ノート:桃令院
221.22.86.91氏書き込み内容の検証について
[編集]IP:221.22.86.91(会話 / 投稿記録)氏の新規立ち上げ+加筆記事には虚偽、または検証困難な内容が多いため(牧野千佐、郁姫、保姫、お由羅の方なども合わせてご参照下さい。各記事のノートも合わせてご覧下さい。)、この記事に関しても内容に不安があったため、『新庄市史』第3巻を入手して調査しました。『新庄市史』自体は「戸沢家年譜」という史料を参照しているようです。内容は予想より簡略だったため、桃令院に関する情報は少なかったのですが、それでも何点か221.22.86.91氏の書き込みとは相違する内容が見つかりました。
あと、疑問のある内容としては
以上です。明らかに間違っている部分は修正させていただきますが、戊辰戦争以後の動向などは『新庄市史』3巻には記載が無く、まだまだ不明な部分が多いです。戸沢氏や幕末の東北諸藩の動向に詳しい方のご意見をお待ちしています。--こぶまき 2008年1月25日 (金) 09:57 (UTC)
- 上記への追記ですが、『新庄市史』では戊辰戦争当初、新庄藩が新政府軍に味方したのは慶応4年3月23日に奥羽鎮撫副総督沢為量の来訪があったことに理由を求めています。--こぶまき 2008年1月25日 (金) 10:06 (UTC)
こまぶきさん、桃令院に関心をお持ちで、色々なコメントや指摘を有難うございます。内容に関しては私の勉強不足が多々ありますので、今後ともよろしくお願いします。 下記の文献等を参考にして加筆・記載をしていますので、虚偽の内容と言われるの はいささか心外です。
「幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩」(畑 尚子 岩波新書)に拠ると、”戸沢正令の娘二人の内から相応の者を島津家の実子として……”とあります。 「篤姫」(原口 泉 グラフ社)に拠ると、将軍家では代々、公家や摂関家から夫人を迎えることが慣例になっており、家定の亡くなった夫人はいずれも26才で公家の出身でした。そこで後添えには、是非とも丈夫な姫をということで、薩摩藩に声がかかりました。11代将軍・家斉の正室・茂姫が島津家の出身で長命で家斉の子沢山の大奥を束ねた御台所にあやかろうと、薩摩藩主に候補探しが持ち込まれたとあります。”戸沢の娘二人の内相応の…”とは、健康とか諸々の事を考慮してということで、選択は新庄藩に任せたのでしょう。残念ながらこの件は立ち消えになってしまったようですが。 2009年1月20日 northcherry1827 —以上のコメントは、Izuchann(会話・投稿記録)さんが[ 2009年1月20日 (火) 02:36 ]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。
修正いたしました。
[編集]余分な点を修正いたしました。--以上の署名のないコメントは、221.22.86.91(会話/Whois)さんが 2008年1月27日 (日) 04:21 に投稿したものです(こぶまきによる付記)。
==新規・加筆に際しての参考文献は下記の通りです。== 。「最後の大奥」 鈴木由紀子 (幻冬舎新書) 。「幕末の大奥」 畑 尚子 (岩波新書) 。「篤姫」 原口 泉 (グラフ社) 。「島津重豪」 芳 即正 (吉川弘文館) 。「新庄藩」 大友儀助 (現代書館) 。「新庄まつり」 笹喜四郎 (新庄市教育委員会) 。「戸沢正令公と其著作」 福井久蔵 (厚生閣) 。「新庄市史」 。「最上地域史」 2009年1月20日 northcherry1827 —以上のコメントは、Izuchann(会話・投稿記録)さんが[ 2009年1月19日 (月) 14:39]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。
桃令院の子女と徳川家定婚約者について
[編集]『新庄市史』所収系図によると、桃令院と戸沢正令の間には
が産まれています。正令には上記の4人を含めて8人の子供がいますが、残りの内2名が「他腹」(=側室出生)、2名は生母の記述がありません。
さて、徳川家定の後妻候補には何人かの島津家縁者の女性が挙げられたのは芳即正氏の著書(ISBN 4404034911)等で割と知られた話になっており、戸沢正令の娘が候補に挙がっていてもおかしくないのですが、問題はそれが長女だったか、次女だったかということです。『新庄市史』には残念ながらその辺りの話が全く載っていませんでした。更に『新庄市史』所収系図には残念ながら人物の生没年の記入がありません。兄弟達の年齢などから想定してみると、長女でも次女でも候補に挙がっていてもおかしくないと思われます。この辺りの事情に詳しい方の訂正補足をお願い申し上げます。--こぶまき 2008年1月28日 (月) 15:01 (UTC)