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ノート:栗田健男

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「評価」について

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「但し、航空支援もない低速力の戦艦部隊で米軍の高速空母機動部隊の補足を企図するという常軌を逸した発想が、どの程度納得を得られるかは議論の余地がある」との記述について、この発想を「常軌を逸した」とした論者は具体的に誰でしょうか。類似の発想はミッドウェイ海戦時にも四空母喪失後に出ていますし、そもそも第二艦隊首脳部がこの確認を行いそれを連合艦隊司令部が容認したことは事実であって、これを以て栗田提督及び第二艦隊首脳部を常軌を逸していると評するならそれを容認した連合艦隊司令部は更に常軌を逸していることになります。好悪にとらわれた感情的な記述になりかけているのではないでしょうか? --Ryuga 2007年1月19日 (金) 14:30 (UTC)

『戦藻録』の記述について

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栗田艦隊の反転問題について宇垣第一戦隊司令官もその個人日誌『戦藻録』に「何故栗田長官は反転して米機動部隊を叩かないのか」という内容の記述を残しており、この情報が艦隊上層部にある程度共有されていたことを示している。とRyuga氏は書かれましたが、原書房刊『戦藻録』(新装版94年第二刷)で本文を確認してみましたが、そういった内容の記述は存在しませんでした。むしろ、「大体において闘志と機敏性に不十分の点ありと同一艦橋にありて相当やきもきしたり」と栗田の指揮に批判的な筆致であり、また例の北方の「幻の敵機動部隊」についても「いつ迄も同一場所にいる筈もなし」と冷笑的な態度さえ伺えます。Ryuga氏は一体、何に拠ってこの文章を書かれたのでしょうか?見落としがあるかもしれませんので、具体的に、何年何月何日のどこに記述があるかご教示願えないでしょうか。--KASAGI 2007年7月26日 (木) 10:35 (UTC)[返信]


まさに同部分に拠っています。部分的引用では文脈が曖昧になりますので、多少長いですが引用します。 なお、字体や数字は適宜読みやすく修正しています。

<以下引用> 1313再び動揺してレイテ湾内突入を止め、北方の敵機動部隊を求めて決戦せんとし、進路零度サマール東岸を北上す。1316約70機来襲被害無し、陸岸に接航すれば雨雲断雲多きを以て視界良好なる方向にあるべきと為し助言の結果進路10度にて進む。 この時期に於ける風向30度(朝水上戦闘の場合はスコールの為風向区々なりしも大体は北寄りの風なりし為敵は此の風にて煙幕を利用スコールに追われて退却せる格好となる)にして20度方向水平線の彼方に飛行機の発着運動を認め敵空母の所在を略知せり。よって風向に向い極力進撃夕刻迄に敵を捕捉すべしと為せるも敵は優速32節にて到底追窮し得ずと断じて北西に進めり。

(上部欄外の追記: 敵信に依れば第七艦隊をレイテ南東300浬に集結を下令し、またタクロバン基地に艦上機集中しつつありよって敵は、機動部隊と共に遊撃配備をとり我泊地突入に応ずると見たり。レイテの敵情不明なれば突入は好餌を与えるのみ、よって意表に出てスルアン灯台の5度113分に0945所在したるKdBを求めて反撃に決したりという。)

戦さが杓子定規に行くものならば何でも無きも時に過誤あり、出来事もあり、殊に友軍飛行機の攻撃進出を見るに於ては一応は追撃し見るべきものと考えたり。大体に闘志と機敏性に不十分の点ありと同一艦橋に在りて相当やきもきしたり。保有燃料の考が先に立てば自然と足はサンベルに向かう事となる。敵さえやっつけ得れば駆逐艦には夜間戦艦より補給するも可なる筈なり。 <引用終わり>

文中で宇垣提督は「北方の機動部隊を追撃しようと決め、敵空母の艦載機発着も視認したので夕方までに捕捉しようとしたが追いつけそうにもないので北西に進路を変えた」と述べ、欄外にレイテ突入を断念した理由についての伝聞を記し、そして「味方の航空部隊が攻撃進出しているのだから追撃すればよさそうなものを、闘志も柔軟性も不十分である。燃料の心配ばかりするからサンベルナルジノ海峡に向かいたくもなるのであって、敵さえ撃破してしまえば小型艦に戦艦から夜間洋上給油だってできるではないか」と不満を記しています。「敵さえやっつけ得れば」と書いているのですから、宇垣としては「敵をやっつけ」たかったと見るべきです。 つまり、宇垣としては「北方の機動部隊」を断固追撃したかったということになります。この少し後で「敵KdBを北方にも見ず、いつ迄も同一場所に居る筈なし」と書いていますが、これにも「最初からただ北に向かっていれば捕捉できたものを」という無念が感じられます。

以上より、かかる記述としました。 根拠は以上の通りですので、本文における「根拠無し」との記載は外させていただきます。 --Ryuga 2007年8月13(月) 11:18 (UTC)


回答ありがとうございます。私も再度熟読してみました。私自身も誤読していた部分がありました。そして、Ryugaさんの意図した解釈は理解できました。しかし、その解釈には無理があるでしょう。結論から言うと、「何故栗田長官は反転して米機動部隊を叩かないのか」と宇垣が思ったというのは正しいです。但し、それはレイテ突入か反転かを巡る思惑とは別の時点での話です。

確かに、宇垣は「なぜ敵機動部隊を叩かないのか」という旨を記していますね。しかしそれは、栗田の「謎の反転」に至る間の話ではありません。「敵さえやっつけ得れば云々」以下というのは、文脈上、レイテ突入を断念して反転した後、目標としていた機動部隊追撃を諦めたことを言っているのでしょう。Ryuga氏は、この時系列の錯誤によって誤った解釈をしています。

確かに、宇垣は「断固追撃したかった」でしょう。しかしそれは、レイテ突入と機動部隊追撃のどちらかを選ぶか、という判断においてではなく、レイテ突入を捨て、機動部隊追撃を選んだのだから、後は断固追撃すべし、ということでしょう。栗田の「謎の反転」に関するエピソードではないわけです。

Ryuga氏が、最初からそのつもりで書いてたのなら、間違いではないですが、記事の本文の前後関係からは、栗田の反転の決断には、宇垣もほぼ同様の認識があって、宇垣も栗田の判断を支持していると書いているように読めます。文中に「反転して」とあるからには、あの「反転」だと思うわけです。

しかし、これにも「最初からただ北に向かっていれば捕捉できたものを」という無念が感じられます。とあるのだから、やはり違うのでしょう。これだと、宇垣は最初から北方の機動部隊撃滅を指向していたかのように読めますが、上記で述べた通り、宇垣はレイテ突入ではなく機動部隊追撃を支持していた、という文脈ではないわけです。宇垣の思惑は不明なわけです。

宇垣は、この反転についての理由をはっきりとは述べていませんね。1313再び動揺してレイテ湾突入を止め、北方の機動部隊を求めて決戦せんとし、進路零度サマール東岸を北上す。と、事実関係だけを述べた後、欄外の追記で伝聞形式で理由を記しているに過ぎません。最後に総括として、「大体に闘志と機敏性に不十分の点ありと同一の艦橋にありてやきもきしたり」という感想を述べていますが、これもレイテ湾突入断念、機動部隊追撃断念という作戦全体における栗田の指揮のことを言っているのでしょう。基本的に、宇垣は栗田に対して批判的であったとみて間違いはないと思います。--KASAGI 2007年8月13日 (月) 14:39 (UTC)[返信]


私の書いた文章を読んで貰えれば分かる筈ですが、私は1100時の「北方に敵機動部隊あり」との無電による「情報」がある程度栗田艦隊上層部によって共有されていたであろう事の傍証として、宇垣提督の当該記述を引用しています。宇垣が栗田提督に批判的であったことは広く知られていることであり今更反論すべきことでもありませんが、私が言いたかったのは当該無電による情報を宇垣らも知っていたと思われること(つまり、無電が捏造である可能性は低い)、この無電情報が栗田の判断に影響した公算が大きいこと、これだけです。--Ryuga 2007年8月13日 (月) 14:55 UTC)


それはおかしいですね。「何故栗田長官は反転して米機動部隊を叩かないのか」と書いたのが1100時の「北方に敵機動部隊あり」との無電による「情報」がある程度栗田艦隊上層部によって共有されていたであろう事の傍証であるならば、なぜレイテ突入中止後の、北方の機動部隊追撃中止後の場面を引用する必要があるのですか。その時点では何ら傍証にはならないでしょう。その時には既にその情報を元に機動部隊追撃をやってしまっているのですから。やはり時系列を把握されていないようです。

また、宇垣が無電情報を知っていたからといって、捏造である可能性は低い云々は、この文章からは何ら判断材料とはなりません。電信を宇垣が直接受信しているわけじゃないですし、それが真実であれ何であれ、こういう無電が来た、と見せられれば宇垣は信用するでしょう。(因みに私が無電が捏造である可能性を追記したのは、7月21日の書き込みですよ。)--KASAGI 2007年8月13日 (月) 15:20 (UTC)[返信]


無電が偽電であるとの議論や、捏造ではないかといった極論まで行われている事は貴殿の指摘を待つまでもなく知っておりました。よって、まず宇垣が1100時の無電を知っていた公算が高いことを書いておこうと考えました。もしも宇垣が1100時の無電の件を知らなかった場合、宇垣としては「北方の機動部隊」の存在そのものを知らない訳ですから、「何故断固追撃しないのか」との感想を持つことすら無かったはずです。 なお、宇垣はサマール沖海戦でのアメリカ護衛空母部隊との戦闘後に艦隊が一旦レイテを目指して南下に転じたことをこう書いています。

<以下引用> 斯くして北方進路に在る時280度方向に発放の閃光を認め、艦隊は集結しつつ同方向に進撃す。着色弾の海面着色跡も所々にあれば、ドス赤き相当広範囲の海面に続いて敵の漂流者が破壊せる短艇に群り、又其の附近一帯に漂流しつつあるを見る。彼等は我が艦隊の堂々たる追撃を如何に見たらん、助けを呼びたくも敵なれば別に信号もせざりき。 其の直後1014、SB2C、TBF24機の来襲あり。鈴谷被爆、中部右舷の発射管室に火災を生じ見る間に増大、遂に魚雷の誘爆を生じ航行不能となり後沈没7S司令部は利根に移乗せり。駆逐艦一隻も被害を蒙る。敵敗残の漂流者は遠く此の光景を眺め喝采したるべしと思う。 1120の頃に至り何を考えたか進路を225度としてレイテ湾に突入すと信号せるが、1215更に30機の来襲あり、この時機には第一第二部隊を合し単一の輪形陣と為しありて被害無し。 <引用終わり>

「何を考えたか」と言っている訳です。宇垣は端から敵機動部隊を追いかけたかったと読み取るのは自然だと考えます。ただ恐らく貴殿は納得しないと考えますし、幾多の戦史研究家が長いこと議論して結論のでない問題でもありますので、私としては「断定を避け、両論併記で判断は読者に委ねる」という形で良いと考えています。何にせよ、今の記事内容(仮想戦記の話など何の関係があります?)はあまりに酷すぎます。。--Ryuga 2007年8月24日 (月) 14:24 UTC)

無電が日本軍を撹乱させる為の偽電であったというのは大昔からあった議論なのであなたが知っていて当然ですが、私が言っているのは栗田司令部による捏造であったと主張する生存者の証言のことを言っています。この点については「捏造」という用語によって互いに誤解があったようですが、宇垣が「北方に敵機動部隊あり」という情報を知っていたということは、件の電報が「偽電」や「捏造」ではないことを証明するものではない、ということです。宇垣が通信機の前で直接受信しているわけではないのです。真偽はともあれ、ともかく「電報」が、第二艦隊司令部にあった。それを宇垣にも伝えた。そう考えるのが自然じゃないんですか?栗田司令部による無電捏造があったかどうかの問題はとりあえず後にしましょう。

要するに、栗田が1100の「北方に敵機動部隊あり」という電報内容を宇垣に知らせずに、反転し、北方の機動部隊追撃という作戦を立てることが可能か、ということです。栗田司令部がそういった情報を開示もせずに、反転をしたとは考えられません。必ず、「なぜ反転するのか」と宇垣から質問があるでしょう。同じ艦橋にいるんですよ。電報の真偽はともかく、「北方に敵機動部隊あり」との情報は、当然宇垣も知っていたはずです。いうなれば、「なぜ機動部隊追撃を中止するのか」という感想が出るのは当たり前でしょう。何を追撃しているのか知らずに漫然とついていっているなんてことはないでしょう。これが宇垣の「北方の機動部隊」を知っていた証拠だ、などというのは、当たり前過ぎて意味がありません。

あなたは、レイテ突入中止後の、北方の機動部隊追撃中止後の場面を引用して1100時の「北方に敵機動部隊あり」との無電による「情報」がある程度栗田艦隊上層部によって共有されていたであろう事の傍証としましたが、その時点では何ら傍証にはならないと私が反論したのは、既に北方の機動部隊目掛けて進撃していた以上、宇垣もその情報を知っているのが当然であるからなのです。

また、あなたが引用された1120スプレイグ隊追撃中止の画面ですが、追撃が中途半端に終わったのは事実です。利根艦長なども悔しさを滲ませていましたが、宇垣も同様であったことはあなたが引用した文章から読み取れます。しかし、この時の「空母追撃論」が普遍的に、常に宇垣が「空母追撃」論者だったとは言えないはずです。状況も異なります。この時は1100「北方の機動部隊」情報は届いていません。本来の作戦目的、レイテ湾突入を放棄し、遠く離れた敵情不明の空母を追撃することと、目の前の砲戦距離にある撃滅目前の空母を追撃することとは同列には置けないはずです。

勿論、私は宇垣があくまでもレイテ突入を主張した、と言っているわけではありません。宇垣日記から読み取れる事実を正確に把握したいと思っているだけです。時系列も、状況も異なる場面での記述を引用することは、印象操作ととらえられても仕方ないでしょう。

仮想戦記云々は私が書いたものではありませんが、今のままでは読みにくいのは確かです。大整理が必要でしょう。2007年8月25日 (土) 13:19 KASAGI


有効な反論が無いようなので該当部分を削除します。--KASAGI 2007年9月5日 (水) 14:32 (UTC)[返信]

>宇垣日記から読み取れる事実を正確に把握したいと思っているだけです。
下記にも書きましたが『戦藻録』の評価については文献でも割れているところであり、しかも栗田の項に記すべき事項ではないと思います。日記からの引用に留めるべきではないでしょうか。
岩見浩造 2008年3月15日 (土) 07:12 (UTC)[返信]

記事の削除について

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評価的内容は削除すべきであるとする意見もあり、残すにしても現状では冗長過ぎるとも思います。評価はいらないといっても牟田口廉也源田実など評価的内容がある頁は他にも多数あり、ではそれらも全て削除するのか、単なる履歴の羅列で良しとするのか、という疑問もあります。また、政治家や軍人といった結果責任がある立場の人間の記事に一定の批評が混じるのはある程度止むを得ないのではないかとも思います。識者による意見、適当な編集を乞いたいところです。--KASAGI 2007年9月17日 (月) 03:50 (UTC)[返信]

人物に対する批評は出典が明らかにできるものであれば構わないでしょう。また、経歴が貧弱すぎますね。もう少し足せそうなので今度足しておきます。参考文献・著述(相当)物なども全く挙がってない。これは酷い。やはり加筆する必要がある。
それと、電報論争なんですが、これは性質的にレイテ沖海戦で記述するべきものと考えます。というかですね、私が同項目の通信不達の事項を設けて関連情報を纏めた際に、こちらの項目も参考にして編集時にレイテ沖海戦と重複していなかった要素(深井少佐等)は回収したんですね。あと、深井の件は番組出演でネット上の知名度が上がったようにも思われますが、少なくともどういうメディアで主張したかは書いておくべきでしょう(向こうに書き加えた際にその辺の処理もしておきましたが)。『戦藻録』についても、宇垣本人が戦死した為実際は評論家により多様な受け取り方があります。議論になっているのはレイテ沖海戦時の反転に関しての所見なのですから当該項(若しくは宇垣の項)に書き込むべきことであり、解釈が複数存在する場合は、通常はそれがどのように受け取られたかについて示すべきでしょう。
>過去の栗田の決断に対する評価は一般的に辛いが、最近では公平性を欠いた行き過ぎの非難に対し反論が述べられる事も少なくない。
栗田を擁護する主張は海戦直後および本当の戦果が明らかとなった終戦直後より複数為されています。現実には批判論との応酬が半世紀以上継続したと言えるでしょう。この記述は事実認識として間違ってますね。
岩見浩造 2008年3月15日 (土) 07:12 (UTC)[返信]

『発言禄』の新設について

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再び失礼します。いわゆる逃げ腰についての議論は対象期間が太平洋戦争全期に渡るものでありますから、栗田個人の人格に去来すると主張されているものなのでここで書くことはやぶさかではないです。それと、人物なのですから発言禄の欄を作っておこうかと思います。戦後の一時期、沈黙して著作も書かなかった事があるのは事実ですが、一部の文献に見られる死ぬまで何も語らなかったと言う通説的記述は明らかに誤りです。実際には取材に対してかなり詳細に語っていますし、栗田を知る関係者への取材によって明らかになった(とされる)戦時中までの発言や、GHQへの陳述禄もあります。論評を加えずにこれらを書けるだけの資料はあるので、今後加筆し、反対が無ければレイテ関係に特化した批評はレイテの記事に任せたいと思いますが如何でしょうか。
岩見浩造 2008年3月18日 (火) 21:12 (UTC)[返信]

栗田の経歴について

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手直ししました。経歴冒頭のただし、乙種学生として1年海大で教育を受けているについてですが、海大乙種は術科学校の高等科に進む前に行われた一種の教養課程で、4ヶ月から6ヶ月の教程です。記事中に書いたとおり同期の8割が進みました。特に書く必要もない履歴かと思われますが、一応記述を残すという趣旨で説明を加えてあります。

なお評価欄の当時の日本海軍で最も長い戦歴を持つ実戦指揮官の一人であり、駆逐艦艦長11回、駆逐隊司令3回、水雷戦隊司令官3回などについては出典がありますが、日本海軍史(9巻)、日本陸海軍総合事典ともに駆逐艦長は6艦(時雨、追風、二号、萩、浜風、浦風)です。少尉時代から乗組んだ駆逐艦は5艦(榊、樺、峯風、矢風、羽嵐)。足すと11艦。また水雷戦隊司令官は日本海軍史(9巻)、『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』、日本陸海軍総合事典とも一水戦、四水戦の2回。いずれ吉田氏の著作を確認しますが、結構みかける本ですので、お持ちの方がいらっしゃればご確認お願いします。--Stingfield 2011年7月12日 (火) 10:30 (UTC)[返信]

出典を確認しました。引用します。十一隻の駆逐艦長、駆逐隊司令を三回、水雷戦隊司令官を三回、戦隊司令官を二回、その間に高速戦艦「金剛」艦長。開戦後、中将になり、三戦隊司令官、そして第二艦隊司令長官(1996年1月31日発行)。確かに出典に忠実に記述されております。さてここで提案なのですが、日本海軍史、日本陸海軍総合事典を出典にこの記述を変更したいと思います。水雷戦隊司令官以外に戦隊司令官を第七戦隊、第三戦隊で務めましたので「駆逐艦長6回、駆逐隊司令3回、水雷戦隊司令官2回、戦隊司令官2回。」なお当時の日本海軍で最も長い戦歴を持つ実戦指揮官の一人でありについては出典がありません。どこかで見た記憶はあるのですが、「当時の日本海軍で最も長い戦歴を持つ実戦指揮官の一人である。」として出典が見つかるまで要出典範囲にする。あるいは出典不要としてそのまま記載するのもありかなと。出典通りの記述を一方的に代えるつもりはありませんので、ご意見お持ちします。--Stingfield 2011年7月14日 (木) 05:36 (UTC)[返信]
変更しました。異論がある場合は再び改めることにやぶさかではありません。栗田への評価をこれほど記述する必要があるのか疑問にも思えますので、記事全般へのご意見などもお待ちします。--Stingfield 2011年7月17日 (日) 14:25 (UTC)[返信]