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ノート:東洋大学/過去ログ2

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大正後期の東洋大学

この後、哲学館は東洋大学となり、1928年(昭和3年)に大学令(1919年(大正8年)施行)による大学となるが、申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、早稲田大学、國學院大學などは1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。 — 哲学館事件 2017年9月13日 (水) 10:55版

じゃあ、当時の新聞を読ませてやるよ。

東洋大学の乱闘 昇格運動資金の事で

七日午後三時同校講堂に於て同窓会を催し、出席者二百余名あつたが、 その席上同大学昇格問題に就て運動資金募集の決議をするや、 之れに反対の学生側から意見が出て議論続出、終に大乱闘が起り、 募集派の学生委員岡本某は袋叩きとなつて顔面を殴打された。 この騒ぎに学校側は狼狽し、教職員組付いて漸く取鎮めたら

問題は更に一転して曩の紛擾を繰返すべき形勢にあると。 — 『東京朝日新聞』大正13年10月8日
  • 大正後期の東洋大学は内紛続きで、昇格運動どころではなかった。

--以上の署名の無いコメントは、Netsuaba会話投稿記録)さんが 2017年10月11日 (水) 04:05 (UTC) に投稿したものです。

偉い人の言葉を曲解するのはみっともない

motoさんが引用しておられた「歴史はそのつど現在が作る」は飯島宗享の言葉でしょう。確かに飯島は歴史の解釈を変更してもいいとは言いました。しかし、「過去の知られた事実」を隠蔽したり、架空の出来事を創作したりしてもいい、とは言いませんでした。つまり、motoさんは自説を補強するために偉い人の言葉を都合よく利用しているだけなんでしょうね。

あらゆる分野における多くの予言者らや思想家らの担う共通の運命は、その所説を誤解されるということである。熱意に溢れてはいるが理解の行き届かない弟子たちはその師の所説に対する反対者らの偏見や愚見以上に師の創造的見解を曲解してこれを損なうのが通例である。 — リデル・ハート、『戦略論』 原書房、1986年、371-372頁

それから、東洋大学を語るときに「過去→現在」ではなく「現在→過去」の順で語るのも不可解ですね。

歴史研究は遡行し、歴史記述は下行する。 — エドゥアルト・マイヤー

というのが大原則でしょう。現在の東洋大学の偉大な姿、美しい姿を先に見せておいて、過去の「不都合な真実」は可能な限り隠蔽・矮小化する――そういう下心が見え見えですね。

ちなみに私は松山高等商業学校のページを大幅に加筆しました。この学校では校訓を改訂したこと、校歌の歌詞を一部削除したことなども正直に書きました。motoさんもそのようにすべきです。--ブルーメンタール会話2019年5月25日 (土) 04:22 (UTC)