。死刑の廃止の方に書くべき内容だと思います。--以上の署名のないコメントは、218.137.160.36(会話)さんが 2006年1月7日 (土) 04:17 (UTC) に投稿したものです。
アメリカの状況に、”裕福ではないが治安が安定している北部内陸州において死刑が行われず、”とありますが、北部内陸州であるミシガン州は、必ずしも治安が安定しているとはいえません。同州の2000年における暴力犯罪発生率は全米50州中11位、殺人発生率は11位、強姦発生率は4位です[2]。--ロリナチ 2006年7月10日 (月) 10:27 (UTC)
素人からみた疑問
[編集]目的なのですが、報復の連鎖を断ち切るために司法が代行する、という説はないのでしょうか?220.148.32.216 2006年3月12日 (日) 20:39 (UTC)
コメントアウトについて
[編集]死刑執行の際に使ったと思われる椅子の画像(あくまで推測ですが)をコメントアウトしました。ある程度覚悟して画像を見ないと精神的なダメ-ジを受けてしまうためです。--ゴンボ 2006年8月8日 (火) 08:03 (UTC)。
- 除去する必要性がよく分かりません。ダメージというのは、誰がどの部分にどのようなダメージを受けるのでしょうか?恐れ入りますが、もう少し具体的にご指摘願います。 Masao 2006年8月8日 (火) 12:30 (UTC)
- 説明不足ですいません。あくまで個人的な意見ですが、電気椅子は電気椅子についてなので電気椅子の画像があると予測でき、ある程度覚悟してその記事を見ることが出来るが、ここは死刑制度についてと思い死刑執行の際に使ったと思われる椅子の画像があると予測できず、その画像をそのまま見てしまうと、精神的なダメ-ジ(ショックに近いかな)受けてしまうと思いコメントアウトしました。--ゴンボ 2006年8月8日 (火) 13:49 (UTC)
- ゴンボさんがショックを受けたという理解で正しいでしょうか? 私個人は椅子そのものにはショックを全く感じません。このレベルのものでショックを受けていると、Wikipedia上のほとんどの情報を除去しなくてはならないと思います。せめて、
- この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。
- といったテンプレート付与あたりで妥協できませんか? (私個人的にはつける必要性を感じてはいませんが。。。)Masao 2006年8月9日 (水) 09:24 (UTC)
- ゴンボさんがショックを受けたという理解で正しいでしょうか? 私個人は椅子そのものにはショックを全く感じません。このレベルのものでショックを受けていると、Wikipedia上のほとんどの情報を除去しなくてはならないと思います。せめて、
- どんなものでも感じ方は人それぞれですが、画像を削除までしなければならないとは思いません。テンプレートで注意を促すにしても、「12禁」か精々「15禁」で良いのではないでしょうか。(そういうテンプレートがあれば。)--寒波星人 2006年8月9日 (水) 11:43 (UTC)
- 説明不足ですいません。あくまで個人的な意見ですが、電気椅子は電気椅子についてなので電気椅子の画像があると予測でき、ある程度覚悟してその記事を見ることが出来るが、ここは死刑制度についてと思い死刑執行の際に使ったと思われる椅子の画像があると予測できず、その画像をそのまま見てしまうと、精神的なダメ-ジ(ショックに近いかな)受けてしまうと思いコメントアウトしました。--ゴンボ 2006年8月8日 (火) 13:49 (UTC)
- 残酷、グロテスクな画像に関しては、以前、井戸端で話題になったことがあります。そこで揚げられたような間接的な表示方法を使う手も有りますが、個人的には、人を殺す道具と言う点では、銃や刀と同様で、写真自体に問題は感じません。しかし本項目に関しては、1.内容が死刑制度に関するものである、2.個別の処刑方法は死刑#方法内で名前のみ示され、それぞれ個別の記事が存在しており、そちらで掲載できるため、処刑器具の写真は不要ではないかと思います。なお、テンプレート「暴力的または猟奇的・・・」は全く違った内容を想像するため反対です。 Zorac 2006年8月9日 (水) 12:15 (UTC)
- ショックを受けたで正しいです。感情論になってしまいすいません。
- Zoracさんの意見に賛成します。--ゴンボ 2006年8月9日 (水) 18:40 (UTC)
死刑制度について正確な知識を与えるためには、死刑執行の道具の写真は極めて有効だと思う。現実に、世の中で死刑が実行されていて、写真のような道具で執行されていることを考えれば、それがショックを受けるものであっても、掲載すべきものだと思う。--abolitionist 2006年8月9日 (水) 21:18 (UTC)
皆様、ご意見ありがとうございます。 さて、Zorac様からご提示いただいたように、この問題には以下の2つの論点があるため、個別に議論する必要があるかと思います。
- 当該画像は当記事中でショックを与えるか?
- 当該画像を当記事に添付する必要はあるか?
で、前者については個別の主観によるところが大きく、一律の基準は設けられないかと思いますが、この画像の場合、単なる器具であるため、一般的にみてショックとまではいえないのではないかと私は思います。 後者の議論こそが本質的な議論ではないかと思います。Zorac様が示されたとおり、この記事は死刑制度に関する記事です。しかしながら、歴史的・文化的経緯、さらに現在の記事中の残虐性等に関する議論から見ても、執行器具と死刑制度とは切り離せない関係にあると思います。執行器具がたとえ個別器具であったとしても、その制度との関連および個別事例を通じた理解を深めるという意味でも、十分に記事に寄与するところが大きいかと思います。以上の理由から私は入れるべきであろうと思います。皆様はいかがお考えでしょうか? Masao 2006年8月10日 (木) 03:30 (UTC)
- 他の人の意見を待っていたのですが、もう出尽くしているようなので、返答させていただきます。
- もちろん、死刑に死刑器具は切り離せないものであると思いますが、死刑器具に興味の有る人は、方法の節を見るだろうし、そこからはワンクリックで、各処刑方法の器具の写真を見ることができます。それで、必要性は十分満たされているのではないでしょうか? 逆に現在主流な方法でもない、電気椅子やギロチンをずらずらと掲載する意義は有るでしょうか? Zorac 2006年8月12日 (土) 02:27 (UTC)
どのような記事であっても、主題の理解を助ける写真や図が備わっていることは好ましいと考えます。化学物質の記事なら化学構造式、歴史の記事なら年表、儀式の記事であれば儀式に使う道具、などなど。日本語版には公開処刑になじんでいる方はあまりいないでしょうから、英語版にあるような実際の絞首刑[3]の様子やさまざまな処刑器具の写真は必要であると考えます。もちろん、百科事典は写真集ではありませんから、文章が主とならなければなりませんが。---Redattore 2006年8月12日 (土) 02:54 (UTC)
- Zorac様、ご意見ありがとうございます。死刑器具は単なる道具として存在するのではなく、死刑制度を支える重要なモノとしての意義があると思います。つまり、ギロチン・電気椅子といったものは、包丁やナイフ、銃器などのような汎用的なツールと異なり、死刑制度と不可分の形成が行われ、逆に死刑制度そのものを見聞きし、語る際の一つの強い影響力を与えてきたものでしょう。また、死刑制度そのものの形態は国・時代・地域により多様であり、その理解においてそれぞれをどのように捉えるかは多様な見方が存在してしかるべきであると思います。記事中の残虐性の議論はその一つでしょうし、逆に残虐性の議論は器具・執行方式に大きく影響をうける議論である点から、これらの写真を備えることがその理解を助けるのではないか、というのが私の主張です。さらに、Redattore様がおっしゃるように写真や図が理解の助けになるのであれば、入れるべきであると考えます。また同様にどのような写真・図がふさわしいものであるかについては熟考すべきであるとも考えますが、現状で当該写真を含めることは記事にマイナスになる点は無いと思います。Masao 2006年8月12日 (土) 10:55 (UTC)
まず、Masaoさんのコメントに対する反論ですが、
「ギロチン・電気椅子といったものは、・・汎用的なツールと異なり、死刑制度と不可分の形成が行われ、・・一つの強い影響力を与えてきたもの」だから意義が有ると言われてますが、実際に死刑に良く使われたのは、刀、銃などのような汎用的なツールです。それにも係わらず、あえて残虐性を感じさせる専用の処刑道具の写真を列挙するのは、意識するしないに拘わらず、死刑反対側に偏った表現方法(POV)のように思われます。「残虐性の議論は器具・執行方式に大きく影響をうける議論である」と認識されているなら、なおさらです。
また文章が主で「写真を備えることがその理解を助ける」のであれば良いのですが、現状ではほとんど、処刑方法、器具に係わる文章はありません。
わたし自身は、処刑器具の写真を列挙する意義を感じないため、少数でもゴンボさんのようにショックを感じる人がいるなら、各項目記事にまかせれば良いと思ったわけですが、そのように意義を感じる人がいるのであれば、次の提案をしたいと思います。
- 当面、処刑器具の写真は、死刑#方法の節の中に1枚か、またはギャラリー形式で複数を掲載する。
これなら、冒頭にいきなり処刑器具の写真はでませんし、ある程度予測がつくと思います。英語版でも写真は、あくまで解説の補助として、節に多くても1枚しか写真は使われていません(しかも処刑器具の写真は掲載されてません)。
Zorac 2006年8月13日 (日) 11:13 (UTC)
- 人力検索はてな: マドンナの ”Die another day” のプロモーション・ビデオは非常にシュールでステキなんですが解読できません。これの解説サイト・ページがありましたら教えてください――これ、とっても古いわたくしの質問です。古いのでリンク先はほとんど無効になっていますが、このプロモーション・ビデオでマドンナ (歌手)が、古風な、けれどもかなりリアルな電気椅子で死刑執行寸前まで執行官と争うシーンがございました。プロモーションが目的ですから、もちろん年齢制限はないと思います。(1) エンタテインメントが目的の年齢制限のないプロモーション・ビデオに、リアルな電気椅子が登場し、世界中からそれを視聴することができた事実、(2) 日本では執行に絞首刑が用いられている事実――の二点から考えるならば、画像を二点掲載すべきではないかと考えます。大島渚監督『絞死刑』にも非常にリアルな執行場面が登場します。日本でもこの映画で年齢制限された事実はございません。現実を直視し読者に対する理解を深めるためにも、画像はあったほうがよい、とわたくしは考えます。●「現状ではほとんど、処刑方法、器具に係わる文章はありません」――確かにその通りでございますが、ですがそれは今後の課題にすればよい、とも思います。●「少数でもゴンボさんのようにショックを感じる人がいるなら」――死刑執行場面のリアルな動画ならば考慮いたしますが、電気椅子にせよ、絞首台にせよ、単なる道具にすぎません。ゴンボさまのセンシティブな感性には敬意を表しますが、道具をご覧になっただけでショックを与えるものだという考え方には、ちょっと同意できません(実はわたくし自身も幼少時に、確か中国映画で青龍刀によって首が吹っ飛び、噴水のように高く血が噴き上がるシーンを見て何度もうなされ、夢にまで出てきたことがございましたが、それとは違い道具に過ぎません)。アルグレイブの画像の方が怖い、と感じます。●古今東西の名作映画に年齢制限のない死刑執行場面がいくつも登場している事実に鑑み、とうてい受け容れることはできないご主張だと思います。映画好みですから、銃殺によるリアルな執行場面も見ていますが、ショックだったのは執行のシーンそのものよりも、恐怖に怯える迫真の演技や執行直後の演技でした。火炙りの執行も、生きたまま火で焼かれるシーンの演技ももちろんですけれど、むしろその直前に執行される女性が泣きながら丸坊主にされるシーンに恐怖を感じました。●なお、大島監督『絞死刑』に匹敵するウィキペディアで使用可能な GFDL 画像を、これまでずっと探してきましたが見つかっておりません。もしあれば、迷うことなく掲載いたします。●日本の死刑制度の最も陰湿な部分は、その密行性(なるべく知られないように執行するところ)にあるからで、正しい執行ならば可能な限り公明正大に公開すべきだと考えております。米国のように執行を公開すべきだ、というのがわたくしの意見です。さらに、最終的に死刑判決を下した裁判官には、その執行に立ち会う義務を課すべきだ、とも考えております。もちろん執行命令にサインした法務大臣も。
- Opponent 2006年8月13日 (日) 13:19 (UTC)
- Opponent 2006年8月13日 (日) 13:23 (UTC)
- あまり大きめ画像がでるのは、理解を助けるよりも死刑反対側に偏った表現方法になってしまいます。Zoracさんの案が中立的だと思います。--ゴンボ 2006年8月13日 (日) 19:23 (UTC)
ご意見ありがとうございます。いったんインデントを戻します。
最終的には、Zorac様ご提案の「ギャラリー形式」といったあたりが妥協点になりそうな気がしています。
が、ご意見に分からない点があるので、お教えいただければ幸いです。
「あえて残虐性を感じさせる専用の処刑道具の写真」(Zorac様)、「あまり大きめ画像がでるのは、理解を助けるよりも死刑反対側に偏った表現」(ゴンボ様)とのことですが、よく分かりません。処刑器具自体は客観的な事実の例示にすぎず、それを残虐に感じたり、反対側に偏ると感じたりするのは、閲覧者の自由(主観)ですよね? たとえば、当該写真を提示したとしても、(このような器具で人の死が行われるとはショックで見るに耐えない)と感じる方もいれば、(このような清潔な器具で刑罰を与えるのでは足りずもっと受刑者を苦しませるような死刑方法を取るべきだ)と感じる方もいるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか? Opponent様がおっしゃったように、現在の日本では、死刑器具そのものだけでの表現が残虐だとの意見はそれほど一般的ではありません。もちろん、死体そのものなどに対する表現に対しての倫理的観点からの規制や青少年保護的な扱いがあることは存じていますが。 私が残虐性の議論を最初に例に挙げて申しましたのは、世界の一部で行われています、投石や生埋め、はてはノコギリ引きといった残虐な前近代的な死刑方法に比べ、近代的な電気椅子といった手法が優位を持つといった客観的材料になると思ったからであり、これはむしろ死刑賛成論に対する根拠となると思ったのですが、いかがでしょうか? Masao 2006年8月16日 (水) 03:41 (UTC)
- 議論が微妙にすれ違っている感が有ります。できるだけ簡潔に書くことをモットーとしているのですが、少し冗長になるのを承知で、長文にしてみました。
- まず前提として、死刑器具は「死刑制度を支える重要なモノ」ではないと申し上げておきます。歴史上の死刑の大部分は斧、刀、槍、縄、銃といった通常の道具を使って行われていたわけで、西欧では貴族は斧で断頭、平民は絞首刑が通常の死刑で、日本なら切腹、斬首で死刑制度は確立しています。ギロチン、電気椅子などは一地域の一時代に使われた特殊なものに過ぎません。
- その上で質問にお答えしてみます。
- 「処刑器具自体は客観的な事実の例示にすぎず」といわれますが、客観的な事実の中から、任意の選択をして例示すれば、選択者の意図を示すことはできます。このような議論をする方なら当然知っているはずだと思いますが。この場合なら、使用頻度の多い、刀、銃、縄ではなく、ビジュアル的な印象の強い専用の死刑道具を選び出すのは偏っているというのです。逆に全く刺激を感じさせない薬液注入など清潔な器具のみを選ぶのも偏っているでしょう。偏っているという意味がお分かりいただけたでしょうか?
- 「投石や生埋め、はてはノコギリ引き」は現代の死刑の議論には入りません。現代の死刑は死なせることを目的としていますが、前記のものや「八つ裂き、釜茹、火刑」などは、苦痛や見物者にみせしめのための恐怖を与えることを目的としたもので、「苦痛、恐怖刑 + 死刑」です。こういうものは、過去に行われた死刑として(一部後進地域で現在も行われていることも含めて)簡単にまとめて、個別の記事に詳細をまかせるべきでしょう。従って、それを含めないから死刑賛成論側とも思いません。
- 御理解いただければ幸いなのですが。 Zorac 2006年8月18日 (金) 13:11 (UTC)
歴史的な経緯を考慮に入れなければならないが現代の死刑から縁遠い器具も避けるべき、特殊なものではなく汎用的な器具を選ぶべきである、死に至らしめる以外の「副作用」がある器具はふさわしくない、という主張だと理解しました。それでは、歴史的な絞首刑の画像と現代の絞首刑の画像を1点ずつ探します。もちろん、議論に先立って貼付けることはいたしません。---Redattore 2006年8月18日 (金) 15:44 (UTC)
Zorac様のご説明わかりやすく、ありがとうございます。了解いたしました。死刑制度については現代的観点および歴史的観点があり、私の立ち位置はむしろ歴史的観点にあるようです。つまり、死刑という行為が恐怖そのものもその目的として行われてきたという経緯が私の議論の前提にありました。「死刑」が持つイメージは単なる一制度、現代的なものだけでは存在しえません。一方で、選択そのものが価値観を反映しており、専用器具を強調したいとの主張は行っておりません。ここでの私の主張はコメントアウトされた画像を復活し、記事をより豊かなものにすることであり、より汎用的な死刑を説明する画像があれば、それに置き換えることは妥当なことだと思います。死刑のイメージを効果的に伝える画像があるのであればそれを記事に含めることに賛成です。現時点での妥協案として、先にあがったギャラリー方式、もしくはRedattore様の上げられた歴史的・現代的な画像を1点ずつ、といった提案が落としどころに思えます。ご意見をお願いいたします。--Masao 2006年8月19日 (土) 04:18 (UTC)
- そうですねえ、こと死刑に関しては二つの論点がございます。ひとつは歴史的視点、もう一つは現行の死刑制度を誰が支えているのかという問題です。●まず、Zoracさまのおっしゃる「斧、刀、槍、縄、銃といった通常の道具」あるいは「一地域の一時代に使われた特殊な」ギロチン、電気椅子など、という視点について、いくつか申し上げます。●そのような認識に一理はございます、ですが、近代国家ないし現代国家が、効率的なシステムとして専用の死刑装置を発達させてきた結果、ギロチン、電気椅子、あるいは日本の絞首刑のように必ずしも死ぬとは限らない方法を技術的に発達させ、例外なく殺す方法へ進化させている事実がございます。日本の絞首システムは、単に首を絞めるだけではなく、高いところから落として頸椎骨折によって即時に意識不明にさせ、その後、首を絞めることによって最終的に生命を奪うんですね。●このような高度な技術によって成り立っている現行の死刑の技術が現代社会にどのような影響を与えているのだろうか、という点から考えると、言及を避けるべきではないし、むしろ図解して明示すべきです。●もう一点、日本も米国も、とりあえず民主主義国家であるという建て前がございます。民主主義の原則は、主権者である国民がすべての制度をコントロールしているという建て前で成り立っております。死刑の方法もまた主権者の選択の結果だという建て前があるわけですね。従って、死刑の方法を選択する最終的な責任を負うのは主権者、すなわち国民全員である、という建て前になっているわけです。最終的な責任を負うべき主権者が、その実態を知らないはずはない、という論理から考えれば、少なくともその実態を示す画像は公開しなければおかしい。●死刑囚が誰によって殺されるのか、という論理を突き詰めるならば、主権者が殺していることになります。ですが一般的にそれは理解されていません。死刑廃止論者は、死刑に反対することによって免罪されず、死刑に反対する人も、結局はやはり死刑制度を支える側に属しているんです。●真宗大谷派の法務大臣・佐藤恵さんは、その宗教的立場から、死刑執行命令のサインを拒否なさいました。これは美談として語り伝えられています。彼の行為が日本の死刑執行史に大きな影響を与えたのも事実でしょう。ですが、佐藤法務大臣の行為はシステムを否定するには至らなかった。個人的な宗教的信条から死刑執行命令書にサインを拒否されましたが、死刑制度に関して何ら異議申し立てもせず、システムを変更しようと努力なさった形跡(尽力なさった事実があっても検証できる行動)は存じません。●こういった点から考察するなら、死刑執行の実態を明らかにする意義として、その実態を図解することは不可欠ではないかと思うのです。●というわけで、システム化された現代の死刑方法を示すいくつかの画像は、必要不可欠だと考えますし、画像が存在するならば欠かせないとも考えております。
- Opponent 2006年8月19日 (土) 15:27 (UTC)
- (追記)さらに申し上げておきますが、資本主義国である米国では、電気椅子を発注する国家と、その注文によって納品する業者が存在いたします。米国政府ががみずから電気椅子を設計・製作して設置している可能性もございますが、おそらくそうではなく、納品業者は存在するはずです。もちろん特許権を取得して、排他的独占権を業者が握っていると推認できます。
- Opponent 2006年8月19日 (土) 17:34 (UTC)
- (追記)さらに申し上げておきますが、資本主義国である米国では、電気椅子を発注する国家と、その注文によって納品する業者が存在いたします。米国政府ががみずから電気椅子を設計・製作して設置している可能性もございますが、おそらくそうではなく、納品業者は存在するはずです。もちろん特許権を取得して、排他的独占権を業者が握っていると推認できます。
主にRedattoreさんに対しての返答になりますが、
私の主張は、『死刑器具は「死刑制度を支える重要なモノ」ではない』かつ『文章が主であれば良いが、現状ではほとんど、処刑方法、器具に係わる文章はない』だから『処刑器具の写真を列挙する意義を感じない』さらに『少数でも不快を感じる人がいる』ので『処刑器具の写真は不要』という論理です。
次に処刑そのものの画像ですが、この場合は、以前、Masaoさんが書かれた、「1.当該画像は当記事中でショックを与えるか?」がもう一度問題になると思います。その辺はケース・バイ・ケースで実際の写真によるだろうと思います。また、文章の中で本当に必要なものなのか?も当然、議論になりますが。
しかし、なぜ2枚にこだわるのでしょう? Redattoreさんが写真を付け加えられたときは1枚だったはずですが。繰り返しになりますが、英語版でも写真は、あくまで解説の補助として、節に多くても1枚しか写真は使われていません。また、日本における死刑でも使われてはいないのですが。 Zorac 2006年8月20日 (日) 14:33 (UTC)
- 私は記事の理解を助ける図表、写真はどの分野でも必要だと考えております。
- 投稿記録を見ていただくと分かると思いますが、記事の加筆以外に、微生物の写真、歴史地図、物理学の実験、天文の概念、地理などで主に写真を貼り付けております。文章が主であり、図表類は「添え物」だと考えてはおります。しかし、ヒトは視覚の動物ですから、目で見て内容が理解できる写真は記事に不可欠だと感じています。
- つぎに2枚という数ですが、Zoracさんの「議論が微妙にすれ違っている感が有ります。」で始まるご意見(2006年8月18日 (金) 13:11 (UTC))に沿った形にしようと私なりに考えたためです。「2」という数にはまったくこだわっておりません。
- Zoracさんの最大の主張に応えておりませんでした。死刑器具は「死刑制度を支える重要なモノ」ではない、という主張です。この主張をきちんと理解できたかどうか自信がありません。確かに何らモノを用いずに死刑を実行することはできます。しかしながら、現在、モノを使わずに死刑を実行している国があるとは思えません。次に死刑制度ですが、これは法によって定められており、モノには無関係です。しかし、刑法を見ると、「第十一条 死刑は、監獄内において、絞首して執行する。」とあります。当然、絞首とは何かということが問題になります。
- 似たような事例を探すと、選挙制度と投票装置はいかがでしょうか。投票装置を使わなくても選挙はできますが、アメリカ合衆国の大統領選挙のように投票装置の「単なる」構造が当選者の動向を左右しています。Opponentさんが言及されておりますように、精巧な装置がなければ現代の死刑制度は維持できないと思われます。---Redattore 2006年8月20日 (日) 15:06 (UTC)
- 話を進めるために、取り敢えず、掲載したい写真を提案されたらいかがですか? Zorac 2006年8月21日 (月) 13:38 (UTC)
Redattoreさんからの具体的な提案はないようです。いつまでも、このままという訳にもいかないため、一応の解決はつけた方が良いと思います。 既にMasaoさんとゴンボさんはギャラリー形式にする妥協案に同意されていますので、大きな反対がなければ、そのように変更しようと思いますが。 Zorac 2006年9月2日 (土) 05:50 (UTC)
- すみません。どうもこれだと思える画像がみつからなかったものですから。自分で撮影するわけにもいきませんし。---Redattore 2006年9月2日 (土) 07:27 (UTC)
- en:Image:Hanginkuwait.jpg(英語版) - 現代の絞首刑の例
- この画像は公開処刑(クウェート)の例ともなっています。絞首刑後、きちんと死亡しているかどうか脈拍を調べている場面ですね。
- de:Bild:Galgen.jpg(ドイツ語版)- 近世の絞首刑の例
- 1865年の合衆国の例です。
- Image:Francisco de Goya y Lucientes 023.jpg(コモンズ)- 歴史的な銃殺刑の例
- ゴヤの描いた絵画です。1808年5月3日の歴史的な事実を描いたもので、現代でいうルポに似た手法で描かれたものでしょう。裁判によらない死刑の例ともなっています。
- これだと思える画像がないのなら、無理に載せる必要はないでしょう。ぜひ掲載すべきだというのを見つけた時に、また提案されれば良いことですし。 Zorac 2006年9月4日 (月) 12:17 (UTC
- そうですか。うーん。しかしながら、Wikipediaでは紙製の百科事典とは異なり、写真やイラストを発注して最適な図表を掲載することはできません(死刑に関する器具であればなおさら)。たとえば生物や自然の地形に関する記事をいくつか見ていただければ分かりますが、説明用の写真として必ずしも適したものばかりではありません。それでも何もないよりはよいという意見が強いのでしょう、画像が除去されることはめったにありません。最後に、3点の写真と絵について、Zoracさんの目からここはよい、ここは悪いというご意見をいただければ助かります。---Redattore 2006年9月4日 (月) 14:46 (UTC)
- 生物や自然の地形の場合はショックを受ける人がいないからでしょう。とはいえ、昆虫の項目にゴキブリの写真が並んでいたら嫌な人も多いでしょうね。
- 感想を申し上げますと、1番目の「奇妙な果実」状態は、抵抗を感じる人は多いと思います。2番目は、まあ、無難なところでしょう。3番目は裁判による正規の死刑ではなく、内戦時の虐殺の絵ですから不適当だと思います。英語版では、美術の節に掲載されているので、仕方がないですが。 Zorac 2006年9月6日 (水) 13:54 (UTC)
- Zoracさんには私の長々とした議論に付き合っていただき、ありがとうございました。とりあえず主な論点は理解できたと思います。Zoracさんの「本文の記述が薄い」という指摘を受けて、議論中に死刑の歴史に関する書籍を読んでおりました。器具についてはあまり知識が増えませんでしたが、ゆっくりと加筆を進めたいと考えております。
- 不快感に関してはどうも合意が難しいようです。ゴキブリの写真は美しく、よく写っていると私には思えます。構造が分かりやすいよう頭部や脚部の拡大画像などもほしいところですが。他の例として、ケロイドに画像を貼り付けた際、瘢痕組織がはっきり写っている方がよいと私は思いました(結局は画像サイズを小さくすることで対応しております)。死刑に関する器具は、そうですね、設計図のようなある程度抽象的な画像が見つかればよいのかもしれませんね。---Redattore 2006年9月6日 (水) 15:57 (UTC)
- 理解をいただけて幸いです。要は文章の内容次第なわけで、十分な説明が有り、図がその理解に役立つのであれば、どんな図であろうとも掲載すべきなのです。
- 不快感について、ゴキブリの写真を美しいと感じるのは結構なのです。わたし自身も、中々機能的で美しいと感じる面も有ります。ですが、問題なのは個々人の感覚の差ではなく、不快を感じる人が多いという事実なのです。自分がどう感じるかよりも、他の人がどう感じるかをまず考えた方が良いように思われます。 Zorac 2006年9月7日 (木) 14:12 (UTC)
妥協案に従って、処刑器具の写真を死刑#方法の節にギャラリー形式で入れました。(いつの間にか、電気椅子の写真が代わっているようですが..)。議論に参加された皆様、お疲れさまでした。 Zorac 2006年9月13日 (水) 12:50 (UTC)
記事統合・分割等の議論
[編集]死刑執行との統合提案と死刑存廃問題からの記述の一部転記提案
[編集]前者については死刑執行のノート、後者については死刑存廃問題のノートにおいて議論が行われています。ご意見がある方はそれぞれのノートにお越しください。--Plisoner 2007年1月15日 (月) 14:53 (UTC)
前者については、死刑執行の記事そのものに問題があり、削除となったため終了しました。後者の議論については継続中です。--Plisoner 2007年3月9日 (金) 02:22 (UTC)
苦情
[編集]このページ全体に渡って、既存の統計的事実の評価の論理的誤りなどにより、死刑制度廃止が「先進的」かのような誤解を与える表現が多いです。--以上の署名のないコメントは、59.157.179.129(会話)さんが 2008年3月13日 (木) 22:57 (UTC) に投稿したものです。
- 読者のご感想として承りました。
- そりゃあんたの立ち位置の問題でしょう。おれは死刑存続派側なんだが、まあそれなりに悩ましいところまでひっくるめて言うなら「微妙なバランスは取れている状態」だと思いますよ。死刑存続派から見れば中立的記述は死刑反対派なんだし、死刑反対派から見れば中立的記述は死刑存続派なんだ。そのあたりの立ち位置とランドスケープを認識するのが、最初の関門だと思います。--Nekosuki600 2008年3月14日 (金) 14:24 (UTC)