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ノート:柳川次郎

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221.91.21.6さんへ。「柳川組の戦闘」(飯干晃一著・角川文庫)P.259には「わたしは幼い時、日本にやってきた在日韓国人のひとりである。わたしにとって韓国こそが生みの親であり、日本は育ての親である」と書かれています。また、p.261には「わたしも在日韓国人として、差別や偏見にいくたびとなく苦渋をなめ、そのせいとはいわぬが、無茶もしてきた」と書かれています。本文で「在日韓国人」を「韓国人」に変更した理由は何ですか?--竜造寺和英 2007年1月15日 (月) 02:06 (UTC)[返信]


「柳川組の戦闘」(飯干晃一著・角川文庫)の表記に合わせました。--竜造寺和英 2007年1月24日 (水) 13:23 (UTC)[返信]


「吉森一家」と書かれてありましたが、「柳川組の戦闘」(飯干晃一著・角川文庫)のp.97には、「吉富組」と書かれていますので、「吉富組」に改めました。--竜造寺和英 2007年2月4日 (日) 07:50 (UTC)[返信]


「このときの8人は、柳川、福田留吉、高信吉、倉本広文(後の五代目山口組若頭補佐)、斉藤登、松田重、武本ケ慧、福成信昭だった」を「註」から「本文」に戻しました。--竜造寺和英 2007年2月12日 (月) 13:21 (UTC)[返信]


目次について。「2 戦後の混乱期から鬼頭組との戦闘」と書かれていましたが、この部分に「柳川組結成」の文章が入っていたために、「2 戦後の混乱期から柳川組結成まで」に変更しました。また、「3 柳川組創設 山口組随一の武闘派となる」と書かれていましたが、この部分が長くなりそうなので、「3 山口組直参まで」と「4 他府県への進出」に分割しました。--竜造寺和英 2007年2月12日 (月) 19:17 (UTC)[返信]


杉山真大さんへ。「このときの8人は、柳川、福田留吉、高信吉、倉本広文(後の五代目山口組若頭補佐)、斉藤登、松田重、武本ケ慧、福成信昭だった」と「谷川の二代目襲名披露式は、昭和39年(1964年)7月26日に、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた 」と「柳川自身は本家に無断で組を解散したことで絶縁処分されたため、引退」が註に移っていますが、これを本文に記述すると何かまずいのでしょうか?これは、「上記の文章を本文に入れろ」と主張しているわけではありませんので、ご容赦ください。--竜造寺和英 2007年2月12日 (月) 20:59 (UTC)[返信]


「4 他府県への進出」を「4 山口組直参以降から第一次頂上作戦開始まで」に変更しました。--竜造寺和英 2007年2月13日 (火) 22:17 (UTC)[返信]


「柳川の死後にその政治遺産を佐野一郎(元公安調査庁調査官)が引き継いだが、」と書かれてありますが、昭和59年4月9日(月)第101回国会予算委員会第19号によりますと、昭和59年4月9日の段階で、既に佐野一郎氏が会長に就任しています。この部分を修正しています。--竜造寺和英 2007年2月14日 (水) 10:04 (UTC)[返信]


杉山真大さんへ。ご返答がないのですが、「このときの8人は、柳川、福田留吉、高信吉、倉本広文(後の五代目山口組若頭補佐)、斉藤登、松田重、武本ケ慧、福成信昭だった」を本文に戻してよろしいでしょうか?また、「柳川自身は本家に無断で組を解散したことで絶縁処分された」の部分も表記を修正の上、本文に戻そうと考えています。「谷川の二代目襲名披露式は、昭和39年(1964年)7月26日に、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた 」の部分は、註のままにしておこうと考えています。--竜造寺和英 2007年2月14日 (水) 12:29 (UTC)[返信]


杉山真大さんへ。ご返答がないので、まずは「このときの8人は、柳川、福田留吉、高信吉、倉本広文(後の五代目山口組若頭補佐)、斉藤登、松田重、武本ケ慧、福成信昭だった」を修正して本文に戻しました。Wikipedia:検証可能性には、「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります」とありますので、今後加筆修正を行う際には、是非その論拠となる検証可能な出典の明示をお願い致します。検証可能な出典の明示はなくとも、少なくとも杉山真大さんから修正する理由の提示をお願いします。でないと、杉山真大さんの修正意図がわからない部分が出てきます。細かいことですが、「註」を設けることも、実質的には本文に加筆しているわけですから。これは『「註」を設けるな』と主張しているのではありません。私も「註」を活用して、編集を始めました。なお、上記部分の出典は、「柳川組の戦闘」(飯干晃一著・角川文庫)のp.21です。--竜造寺和英 2007年2月14日 (水) 19:29 (UTC)[返信]

組関係の記述について

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柳川次郎個人の項目とは別に柳川組の項目が存在している為、組関係の記述は柳川組の方に御願いします。Yaku 2007年2月14日 (水) 19:52 (UTC)[返信]


Yakuさん、おはようございます。「暴力団ミニ講座19)上納金」には、「このように、暴力団社会は富も権力もすべて親分に集中する仕組となっており」と書かれています。従って、柳川次郎氏が柳川組組長だった時代は、柳川組の行動には、柳川次郎氏の意思が反映していたと思われます。これらを切り離して記述することは、基本的に難しいと思います。よって、柳川次郎の記述と柳川組の記述が重なってもある程度は仕方がないと思います。もちろん、二代目柳川組時代の抗争事件の記述が、柳川次郎の記事に入ることはない方がいいと思います。Wikipediaの方針には「2つ記事に、同じ内容の記述があってはならない」と云うルールはありません。だから、柳川組にも柳川次郎にも同じ記述があっても問題ないと思います。なお、もともとは「以降、全国最大の組織山口組の全国制覇第一先鋒部隊として、冷酷無惨な戦闘力で活躍し、柳川組と 山口組の勢力を大きく拡大させた」と記述されていました。しかし、どれほど「冷酷無惨な戦闘力で活躍」したのか、どれほど「柳川組と 山口組の勢力を大きく拡大させた」のかが、具体的にわかるように、主な抗争事件を積み重ねて記述した次第です。つまり、「以降、全国最大の組織山口組の全国制覇第一先鋒部隊として、冷酷無惨な戦闘力で活躍し、柳川組と 山口組の勢力を大きく拡大させた」の部分をより詳細に記述したのです。こうなると記事が長くなりますが、Wikipedia:完璧な記事には「ほとんど全ての記事は、「本当に」優れているならば、少しでも良くなるために長くなっていきます」とありますので、記事が長くなることは、Wikipediaの方針には反していないと思います。--竜造寺和英 2007年2月14日 (水) 20:33 (UTC)[返信]


執筆者の方へ。過去に起こった事柄を、過去形ではなく、現在形で記述される方がいらっしゃいます。現在形にされるのは、何故でしょうか?--竜造寺和英 2007年2月14日 (水) 21:26 (UTC)[返信]


「頂上作戦以降も大阪府警の集中取締りの対象になり、ついに柳川は収監中の名古屋刑務所で柳川組解散を決意した」と書かれてありましたが、「山口組50の謎を追う」(洋泉社)のP.138には、「その後も幹部クラスの検挙、傘下組織の解散が相次いだが、本家の山口組と並んで『広域暴力団』に指定されていた柳川組が四十四年四月に解散、これが山口組に対する「第一次頂上作戦」のひとつのピリオドとなった」と書かれています。つまり、第一次頂上作戦以降に柳川組は存在していないことになります。よって、「頂上作戦以降も大阪府警の集中取締りの対象になり」の部分を削除しました。--竜造寺和英 2007年2月15日 (木) 02:03 (UTC)[返信]


「三代目山口組田岡一雄組長は、本家に無断で柳川組を解散させたと云う理由で、直ぐに柳川と谷川を絶縁とした」と云う部分は、柳川次郎氏に関することなので、本文に復活させました。出典は「柳川組の戦闘」(飯干晃一著・角川文庫)のp.257と「山口組50の謎を追う」(洋泉社)のp.116~p.117です。--竜造寺和英 2007年2月15日 (木) 02:06 (UTC)[返信]


Yakuさん、こんにちは。とりあえず、「昭和36年(1961年)3月8日夜、都島区都島本通のバー「千舟」で、柳川組組員・李万実らと淡熊会寺田組組員らが喧嘩となった。寺田組組員8人は、報復として李の自宅を襲ったが、李は不在だった。柳川組組員が、都会会長宅で、寺田組への報復の準備をしているところ、全員が警察に凶器準備集合罪で検挙された。同年4月1日深夜、梅田で、柳川組組員・野沢義太郎、森安直樹前川秋英浜田荘郎と神戸市・松浦組7人との喧嘩が起こった。前川は刺殺され、森安も重傷を負った。松浦組組員3人も怪我を負った」の部分を削除しました。この部分は「柳川組」の記事の方に回します。もちろん、二代目柳川組の抗争事件も一切記述していません。これらも全部「柳川組」の記事に回します。また、中島会が松葉会との手打ちを破ったために、谷川康太郎氏と中島会が揉めますが、これも記述していません。なぜならば、この抗争は谷川康太郎氏が独断で起こした色合いが強いからです。これも「柳川組」の記事に回します。もう一度参考文献を検証し、柳川次郎氏の関与が殆どないような抗争事件については、全部「柳川組」の記事に回します。ただ、柳川次郎氏の関与が認められる抗争については、「柳川次郎」の記事に記載すべきだと思います。--竜造寺和英 2007年2月15日 (木) 02:35 (UTC)[返信]


すべて過去に起こった出来事なので、過去形で表記しました。--竜造寺和英 2007年2月15日 (木) 15:41 (UTC)[返信]


杉山真大さんへ。柳川次郎に関する記述は全て本文に戻しました。これを註にするならば、Wikipedia:検証可能性のルールに従って、その論拠となる検証可能な出典を明示してください。最低でも理由を明記してください。--竜造寺和英 2007年2月15日 (木) 15:49 (UTC)[返信]


Yakuさん、こんばんは。「柳川組は、大垣市に西原組を作り、韓吉しゅ[19]を組長に据えた。昭和38年(1963年)3月13日午後10時30分ごろ、大垣市高島町のバー「夕暮」で、柳川組西原組組員と本多会系河合組組員と喧嘩になった。同年3月14日午前0時30分、河合組組員と河合組の友誼団体木原組組員17人が、西原組組員10人の宿泊先だった大垣市高橋町の旅館「みその」を襲撃した。1人が死亡した。本多会若頭平田勝市は、自身の平田会を率いて、大垣市に入った。山口組は若頭地道行雄を大垣市に派遣した。山口組は本多会を破ったが、岐阜は地道組の直轄となった」と記述しましたが、これも谷川康太郎氏の独断的な抗争のようなので、削除しました。--竜造寺和英 2007年2月15日 (木) 16:19 (UTC)[返信]


Yakuさん、こんばんは。「同年9月27日昼、都島区で池田組組員が柳川組都会会員に殴られた。これに対し、池田組は都会事務所に殴り込みをかけ、都会会員山本道男を日本刀で刺殺し、小林菊松を負傷させた。柳川組は報復を開始した。同年10月30日までに計4回池田組事務所に殴り込みをかけ、ダイナマイトで池田組事務所を爆破した」と記述していましたが、この時期柳川次郎氏は服役中でした。し--竜造寺和英 2007年2月28日 (水) 09:45 (UTC)たがって、柳川次郎氏が抗争の決断を下せるはずがありません。よって、上記の部分を削除しました。参考文献をきちんと理解せずに、安直に記述してしまいました。申し訳ありませんでした。--竜造寺和英 2007年2月18日 (日) 08:45 (UTC)[返信]


杉山真大さんから、註へ入れる基準が示されませんでした。本文中に入れておいた方が、より理解しやすくなると思われる部分をすべて註から本文に戻しました。--竜造寺和英 2007年2月20日 (火) 05:20 (UTC)[返信]


杉山真大さんへ。「こうして地元の暴力団の内紛や抗争に介入したりして勢力を伸ばすことは山口組がよく採っていた手法であり、柳川組米子支部の例もこれに漏れなかった」と加筆されていますが、その論拠となる検証可能な出典の明示をお願い致します。--竜造寺和英 2007年2月20日 (火) 13:42 (UTC)[返信]


出典の提示がなかった部分を削除しました。何卒、ご了解ください。--竜造寺和英 2007年2月28日 (水) 09:45 (UTC)[返信]


「また、日韓友愛親善会を設立し、「ある面での」日韓の親善に尽力した。」と書かれてありますが、「ある面」とは具体的にどのようなことなのでしょうか?--竜造寺和英 2007年3月6日 (火) 10:44 (UTC)[返信]


1991年12月11日付「毎日新聞」夕刊やNHKの山口組へのインタビュー(You Tube)では、柳川魏志(柳川次郎)と紹介されていますので、「柳川魏志とも名乗った」と加筆しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年5月14日 (月) 07:39 (UTC)[返信]


田中禄春(本名は韓禄春)」と書き換えましたが、検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.147です。--竜造寺和英 2007年6月1日 (金) 17:27 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.267~P.306を出典に加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月4日 (月) 09:00 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.306~P.314を出典に加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月6日 (水) 08:17 (UTC)[返信]


明友会事件については、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0を出典として加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月9日 (土) 13:14 (UTC)[返信]


「立会人は、小倉市テキヤ村上組村上義一組長(山口組三代目・田岡一雄の舎弟)と、村上組若頭格・長谷川則だった。このとき、石井一郎は、村上義一の若衆だった。大長健一は、大長組の金庫番兼代貸格・豊島一広(大長健一の妹婿)を伴って、服役中の大長組幹部・大長定雄(大長健一の弟)を訪ね、人吉市の博徒一家の幹部・宮崎、石井一郎、柳川次郎を舎弟としたことを伝えた。同年、大長定雄が出所した。大長定雄の放免祝いに、石井一郎、柳川次郎、柳川の舎弟・福田留吉が出席し、互いの顔合わせを行った。」と加筆しました。検証可能な出典は、本堂淳一郎『<兇健>と呼ばれた男』幻冬舎<アウトロー文庫>、2001年、ISBN 4-344-40128-XのP.122~P.125です。--竜造寺和英 2007年6月9日 (土) 22:08 (UTC)[返信]


「山口組にターゲットが絞られると、山口組内の最大組織だった柳川組は、警察の集中取締りの対象となった」の一文は、「昭和42年(1967年)10月12日から、柳川組に対する警察の集中取締りが始まった」と重複するため、削除しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 02:18 (UTC)[返信]


「昭和42年(1967年)1月19日夜、柳川組糸魚川支部・李永秋ら6人が、極東組糸魚川支部の賭場に殴り込みをかけ、テラ銭3万円を奪い、信保利一ら極東組組員7人全員を拉致し、糸魚川市の姫川原で暴行を加えた。信保利一ら2人が重傷を負った」と「同年7月20日午後5時から、大阪市北区梅ヶ枝町の中華料理店「東仙閣」で、谷川康太郎の送別の宴が催された(最高裁が上告を棄却する可能性は極めて高く、谷川が実刑判決を受けて、服役するのは確実だった)。餞別金として集まった金の内、400万円を柳川次郎の留守宅に贈り、残りを柳川組組員の保釈金として積み立てた。同年12月12日、最高裁は谷川康太郎の上告を棄却した。同年12月19日、谷川は結核既住症悪化の診断書を大阪地裁に提出したが、大阪地裁はこれを認めなかった。同年12月28日、谷川康太郎が収監された。谷川は大阪刑務所に服役した」と「昭和41年(1966年)1月、谷川康太郎は、大阪市福島区上福島南3丁目の大阪厚生年金病院に移った。同年5月11日午前2時ごろ、柳川組系松元組組員村野清が、金沢市の松葉会系藤田組組員らに拉致され、組員宅で暴行を受け、重傷を負った。上部団体の奔走で、柳川組と松葉会の衝突は回避された。同年9月21日、大阪高裁は、谷川康太郎の控訴を棄却した。同年9月26日、谷川康太郎は最高裁に上告した」と加筆しました。検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 02:18 (UTC)[返信]


「同年8月、谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、洞爺湖に遊びに来た。洞爺湖では、毎年8月1日から3日間、湖水祭りが行われていた。谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、湖水祭りに繰り出した。柳川組幹部が露店でトウモロコシを買おうとしたとき、露天商とどのトウモロコシにするかで揉めた。柳川組幹部や若衆らは、露店の屋台をひっくり返した。湖水祭りに来ていたテキヤ衆は、地元の世話人を中心に結束して、谷川康太郎が宿泊していた洞爺湖畔のホテルに押しかけた。谷川康太郎についていた長岡宗一の若衆2人が、ホテルを出て、地元の世話人に、ホテルの中で谷川康太郎と話し合うように勧めた。地元の世話人1人がホテルに入り、長岡宗一の若衆2人に案内されて、谷川康太郎の宿泊している部屋に入室した。谷川康太郎は、地元の世話人の脇腹に拳銃を突きつけ、両手を挙げさせて、ホテルの窓際まで移動させた。テキヤ衆は、谷川康太郎に拳銃を突きつけられた地元の世話人を目撃し、地元の世話人が人質に取られたことを悟り、その場を解散した。テキヤ衆が解散すると、谷川康太郎は地元の世話人に詫びを入れ、解放した」と「その後、谷川康太郎は、長岡宗一に無断で、会津家小高一家の外田友彦と五分の兄弟盃を交わした。外田友彦は、長岡宗一が会津家小高一家にいた頃は、長岡宗一の格下だった。長岡宗一は、妻の将子に、谷川康太郎と話がしたい旨を伝えた。谷川康太郎は、長岡将子からの電話連絡を受けると、その日のうちに飛行機で大阪から札幌に行った。翌日、谷川康太郎は、釧路刑務所所長から特別面会の許可をもらい、長岡宗一と面会した。谷川康太郎は、長岡宗一を説得した」と 加筆しました。検証可能な出典は、山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2 です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 02:21 (UTC)[返信]


「昭和44年(1969年)以降になると警察の頂上作戦は、山口組にターゲットを絞って実施された」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 02:58 (UTC)[返信]


重複した表記を一部削除しました。また、第一次頂上作戦の部分を『山口組50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0を出典として加筆修正しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 02:58 (UTC)[返信]


「昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政成会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた」、「昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた」、「同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった」と加筆しましたが、検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.221~P.222です。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 08:03 (UTC)[返信]


明友会事件を加筆修正しました。検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.156~P.162です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月12日 (火) 02:56 (UTC)[返信]


「同年12月9日、谷川康太郎は、昭和37年1月坂本組組長刺殺事件での凶器準備集合罪、他2件の併合審理で、懲役2年8ヶ月の一審判決を、大阪地裁で受けた。谷川康太郎は即日控訴して保釈となった。谷川康太郎は、布施市(現:東大阪市)大平寺の牧野病院に入院した」と加筆しましたが、出典は飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.231です。--竜造寺和英 2007年6月23日 (土) 20:32 (UTC)[返信]


「同年7月10日、福岡市旧柳町の料亭「新三浦」で、地道行雄と谷川康太郎の兄弟盃が行われた。谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となった。同年7月25日、山口組本家で、谷川康太郎は、三代目山口組・田岡一雄組長から、若中の盃を受けた。これで、二代目柳川組は山口組直参となった」と加筆しましたが、出典は飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.214です。--竜造寺和英 2007年6月23日 (土) 20:32 (UTC)[返信]

分割提案

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「喜多久一刺殺事件」(山口組奈良県進出)を分割することを提案します。谷川康太郎田岡一雄にも同一の文章があります。これらを一つ一つ加筆修正していくのは面倒なので、「喜多久一刺殺事件」を分割して、柳川次郎の記事にも谷川康太郎の記事にも田岡一雄の記事にもリンクだけ貼り付けておけば、今後の編集が楽になります。--天使の羽根 2008年4月7日 (月) 10:32 (UTC)[返信]

ヤクザのカテゴリを削除するのは何故?

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山口組のカテゴリとヤクザのカテゴリは必ずしも重複しません。例えば、山口組の企業舎弟で、盃を貰っていない人を考えてみてください。例えば、山沖一雄西本一三でいいです。彼らは、盃を貰っていない以上、ヤクザではありません。しかし、山口組の経済部分を支えた重要人物です。このような人物には、山口組のカテゴリに分類されますが、ヤクザのカテゴリには入りません。また、高橋岩太郎は落合一家六代目総長ですが、山口組のヤクザではありません。よって、高橋岩太郎は、ヤクザのカテゴリに分類されますが、山口組のカテゴリには入りません。以上のことより、山口組のカテゴリとヤクザのカテゴリが必ずしも重複しないことがわかります。--天使の羽根 2008年5月4日 (日) 00:20 (UTC)[返信]

記事の正常化

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一週間異論がなければ、竜造寺系以前の編纂に戻します。--Suhuitoburaito 2009年2月23日 (月) 01:25 (UTC)[返信]