エドゥアルト・マイヤー
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人物情報 | |
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生誕 |
1855年1月25日 自由ハンザ都市ハンブルク |
死没 |
1930年8月31日(75歳没) ドイツ国 プロイセン自由州 ベルリン |
出身校 |
ボン大学 ライプツィヒ大学 |
学問 | |
研究分野 | 古代史 |
研究機関 |
ブレスラウ大学 ハレ大学 ベルリン大学 |
主要な作品 | 『古代史』(Geschichte des Altertums) |
影響を受けた人物 | アーノルト・ヘルマン・ルートヴィヒ・ヘーレン |
エドゥアルト・マイヤー(Eduard Meyer, 1855年1月25日 - 1930年8月31日)は、ドイツの歴史学者・古代史家。
生涯
[編集]1855年、ハンブルクに生まれる。ボン大学とライプツィヒ大学で教育を受け、言語・文学から古代史研究へと進み、1875年にエジプトの神セトに関する卒業論文を書く。博士号を取得した後、イスタンブールに駐在するイギリス総領事の家庭教師として、オリエントに接する機会を持つ。ライプツィヒで私講師として古代史を教え、1884年に主著となる『古代史』(Geschichte des Altertums) の第1巻を著す。1885年からはブレスラウ大学の正教授となり、1889年からはハレ大学、そして1902年からはベルリン大学で正教授に就任し、枢密顧問 (Geheimer Regierungsrat) の肩書きを得て、1919年には総長に任命された。1900年にはハーバード大学で講義をし、オックスフォード大学、セント・アンドルーズ大学、フライブルク大学、およびシカゴ大学から名誉学位を与えられる。1923年にベルリン大学を退職し、1930年8月31日、『古代史』第2巻第2部の改訂中に心臓病で倒れ、死去した。
ヘブライ語、エジプト語、アッシリア語、サンスクリット語にまで通じ、彼の死は、ウィルヘルム・フォン・ボーデ、アドルフ・フォン・ハルナックに続き、ドイツ学会の損失として驚きをもって受け止められている[1]。
史観
[編集]- マイヤーはギリシアを地中海の古代文明と関連づけることによって、その真の性格を明らかにしうると考えた。ミケーネの芸術はオリエント的だが、その文化の根本はギリシア的であり、ヨーロッパ史の起源といえる。中期ギリシアの最も重要な業績は、地中海に植民したこととフェニキア人を駆逐したことであった。マイヤーはギリシア史におけるソロンとテミストクレスの貢献を強調し、クレイステネスとペリクレス以上の評価を与えた。
- ギリシアの歴史家ではヘロドトスとトゥキュディデスを比較し、前者がアテナイによるギリシア支配を擁護していると批判し、後者の歴史叙述の公平さを讃えた。
人物
[編集]- マティアス・ゲルツァーの追悼文によれば、彼の『古代史』は発掘によって得られた古代エジプト、メソポタミアの史料を歴史家として初めて活用し、数千年の歴史を再現したものであり、更にその後の発掘調査を受けて、1,2巻を書き直しているという[2]。大胆な発想をためらいなく発表しつつも、先入観に囚われない注意深さを兼ね備えた真の歴史家であり、その形式はアーノルト・ヘルマン・ルートヴィヒ・ヘーレンの影響を受けているという[3]。
- 真っ直ぐに真実と向き合い、無欲に研究に打ち込み、長身でいつまでも若々しく、朗らかで、優しく気高い人物であったと追悼している[4]。
- 1987年11月、バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエで行われたシンポジウムで、東西ベルリンに残されていた彼の遺稿をまとめ、再評価が行われた。彼の後継者はいなかったという[5]。
著作
[編集]- Forschungen zur alten Geschichte (1892 - 1899)
- Untersuchungen zur Geschichte der Gracchen (1894)
- Wirtschaftliche Entwicklung des Altertums (1895)
- 「ユダヤ教の発生」Die Entstehung des Judentums (1896)
- 『歴史の理論及方法』Zur Theorie und Methodik der Geschichte (1902)
- 「エジプトの年代」Ägyptische Chronologie (1904)
- Die Israeliten und ihre Nachbarstämme (1906):B. Lutherとの共著
- Theopoms Hellenika (1909)
- Der Papyrosfund in Elephantine (1912)
- 『古代史』Geschichte des Altertums(1884 - 1902; 第3版は1913年)
- 「ヒッタイトの国土と文化」Reich und Kultur der Hethiter (1914)
- 『英国罪悪史』England - Seine staatliche und politische Entwicklung und der Krieg gegen Deutschland (1915)
- Weltgeschichte und Weltkrieg (1916)
- Cäsars Monarchie und die Principat Pompeius (1918)
- 「キリスト教の起源と端緒」Ursprung und Anfänge des Christentums (1920 - 1923)
- 「小論集 全2巻」Kleine Schriften (1910,1924)
- Blüte und Niedergang des Hellenismus in Asien (1925)
外部リンク
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- S. R. (1930). “EDUARD MEYER”. Revue Archéologique (Presses Universitaires de France) 32: 168. JSTOR 23912867.
- M. Gelzer (1930). “Eduard Meyer”. Gnomon (Verlag C.H.Beck) 6 (11): 622-624. JSTOR 27674269.
- William M. Calder III (1988). “The Eduard Meyer Symposium”. Gnomon (Verlag C.H.Beck) 60 (7): 668-669. JSTOR 27690018.