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ノート:松永久秀

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「大仏殿焼失については、陣取っていた三好方の失火とする説もある」の部分について資料を示していただけないでしょうか?Moltke


「フロイス日本史」五畿内篇Ⅰ 第一部六一章のp.296を見よ。--以上の署名のないコメントは、125.201.119.161会話/Whois)さんが 2006年8月14日 (月) 15:44 (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。[返信]


フロイスによれば、三好方に属するキリスト教徒が放火したとある。--以上の署名のないコメントは、125.201.119.161会話/Whois)さんが 2006年8月14日 (月) 15:53 (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。[返信]


僕は三好長慶の子孫ですけど27代目ですYO!--以上の署名のないコメントは、210.141.223.118会話/Whois)さんが 210.141.223.118 (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。



爆笑問題・太田光氏の妻太田光代氏が松永久秀の子孫というのは何に基づいているのでしょうか?Batshu


実は信貴山で死なず逃げおおせて、平蜘蛛茶釜を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。

これの情報元は何でしょうか?--58.95.235.97 2008年1月28日 (月) 13:23 (UTC)[返信]

出典削除の合意形成

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脚注により、「光文社刊『日本史 汚名返上 「悪人」たちの真実』井沢元彦・和田秀樹共著」が出典として提示されていますが、これを信頼できない出典として除去する合意形成のためのを提案します。

まず、著者の和田秀樹氏は歴史研究家ではありません。歴史作家ですらありません。永井路子氏のようにその見解が史学の研究にも反映された作家さんもいますがそういうわけではないようです。もう一人の著書である井沢元彦氏は『逆説の日本史』などで有名ですが、彼の見解を安易に信用して良いのか、基本的に、彼の著作を情報源・出典として記載する場合慎重を期すると思いますし、より精度の高い、及び専門家の書いた出典があればそちらを選択するべきだと思います。

結論として、この脚注を除去するべきと私は考えます。皆様の見解を募ります。もし、除去すべきでないと言う合意が形成された場合、私はそれに従います。--ShellSquid/履歴 2014年6月22日 (日) 23:20 (UTC)[返信]

  • コメント依頼からきました。私は歴史に詳しくないのでWikipediaの方針およびガイドラインと照らし合わせてみた結果のみで話をしますが、井沢・和田両氏が歴史の専門家でないにしても、光文社という出版社から刊行されている(つまり自費出版ではない)書籍である以上、Wikipedia:信頼できる情報源にはなると思います。また本文を見ると、これを書いている時点では出典として使っているのは1ヶ所であり、その直後別の出典によって「事実かどうか定かではない」とあるので、Wikipedia:中立的な観点から見る限りでは問題ないと思います。--NOBU会話2014年6月24日 (火) 23:23 (UTC)[返信]
  • 結論としてはご提案に賛成します。
  • ShellSquidさんは苦心なさったのだと思いますが、当該文献が出典として追加された時点[1]と、今の版では、本文での出典に基づく記述の性格が大きく変わっています。追加の時点では「事実」に対する出典であり、今の版では「◯◯と現代ではよく言われる」ことに対する出典としての扱いです。ShellSquidさんはこの出典を独断で除去しないで、なおかつ記事の品質を高めるために現在のような形に修正されたのだと拝察します。
  • その結果として、今の版の記述であれば、当該出典は有効だと考えます。事実は□□でも、現代の世評は◯◯だよ、という時に◯◯について述べるぶんには歴史の専門家である必要性はないと考えます。逆に言うと、当該文献が出典として追加された時点の記述(□□に対する出典)に対しては、信頼性の不足を理由に合意で除去を図るのは妥当かなとも思います。
  • ただし合意という観点では、今の版ではもうひとつ別の出典(『茶道の歴史』)がありますから、「◯◯と現代では言われている/◯◯という(俗)説がある」という形式の記述を継続するうえでは、より信頼性の高い出典に置き換えるという意味で、件の出典を除去することは可能と考えます。
  • もう一つのパターンとして、この出典の追加時点の記述にたちかえって、「歴史的事実」に対する出典として信頼性が高くないという観点で除去するという趣旨の場合、私はその判断を支持します。まあ、そこに戻して「◯◯(要出典)」とするよりも、「◯◯という俗説[出典]があるけど怪しいよ[出典]」というほうがトータルの品質としては向上していると思いますので、いまのスタイルで件の出典を除去するということで良いのだろうと思います。--零細系統保護協会会話2014年6月25日 (水) 15:23 (UTC)[返信]
コメントを皆様からもらっておきながらすみません。私の説明が下手糞でした。もう少し踏み込んで説明します。
Wikipedia:信頼できる情報源#分野ごとのアドバイスに、こういう一文があります。「一般的な公開物は、歴史を小説や映画、テレビ番組、さまざまな場所のツアーガイドから得ています。こうした情報源は噂やゴシップに満ちており、嘘だったり大げさだったりします。彼らは、著名な名前が英雄的な役割を演じるバラ色の歴史を表そうとしがちです。」と。
これを厳守すると、本当に文献の吟味・厳選をしなければならないので、私は窮屈で嫌なのですが、一方で、この記事については、厳選はせずとも、出典の吟味はした方がよいと思いました。以下、根拠の説明です。
私が参照した図書の一つである「茶道の歴史」は、松永久秀爆死説を掲載しています。創作だろうなどとの注意書きはしていません。ただし1980年刊行と少し古いです。あと、他の記事を書いていて気づいたのですが、林哲氏の「会津 芦名四代」や七宮涬三氏の「三浦・蘆名一族」にも、永禄の変への言及があるのですが、そこでは松永久秀が三好義継と共に足利義輝殺しの犯人として名を連ねているわけです。
現行の教科書はどうなっているのか知りませんが、山川出版社から刊行された学生向きの日本史資料集でも、松永久秀は義輝殺害の犯人とされていました。
その他、専門の歴史家が書いたと思わしき文献でさえ、松永久秀を義輝殺しの犯人とするのが多く、こちらが定説となっています。
そして、久秀については、ややもすれば、歴史家が書いた図書でさえ、後世に誇張された人物像でさも史実であるかのように伝えられることがあります。
ただ、三好政権を研究している天野忠幸氏(著作・論文多数あり)から、久秀が義輝殺しの犯人ではない、一次史料に言及がないという指摘が上がっています。
今谷明氏は、著書「戦国・三好一族」の中で、義輝殺しの犯人を久秀としています。この書籍は1980年代に刊行され、2007年に多少増補されて再販されました。その後、2013年刊行の書籍に寄せられた文章の中では、久秀が義輝殺しの犯人だという見解を維持しています。
義輝殺しについては、久秀を犯人及び犯行集団の一味とするのが未だ定説のようなのですが、反論もあります。天野氏は「久秀は義輝殺害の首謀者どころか、大和に在国し(足利)義昭の保護を図っていた」と、著書「三好長慶」(2014年刊行)の中で、円満院文書という史料を典拠に断言しています。
こうした種々の情報はそれ自体はどうでもいいのですが、私が言いたいことは要するに、「松永久秀の『史実』はその信憑性に疑問が呈され再検証がされている、しかしながら一方で、一般に出回っている書籍では未だに平蜘蛛と爆死した、義輝殺害の犯人などと言われている」ということです。
従って、よりこの記事の正確性というか、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:中立的な観点に立脚した形で質の向上を目指す場合、この記事に限ってはある程度情報源を吟味・厳選する必要があるのではないか、と考えます。--ShellSquid/履歴 2014年6月27日 (金) 11:18 (UTC)[返信]
  • コメント私は「義経は海をわたってジンギスカンになったという説がある」ということも書く価値があると思います。そこでですが、
(1)「久秀はAである(史実)」と(2)「久秀はAとされている/されてきた(通説)」では記述の性格がだいぶちがいます。
ShellSquidさんがおっしゃるのは、こういうことでしょうか。
  • 『これが久秀だ!』みたいな信用ならん本があって、その本に「久秀はAです、史実です」と書いてあっても、この文献を(1)の出典にはできない。(これはWikipedia:信頼できる情報源
  • で、だったら(2)のほうの出典に使い、『これが久秀だ!』みたいな俗説があります、と使っちゃうと、『これが久秀だ』自体には「史実だ」と明記してあるのに、それを勝手に俗説扱いしちゃいのは、マズイのではないか。
  • 「◯◯という通説・俗説がある」と書くためには、出典元でも「通説です・俗説です・昔からそういうことになっています」という書き方でないとダメじゃないか。
  • ということで、(1)にも(2)にも使えないので、出典としては使わないでおきましょう、ということでしょうか。
全体に影響があるのでどうかわかりませんが、「通説による人物像」みたいな節を1つ作ってしまうというのはどうでしょう。--零細系統保護協会会話2014年6月27日 (金) 12:20 (UTC)[返信]
途中放り出してしまって済みません。やはり確認しないことには何とも言えないので、私の方で井沢氏の当該書籍を探して確認してきます。--ShellSquid/履歴 2014年7月1日 (火) 13:37 (UTC)[返信]
コメント依頼を拝見して参りました。補足ですが、井沢・和田『日本史 汚名返上 「悪人」たちの真実』は、元々、スカパーの歴史専門チャンネル「ヒストリーチャンネル」のテレビ番組だったようですね。書籍は番組をまとめたのか、書籍が番組の原作なのかまでは確認できておりません。http://www.historychannel.co.jp/detail.php?p_id=00718
「ヒストリーチャンネル」は歴史専門誌『歴史街道』にも番組の抜粋が毎月掲載されております。NHKの歴史番組・TBS「世界ふしぎ発見!」といった、専門家が関与している一般向け歴史教養番組と同等の扱いです。(『歴史街道』には他のバラエティ番組は出ていません。)これは同局が作っている番組が歴史物として良質だとして過去に何度も受賞経験があることなどによるものと思われます。情報源・出典としての問題はあまり無いものと思います。俗説ではありますが、テレビの著名歴史番組というかなり影響力のある媒体(専門性もある)で出てしまったものとすると、「俗説では松永久秀は爆死したと言われ有名な歴史教養番組でもそう言っているがこれは誤りである。歴史学では云々」という解説は、これは多分いるのではないでしょうか。それこそ三国志演義みたいなものです。フィクションでも大勢の人が信じているものは「桃園の結義が演義ではあったことになっているが事実ではない」みたいに付記した方がいいと思いますよ。--松平俊介会話2014年7月31日 (木) 22:05 (UTC)[返信]

生年について

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現在、「生まれ年は1510年とされるが確証はない」とありますが、「1510年じゃないか」とする資料は何かあるんでしょうか?裏付けがないのであれば、「確証がない」以上、生年不詳とすべきじゃないですかね?自分が調べた限りでは久秀が確たる資料に登場するのは1549年に三好家臣として証如から送られた書状(天文日記)かと思われますが、これ以前の年齢を推測する資料はあるのでしょうか?--ポテンシャル0会話2017年3月9日 (木) 00:04 (UTC)[返信]

追記…本文の方に1540年頃にもう資料に出てるって書いてありましたね。その頃にある程度の権限があったのだから、それなりの年齢であるってのは推測できるんでしょうけど、何故1510年生まれとされてるのかのソースはないですね。--ポテンシャル0会話2017年3月9日 (木) 00:09 (UTC)[返信]

2017年7月7日 (金)編集で、天野忠幸編 『松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像』 宮帯出版社、2017年のpp. 8、25「史料は『多聞院日記』永禄11年(1568年)2月19日条「当年六十一歳」に従い、生年「永正5年(1508年)生まれ」としました。一級資料に基づく研究書が出典なので、これで、ほぼ確定だと思います。--奈良たかし会話2017年8月8日 (火) 03:35 (UTC)[返信]