ノート:欠史八代
辛酉革命?
[編集]「中国の革命思想(辛酉革命)」とは、「辛亥革命」ですか?--石添 小草 2005年12月25日 (日) 16:03 (UTC)
- 違います。詳しくは辛酉を御覧になってください。 Kzhr 2005年12月25日 (日) 16:04 (UTC)
記事より転記
[編集]無出典記載および独自研究を記事より除去しこちらに転記します。復帰される際は出典を示してください。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。
2~9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。
=== 記紀歴史書説 ===記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
葛城王朝説
初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説もある。
プレ大和王権説
古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
九州王朝説の古田武彦も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。
古代天皇達の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる[注 2]。また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇達は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。
一方、半年暦を採用した例は世界的にほとんど存在せず、また魏志倭人伝の記述においても「倭人は正しい暦を知らず、ただ農耕のリズムをもって1年としている」と解釈するのが妥当であり、半年暦は推測の域を出ていない。創世記の超長命との比較においても、千歳という荒唐無稽な長寿は神のものであり、人間天皇のものとすることは憚られたとも考えられる。
* 欠史八代を皇室(=ヤマト王権の長)以外の豪族の王とする説。後世の子孫たちが祖王を天皇家の先祖に据え、朝廷の支配を正当化しようとしたとする。モデルとなった人物の実在には諸説ある。上述の葛城王朝説もこれに含まれる。
* 上述のように、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在したと考える説。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。
--Aitok I(会話) 2018年7月13日 (金) 14:31 (UTC)
- ^ 欠史八代実在説は坂本太郎や田中卓など、在野では安本美典、古田武彦らが主張。葛城王朝説は鳥越憲三郎が主張。
- ^ 他国の例として、朝鮮半島の三国時代を扱った三国史記では、新羅と百済が共に高句麗よりも建国時期が古くなっている。 中国の史書からも紀元前の建国が確実な高句麗に対して、実質的な建国が4世紀と見られる両国が対抗上から行ったと考えられるが、王の代数を増やすことで建国を400年程度遡らせている。
--Aitok I(会話) 2018年7月13日 (金) 14:32 (UTC)
「誰?」タグを外された部分について
[編集]金錯銘鉄剣の銘文に関するところで、意味が分りづらい文章があったので、私が以下のようなのタグを付けたのですが([1])、TENさんによって問答無用で消されてしまったので([2])、ここで改めてお伺いいたします。
上記文面中で、「大彦命は8代孝元天皇の第一皇子のはずだが、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、」の、「そのような天皇」とは誰なのか、そして「鉄剣製作時(471年)までには~存在しておらず」という文章の「までには」の意味が、今一つよく理解できないので、どなたかご教授願います。--みしまるもも(会話) 2021年8月18日 (水) 05:50 (UTC)
- Template:誰は論者が不明である場合に用います(「このタグは、「専門家(科学者、研究者)は…と考えている」「史家(哲学者、科学者)は…と述べた」「…と言う人もいる(多い)」などといった記述の後に置きます。」) 「そのような天皇」にこれを用いるのは、「そのような天皇」が論者として持ち出されている場合ですが、上記の文章はそれに当たらないように見えます。「……と主張する天皇もいた」というような文章に対してであれば、どの天皇がそう言ったのかを明記してほしいという意味でTemplate:誰を使うのは妥当だと思いますが。なお、この節のタイトルには特定の編集者の名前が書かれていましたが、中立的な見出しを選ぶというガイドラインに従ってその部分を除去しておきました。 --2001:268:C086:28BC:A9A1:22E6:9852:F541 2021年8月20日 (金) 03:30 (UTC)
「誰?」タグがテンプレートの趣旨と違う利用の仕方だったことを謝罪いたします。TENさんの下記のご発言では「そのような天皇」は孝元天皇を指すということで、「孝元天皇が存在しておらず」という意味になるようですが、下記で私が申したように、孝元天皇の存在自体が実在か非実在かを巡って論じている際に、「孝元天皇が存在しておらず」という、その前提の断定自体が、論理的に後述の導きとしてチグハグな文脈となります。なので後日、ここの出典を私自身が確認し、どういう主旨の論脈なのかを正確に改稿させていただきます。--みしまるもも(会話) 2021年8月20日 (金) 05:02 (UTC)
- 本日、実際に私の目で出典を確認したところ、やはり上記の文章が出典内容と違う、かなりおかしなものでしたので、以下のように出典に沿った正確な内容に直しておきました。--みしまるもも(会話) 2021年8月22日 (日) 08:42 (UTC)
非実在説が「定説」という断定的な書き方について
[編集]「概要」節の中で、「第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代が後世に造作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説として受け入れられている。」という、非実在説をほぼ「定説」だと定義する断定的な文章がありますが、そこの出典を見ると、非実在説を唱えている直木孝次郎が付されていたりするので、ちょっと非実在説の直木自らが非実在説が「定説」だと言っているとしたら、出典としてはたして適切なのかが疑問に思います。あと、もう一人の出典の「木下礼仁」という方は何の専門家なのでしょうか。そしてその方だけの観点で「定説」だと定義づけていいのでしょうか? 一応は、実在説や一部実在説などを唱えている歴史研究者も複数いるのですから、それらの人達を全く無視・否定する形で、非実在説が「定説」だと断定する定義文の書き方は、あまり適切でないように思います。もしも出典内に「定説」と明記されているとしても、「○○によれば」のような一言を前に補記するなどの処理をするのが、真の意味で正確な事典作りになると思います。冒頭部のところでも「有力である」と書かれていますが、これも「多数派である」というような、もう少し違う言葉を用いた方がいいのでは? と感じます。--みしまるもも(会話) 2021年8月18日 (水) 06:57 (UTC)
- 私の会話ページの分とまとめて返信いたします。
- 「欠史八代において、「現代の~」というところに、私が付けた「いつ」のタグをどうして外すのでしょうか。Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないでは、そのような「現代」「現在」などの言い方は避けるようになっております。」について:これは木下 1993および概要節の同様の文章につけた直木 2015という出典と「20世紀末頃までに」という時期指定でその時間的範囲が明確であると考えたことからはずしました。Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないは「現代」という表現を機械的に排除するものではないと思います。「個々の記述においては、Wikipedia:検証可能性の観点から読む側がその記述の基準となった具体的時期を知る手掛かりとできるようWikipedia:出典を明記するに従って脚注などに出典の刊行年を明示することが必要です。その上で個々の記述についていつの事象について記述しているのか知る手段が脚注等の表示のみでは不十分で、特に誤解を与えるおそれのある場合には文中において時期を具体化しましょう」とある通りで、出典の刊行年でその基準となる時期は明確であると思います。また、時事問題とは違い学説の位置づけというのは刻一刻と変化するものではなく、本記事において「現代においては」というのは「すぐに古くなる表現」ではないと思います。
- 「『欠史八代実在説は坂本太郎や田中卓など、在野では安本美典、古田武彦、宝賀寿男らが主張。葛城王朝説は鳥越憲三郎が主張。』という注釈部分を何故除去なさるのでしょうか? 失礼ですが、これらの除去はあなたの恣意的な除去になるかと思われます。」について:これは第一に『日本書紀』研究において大抵の場合言及される坂本太郎と「在野」を並列に並べるのが出典の重みづけとして適切でないこと、また欠史八代の天皇の実在性の問題を端的に表現するにあたって「葛城王朝」の存在を想定する説は単に実在説として短文で並べるよりは独立した説明とした方が良いだろうと思います。
- 「誰?」タグについて:このTemplateは出典が明確でないものに付してその明確化を促す用途のものであり、意味が分かりづらいとかよく理解できないという個人的な疑問点への解答を求めて使用するものではないと思います。少なくともこの文章は出典が明確であることからはずしました。加えて、「そのような天皇」は大彦命の父親である孝元天皇以外に解釈の余地が無いように思います。主語がわかりづらいというのはその通りだとは思いますけれども。なお、問答無用で外されたといいますが、この種のTemplateは最終的には問題が解決されて削除されることが期待されているのであり、問題がなければ消すべきものです。
- 木下礼仁氏について:木下礼仁が何を専門としているかはCiniiなりで検索していただければ容易に理解できるかと思います。木下 1997掲載の論文で、彼は『日本書紀』における百済史料の抽出や東アジア各国の王統譜の比較などを行っており、それに関連して欠史八代に関わる研究史がまとめられています。これを用いたのはざっと確認した限り手元にあるもので最も詳細だったからですが、説の位置づけについての文章なので一例だけにならないように直木孝次郎 2015という比較的新しめのものも付したのであって、そもそも木下氏だけの観点で書いてはいません。より新しく、また手短な例であれば遠藤慶太「六国史」(中公新書 2016)や、大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』(講談社学術文庫 2017)など、こうした書籍で「欠史八代」という用語が触れられる際に基本的に実在しないという説がベースとして話がされていることを勘案すれば、木下・直木らによる通説・定説という位置づけが実態に即していることは明らかです。実例は数多く並べられますが、文章自体は木下・直木を参考に書いたのでこれを出典として付したまでです。
- 通説・定説の取り扱いについて:基本的にある主題について説明を加える時はまず最も一般的な説に基づいて基本事項を説明すべきです。そして欠史八代という主題については学界において最も受け入れられている説が後世に加えられた系譜であるというものであることは明確です。当然、通説・定説であることはその無謬性を保障するものではないですし、また異論がないことを意味するものでもないですから、それらはそれぞれの学説の重要性に合わせて言及されるべきですが、本記事はただでさえ実在説が不釣り合いに大きく取り扱われており、とりあえずの修正では概要部分でまず一般的な説明を強調した方が良いと考えます。--TEN(会話) 2021年8月18日 (水) 14:06 (UTC)
申し訳ありませんが、私の疑問に対するTENさんの返答は、はぐらかしのように思えるものもあります。
- 私は「現代の」というのを「機械的に除去」などしておらず、素朴な疑問として「現代の」といっても20年、30年後においても「現代の」で適切かどうか不明なものであるため「いつ?」のタグを貼ったのです。歴史的な学説というものは、何十年後かにはまた変化する可能性を秘めておりますので固定的なものであるとは言い切れない性質のものです。初見でそこを読んだ閲覧者は、いきなりそこで「現代の」と言われても、この説明文がいつ執筆されたものか不明であるために、鵜呑みにはできない要素を感じると思います。ガイドラインにも、「知る手段が脚注等の表示のみでは不十分で」と明記されているのですから、具体的に「○○年代現在の」「戦後の」などのように書くべきでしょう。TENさんが、概要部で「時間的範囲が明確であると考えた」としても、まずは記事の要である冒頭部をきちんとするのが本筋かと思います。
- 何故、実在説を唱えている研究者の複数の名前が挙げられている「注釈」部を除去したのですか?という私の質問に対して、TENさんは、「坂本太郎と「在野」を並列に並べるのが出典の重みづけとして適切でない」と返答していらっしゃいますが、重みのことなど関係ないことです。元の文章では「在野では」と但し書きが付いた上で、分けられていたのであり、別に坂本と重要さが並列にはなっていませんでした。また、TENさんのその説明では、田中卓を
恣意的に除去した理由にもなっておりません。 - 「誰?」タグについても、TENさんが「問題がなければ」、問答無用で外していいのではなくて、その文章の言わんとしている意味が分らないと言っている者がいたら、ノートできちんと説明した上で、その者がある程度理解してから外すべきでしょう。そして、こちらとしては、「そのような天皇」=「孝元天皇」だとしたら、「孝元天皇が存在しておらず」となり、孝元天皇の存在自体が実在か非実在かを巡って論じている際に、「孝元天皇が存在しておらず」という、その断定の前提自体が、後述の導きとチグハグで噛み合わず、ますます意味不明であるので、大彦命を派遣した10代崇神天皇のことかな、と思ったりして、一般人に意味がよく把握できないこの説明文全体を問題視し、タグを付けていたわけです。しかしながら、TENさんが問答無用でそのタグを外してしまったので、こちらとしても、あなたの
その独善的な行為に反論せざるを得ないのです。そのように問答無用でタグを外した以上、TENさんはその文章の真の意味を理解していらっしゃるはずですので、まずは上の節において、私の疑問に対してきちんとお答え願います。 - 「定説」ということの出典についても、非実在説を唱えている研究者の出典をいくつも並べて、「定説」であると断定的に定義するのは適切ではないでは? ということを私は言っているのであって、大津徹も非実在説の研究者ですから、TENさんのそのご返答は、あまり私の疑問への回答にはなっていないです。しかしながら、お詳しいTENさんが「定説」だというのは「明確」だとおっしゃるのであれば、それはある意味、ウィキペディア執筆者として責任を持った発言であろうことでしょうから、あなたを信頼することにいたしますが、様々な説があることをイントロダクション中で紹介しているこの論文([3])では、非実在説が一般的に「定説」だとも何も言ってはいないので、「定説」が「明確」なことならば、ここでもそうした説明がちょっとでも書かれてもいいのではないかな、と思いました。このイントロダクション中では、「肯定説にみられがちな無批判的な面、否定説にみられがちな武断的な面」という第三者的な見解もみられるので、非実在説が学界の「定説」ということに少し疑問点もまだあります。実在説を唱えている研究者の論文中で、「非実在説が定説であるが~」みたいな出典があれば、より適切な出典となるかと思います。
- 木下礼仁については、Ciniiを見た上で、この方はおもに朝鮮古代史の研究をしている方ではないのかなと思ったので、ある意味ではTENさんが除去なさった「在野」に属する研究者寄りになるのでは? という疑問があります。かたや実在説の「在野」を除去しながらも、非実在説の「在野」を出典に許容的に使用するというのはダブルスタンダードではないかなと感じました。--みしまるもも(会話) 2021年8月19日 (木) 07:29 (UTC)
- コメント 主に形式的な話になりますが、横からひとまず何点かコメントします。「はぐらかし」とか「独善的」とか「恣意的」とか「きちんとお答え願います」とか、みしまるももさんの発言は、WP:CIVに抵触しているのではないかなと思いました。ご注意ください。坂本太郎と「在野」(古田武彦)を並べる事自体、重み付けに問題があると思います(そもそも古田史学のようなトンデモ学説にふれる必要はなさそうです)。「誰?」タグはそもそもTemplateの趣旨と違う利用の仕方なのだから、外されても仕方ないでしょう。「その文章の言わんとしている意味が分らない」とみしまるももさんが考えたら、それはご自分でノートページに記載して意見を求めるべきことだったように思われます。--伊佐坂安物(会話/履歴) 2021年8月19日 (木) 07:46 (UTC)
- 伊佐坂安物さん、ご意見・ご助言どうもありがとうございます。「独善的」というのは、自分でもちょっと言い過ぎに思うので反省いたします。取り消し線を入れておきます。TENさん、すみませんでした。しかしながら、私の疑問に対するTENさんの返答の中に、はぐらかしのように思えるものが感じられたので、その私自身の受けた感想を言ったことがWP:CIVに抵触するのでしょうか。。。「はぐらかしのように思えるものもあります。」という言葉の中の「はぐらかし」をそのような形で部分的に取り、WP:CIVに抵触しているのではないか、とする見解には、ノートで自由に自分の考えや意見を発言することを制限することになる気がいたします。僭越ながらその点には反論させていただきました。--みしまるもも(会話) 2021年8月19日 (木) 09:06 (UTC)
- 返信 少々長くなりますが個別のテーマごとに回答します。
- 恣意的な削除:この言葉を好んで使われていますが、そもそも版番85083653において田中卓が実在説を唱えていたというのは無出典記述です。削除してはならない理由はなんでしょうか?単純に確認した研究史のまとめにおいて田中氏の見解は特に触れられていなかったことから外しました。さらにいえばそもそも出典というのは削除避けのおまじないではないので、信頼できる出典でも加筆が随時行われる中で変更されていくべきものです。私は他に適切なものがあると考えれば随時出典を入れ替えますし、他の方からそれは重要な出典だと指摘があれば随時復帰させることもそれについて議論することも当然します。個人的に、田中卓氏については下に述べるように「信頼できる出典」であること自体に疑問を持っているのですが、みしまるももさんはこの方の見解をどのような理由で必要なものであるとお考えでしょうか。
- 田中卓:この方についてちょっと気になるのは次の点です。まず、みしまるももさんが付した前之園氏のまとめによれば、田中氏が欠史八代の系譜の信憑性を主張したのは『古代天皇の秘密』という書籍のようなのですが、この書籍 学術書なのでしょうか?さすがに引用されるくらいなので何かしらきちんと書かれているのかもしれないとは思うのですが、中古品の写真を見ると「古代史学界の主流がどんどん左傾していくなかで、博士は敢然と中立の立場を守り続け、優れた論文を次々と発表してきた。しかし自分に都合の悪い説は黙殺するという学界の風潮のために広く認められるにはいたらなかった。」という紹介が付されており、少なくとも一般的な日本史学の枠組みの外側にいた人物であるように見えます。
- 注釈の削除:「重みのことなど関係ないことです。」とのことですが、関係はあるというか本質的な問題です。坂本太郎は『日本書紀』の研究者の中でも津田左右吉などと並んで20世紀を代表する人物の一人であり、彼の意見が「在野では」と括られる人々と、A説の支持者、B説の支持者、というような並べられ方をされているのは全く不適当です。
- 「現代」という表現について:みしまるももさんがWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないを論拠に「『現代』『現在』などの言い方は避けるようになっております。」と述べられたので、この方針は時間的範囲が曖昧にならないことを要求しているのであり「現代」という表現を排除するものではない、と述べたのみです。「その上で個々の記述についていつの事象について記述しているのか知る手段が脚注等の表示のみでは不十分で、特に誤解を与えるおそれのある場合には文中において時期を具体化しましょう。」という文章から「知る手段が脚注等の表示のみでは不十分で」の部分だけ抽出するのは不適当です。ここで求められているのは特に誤解を与えるおそれのある場合には具体化しましょう、という話でしかありません。説明文が「いつ」を見ているかは出典の年代を見れば明白ですし、みしまるももさんの持つ懸念が「20年、30年」というタイムスパンのものであるなら、まさに「すぐ古くなる表現」でもなく問題は何もない者と思います。新しい見解が通説となった頃に出典を変えて誰かが編集することでしょう。
- 「誰?」タグについて:前も述べた通り、また伊佐坂安物さんのコメントにもある通り、これはみしまるももさんの意図するような用途で使用するTemplateではありません。またTemplateの付加に誰とも相談を必要としないのに除去の場合にはノートで添付者の理解を得なければならないというのもおかしな話です。このタグは出典の明確化を要求するものであり、そして付加された文章には出典がきちんとつけられているのであって、削除することに問題があるとは思いません。
- 「定説」ということの出典:まず誤解があるようですが、木下氏は少なくとも同書において別に独自の「非実在説」を唱えているわけではないです。東アジア各国(日本も含む)の王統譜の形成について、特に日本と新羅の事例からその特徴を述べるにあたってまず研究史を簡単に振り返り、その中で過去の一連の議論において「わが国の王統系譜の中には、ずっと後になって附加造作されたとみられる天皇名が相当数存在する。そのようなものの第一に綏靖から開化にいたる、いわゆる闕史八代の天皇が挙げられるであろう。この八王代の附加造作の時期に関する論攷はすでに多く、諸家の意見も大綱において一致してきているので、論証過程の詳細はここでは省いておきたい。」とまとめられているのです。直木についても自説を述べるにあたってまず現状を簡単に確認しているにすぎません。そしてこれらが事実であることは、例えば大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』で「おそらく六世紀前半の段階の「帝紀」にはこの八代は存在せず(したがって実在しない)、(中略)加上された天皇だと考えられている」というように、非常にシンプルに実在しない説を前提に概要の説明を行っているということから確認できます。これは前にあげた他の書籍でもそうですし、実例はいくらでも出せます。通説・定説であるというのはそういうことであって、非実在を主張している学者たちが「私たちの説が定説なのだ」と触れ回っているわけではありません。
- 木下礼仁氏について:Ciniiをご覧になったなら、木下氏が『日本書紀』を主たる研究対象としていることも把握できるかと思います。氏が「朝鮮学報」等に記事を掲載しているように古代朝鮮史の研究者でもあります。故に、非常に密接に関わる分野の研究者がどのように研究史を理解しているかについてとても良い例だと思います。そもそもにおいて「在野の」というのは通常の歴史学の学界の場において学説の批評が行われていないような自称研究者を意味すると思いますが、「ある意味ではTENさんが除去なさった『在野』に属する研究者寄りになるのでは?」の「ある意味」というのは具体的にどういう意味でしょうか?
- 研究史的な文脈について:みしまるももさんの見解において不思議に感じるのは「現代の」という表現に「いつ」のことなのか、と強く懸念されているのに、田中氏のような1970年代のものをそれと明示せず並べて配置することに違和感を持たれていないように見えることです。1950年代から70年代に活発に議論され、そして1990年代や2010年代の研究状況のまとめでは、実在しない説が通説的な地位にあることが述べられています。そして、実際に概説書ではまず実在しないことを前提として日本史を説明しているわけです。1960年代・70年代の人物を「肯定する研究者」もいるというような表現にまとめるのはまさに時間経過を曖昧する記述法です。坂本 1970の記述ですら既に「そこで史家はこの時代を欠史時代と称し、この八代は実在の天皇ではなく、あとから造作せられたものと推測する人が多い」とまず概観しています(蛇足ですが、坂本氏はいわゆる津田史学等の隆盛の中にあって、『日本書紀』自体がテキストとして十分に分析されていないのに、『日本書紀』のこの部分は史実、この部分は架空、といった議論が先行するべきではない、と警鐘を鳴らしていました。そして欠史八代についても同様の文脈で語られています。坂本氏が「欠史八代の実在を主張した」というのは少なくとも坂本 1970を見る限り語弊があり、あくまでまず「古伝として尊重するべき」という論旨で書かれています。)--TEN(会話) 2021年8月19日 (木) 16:00 (UTC)、(訂正)--TEN(会話) 2021年8月19日 (木) 16:17 (UTC)
先のコメントでTENさんに対して失礼に当たる言葉があったことを改めて謝罪いたします。
- 田中卓が実在説者であるのは、少し調べれば容易に判明すると思いますので(私でも検索しすぐ判明しました)、同じく「無出典記述」であった坂本太郎だけを残し、田中卓の名前を除去したTENさんの編集には、やはり違和感を覚えます。TENさんご自身が田中卓を「一般的な日本史学の枠組みの外側にいた人物」と思ったとしても、その「一般的な」「枠組み」という限定的な考え方で、一応は歴史学者である人物の名前を挙げることすら排除するお考えには賛同しかねるのです。我々は単なる一ウィキペディア執筆者・編集者であるので、自分の個人的な考えを優先し特定の出典を短絡的に排除することはできるだけ避けるべきではないでしょうか。第三者的に実在説者として紹介されているような人物であれば、それを出典に実在説の一人として名前を挙げることぐらいは特に問題のないことでしょう。名前を挙げることすら認めないというお考えのようにみえたTENさんのご認識には、やはりとても違和感を覚えたのです。
- 私が「いつ?」タグを定義文中に付けたことに関連し、田中卓の主張が1970年代のものだから古いのに、なぜ問題視しないのかということについては、田中は2018年まで存命していた人物で主張を変えていたわけではないようですので、それを古い主張だとするTENさんのお考えにも違和感を覚えます。「定説」「通説」の変遷は時間経過と共に動いていく性質のものですが、それぞれの個々の研究者の主張自体は、時の経過があったりその人物の没したりした後にも、一つの研究主張として長く位置づけられるものではないですか? 現に今の非実在説の源は津田左右吉であり、その主張自体は時間経過には関係なく今も生きているかと思います。これは「定義」に対する「いつ?」タグとは別次元のことです。
- 「定説」については、TENさんの詳しいご説明から判断すると、戦後に非実在論者が多数派となり、それが主流になったことは一般的事実だと納得いたしますが、それを「定説」だとするより「通説」という言葉のチョイスの方がより適切なのではないでしょうか。TENさんご説明中でも、非実在説などの研究者自らが「定説」という文言を使っているわけでもないようですので、それらが主流だという解説には、「通説となっている」のようにするのが日本語としても正しく、一ウィキペディア執筆者が「定説」という文言で解説するのは何か大きな責任が持てない気がするのです。「定説」というのは普通、証明が可能なものに対して使う言葉であり、こうした究極的には証明困難な類いのものに対して「定説」という言葉の使用は日本語的には適切ではないのです。なので、もしも出典中に「定説」という言葉が使用されているのであれば、「○○によれば」のような一言を前に補記するなどの処理をするのが、真の意味で正確な事典作りになる、と先に申したわけですが、出典中にはそのような文言を使っているわけではないようですので、定説的な意味合いを一言の単語で説明する場合、「通説」にするのが適切かと思料いたします。
- ちなみに、私の手元にあるベン=アミー・シロニーの『母なる天皇』(2003年)には、綏靖天皇を実在の天皇として語っており、ベン=アミー・シロニーは「記紀は、かつての天皇たちを称え美化するために書かれたものだとする通説は成り立たない。記紀の編纂者たちは、自分らが描写する行為に批判を加えているのである。」(p.117)という見解を示しており、その中でも「通説」という言葉を使っていました。
- 木下礼仁に関する私の発言の「ある意味ではTENさんが除去なさった「在野」に属する研究者寄りになるのでは?」という中の「ある意味では」は、古代日本史が専門の歴史学者ではない、という意味合いです。この方は朝鮮古代史が専門で、その研究過程で日本書紀を分析しているように思えたからです。
--みしまるもも(会話) 2021年8月20日 (金) 03:33 (UTC)
- 返信 最初に確認したいのですが、本題である記事自体の編集について、一応は歴史学者であるかどうか、という観点であるならばまずもって「在野」の方の出典の削除については問題無しということでよろしいでしょうか。議論が始まったので止めていますが個人的に本記事はまだ加筆修正をかけたいと考えており、まず以前Ahirudaisukiさんの編集で削除された出典については改めて削除したいと思っています。
- 出典の取り扱いについて:「我々は単なる一ウィキペディア執筆者・編集者であるので、自分の個人的な考えを優先し特定の出典を短絡的に排除することはできるだけ避けるべき」という点についてまず述べますが、大前提としてWikipedia:信頼できる情報源等からもわかる通り、Wikipediaは方針として出典の精査を執筆者に要求しており、執筆者個々人は出典の信頼性や正確さを検証した上で加筆を行うことが望まれます。だから出典の信頼性についてここで問題にしていますし、削除もします。そして同じことの繰り返しになりますが、実在説論者の例として挙げられていた田中氏については、確認した限りの研究史のまとめにおいて彼の名前や学説が特に重要なものとして触れられていないことから削除しました。「自分の個人的な考えを優先し」たのではなく、複数の確認した出典に書かれた研究史に沿って修正をかけているつもりです。みしまるももさんは実在説の代表例として田中氏を注釈に挙げるべきと述べられる際に「検索しすぐ判明した」論文に乗っていると言っているのみで、田中氏が具体的にどのように実在説を論証しているのかも、田中氏の説が他の学者からどのように評価されているのかも全く確認していないように見受けられるのですが、検索で見つけましたという情報だけで「短絡的に排除」しているとされるのは甚だ心外です。みしまるももさんが検索で見つけてきた出典も1983年のものですし、この中では最近の例として挙げられているだけで研究の位置づけ、内容について何も語られていません。直木孝次郎『日本古代の氏族と国家』(吉川弘文館 1990)では坂本太郎はじめ実在説の研究者の見解も一通り簡単にまとめられていますが、この中でも田中氏は全く触れられていません。そしてその論説を出版した時点において田中氏は広く認められるに至っていないと(著書の推薦者によって)紹介されており、これらから判断して実在説を論じた研究者の代表例として置くべきとは思えません。
- 「いつ」:時間的曖昧さの問題は、現時点で非実在と見る説が支配的である状況で、1960年代や70年代に実在を論じた論攷を出したことを持って「八代全部の実在を肯定する研究者や、八代の全てが創作ではないとみる「一部肯定説」的な研究者も複数いる」とまるで現時点のことであるように読めてしまう文章になっていることです。これは「時の経過があったりその人物の没したりした後にも、一つの研究主張として長く位置づけられるもの」としての説明にはなっていませんし、津田左右吉の見解は今も生きているものもあればその後改められたものもあるでしょうが、津田左右吉や坂本太郎の業績が時間経過に関係なく重要なものとして今も振り返られていることは最新の研究史のまとめによって確認できるのです。翻って田中氏の研究業績は研究史上どのような位置づけになるのでしょうか?この点を明確にせずただ研究者の名前を並べるのは適切な表現ではありません。なお、これも蛇足ですが非実在説の源が津田左右吉というのは断定可能なものかどうかわからないです。一連の津田の研究への言及を見ると、彼が指摘したのは仲哀天皇以前の天皇の名前が実名ではなく後世に造作されたものであるという点で、欠史八代の非実在を具体的に論証しているわけではないらしいですし、直木孝次郎のまとめでは(明言できないとはありますが)肥後和夫 1935などが最も古い例の一つとして挙げられています。
- 「定説」「通説」について:普通「定説」という言葉は広く正しいと認められている説を指す言葉ですが「証明可能なものに使う言葉だ」というのはどういう根拠があるのでしょうか。ベン=アミー・シロニーの『母なる天皇』という書籍は訳書であるようなので「通説」という単語は訳者の選択でしょうが、この本の表現を基準にする理由もないと思います。もう一つ、「定説」という用語について「何か大きな責任」というよくわからないものに配慮する必要もないと思います。また、直木幸次郎のまとめでは「定説であろう」とされており、研究者自らが「定説」という文言を使ってもいます。上で引用した部分がその箇所ではないというだけに過ぎません。そもそもこれは文章表現の話に過ぎず、別に「定説」でもいいですし「通説」という表現でも良いでしょう。これらの単語で説明する必然性もなく、例えば吉村武彦編『新版 古代史の基礎知識』(角川選書 2020)の表現を参考に「(欠史八代の天皇が)実在した可能性はほとんどない」としてもいいと思います。大事なのは信頼できる出典に基づき、学界動向と乖離していない一般的な説明を行うことであり、細かい文章表現や単語の選択ではないと思います。--TEN(会話) 2021年8月20日 (金) 16:36 (UTC)
- 忘れていたのでちょっと追記します。
- 「在野」について:「『ある意味では』は、古代日本史が専門の歴史学者ではない、という意味合いです。」こういう意味で隣接分野の研究者が「在野」と表現されることは普通ありません。例えば古代ギリシア史の研究者が古代ローマ史において在野などという扱いは受けませんし、古代日本史と古代朝鮮史でも同様でしょう。まして木下氏は『日本書紀』や東アジアの王統譜についても比較検討を行っている研究者です。みしまるももさんのおっしゃる「ある意味」は上記の意味合いであるなら適切ではないです。--TEN(会話) 2021年8月20日 (金) 17:03 (UTC)
- んー、TENさんの論調自体、正直私にはとても違和感がありますね。こうした説の分かれている事案については、主流派が優勢として構成されていくのはそれはそうでしょうが、非実在説が主流の学説だから、それ以外はバカな論だみたいな感じで、一応は歴史学者である人物を切り捨てで名前すら挙げてはいけないというのは、ちょっと私には理解できない論調でございます。
- もちろん記事はきちんとした専門家の出典で構成されることは前提ではあり、この分野にお詳しいTENさんが主権を担うのは当然のことかと思われますが、先も申したように、「〈論説〉「欠史八代」について (上)」という、様々な説があることをイントロダクションで紹介しているこの論文([4])でも、実在説派として田中卓の名が挙がっているので、私としては「注釈」内で実在説派の一人として名前くらいあってもいいのでは? と思うのですが、結局は学界で認められていない少数派にすぎないからこの記事内の「注釈」で名前すら挙げるも禁止みたいな方向あるのみ、みたいなTENさんの論調が、とても怖いです。
- 私にはTENさんのいう「当該分野の非専門家のもの」の「専門家」の基準が、何かちょっとTENさんの認めない研究者はすなわち「信頼できない情報源」となり、それ以外は絶対に許さないみたいな感じが、ちょっと強権的というか威圧がすごくて、これではTENさんに異論を挟むことは、誰も怖くてできないんじゃないでしょうか。あなたの会話ページでもいろいろと申しましたが、もう少し許容していただきたいなと思います。--みしまるもも(会話) 2021年8月21日 (土) 07:08 (UTC)
- 返信 記事の編集において主権を担う、というのがよくわかりません。私の編集について「欠史八代において、「現代の~」というところに、私が付けた「いつ」のタグをどうして外すのでしょうか。Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないでは、そのような「現代」「現在」などの言い方は避けるようになっております。また、「欠史八代実在説は坂本太郎や田中卓など、在野では安本美典、古田武彦、宝賀寿男らが主張。葛城王朝説は鳥越憲三郎が主張。」という注釈部分を何故除去なさるのでしょうか?」と質問を投げたのはみしまるももさんであり、本議論はそれへの回答とみしまるももさんの反応でしかなく、だれが記事を編集するべきかというような議論ではないと理解しています。
- 件の注釈について言えば、そもそもそれが付された文章構成からしてあまり適切でないと考えているので、議論が終わったら編集したいところです。「非実在説が主流の学説だから、それ以外はバカな論」などという話は一切しておらず、書いていないことについて「私には理解できません」とおっしゃられても、私も何も説明できません。実在説をバカな論だとも思いません。ただ、最新の出典からは現在では非実在説が支配的であると判断できるというだけです。坂本は実在を論じた人物ですが、様々な研究者によって『記紀』の研究における彼の重要性が言及されており、欠史八代の研究過程を書くなら当然言及すべきものでしょう。単に現在確認できる出典から判断してまず非実在説を主軸として説明し、過去の議論において触れるべき見解は研究史に沿って触れるべきと考えるだけです。
- 「TENさんの認めない研究者はすなわち『信頼できない情報源』」などという話もしておらず、はっきり申し上げていいがかりですし、それを「怖い」と言われても対処のしようもありません。Wikipedia:信頼できる情報源をご確認ください。そして、現時点までであなたが削除してはならない理由として挙げている田中氏の情報は、検索で見つけてきたという出典にある「最近では田中卓氏が、稲荷山古墳出土の鉄剣銘を論拠にして、『記紀』の八代の系譜の信頼性を強調されている。」で全てです。この文章中における「最近」とは1979-1983年頃です。これを「現代」から始まる文章の注釈に田中氏を挙げる論拠とするのは本文との整合性がありません。この注釈の付し方は出典から考えて良くないと考えているのであり、私が認める認めないなどという意味のない話はしていませんし、これを指摘することに「強権的」といわれる理由がわかりません。付け加えますが、田中氏はいわゆる鳥越憲三郎などの王朝交代説への批判者としては研究者に引用されている例がありますので、そういう文脈でなら体裁を整えることは可能な気はします(それでも、入手の困難さも含めて検証可能性を重視すれば、敢えて当時ですら広く認められていなかったとされる田中氏の論説を選ぶ必要性は私個人は感じませんけれども)。繰り返し言っているのは、研究史上の重要性を無視して坂本太郎、田中卓、在野では~という並べ方をするのは正しくないという話です。--TEN(会話) 2021年8月21日 (土) 12:27 (UTC)--TEN(会話) 2021年8月21日 (土) 15:54 (UTC)
- 田中卓の著書の紹介文に「古代史学界の主流がどんどん左傾していくなかで、博士は敢然と中立の立場を守り続け、優れた論文を次々と発表してきた。しかし自分に都合の悪い説は黙殺するという学界の風潮のために広く認められるにはいたらなかった。」という文言があることで、TENさんは田中が「少なくとも一般的な日本史学の枠組みの外側にいた人物」と認識されています。三島由紀夫研究を兼ねて昭和の時代を調べて学んだことですが、戦後はいわゆる天皇制反対の共産党系や左翼系学者がいろいろな学説を唱え、それら進歩的知識人といった左傾学者の井上光貞、直木孝次郎などが優勢になっていった時代です。そうした中で、田中卓という人物は保守系であるために、学界から黙殺されていたということでしょう。この戦後からの左右の対立の歴史的背景を見ないで、短絡的に「当時ですら広く認められていなかった」という理由付けで、ウィキペディアのこの記事中で実在説派として名前すら出してはいけないとするTENさんは、そうした左傾の学界に視点が偏りすぎており、Wikipedia:中立的な観点における「ウィキペディアの記事の論調は公平であるべきで、特定の観点を支持したり排除したりしてはいけません。」に違反していると思われます。何も田中卓の主張を書けとは言っていないのですから、「注釈」内の実在説派の中に名前がちょっとあるくらいのことを、何故そんなに禁止するのでしょうか。
- あと、TENさんは直木孝次郎などの研究者から、田中卓が触れられていないと言っておられましたが、神武天皇も非実在だと主張する直木孝次郎の『日本神話と古代国家』(1990年)の中では、「神武の実在性をみとめようとする学者」として、「反動的ジャーナリズムの力をかりて、このような説がさかんに宣伝されている」と田中卓のことを批判しておりました。
- ちなみに、この直木孝次郎の著書中では「現在の学界の大勢はこれらの八代の天皇の実在を認めず、従って八代の都は天皇の陵とともに、その存在を否定する。しかし学界の一部には、この八代の天皇に関する『記・紀』の記述を忠実とする意見も根強く存している。」と書かれてありました。なお、稲荷山古墳出土鉄剣の件で、実在説派として、滝川政次郎の名が挙がっておりました。--みしまるもも(会話) 2021年8月22日 (日) 06:55 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2021年8月22日 (日) 07:26 (UTC)
- 返信 何と言いますか、学界が「左」で田中卓が「右」だから名前を並べれば思想的に中立になるというのであればもはや全然別の話ですし、そういう意図で名前を入れたいという類の主張をされているのであれば出典以前の問題だと思います。この記事は「欠史八代」の記事なのであって、記事で説明されなければならないのは、欠史八代とはそもそも何か、学界でどのように論じられているのか、過去どのように議論されたのか、実在と非実在を巡る論拠はどのようなもので相互にどう関係しているのか、ということです。「何も田中卓の主張を書けとは言っていないのですから」といいますが、より重要なのは主張の方であって、それが研究史上どういう位置づけにあるかを勘案するべきという話をしており、各研究者が右か左かという無意味なラベリングではありません。当時彼が学界に広く受け入れられていなかったという情報とより後の時代の研究史における言及状況を見て重要ではないものと判断できると述べています。非実在説が左の意見で実在説が右の意見とかいう話でもないです(あなたが左傾学者だという井上光貞は後に撤回はしているとのことですが、実在説を支持していた学者です)。研究者としての重要性に関係なく学界が思想的に傾いていたからバランスをとるために名前を入れるべきという話をされていたのであれば、それはかみ合うわけもありません。何度も書きますがWikipedia:信頼できる情報源をご確認下さい。中立性がどうのという話もまずWikipedia:中立的な観点を確認下さい。重みづけの話もきちんと掲載されています。直木孝次郎による田中卓への批判については、何でもいいですので新しめの歴史系の書籍で研究史をまとめているものをご覧になっていただきたいです。研究成果への引用や言及というのはみしまるももさんの引用したような文章を指すものではありません。
- あと「しかし学界の一部には、この八代の天皇に関する『記・紀』の記述を忠実とする意見も根強く存している」を強調されている意図がわかりません。実在説には触れるべきですし、それを記述することに反対などしていません。実在説を唱えた学者の代表例として田中卓や「在野」の人を挙げることと実在説に言及することは同一の話ではないことをご理解ください。--TEN(会話) 2021年8月22日 (日) 17:48 (UTC)
- 私は「学界が「左」で田中卓が「右」だから名前を並べれば思想的に中立になる」などという主旨で言ってはおりませんよ。いいかげん、そういう印象操作的な論調はおやめになったらどうですか。あなたの論調はそういうふうにいつもはぐらかすような具合で、全く誠実性や論理性すらありません。私は戦後の学界の内部にあったそうしたものが、実在説を黙殺していた背景があるため、田中卓を短絡的に「当時ですら広く認められていなかった」とするTENさんのそのお考えが独自研究的であり、田中卓を実在説派の一人として挙げているきちんとした第三者的言及([5])があるにもかかわらずに、田中卓を実在説の一人として名前を挙げることすら拒絶するTENさん自体が、中立的観点に違反していると言っているのです。基本中の基本のガイドラインをざっくり言えば、第三者的言及([6])において、非実在説派・実在説派の研究者を紹介している出典があれば、ウィキペディア執筆者はそれに沿って名前を書くことは何ら問題ないのです。--みしまるもも(会話) 2021年8月23日 (月) 00:51 (UTC)
- 左右の対立の歴史的背景を見るべきで、かつ私が「左傾の学界に視点が偏りすぎており、Wikipedia:中立的な観点における『ウィキペディアの記事の論調は公平であるべきで、特定の観点を支持したり排除したりしてはいけません。』」というのが田中卓の名前を消してはいけない理屈であるなら、みしまるももさんが彼の名前を入れるべきと考える理由が上記のようなもの以外であるとは理解できないです。違うということですが、ではそもそも田中卓をそこに並べる理由はどのようなものなのでしょうか。彼の研究にどのような重要性があり、彼の名前を入れることで「欠史八代」という記事主題の説明にどのような意味があるのでしょうか。元の注釈の付き方では「実在説派の中に名前がちょっとあるくらいのこと」ではなくて、実在説を主張した学者の代表例としか見えません。
- 「戦後の学界の内部にあったそうしたものが、実在説を黙殺していた背景」などというものはみしまるももさんの思い込みであり、そんな背景など存在しません。もう何度も繰り返していますが、欠史八代の実在(具体的には、「帝紀」の史料としての信頼性」とした方が正確かもしれませんが)は、学界で普通に議論されており、支持・批判含めてどのような論証や批判が行われていたのかもある程度確認できます。あなたのいう第三者言及が1983年のものであることも何度も指摘しました。原理的にそこに掲載されている論説はそれより過去の物しか存在しません。なぜそんな古い情報のしかもほぼ一文しか無い言及を重視するのか理解しがたいものがあります。そして、より後の時代において大勢がどうなっているか、また研究史でどのように振り返られているか、という出典も示しました。そしてそれらは何について議論され、どのように批判されていったのかも追うことができます。繰り返しますが、田中卓の名前を入れる入れないと実在説に触れる触れないはイコールではないです。そして「「当時ですら広く認められていなかった」というのは、前之園 1983が引用している田中卓氏の著書自体に書かれていることであり、そしてより後の時代の出典に記載された研究史で彼の研究は大きな場所を与えられていない、というか触れられていないのです。--TEN(会話) 2021年8月23日 (月) 17:14 (UTC)
- 筆者が数年前まで存命していたからといって30年近く前の記載を現代と表現するのは如何なものかと思います。Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないもそうですし、Wikipediaの記事の概要部は専門外の人が読んだだけで容易に理解できる記載にすべきだと思いますので、「現代」のような人によって解釈に幅が出る表現は避けるべきですし、他の記事でもよくありますが、「現在○○である」と書かれると2021年8月現在なのがその内容が加筆された当時なのかの判別が出来ないため、「2021年8月現在○○である」と書くべきだと思いますので、やはりここは1993年の論述に対して現代と表現するのは避けるべきでしょう。--S.S.E.H.(Talk/Contribs 2021年8月26日 (木) 10:43 (UTC)
- 現代云々に限った話で言えば、TENさんが上で「遠藤慶太「六国史」(中公新書 2016)や、大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』(講談社学術文庫 2017)」においても非実在説となっているとおっしゃっているので、30年前に限った話ではないと思いますし、実態としては「現代」の歴史学で定説という書き方で差し支えないとは思います。他方で、ガイドライン等が時期を特定するようにともしていますし、わかりやすさのために「20世紀末頃以降の歴史学」等と書くのが良いかもしれません。--伊佐坂安物(会話/履歴) 2021年8月26日 (木) 15:40 (UTC)少し修正--伊佐坂安物(会話/履歴) 2021年8月26日 (木) 15:55 (UTC)
- 返信 S.S.E.H.さん宛。30年近く前の記載という点は差分:Wikipedia:コメント依頼/TENでまとめたばかりのものがありますのでS.S.E.H.さんにはそちらを参照いただきたいです。
- 返信 拝見しました。仰ることはわかるのですが、やはり現代という表現は曖昧ですので、伊佐坂安物さんご提案の「20世紀末頃以降の歴史学」等と書く案がWikipediaとしてはより妥当かつ、読者に対して親切だと思います。--S.S.E.H.(Talk/Contribs 2021年8月27日 (金) 13:16 (UTC)
- 返信 一応、概要節の文章が「20世紀末頃までに~」という形式には今のところなっているのですが、ただ実のところこれも微妙だと思っています。というのも、この書き方は1993年の出典でそうなっていることが確認できるから、という理由なのですが同書の記述から判断する限り、欠史八代の非実在が学界の基本的な見解になった時期って明らかにこれより早いはずなので、ちょっとたまたま確認した出典の年次に依存した書き方になってしまっています。大きめの修正を考えているので、その後で改めて問題を確認できればと思います。--TEN(会話) 2021年8月28日 (土) 15:35 (UTC)
- 返信 拝見しました。仰ることはわかるのですが、やはり現代という表現は曖昧ですので、伊佐坂安物さんご提案の「20世紀末頃以降の歴史学」等と書く案がWikipediaとしてはより妥当かつ、読者に対して親切だと思います。--S.S.E.H.(Talk/Contribs 2021年8月27日 (金) 13:16 (UTC)
- 返信 伊佐坂安物さん宛。講座論文や事典類だと図書館で探してこないとならないので中々難しいですね・・・『岩波日本史事典』には欠史八代は項目がありませんし。単に「定説だろう」と書いてあるものとしては前掲の直木(2015)があり、概要節に「...8代が後世に造作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説として受け入れられている」という文章を付けて木下 1993と直木 2015を付したのはまさに伊佐坂安物さんのおっしゃるような意図でのものでした。年代が新しいもの、という意味では生田氏の学位請求論文(2017)に「いわゆる欠史八代系譜については、その史実性を否定し、成立を七世紀後半以降に求める研究が支配的といえる。」がありますけれども。
- コメント これも長くなりますが、Wikipedia:コメント依頼/TENでのみしまるももさんのコメントを受けて。実際のところ20世紀的な意味での欠史八代の実在・非実在の論争は基本的に既に終わっていてて、今更定説であるというような指摘はわざわざ行われないことが多いように感じます。20世紀後半には、欠史八代の天皇が実在しないとして、いつ頃、誰が造作したのか、というような議論が行われてそれが7世紀後半である、というところまで話が進んでいます(木下 1993は厳密にはこれについての文章ではあります)。21世紀だとさらに、なぜ欠史八代の系譜は『日本書紀』『古事記』に見られる形にまとめられたのか、「欠史」という表現が適切なのか、という感じの議論があり、直近(2010年代)では個々の天皇(大王)の名前だけが伝承された時期が存在し、系譜の方が後から作られたのだ、というような見解もあります(遠藤慶太「古事記と帝紀」『日本書紀の誕生』(2018))。若干私の「解釈」が入りますが、この場合、『記紀』に書かれている通りの系図で欠史八代が実在した可能性はほぼ無いけれども、各個人としての天皇が存在した可能性は明確に否定できないし、伝承自体は系譜の造作よりも昔から受け継がれていた可能性はかなり高い、というような話になるのではないかと思います。遠藤氏はこういう見解もあるので『六国史』の表現は欠史八代について「つまり実在が疑問視された八代という意味である」(p. 22)という表現になっています。
- 何が言いたいかというと、Templateの追加を見てとりあえず修正をかけたので大枠を変えませんでしたが、1950年代から1970年代の議論を念頭に、実在説・非実在説がありどっちが定説だとか有力だという現状の欠史八代の文章自体が既に相当古めかしいものだと思います。そして20世紀の「実在説派が今はほとんど無視されている」のではなく、消化吸収されて話は次の段階に進んでいるのだと思いますし、研究史では今でも言及されます。だから「過去に挙げられた先学の中の一例」どころではなく不可欠な研究史の一部として実在説の記述は必要ですしそれの掲載に反対したことはありません。
- 最後に、文章を削除するにあたって「その記述に対する反証なりを、「出典付き」で新たに補記する」というのは、あまり重要でない研究者や、疑似科学の類に寄る程、困難なものになるので私としてはそういう方針には全く賛成できません。重要ではないものほど、わざわざ反論もなされないからです。逆に言えば今日正しいとは考えられていなくても重要な研究は最新の研究史でも頻繁に言及されます。『記紀』に関わる研究では坂本太郎や津田左右吉はその代表格なのです。『誰がどういう意図を持って「適切な選別」するかは分からない』からこそ、信頼できる出典に研究史の記載があれば、過去の議論についてはそれを骨格として言及すべきですし、理由なく出典から名前を拾い集めてたり、重要性を考慮せずに名前を併記すべきでもないと思います。TEN(会話) 2021年8月26日 (木) 16:59 (UTC)
- 返信 S.S.E.H.さん宛。30年近く前の記載という点は差分:Wikipedia:コメント依頼/TENでまとめたばかりのものがありますのでS.S.E.H.さんにはそちらを参照いただきたいです。
田中卓の名前の除去の問題
[編集]上の節がだいぶ長くなったため、節を改めます。
- まず大事な一点ですが、引用する時は正確に引用してください。田中卓の著書の紹介文には、「自分に都合の悪い説は黙殺するという学界の風潮のために広く認められるにはいたらなかった」と書かれているのであり、「当時ですら広く認められていなかった」というのは、それを改変したTENさんのご自身の言葉です。そういう微妙な改変でも意味がかなり変ってくるので一種の印象操作的な論調となります。そういうおかしなやり方をせずに、正々堂々と議論していきましょう。
- まず、私は何も田中卓に特別な思い入れなど全くなく、肩入れしているのではありません。単純な話です。第三者的言及の出典に、実在説派の一人として名前が明記されているのであれば、それを書くことはウィキペディアのルール上、何ら問題のないことだからです。そして、逆にその中の田中卓だけを排除する理由もなく、そのようなウィキペディア編集者独自の裁量によって、特定の名を除去することは越権行為となるからです。
- そもそもTENさんが何故田中卓の名前を消すのかの理由は、ウィキペディア執筆者がやってはいけない独自裁量的なものです。あなたが見た最近の本の中に田中卓が触れられていないから、という理由付けは、あなたの基準の中での理由であって、そのような基準付け自体がTENさん自身の選別基準であり、いろいろと理屈をこねくり回した独自研究なのです。第三者的言及が1983年のものであっても、出典にはならないということもないです。特にそれ以降に主張が変化したわけではないので、TENさんのおっしゃる除去理由は成立いたしません。田中がその後に非実在説派に転じたということであれば、除去する正当な理由となりますが。
- なお、1983年以降の田中卓に対する言及としては、1990年に直木孝次郎が自著『日本神話と古代国家』(1990年)の中で、田中卓の論文を掲載した時事通信社刊の『週刊時事』が奈良県の教育委員会や各種会社の協力により、多くの学校で無料配布されていることを伝えています。直木は「他の地域でも、この雑誌に関しては事情は同様であろう。このような状況に対応するためには、…」と、その状況を苦々しく語っていますし、「反動的ジャーナリズムの力をかりて、このような説がさかんに宣伝されているのが実情である」と述べています。なので、一応は直木からは存在を認知されており、その苦々しさやライバル心はそうは変化するものではなかったと思います。
- 田中卓の著書の紹介文には、「自分に都合の悪い説は黙殺するという学界の風潮のために広く認められるにはいたらなかった」と書かれておりますが、その紹介文は、その人が崇拝する先生を賛辞しており、先生は逆境の中でもこんなに孤軍奮闘していた、という一種の浪花節調で、やや誇張的なニュアンスとなっています。実際は多くの保守系の人や、直木がいうところの「反動的ジャーナリズムの力」により、結構広まっていたのが「実情である」ということが出典から分かりました。とりあえず本日はここまでにしておきます。--みしまるもも(会話) 2021年8月24日 (火) 08:27 (UTC) 節の順番の整理--みしまるもも(会話) 2021年8月24日 (火) 08:30 (UTC)
- そもそも「当時ですら広く認められていなかった」という文章は私が写真を見て書いたコメントをあなたが引用して引用符をつけたものであって私が引用したものではないのですが一体何を言っているのでしょうか。「TENさんのご自身の言葉」なのは当たり前です。正確な引用は差分:85117239で既にきちんと示しており何を見てこう書いたかということはわかるように述べています。印象操作などと言われる覚えはありませんし、支離滅裂で何を言っているのか理解できません。引用文は正確に、という件はみしまるももさんが「その上で個々の記述についていつの事象について記述しているのか知る手段が脚注等の表示のみでは不十分で、特に誤解を与えるおそれのある場合には文中において時期を具体化しましょう」というガイドラインの文書を読点で分割して「『知る手段が脚注等の表示のみでは不十分で』と明記されているのですから、具体的に「○○年代現在の」「戦後の」などのように書くべきでしょう。」という書き方をしているのを見ていますので、是非あなたのおっしゃるようにしていただきたいです。
- 越権行為なる論法もわけがわかりません。公的機関か何かであるまいし、記事主題を読者に伝える上で何が必要で何が必要でないか、どうすれば適切な情報を示せるかを考慮した上で記載事項を検討するべきなのであって、出典があったらその文章はもう削除できないとしか考えられないような方針の解釈はできません。この記事は「田中卓」の記事ではなく「欠史八代」の記事なのです。
- その後の文章については前も書きましたが、研究史というものの実例をどんな分野でもいいので新しめの書籍なり論文なりでご確認下さい。--TEN(会話) 2021年8月24日 (火) 18:22 (UTC)(修正)--TEN(会話) 2021年8月24日 (火) 19:05 (UTC)
- 引用については、私は、TENさんの昨日のこのご発言「https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3&diff=85184824&oldid=85173640 そして「「当時ですら広く認められていなかった」というのは、前之園 1983が引用している田中卓氏の著書自体に書かれていることであり、」のことを言っているのです。こういう書き方の場合、正確に田中卓の著書の紹介文に書かれてある通りに引かないといけないということを申し上げたのです。原文を元にしたTENさんのご発言「当時ですら広く認められていなかった」に私が以前「」を付けてあなたの発言として区別をしていたからといって、昨日TENさんがご自身の発言を、この文脈の流れであたかも田中卓の著書の紹介文をそのまま引用しているかのようにしていいことにはならないのです。あのような文脈では、きちんと正確な引用をしなければ改変に当たります。また「前之園 1983が引用している」というような書き方も誤読を誘うような書き方であり、前之園は『古代天皇の秘密』という田中卓の著書名を挙げて概略してはおりますが、田中の著書自体に書かれている紹介文を「引用」しておりません。細かいことですが、そのような誤読や誤解を誘うような文脈には気をつけてください。それはこの記事本体「欠史八代」でも注意すべき点です。
- 研究史というものの実例は文学分野で新しめの論文や書籍を読んでおりますが、新しい論文も古い論文も公平に扱われますし、あなたのように年次が古いからというだけで、ばっさりと否定するようなことはないです。新しいから正しいとは限らず、新しいゆえに後から取って付けたような解説や研究史になる場合もありますから。
- 年次については、1983年と明記した上で、以下のように書き直しましたが、結局はこちらが歩み寄っても、TENさんは、今度は出典自体を全否定しシャットアウトなさっております。(下部の節にて)
--みしまるもも(会話) 2021年8月25日 (水) 01:48 (UTC)
- もうどうでもいいことかもしれませんが、『古代天皇の秘密』という田中卓の著書にある紹介文「自分に都合の悪い説は黙殺するという学界の風潮のために広く認められるにはいたらなかった」は、紹介文であり、この著書自体が認められなかったということを示しているわけではないです。この紹介文だけでもって、「当時ですら広く認められていなかった」という判断は粗いものです。またその著書より前の論文に関しても、上で申したように、1990年に直木孝次郎が自著『日本神話と古代国家』(1990年)の中で、田中卓の論文を掲載した時事通信社刊の『週刊時事』(1966年12月3日号)が、(1990年当時の)奈良県の教育委員会や各種会社の協力により、多くの学校で無料配布されていることが伝えられており、「他の地域でも、この雑誌に関しては事情は同様であろう」、「反動的ジャーナリズムの力をかりて、このような説がさかんに宣伝されているのが実情である」と述べていました。当時は結構一般国民には支持されていたようです。一応、最後にコメントを置いておきます。--みしまるもも(会話) 2021年8月27日 (金) 07:20 (UTC)
- 返信 田中卓に関してはどうでも良いこと、とは思わないのでコメントします。直木氏が田中氏について言及している内容は要するに当時に既に神武天皇の非実在が学界内で「常識」となっていた中で、学術的な議論ではなく教育機関やマスコミへの働きかけを通じて神武天皇の実在説を普及させようとしたということへの批判であって、これは田中氏の研究業績への言及とは言えません。学界ではまともに取り合われない学説の熱心な支持者が教育機関等への働きかけを通じて普及を図る、という構図は割とよく見られることだと思いますが、こうした行動を通じて「存在を認知」されていたとしても学術的な意味は基本的にありません。著書の紹介文のみをもって認められなかったとするのが出典の確認としてはかなり雑なものであるのはその通りと思います。しかし、複数の書籍での先行研究への言及を確認しても田中卓が基本的に触れられていないということを確認しており、また直木による批判の内容も私の方でも確認しています。こうした複数の要因から、欠史八代というテーマの一般的な説明において田中氏に触れる必要性は低く、またむしろ中立性や信頼性の観点からは触れない方が良い、今まで述べてきています。偶然ではありますが、加筆に向けていくつか書籍を確認している間に田中卓への次のような言及を見つけました。「田中卓氏は戦後一貫して国内史料を利用した古代国家論を提唱してきたが(『日本国家の成立』など)、その主張は反論すらされず、無視され続けてきた。」(若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』(2010)p, 7)。結局のところ、これが学界内における田中氏への評価といって差し支えないはずです。そしてこのことは各学者が先行研究にどのように言及しているかをいくつか確認すれば、このように直接書かれたものを見なくても合理的に帰納できることです。
- なお、若井氏はもはや珍しい(と言って良いと思いますが)邪馬台国九州説を取る研究者であり、かつ『記紀』の神武東征や初期の天皇の逸話を史実を反映した記述として、畿内の大和政権と九州の邪馬台国という別個の勢力の戦争の歴史を読み解くというかなり独特の説を展開している人物で、同書で『記紀』神話の史料的有用性を説きつつ田中卓や安本美典のような「無視されてきた」研究者の再評価を訴えてはいます。ですが、そういった「無視されてきた」研究者の再評価やすくい上げなどが試みられる場はWikipediaではなく学界であるはずで、Wikipediaの特定の記事で学説の代表例として名前を挙げていくようなことは避けるべきことだと思います。--TEN(会話) 2021年8月28日 (土) 15:35 (UTC)
前之園亮一についての質問
[編集]上記の節でいろいろと伺いましたが、話があまり噛み合わないので、そろそろ多くの方々に合意形成か井戸端などでコメントを求めようと思っておりますが、その前に単刀直入にお伺いします。まずは以下の出典は、「信頼できる情報源」ですか? 「イエス」か「ノー」か、でお答え願います。参考として、前之園亮一の論文一覧([7])、著書一覧([8])も付記しておきます。
- 前之園亮一 「〈論説〉「欠史八代」について (上)」 『学習院史学』 21号 学習院大学、1-31頁、1983年4月28日。 NAID 110007562869([9])--みしまるもも(会話) 2021年8月22日 (日) 03:19 (UTC) 補記--みしまるもも(会話) 2021年8月22日 (日) 08:51 (UTC)
- 出典の信頼性というのはそれを付加する記事の主題と文章の文脈に対して適切であるかどうかを考慮するのであって、文脈から切り離して出典だけ信頼できるかどうかイエスかノーで答えよというのは意味がありませんし不可能です。単に言質を取るための質問にしか思えませんし、回答の仕方をあなたに指示されなければならない理由も見出せません。--TEN(会話) 2021年8月22日 (日) 17:48 (UTC)
- それでは、具体的にさらに単刀直入にお伺いしますが、その前之園亮一の出典([10])内の、「はじめに」(p.1-4)に書かれている内容を参考文献とし、以下のように書くことは、「信頼できる情報源」による記述とはならないのですか? ガイドラインの基本に照らせば簡単なことかと思いますので、「なる」か「ならないか」でお答え願います。「例えば~」以降は、今現在記事で処理しているように「注釈」でも構いません(このノート内では見づらいので本文中にしてあります)。--みしまるもも(会話) 2021年8月23日 (月) 01:16 (UTC)
--みしまるもも(会話) 2021年8月23日 (月) 01:16 (UTC)
- もう一度書きますが、あなたから回答の仕方を指示される理由を見出せません。適切かどうかを判断したいならまずその出典の年次を確認し、その注釈が付される本文を読み返してください。それは「現在」の情報ですか?--TEN(会話) 2021年8月23日 (月) 17:14 (UTC)
「いる。」という言葉は、現在の小さな点ではなくて、長いスパンの「いる」です。「いた」というとその後に考えが変化したかのようなニュアンスが出てしまいます。そして、今書かれてある冒頭の「現代の……」をTENさんが念頭に考えているから、そのような返しになるかと思いますが、そもそも「現代の……」というのは定義文の冒頭では不適切なのであって、記事の全体的な正確性を考えれば「戦後の……」にするべきなのです。また、TENさんが「現代の……定説」に付された直木の出典は、非実在説の一次資料であり自画自賛になるのでルール上「信頼できる情報源」として適しません。--みしまるもも(会話) 2021年8月24日 (火) 08:51 (UTC)
追記 なんだかんだと、年次に執拗にお拘りになるので、以下のように書けば何も問題ないということでしょうか?
--みしまるもも(会話) 2021年8月24日 (火) 11:21 (UTC)
- 年次にこだわるのは当たり前です。あなたが引用した方々がそのその主張を出した論文なり著書を出したのがいつなのか確認ください。長いスパンの「いる」などという特殊な読み方ができる書き方になっていませんし、まず今現在の研究状況を中心に記述するのは当たり前のことです。より新しいまとめがあるのに1983年ベースの状況を説明する理由がありませんし、実態以上に実在説を強調するような書き方が不適切だという話も既に述べました。あなたの変更案を含めて何を説明するための文章なのでしょうか。それに直木の出典が非実在説の一次資料というのも意味不明です。説明すべきことがありその根拠となる出典があるのであって出典を使うために本文があるわけではないはずです。また「戦後の...」についてですが、そもそも欠史八代の実在・非実在についての議論が本格的に始まったのが戦後なのであって戦後とともに定説になったわけでもないです。--TEN(会話) 2021年8月24日 (火) 18:22 (UTC)
- んー、もう、そこまでいくと、あなたのその説明は詭弁の域ではないでしょうか。こちらとしては、TENさんのこれまでのご説明を取り入れて1983年の情報源ということを明記した上で、前之園が先学の諸説を解説している中の学者名を、きちんとガイドラインに沿って記述しているのであり、それはそれで「信頼できる情報源」なのですから、そのようなあなた独自的な裁量で、今度は出典自体を退けること自体が、もはや否定のための否定の域に入っています。あなたのその姿勢はWP:CON(Wikipedia:合意形成)を無視したWP:POINT(Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない)に違反していると思います。
- TENさんは「今現在の研究状況を中心に記述するのは当たり前」とおっしゃっていますが、あなたご自身は定義文のところで1993年の出典で「現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが[4]」と書いており、ダブルスタンダードにもほどがあるではないでしょうか。TENさんの方が「実態以上に」非実在説を「強調するような書き方」に傾いてはいやしませんか? 余計な忠告かもしれませんが。
- また、「第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代が後世に造作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説として受け入れられている[4][5]。」という記述においても、「定説として受け入れられている」という文脈に、非実在説の張本人の直木の出典はどうみても適切ではなく、この場合に一次資料は、非実在説者側が定説だと言っているので「信頼できる情報源」として機能しておりません。--みしまるもも(会話) 2021年8月25日 (水) 01:18 (UTC)
- このセクションの見出しには特定の編集者への呼び掛けが含まれていましたが、見出しで特定の利用者に呼びかけないに従って見出しを変更しておきました。 --2001:268:C084:B357:757B:23E6:A899:7F57 2021年8月25日 (水) 07:57 (UTC)
記事自体のことはこちらでという指定がありましたので、TENさんのコメント依頼での意見のリンクをこちらに貼っておきます。もう誰も見ないかもしれませんが。「Wikipedia:コメント依頼/TEN#被依頼者TENさんのコメントを受けての、みしまるもものコメント」--みしまるもも(会話) 2021年8月27日 (金) 06:32 (UTC)
出典
[編集]とりあえず、TENさんの加筆修正を待ってみます
[編集]いろいろ上記の節でTENさんと様々に議論をし、こちらも1983年の出典だということを文章内で明記するようにいたしましたが、結局はTENさんの論調は、こちらの意見は一切受け付けず、出典そのものが全否定され使用することすら禁止されたので、もはやTENさんの議論進行は、否定のための否定の域に入っており、WP:CONが不可能な利用者さんだと認識いたしました。とりあえずは、あなたのおっしゃった「「在野」の方の出典の削除については問題無しということでよろしいでしょうか」を実行してみてください。話はそれからにします。--みしまるもも(会話) 2021年8月25日 (水) 02:56 (UTC)
バランスが悪いようにみえます
[編集]少数派、というより今やトンデモに近くなりつつある実在説についての説明が重すぎるようにみえます。 --ねこぱんだ(会話) 2021年8月30日 (月) 14:21 (UTC)
- 色々な説が出ていた以上、分量が多くなるのは仕方がないのでは? 必要であれば非実在説を膨らませるなり、実在説の詳細を別項目に分離するなど、ただ削るのは避けるべきでしょう。--S.S.E.H.(Talk/Contribs 2021年8月31日 (火) 13:52 (UTC)
- 注で説明するという方法もあるのではないかと思うのです。いかが思われますか。 --ねこぱんだ(会話) 2021年9月1日 (水) 00:53 (UTC)
- 注で説明しきれるのかという疑問と、伊佐坂安物さんのコメントにもありますが、とりあえずはTENさんの加筆修正次第でまた考えれば良いのかなと思っています。変に構成を変えてTENさんと競合するのもよろしくないと思いますし。--S.S.E.H.(Talk/Contribs 2021年9月2日 (木) 12:15 (UTC)
- 注で説明するという方法もあるのではないかと思うのです。いかが思われますか。 --ねこぱんだ(会話) 2021年9月1日 (水) 00:53 (UTC)
- そもそも論として出典としてどうなのかというものが混ざっていて、例えば佐藤裕一『日本古代史入門』文芸社とかは明らかに素人の書いた自費出版物で、除去したほうが良いと思っています。あと平泉澄のような古い歴史学者の出典を現代の学説と並べるのも変ですし、日本史学者でもない西尾幹二の出典もWP:RSに照らしてダメかと(誤解のないように言っておきますが右翼だからダメという話ではないですし、おそらく別の学術的な出典でも似たような論点が書けるはず)。もう一つ、実在説、非実在説とわけて説を並べていく、非体系的・イデオロギー的な現在の記事の構成にも問題があると思っています。本来は実在・非実在といった不毛な話ではなくて、欠史八代そのものの説明を増やして、学術的に欠史八代についてどのような論点があるかという観点から再構成したほうが良いでしょう。TENさんが記事について今後加筆修正してくださるとのことなので(丸投げとなってしまって申し訳ないですが)、その後で議論しても遅くない気がします。--伊佐坂安物(会話/履歴) 2021年9月1日 (水) 09:05 (UTC)
- コメント とりあえず構成は全面的に変更しました。実在説については残した方が良いという意見も上に出ていますが、元々記載されていた実在説は過去の学説というよりは非専門家の見解ばかり解説されていたので全て削除しています。個人的には既存の実在説の説明を別枠にしたり注釈にしたりして残すのは記事の品質面では悪影響ばかり大きいと考えます。思ったより要約するのが難しく私の編集もちょっとまとまりがないですが大枠は現状のイメージから調整したいと思っています。--TEN(会話) 2021年9月5日 (日) 19:17 (UTC)
- コメント かなり時間をかけてしまいましたが、私の方での編集は大体今の感じで一回終わろうと思います(誤字脱字の修正や文章の調整はまだすると思います)。一応、確認した限りでは欠史八代への言及は系譜研究や氏族研究に絡めてのものが中心だったので記述も系譜部分を中心にしてみました。あと九州王朝説や欠史十代(聞いたことがないですが)といった記事は関連項目から外してあります。--TEN(会話) 2021年10月1日 (金) 18:57 (UTC)
- 返信 (TENさん宛) 当初挙げられていた問題はすべて解消されたと思います。何も協力できず恐縮ですが、編集いただき誠にありがとうございました。--伊佐坂安物(会話/履歴) 2021年10月7日 (木) 10:25 (UTC)
- コメント かなり時間をかけてしまいましたが、私の方での編集は大体今の感じで一回終わろうと思います(誤字脱字の修正や文章の調整はまだすると思います)。一応、確認した限りでは欠史八代への言及は系譜研究や氏族研究に絡めてのものが中心だったので記述も系譜部分を中心にしてみました。あと九州王朝説や欠史十代(聞いたことがないですが)といった記事は関連項目から外してあります。--TEN(会話) 2021年10月1日 (金) 18:57 (UTC)