ノート:桂・ハリマン協定
この「桂・ハリマン協定」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2020年6月16日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
信夫淳平
[編集]Chang論文の75頁が典拠として示されている箇所ですが、これを脚注に入れたのは正しい判断だと思いますが、 信夫淳平「侯ハリマン案を粉砕す」『小村寿太郎』新潮社、昭和十七年十二月六日發行、225頁(121コマ目)を参照して、「金子堅太郎の努力が小村の協定反対の理由であることを、裏付けがないことであるとして否定している」という表現を改めて、もう少し正確に書いたほうがよいと思います。簡単に言うと、淳平からしてみれば「俺は金子伯から小村侯に関する殆んど凡ゆる事蹟や逸話を聞いているよ」「でも俺そんな話聞いたことないよ」「証拠だってないようだから信じないよ」といったな感じなのではないでしょうか? -- Takabeg(会話) 2020年6月21日 (日) 11:31 (UTC)
- なるほど。おっしゃる通りですね。それにしても、あなた様の調査能力はものすごいですね。感服つかまつりました。早速手直ししておきます。--Greenland4(会話) 2020年6月21日 (日) 13:15 (UTC)
波多野善大
[編集]Chang論文の75頁が典拠として示されている箇所ですが、波多野善大「日露戦争後における国際関係の動因—日米関係を中心とする」日本国際政治学会編『国際政治 第3号 日本外交史研究: 明治時代』日本国際政治学会、有斐閣、1957年度 秋季特輯号、170頁あたりを参考に正確に書いたほうがよいと思います。-- Takabeg(会話) 2020年6月21日 (日) 11:31 (UTC)
- 直しておきました。--Greenland4(会話) 2020年6月21日 (日) 14:11 (UTC)
戦史叢書
[編集]防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉昭和十五年五月まで』朝雲新聞社、昭和四十二年九月二十五日 発行、169頁 (96コマ目)。「日米の間は急に冷却した」あたり、少し参考になるかもしれません、ならないかもしれません。-- Takabeg(会話) 2020年6月21日 (日) 11:31 (UTC)
陸軍と桂・ハリマン協定
[編集]小林道彦『近代日本と軍部 1886-1945〈講談社現代新書 2564〉』講談社、二〇二〇年二月二〇日第一刷発行、ISBN 978-4-06-518744-9、272~275頁あたりに、陸軍が桂・ハリマン協定に異議を唱えなかった理由が書かれています。山県有朋や田中義一が満洲経営に消極的であり、児玉源太郎ら満州経営積極論は少数派であったからということのようです。-- Takabeg(会話) 2020年6月21日 (日) 11:31 (UTC)
- 後藤新平と児玉源太郎は台湾では上司・部下の関係で、後藤を満鉄総裁に推挙したのも児玉のようです。小林道彦(2020)は昨日入手しましたので、これをもとにかなり加筆ができそうです。後藤は台湾での植民地経営が低コストで収益をあげるという点から政友会や伊藤博文など児玉とは違う立場からも期待されたようで、そのことは飯塚(2016)に書かれています。--Greenland4(会話) 2020年7月1日 (水) 02:03 (UTC)
大川周明
[編集]協定破棄に関する歴史的評価という箇所にある引用ですが、左藤の著書の代わりに、大川周明『米英東亜侵略史』第一書房、昭和十七年一月二十八日第一刷二萬部發行、37~38頁 (21~22コマ目)を典拠にすればよいかと思います。-- Takabeg(会話) 2020年6月21日 (日) 11:45 (UTC)
- それに関しては異議ないです。手近にあったから使っただけですから。--Greenland4(会話) 2020年6月21日 (日) 11:56 (UTC)
- 了解しました。ただ、大川から渡部へつなげるのはちょっと唐突なのではないかと感じました。というのも、渡部だけの見解とはいえない部分が多いからです。岡崎久彦は1998年に出版された『小村寿太郎とその時代』で似たようなことを言っていまし、高橋是清に対して、米国との共同経営をしなかったことを悔いる時が来るであろうと語ったというようなことも書いています。さらに、2004年に出版された北岡伸一、岡崎久彦、坂本多加雄『日本人の歴史観 黒船来航から集団的自衛権まで』の鼎談でも似たようなことを繰り返しています。また、寺島実郎も『歴史を深く吸い込み、未来を想う』で類似した見解を示しています。北村稔も、北村稔・林思雲『日中戦争の「不都合な真実」戦争を望んだ中国、望まなかった日本』の中で、「日露戦争後に日本が獲得した満州での権益は、中国との確執だけでなくアメリカとの対立を引き起こし、日中戦争から太平洋戦争に向かう日本の方向に決定的な影響を与えたのである。」と書いています。渡部を除去する必要はないと思いますが、それぞれの見解を手短に書いたほうがよいような気がしています。「太平洋戦争」につながったとは書いていないものの、類似した見解を下に挙げておきます。-- Takabeg(会話) 2020年6月22日 (月) 15:13 (UTC)
- 何から何までありがとうございます。岡崎久彦はいかにも言っていそうな気はしていました。だいぶ処分してしまったので情報にアクセスできなくなってしまいました。鈴木貞一の発言なんかは、もしかしたらそのまま使えるのかもしれないと思います。小林龍夫に関してはハリマン協定はまだルーズベルトの時代なので微妙ですが、流れとしてはまさにそうで、アメリカの満洲に対する執着ぶりはどこかで書かなくてはならないことなのかもしれません。さらにいうなら、(とくに)アメリカが日本に対して求めてつづけた満洲の門戸開放は日露戦前、日本がロシアに求めたことでもありますね。そのあたり、うまく書ければなと思います。戦前、「満蒙は日本の生命線」といわれていた時代に小村の行為が英雄視されるのは当然で、大川周明は手近にあったのですぐに思い出されましたが、他にも具体的なソースが欲しいところです。陸軍主流派が満洲経営に消極的という、上の御教示は、後の歴史的展開を考えると実に意外でたいへん興味深く感じました。ありがとうございました。戦前の「小日本主義」の立場、あるいは米英協調主義の立場で、ハリマン提案に言及したものがもしあったら、さらに加筆ができると思います。おいおい、調べていきたいと思います。--Greenland4(会話) 2020年6月22日 (月) 19:33 (UTC)
- 小林道彦は「小満鉄主義」と呼んでいます。ただ、他で見たことが無い用語なので小林が言っているだけなのかもしれません。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 15:14 (UTC)
- 伊藤博文らの「小満鉄主義」については、すでに記事に反映させました。「小日本主義」というのは、石橋湛山らの満洲放棄論をふくむ見解です。--Greenland4(会話) 2020年7月11日 (土) 21:13 (UTC)
- 小林道彦は「小満鉄主義」と呼んでいます。ただ、他で見たことが無い用語なので小林が言っているだけなのかもしれません。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 15:14 (UTC)
- 何から何までありがとうございます。岡崎久彦はいかにも言っていそうな気はしていました。だいぶ処分してしまったので情報にアクセスできなくなってしまいました。鈴木貞一の発言なんかは、もしかしたらそのまま使えるのかもしれないと思います。小林龍夫に関してはハリマン協定はまだルーズベルトの時代なので微妙ですが、流れとしてはまさにそうで、アメリカの満洲に対する執着ぶりはどこかで書かなくてはならないことなのかもしれません。さらにいうなら、(とくに)アメリカが日本に対して求めてつづけた満洲の門戸開放は日露戦前、日本がロシアに求めたことでもありますね。そのあたり、うまく書ければなと思います。戦前、「満蒙は日本の生命線」といわれていた時代に小村の行為が英雄視されるのは当然で、大川周明は手近にあったのですぐに思い出されましたが、他にも具体的なソースが欲しいところです。陸軍主流派が満洲経営に消極的という、上の御教示は、後の歴史的展開を考えると実に意外でたいへん興味深く感じました。ありがとうございました。戦前の「小日本主義」の立場、あるいは米英協調主義の立場で、ハリマン提案に言及したものがもしあったら、さらに加筆ができると思います。おいおい、調べていきたいと思います。--Greenland4(会話) 2020年6月22日 (月) 19:33 (UTC)
岡崎久彦
[編集]もう少し具体的に書いておきます。
ハリマンは、1906年、高橋是清に対して、「いまから十年のうちに日本は、米国との共同経営をしなかったことを悔いる時が来るであろう」と語ったが、その予言は十年では実現しなかった。(岡崎久彦『小村寿太郎とその時代』PHP研究所、1998年12月4日 第1版第1刷発行、ISBN 4-569-603992-9、285頁。)
それが十年後ではなく、三十年後日本のツキが落ちたあと、第二次大戦となって実現されるのである。いまとなってみれば、日本としては、ハリマン提案を受諾しておくことが正解であり、小村の術策は、国の大きな運命を誤ったというべきであろう。(同書、286頁。)
岡崎:「東清鉄道の日米共同経営安をもし日本が受けていたら、こんどは逆にアメリカが門戸開放をやめて、日本と一緒に満洲経営を共同利益でもって守るというふうになったと私は想像しているのですが、いかがですか」(北岡伸一、 岡崎久彦、 坂本多加雄『日本人の歴史観 黒船来航から集団的自衛権まで〈文春新書 1043〉』文藝春秋、2015(平成27年)9月20日 第1刷発行、ISBN 978-4-16-661043-3、80頁。)
「ハリマン提案を採用していたら、日本とアメリカは満州で一緒に帝国主義をやっていたと思いますね」(同書、82頁。)
北岡は少し冷静でして、「オレンジ・プランだけではなくて、想定しうる相手すべてについて作っているののだから、それをもって日本を特別に敵視したとは言えないと思う。」(同書、74頁。)、「軍事鉄道として重要な満鉄の経営に外交を入れると日本の国益が守れないというのが小村の主張ですが、ハリマン案では有事のとき日本軍の優先的な使用を認めているのですから、問題にならないはずです。」(同書、82頁。)などと発言しています。-- Takabeg(会話) 2020年6月28日 (日) 11:23 (UTC)
- 反映させました。--Greenland4(会話) 2020年7月1日 (水) 02:03 (UTC)
寺島実郎
[編集]「ハリマン計画を潰したことが日本にとっていかなる意味を持ったかを評価することは難しい。もし満州国を日米共同で経営していたら、その後の太平洋戦争はなかったかもしれないし、日米中の関係も変わっていたかもしれない。」(寺島実郎「近代石炭産業の功労者、松本健次郎と二十世紀」『歴史を深く吸い込み、未来を想う: 一九〇〇年への旅アメリカの世紀、アジアの自尊』新潮社、二〇〇二年一一月一五日、ISBN 4-10-402204-7、141頁。) -- Takabeg(会話) 2020年6月28日 (日) 11:23 (UTC)
- 反映させました。--Greenland4(会話) 2020年7月1日 (水) 02:03 (UTC)
瀬島龍三
[編集]「日露戦争で日本が勝ってから、日米関係が冷えこんできますね。例えばカリフォルニアにおける日本人学童排斥運動、こういう問題が起きてきます。それから日露戦争で南満州鉄道の利権を日本が取る。それに対してアメリカのハリマンが横槍を入れ、しかも失敗して、中国市場に関して日本とアメリカの競合が起きています。そうすると将来アメリカとの関係が悪くなるという見通しが出てくるわけです。従ってこれから国防方針にアメリカが入れられたのです。」(瀬島龍三「演習という名の動員「関特演」」三国一朗編『昭和史探訪 ③ 太平洋戦争前期』番町書房、昭和五十年一月三十一日 初版発行、0021-500100-6959、136頁。) -- Takabeg(会話) 2020年6月22日 (月) 15:13 (UTC)
鈴木貞一
[編集]「僕の歴史観からいうと、この戦争は決して昭和の時代になってできたものではない。根本はヨーロッパ文明の植民地政策というもので、日米の関係に限っていえば、日露戦争がはじまりであると思うんです。つまり日露戦争に日本が勝ったというのは、ご承知のように英米のバックがあって、むしろその手先きの戦をしたようなものだから、戦争に勝った時にアメリカは、獲物の分け前にあずかろうとした。ハリマンの満州鉄道の問題がそうです。ところが日本は戦に勝ったから、頑としてきかない、自分で満鉄を経営するという。そのとき以来アメリカが日本に対する警戒を強めていたんです。」(鈴木貞一「遂行された国策「開戦」」三国一朗編『昭和史探訪 ③ 太平洋戦争前期』番町書房、昭和五十年一月三十一日 初版発行、0021-500100-6959、222~223頁。) -- Takabeg(会話)
小林龍夫
[編集]「アメリカは門戸開放の内容を通商から投資に拡大し、タフト大統領のいわゆるドル外交のもとに、満州割込みを策し、日本をその優越的地位からいぶり出そうとした。たとえばハリマンの満鉄買収計画 (1905年)、満鉄平行線敷設計画 (1907年)、ノックスの満州諸鉄道中立化定義 (1909年)、英仏独米四国借款協定 (1911年)などはその例である。」(小林龍夫「第一編 海軍軍縮条約」日本国際政治学界太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道 開戦外交史 〈新装版〉 1 満州事変前夜』朝日新聞社、1987年7月304日新装版第1刷発行 (1963年2月15日第1刷発行)、ISBN 4-02-255741-9、11頁。) また、佐藤誠三郎「ワシントン体制の形成過程—緊張緩和の史的分析 III 協調と自立との間—日本」日本政治学会『年報政治学』第20巻、岩波書店、1970年5月30日、101頁。も似たようなことを言っているようです。-- Takabeg(会話) 2020年6月22日 (月) 15:13 (UTC)
林房雄
[編集]林房雄は『大東亜戦争肯定論』で「太平洋戦争は日露戦争の直後に始まった」という見解を示しています (林房雄『大東亜戦争肯定論』番町書房、昭和三十九年八月五日 発行、249頁。)が、ハリマンへの言及はありません。したがって、本記事では使用できなさそうです。-- Takabeg(会話) 2020年6月22日 (月) 15:13 (UTC)
徳富猪一郎/蘇峰
[編集]ハリマン問題について、徳富蘇峰翁は常時の事情に關し、東日紙上で批判を加へ「桂首相は決して短見政治家ではなかった。されど、彼のハリマンの口車に乗せられたのは、千燈の一失であつた。當時、井上世外侯の如き人が外間よりは有力なる刺戟を與へ、桂首相自身も明治三十四年の夏以來、強弩の末殆んど困疲の極に達したる三十八年の末なれば、彼が滿鐵を日米協同經營に委せんことに同意したるも、必ずしも深く咎むべきではなかった。)日笠良太郎「ハリマン問題を想起し警戒せよ」『日産進出と満洲重工業問題』日本外交協会、昭和十三年一月 (解学詩監修・解題『満洲国機密経済資料 第三巻 経済政策 下』本の友社、2000年10月 所収) 、121~122頁。)とありますが、一方で、徳富猪一郎編述『公爵桂太郎傳坤巻』 故桂公爵記念事業會、大正六年二月五日發行 では「桂・ハリマン協定」への言及が全くないのが気になるところです。-- Takabeg(会話) 2020年6月22日 (月) 15:13 (UTC)
- ハリマン提案のなかには日本の鉄道の広軌化ということが入っていて、それはもっと大きく扱うべきかもしれないなと感じています。実は、桂は第2次内閣のときに新橋・下関間の広軌化を議会に提出しているんですね。脚注でふれるなど、少しふくらませた方がおもしろいかもしれません。徳富蘇峰については、だいぶ前に大幅加筆したことがあります。彼は桂太郎に近づいて変節漢扱いされていますし、日比谷焼打ち事件でも彼の新聞は政府系とみられてメチャクチャやられてますから、ハリマン協定の件で桂を悪者にするのはしのびなかったんだとは思います。--Greenland4(会話) 2020年6月22日 (月) 20:07 (UTC)
- 井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史 ― 列車は国家権力を乗せて走る』の104頁あたりにハリマンへの言及があります。-- Takabeg(会話) 2020年6月28日 (日) 11:23 (UTC)
小林道彦著書の書評
[編集]小林道彦『日本の大陸政策 1895-1914』の書評をもうひとつ見つけたので紹介しておきます:「日露戦争直後には、山形も井上・伊藤も満州経営については消極的であった。そして、これまで日本外交史のなかの傍流的挿話として扱われてきた桂・ハリマン協定こそ、このときの満州政策の本流をなすものであった。」とあります (高橋秀直<書評>小林道彦著『日本の大陸政策 1895-1914』『史林』82(3)、153頁。)-- Takabeg(会話) 2020年6月22日 (月) 15:13 (UTC)
『國際資本戰』
[編集]東京朝日新聞經濟部編『國際資本戰』日本評論社、大正十四年五月廿二日 發行、388頁 (207コマ目)から始まる「日米の對抗 (上)」という節に桂・ハリマン協定のことが書かれていますが、292頁を見ると閣僚のうち反対したのは大浦だけのようです。本当かどうかはわかりませんが。。。-- Takabeg(会話) 2020年6月23日 (火) 13:40 (UTC)
清澤洌
[編集]清澤洌は「小村の功績といって差支へない」と書いています。清澤洌『日本外交史 (上巻)』東洋經濟新報社出版部、昭和十七年十月八日 初版發行、三四八頁 (186コマ目)。-- Takabeg(会話) 2020年6月28日 (日) 11:23 (UTC)
田健治郎
[編集]田健治郎傳記編纂會『田健治郎傳』田健治郎傳記編纂會、昭和七年六月二十五日發行、196頁~ (148コマ目~) も少し参考になるかもしれません。-- Takabeg(会話) 2020年6月30日 (火) 12:12 (UTC)
松岡洋右
[編集]松岡洋右『滿鐵を語る』第一出版社版、昭和十二年五月五日發行、110~111頁 (68コマ目) 前後が参考になるかと思います。「若しもハリマンの共同經營案が實現してゐたならば、逆に利害の衝突が直接して握手どころか、反對に疾くに日米戰爭が行われてゐたであらう。」は面白い見解ですよね。-- Takabeg(会話) 2020年6月30日 (火) 12:12 (UTC)
- 脚注でふれました。--Greenland4(会話) 2020年7月1日 (水) 02:03 (UTC)
3点ほど
[編集]- モントゴメリーなのか、モンゴメリーか。
- 小林道彦文献について。
- 「協定破棄に関する歴史的評価」節について。
1.について。金子堅太郎がセオドア・ルーズベルトの従兄の「モントゴメリー・ルーズベルト」を介して、日本がモルガンから融資の話を受けるという記述があります。これについて、日本語文献には確かに「モントゴメリー」と表記されていますが、en:Roosevelt familyをみると従兄弟にそれらしき人はみえず、5代上(高祖父Jacobus Roosevelt (1724–1777) )の4世孫(玄孫)にen:Samuel M. Rooseveltという人物がいるようです。このSamuel Montgomery Rooseが「モントゴメリー」でよいのか。記事をみると、確かにCareerの節に”his distant cousin”とありますし、"he is remembered for his portraits”とあるくらいですから、テディの肖像画を描いたことは間違いありません。Personal lifeの節をみるとテディがMontgomeryの家を訪れたことがあったのも確かなようです。 American artist and merchant from New York City だから、商人であったことも確かでしょう。モントゴメリー・ルーズベルトがSamuel Montgomery Rooseveltだとは思うのですが確証がいまいち持てません。写真は外した方が無難でしょうか。あるいは「遠い従兄弟」という表現はあまり日本語にはなじまないので、「親戚」くらいになおした方がよいのか。さらに、彼が「モントゴメリー」であるならば、「モントゴメリー」がよいのか「モンゴメリー」がよいのか。そのあたりの御意見をいただきたいです。
2.多くの方に御紹介いただいた小林道彦氏の文献にアクセスできません。Takabegさんの御教示にしたがい、可能な範囲で加筆しましたが、ページ番号など付けられない状況です。もとより、情報に近づく努力をいたしますが限界があります。もし、文献にアクセスできる方がいらっしゃいましたら加筆をお願いしたいです。
3.桂・ハリマン協定#協定破棄に関する歴史的評価、自分なりに論を組み立てたつもりではありますが、叙述が成功しているか。そのあたりを御批判・御教示いただきたいです。
以上、3点よろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2020年6月26日 (金) 10:25 (UTC)(修正)--Greenland4(会話) 2020年6月26日 (金) 10:28 (UTC)
1番の「モントゴメリーなのか、モンゴメリーか」ですが、日本語による研究書・論文では「モンゴメリー・ルーズベルト」が優勢です。引用部分はソースにある通りに書いたらよいと思います。ちなみに、金子堅太郎述『日本モンロー主義と満洲』では「モントゴマリー・ルーズベルト」となっています。信頼できる情報源ではないのですが、こちらによれば同一人物のようです。こちらではSamuel Rooseveltと言及されていますから恐らく同一人物なのかと思いますが、もう少し調べてみます。
2番は補完しておきました。
3番は簡単には説明できないのですが、とりあえずまず一点だけ。「これに対し戦後は、」という形で鈴木貞一の見解が出てくる構成になっていますが、戦前においても日米戦争への言及 (予測・予言) というのがあったようで、満洲の問題と日米戦争とを絡める説は、必ずしも「後出しじゃんけん」や「後知恵バイアス」的なものではなかったように思われます。ですので、戦前の話にも手短に触れておいたほうがよいような気がします。
- 稲原勝治『外交読本』外交時報社、昭和二年四月十八日發行、402頁~ (218コマ目~) あたりからハリマンのことが書かれていますが、405頁に「米國の日本を憎むこと甚だしく、日米戦争が何時如何なる導火線によりて、點火せられるかもしれぬとさへ氣遣われる、切羽詰まつた状態となつた。」とあります。
- 内山正熊「小村外交批判」『法学研究』第41巻5号、1968年、142~143頁。の、「ハリマンの折角協定した鉄道共同管理が小村によつて葬り去られたことは、(中略) さらに有名なノックスの満州鉄道中立提議がなされるに至り、日米関係は深刻化した。日米関係の緊迫化に伴つて、日米戦争の予言も行われるようになり、」あたりも参考になるかと思います。
- 杉田一次『情報なき戦争指導 大本営情報参謀の回想』原書房、1988年5月10日 第2刷、ISBN 4-562-01886-0、154頁 によれば、「米国ではハリマンの満鉄買収問題が反故にされたこともあり、かつアジアにおける日本の急激な勃興は多大な懸念を米国に持たらしめ、戦後、早くも米大艦隊が日本に派遣された。(改行)ホーマー・リーは明治四十三年『無知の勇気』と題する本を出版し、日米必戦とともに対日 (日本人)警戒心強化を呼びかけた。」とあります。また、83~84頁には、「日露戦を転機として日米間に大きな変化が見られた。米国の戦後早くも日本を仮想敵国に加え、ホーマー・リー陸軍少将著『無知の勇気』が発刊され、内外の注目を浴びていた。明治四十三年末の頃であった。日本も国防方針を改め、米国を仮想敵国として露国の次に位置づけていた。ドイツが敗北した第一次世界大戦後、早くも米国内にあっては、次は日本打倒の番であると公言するものさえあった。東久邇宮が在仏留学中の大正九年、ペタン元帥より「次は日米戦争だが、日本はこれを避けるようにすべきだ」と話されたばかりでなく、多くの人々からも日米戦争の噂を耳にされた。ある日クレマンソー大統領から東久邇宮に「米国はまず経済的に日本を圧迫していくだろう。日本は短期だから癇癪を起してこれに立ち向かうから、日米戦争になるだろう。戦争にならぬよう心掛けるがよい」と忠告された。」とあります。クレマンソー、ペタンの話はもっと後のことですから、本記事ではホーマー・リーくらいまでの言及でとどめてもよいかもしれません。-- Takabeg(会話) 2020年6月26日 (金) 12:55 (UTC)
- ありがとうございます。特に稲原・内山の文献は重要だと感じますし、これを出典に掲げればより説得的な論が展開できるように思います。実は、ずっとTENさん御指摘の点がひっかかっていて、ウォルター・マクドゥーガル『太平洋世界』(ISBN 978-4764103726)とかアメリカの通史などを何点かあたってはいるんですが、どうもアメリカの排日感情ということでいうと、あまりハリマン協定の話は出てこない、出てきても因果関係のあることとしては登場しない印象です。もしかしたら、本記事の英語版がないことが全てを物語っているのかもしれませんが、かといって双方に「因果関係がない」という都合のよい出典があるわけでもありません。アメリカの排日については、労働問題ないし人種差別感情から生じている感触を得ました。アメリカ国家の痛手ということでいうならば、ノックス中立化案が空振りに終わったことの方が痛手のはずで、事実、日露英仏に組まれて孤立の悲哀をなめます。ハリマンが民間人であるのに対し、ノックスは政府の人間ですしね。ホーマー・リーに関しては、比較文学の佐伯彰一『外から見た近代日本』(ISBN 978-4061586451)によれば、アメリカだけの現象ではなくて日本側も日露戦争後はアメリカを敵とする未来戦記物がほぼ同時的にたくさん書かれるようになったのだそうです。それも、あまり憎しみ・敵意というものではなく、ロマンティックなものや相手に対する敬意を多分に含んだものだということのようです。ホーマー・リーにしてもそういう要素あるようです。このあたりも、ふれられればよいですが、あまり話を広げてもなーという感じはします。セオドア・ルーズベルトの記事にある、「ジャップはロシアに勝ってから実に生意気だ」という大統領のセリフは掲載してもよいかもしれません。また、排日移民法に大統領がサインしたことについて、当時の日本人は大統領を親日家と思っていただけにショックを受けたというエピソードも佐伯彰一の本には紹介されていました。どこまで記事に反映させていくのかは、なかなか難しいものがあると感じています。今後ともよろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2020年6月26日 (金) 15:01 (UTC)
Masayoshi Matsumura, Baron Kaneko and the Russo-Japanese War (1904-05): A Study in the Public Diplomacy of Japan, Lulu.com, 2009, p. 454.で、At this time President Roosevelt's younger cousin the banker Montgomery Roosevelt came to the Baron's hotel. He and Kaneko had been friends for a long time, and he represented the Morgan banking conglomerate, one of the two great finance houses of America and which was in fierce competition with Kuhn, Loeb & Co. と younger cousinとなっているところが気にかかりました。原書である村松正義『日露戦争と金子堅太郎-広報外交の研究-』新有堂、昭和55年10月30日 第1版第1刷、481頁でも従弟 となっています。ウィキペディア英語版の情報が正しいとすれば、従兄となるのではないかと思います。ただ、村松本の487頁の脚注32には、「金子とモントゴメリー・ルーズベルトとが懇意であったことについて、同銀行家が1892 (明治25) 年に日本を来訪して帰国するとき、金子もちょうどスイスで開催される国際法会議に日本代表として出席するため米国経由で出立するようになっていた矢先であったので、共ども一まずニューヨークへ赴き、それよりさらに英国を経てヨーロッパ大陸を旅行したほどの旧友であったし、、、」とあります (ソースは金子堅太郎『米国滞留記』第三篇、757~759頁とのことです)から、榊田絵美子「研究資料 一九世紀後半、二〇世紀初頭のアメリカにおける日本美術の評価に関する一資料」『美術研究』第三三四号、二三頁。で「Sketches from Japan 1892.10.2. 著名な商人 S. Montgomery Roosevelt がカリフォルニアと日本を旅して描いた. 水彩画とスケッチが Knoedler & Co で展示されている。Roosevelt はアート・ステューデント・リーグで学び、確かな画技を身につけている。芸者や農夫、日本風俗を描いたものが多い。」と紹介されている人物と同一である可能性は極めて高い、つまり同一人物、と考えます。オマケですが、Messrs. M. Knoedler & Co. request the honor of a visit to an exhibition in their galleries of the sketches in water color made in Japan and California by S. Montgomery Rooseveltというのもありました。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 14:57 (UTC)
- 返信 情報ありがとうございます。従兄なのか従弟なのかは微妙なところですね。セオドアもモンゴメリ―も1858年生まれですし(セオドアは10月生まれ、モンゴメリ―は2月生まれ)。厳密には"distant cousin"ではあっても「いとこ」でないわけですから、多少の間違いはあるのかも。ともあれ、同一人物であるという確証が得られてよかったです。--Greenland4(会話) 2020年7月11日 (土) 21:32 (UTC)
内田良平
[編集]特別:差分/78157672に関してですが、次のソースをもって充てればよいかと思います。内田良平著・西尾陽太郎解説『硬石五拾年譜: 内田良平自伝』葦書房、1978年10月1日、104頁。には、「翌六日、騒擾益々甚だしく形勢愈々険悪なり。午後一時より余等は三井集会所に於て撃剣、棒術、薙刀、柔道等各種の武術を演じ、ハリマン一行に示す。一行中にレスリングを能くするものあり、柔道を見て大に喜び、試演せんことを乞ふ。余相手をなし、五、六回投げ倒し、最後に抑え込ましたる上跳ね却って米人を抑え込みたるに、一行は頗る感心し、ハリマン令嬢の如き、頻りに手を叩いて歎賞せり。」とあります。益田英作を通じて良平に要請が為されたとのことです。ウィキペディアでいうところの「二次資料」ではなく「一次資料」になってしまいますが、「一次資料」使用禁止というわけではないようですので、黒岩比佐子を使用しない方向で編集されるのでしたら有用な資料かと思います。黒岩の本に目を通してみましたがわりと面白いと思いました。黒岩の作品と同様に、「秀逸な記事」を目指すなら、使用を回避したほうがよいかと考えられるものとして、久保尚之『満州の誕生 日米摩擦のはじまり』というのも面白かったです。黒岩のものや久保のものも「参考文献」ではなく「関連文献」にいてておいてもよいかと思います。-- Takabeg(会話) 2020年6月30日 (火) 12:12 (UTC)
- ありがとうございます。エドワード・ヘンリー・ハリマンの記事には黒岩文献使っています。なぜか有害図書のように嫌われていますが、実はおもしろい本です。これが日比谷焼打事件のあったまさに日比谷でのことだから、黒幕がいたのではないか、まして内田良平だから…、ということなのですが。。。次は満洲善後条約の加筆に黒岩使おうと思っていました。いかに小村がそこでも叩かれているのか、当時の新聞の投書欄なんかが引用されていて使えるんですよね正直。--Greenland4(会話) 2020年6月30日 (火) 14:21 (UTC)
- (追記)「一次資料」使用禁止というわけではないですが、個人の日記をもとに記事を書くということになると、それはそれで独自研究に近いものになってしまい、あまり好ましくないのではないかと思います。一方、過去のイベントについて「ノンフィクションライター出典」使用禁止という決まりがあるわけでもありません。それにまた、この記事は歴史記事であると同時に「過去の二国間関係のエピソード」でもあり、そういう意味ではノンフィクションやジャーナリズムの対象でもあるでしょう。史実が専門家の記述によるべきだというのは正論ではありますが、武術のことなど政治外交史の専門家がそれに注目してわざわざ言及するということもあまり考えられません。そういう出典に巡り合えたらラッキーというべきで、出合ったときに置き換えればよいだけのことだと思います。ノンフィクションライター出典であれ、何であれ、「ないよりはまし」です。黒岩を出典に掲げ、原出典は内田良平の日記であることを脚注に付すという、今の状態のままでよいと思います。
- 武道史や柔道史といった文献にも、一応はあたってみます。好適なものがあれば差し替えます。しかし、それまで待てない、たった一つの黒岩出典を何が何でも削除しなければ気が済まないという人がいるかもしれません。歴史記事執筆者にはそういう人が多いかもしれませんね。そういう場合は柔道に関する記述をまるごと削除すればよいと思います。武術の件はそもそも小ネタ・こぼれ話に属することであり、網羅すべきトピックとして絶対に必要というわけではありません。確かに削除してしまうと味気なくなってしまいますが、それがコミュニティの総意ならば仕方ないでしょう。読者目線を失ってしまうと、そういうことになってしまいますが、それもいたし方のないことです。
- 現状では、武術に関心のない大抵の読者はスルーするでしょうし、逆に、特に武術に興味がある人はそれをもとにハリマンのことを調べたり、黒岩の本を読んだりするでしょう。それだけの話ですし、そのための情報を示せばよいだけのことというふうに思います。われわれのすべきことは「出典をもとに情報提供する」という至ってシンプルな営みのはずであり、つまりは、「一文ごとに必ず出典を付ける」ということに尽きると思います。
- 記述は残して参考文献から黒岩の名前だけ外す———というようなことは、やらない方がよいと思います。岡崎久彦も気に食わない、言及すること自体問題だ、そういう意見が多数を占めるならば、「評価」の節を丸ごと削除したらよいでしょう。それでも一応記事の体裁はとれていると思います。そうしたいとき、そうしやすい状況をつくっておくことが大切です。逆に、井上馨の構想が加筆された今となっては、井上の判断に言及した渡部昇一の意見を復活させろという意見が出てこないとも限りません。一文ごとに出典を付けておけば、どのような事態が発生しても対応できると思います。
- 「参考文献」に掲げるのはまずいのでせめて「関連文献」に———というのも、あまりよろしくないと思います。「関連文献」には、今現在自分はアクセスできないけれども必読文献であるというものを記載すべきだと考え、小林論文と松村論文をあげました。こうしておけば、これをみた人が両論文に接してこの記事をさらによりよいものに仕上げてくれるかもしれません。そうなることを期待します。もし、黒岩文献を「関連文献」に記載するとしたら、この記事にではなくて「池辺三山」や「日比谷焼打事件」の方だと思います。
- 長々とすみませんでした。Takabegさんの御厚情には本当に感謝しております。ありがとうございました。御紹介いただいた本「鉄道ゲージが変えた現代史」入手しました。なかなか重宝していまして、「セルゲイ・ウィッテ」や「スコット・ムラヴィヨフ協定」の加筆に使えそうです。ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2020年7月5日 (日) 11:56 (UTC)(修正)--Greenland4(会話) 2020年7月5日 (日) 12:53 (UTC)
- Wikipedia:スタイルマニュアル_(レイアウト)#参考文献には「出典として利用していないが、その記事に関連している文献・資料などは、記述の出典と混同しないよう、別の節を作るなど、分離して記載するようにしてください。 」とあります。黒岩、久保などを「関連文献」節で挙げておくのは、読者にとって有益だと思います。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 14:19 (UTC)
- 返信 久保尚之『満州の誕生 日米摩擦のはじまり』に関しては、読んだことがありませんが、タイトルからしてハリマン提案の受け入れの是非を考えるうえでは有益な本であろうと想像します。なので、「関連文献」に掲げるのはよいと思います。黒岩の場合は、確かにハリマン来日や小村の奮闘にはふれられていますが、主題は別のところにあるので「関連文献」に掲げるのはあまり適さない気がします。これを「関連文献」に入れてしまうと、あらゆるものが「関連文献」に入ってくるんじゃないでしょうか。「お鯉 (芸妓)」などは、黒岩出典で加筆するとおもしろい記事になると思います。人物記事は、歴史記事と違って歴史家のみならず、伝記作家やジャーナリストの出典もバランスよく取り入れないと良い記事にはなりません。人物記事と歴史記事の区別もつかないような人は、そんなに多くはないと思います。あまり振り回されない方がよいのでは?と思います。--Greenland4(会話) 2020年7月11日 (土) 22:07 (UTC)
- Wikipedia:スタイルマニュアル_(レイアウト)#参考文献には「出典として利用していないが、その記事に関連している文献・資料などは、記述の出典と混同しないよう、別の節を作るなど、分離して記載するようにしてください。 」とあります。黒岩、久保などを「関連文献」節で挙げておくのは、読者にとって有益だと思います。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 14:19 (UTC)
船室に鍵
[編集]『小村外交史 下巻』210頁。には「先発帰朝の山座は小村を港外に出迎え、直ちに室を鎖し、小村にハリマン一條の願末を逐一報告した。」とあります。「山座円次郎が小村の船室に鍵をかけ、」と置き換えればよいかと思います。
- 反映させました。--Greenland4(会話) 2020年7月1日 (水) 02:03 (UTC)
山座への密告
[編集]小村が「エンプレス・オブ・インディア号」で横浜に帰着する一日前に、山座は「ダコタ号」で横浜に至っています。山座が小村に覚書について伝えたという説が通説のようですが、桂から直接きいたという説もあるようです。さらに、直接は確認していないのですが、「桂と小村が打合わせて打った芝居である」という説 (永雄策郎『植民地鐵道の世界経済的及世界政策的研究乃至植民地鐵道の外的研究』第三編、満鉄を中心とする外交、南満州鉄道東亜経済調査局發行、1930二八六頁、英修道『満州国と門戸開放問題』日本国際協会、1934年、一〇二頁、ヴエ・アヴァリン著・ロシア問題研究所訳『列強対満工作史 (上)』ナウカ社、昭和9年、一六一頁など)もあったようです。山座が小村に伝えたという説をとる場合、誰が山座に伝えたのかという点が気になっているのですが、一又正雄『山座円次郎伝: 明治時代における大陸政策の実行者』原書房、昭和四十九年十月十五日、1031-31020-6945、38頁。に劉寒吉『松本健次郎』からの引用があり、「横浜に待ちうけ、水蒸汽船にて港外の本船に至り、港内に投錨するまで船室内にて、ハリマンの覚書を手稿したるまでの顛末を山座に密告した。」とあります。長谷川峻『山座公使 ― 大陸外交の先駆』育生社、昭和十三年八月十五日 發行、100頁。には「山座の船が横濱に入るとすぐ政府の命令で上陸をさしとめられ二、三隻の水雷艇は船の周圍を遊弋して嚴重な警護を加へてゐた。そのうちに山座の不在中政務局長代理をしてゐた石井菊次郎が船に乗りつけ、志士が山座たちの歸りを手具脛ひいて待つてゐる不穏な實情の説明をきき、山座が埠頭で襲はれ條約文を奪取され、條約破棄でもしなければならぬ破目に陥つては大變だからといふ政府の命令で條約正文は石井に渡した。」との記述の後に、括弧書きで「上陸前石井と會見中に山座は何のために日露が戰つたかわからなくなつた大事件を報告されて驚いた」とあり、 石井菊次郎が覚書について報告したという意味のことが書かれています。それと、一又の本には、山座外交 (座談会)も掲載されていて、「五 桂・ハリマン協定の破棄」では一又、大畑篤四郎、細谷千博、臼井勝美がそれぞれ見解を表明しています。このあたりは「秀逸な記事」にグレードアップする際に使用されれば有益かと思います。-- Takabeg(会話) 2020年6月30日 (火) 13:05 (UTC)
- 返信 芝居説はありだと思います。桂が米国の病気療養中の小村にハリマンの件を黙っている方が何となく不自然ですから。そのとき既にハリマンは来ているし、日比谷焼打事件は起こっているし、、、ということですからね。それにまあ、蘇峰の沈黙、金子の沈黙、5人の銀行家の不特定、など「芝居」だったら、不思議なことは全部解決できちゃいますからね。ウラのウラがあるような気はしています。1905年の小村寿太郎の獅子奮迅の働きぶりと日本国家への貢献はわかる人にはわかっていても、世評は国賊扱いですから、そのギャップを埋める何かが必要だったのかも?とか、戦争に英雄の必要だった時代ですから外交にも英雄的エピソードが必要だったのでは?とか、いろいろ考えさせられます。実は石井菊次郎というのも、たいへんおもしろいと思いました。おいおいエピソードに加えていきたいと思います。ありがとうございました。--Greenland4(会話) 2020年6月30日 (火) 15:50 (UTC)
- (質問) 長谷川峻『山座公使』では山座に事の顛末を伝えたのは石井菊次郎ということになっているのはわかりましたが、一又正雄『山座円次郎伝』によると誰なのでしょう。松本健次郎ということでしょうか。--Greenland4(会話) 2020年7月2日 (木) 15:32 (UTC)
- 一又正雄は、両方 (長谷川の記述と松本自身による回想) 紹介しています。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 13:54 (UTC)
- 石井菊次郎が一足早く横浜に到着した山座円次郎に事の顛末を伝えたという件については、記事に反映させました。山座は松本からも同じ話を聞いたということなのか、それとも、伝えたのは石井菊次郎だけだったのか、そこを伺いたいのです。--Greenland4(会話) 2020年7月11日 (土) 22:17 (UTC)
ハリマン一行の日光旅行
[編集]Kennan (1917), p. 16. には、September 7th, in a special train furnished by the Nippon Railway Company, the Harriman party proceeded to Nikko… とあります。また、久保尚之『満州の誕生 日米摩擦のはじまり〈丸善ライブラリー 184〉』丸善、平成8年2月20日 発行、ISBN 4-621-005184-9、88頁。には、「渋沢の誘いを受け、ハリマンは四日間の日光旅行に出かけることになった。九月七日、午後二時四〇分発の特別列車で、ハリマンは上野から日光に向かった。渋沢ももちろん同行している。」とあります。かなり詳細な情報ですがソースの提示がありません。恐らく新聞記事から引いたのではないかと推測されます。ただ、残念なことに、久保は「フリージャーナリスト」という肩書で同書を書いており、文体もセリフまわしの多い小説仕立てのような形になっていますので、情報源とは受け入れられなさそうです。-- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 14:12 (UTC)
- コメント 「小村外交史」では、まるで6日に日光へ赴いたかのように書いているので騙されてしまいました(よく読むと、はっきり「6日」と書いているわけではありません)。おそらく、9月7日が正しいのだろうと思います。「情報源として受け入れるかどうか」というのは、本来的には読者に委ねられるべきことなのであり、執筆者が先回りしてあれこれ考えるべきことではないと考えます。「フリージャーナリストの誰それは9月7日、午後2時40分発の特別列車で日光に向かっていると書いている」「外務省編纂の小村外交史はそこのところ誤魔化して書いてある」という、その全体が伝わればよいと私は思います。それこそ本当の「中立性」ということでしょう。どっちを信ずるか(あるいは、信じないか)は読者に委ねられるべきで、最初から「フリージャーナリストだから排除」みたいなことだと、そもそも、その全体が伝わりません。だから、黒岩外せという意見にしても、それなりに尊重することはよいとしても、全面的に受け入れる必要はないと考えます。翻訳記事では、いちいち情報源を精査するなんてことはなされていませんし、最近選ばれた記事では、本文すらろくに読まれていない可能性があります。GA選考での「反対」は、ケチつけやすいところでケチつけているところが多分にあるので、あまり神経質にならなくてもよいんじゃないでしょうか。--Greenland4(会話) 2020年7月11日 (土) 23:57 (UTC)
- (追記)すでにKennanが出典として提示されていますね。失礼しました。外国人ジャーナリストだと、一も二もなく信じてしまうでしょうね。--Greenland4(会話) 2020年7月12日 (日) 00:15 (UTC)
小村外交史など
[編集]『小村外交史』をはじめ、いくつかのソースにはページ番号がつけられていません。WP:INCITEに従って、ページ番号をつけていただければ幸いです。 -- Takabeg(会話) 2020年7月11日 (土) 14:12 (UTC)