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ノート:森尚謙

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水戸光圀の甥への家督譲りが本人の意図に反する強制であるかのような記述について

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水戸光圀が実子の頼常でなく兄・頼重の子・綱條を跡継ぎとしたのは、学問から得た自身の歴史観や、本来相続人となるべきだった長兄を差し置いて自分が水戸藩主となったことを慮り、「何らかの理由で長子の弟が家を継いだ場合、長子側に直系の子孫がいるなら次の相続は本流に戻すべき」という本人の信念に基づいたものと一般に解されているはずです。Wikipedia内の各人の記事もそういう方向で書かれていて、ここの記事だけ他のリンク先と内容が不整合な構成になってしまっています。

第一、光圀が兄の子を自分の養子にしたのは、綱方(家督相続前に早世)は1663年、綱條は1671年で、実子の頼常を交換で養子に出したのは1664年とのことです。徳川綱吉が五代将軍になった1680年よりずっと早く、まして柳沢吉保に至ってはその頃はまだ幼児~元服前の少年期です。どう考えでも、実子でなく甥に家督を譲った事情に柳沢吉保が関与しているとは思えません。

相手が誰かの問題ではなく「家督を譲って隠居させられたこと」そのものが柳沢吉保の画策だ、という趣旨で言及するのであれば、文章の書き方をもう少し変えたほうが良いと思います。--Psyche-moth 2011年8月24日 (水) 05:51 (UTC)[返信]