ノート:李成桂
注意
[編集]今なお勘違いしてる人がいるかもしれないので注意の為に以下の文章をコピペしておきます。--114.160.209.168 2011年8月13日 (土) 11:37 (UTC)
朝鮮史詳しくないのですが、その事を前提で書きます。李成桂女真人説の項目に↓の文章がありますが、『強大な権力を背景に「満鮮史観」や「皇国史観」といった歴史像がまかり通っていた戦前の日本では、「満鮮史観」に基づいて研究を行った池内宏が満鮮史研究. 近世編 中央公論美術出版において李成桂が女真族であると唱え、この説が広く信じられた。しかし戦後になると日本の歴史研究は戦前の「満鮮史観」などから抜け出し大きな発達を遂げた。戦後の日本では「満鮮史観」は日本の進出対象であった満州と朝鮮の不可分性を強く主張すると共に、一般人にもその考えを普及させ、「朝鮮民族の発展」と「鮮人愛撫」という思考形式によって日本の大陸進出を正当化する目的があったという批判や、歴史的な考察をされたものではなく、現実の日本の強い朝鮮支配と関連して初めから「満鮮一体」という結論があり、その上でそれを歴史的に説明するために提唱されたという批判、普通歴史を考える際、民族が問題となり、朝鮮史は朝鮮民族の歴史として成立しているため、満州と朝鮮を一つとした歴史観は民族の歴史として成立できず、実際に朝鮮民族は新羅による統一以降、満州人とは異なる国家、社会、言語、文化を作り上げており民族の歴史という観点からみると「満鮮史」などというものは存在しないという批判がなされている。他に青柳純一や寺内威太郎も同様に「満鮮史観」についてその虚構性を批判し、また日本の帝国主義を背景とした政治的欲求に基づくものだとも批判している。』
この文章は、この↓の論文の記述と、文言、文脈、引用文献が瓜二つなので、コピペして書かれたのでしょうが、 http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/6402/1/01_0056.pdf
『滝沢規起は、稲葉岩吉の光海君期対外政策に対する評価と「満鮮史観」との関連について考察している。その上で、「満鮮史」について次のように結論している。稲葉岩吉が主唱した「満鮮史」は本来、日本帝国主義の侵略対象である「満洲」と朝鮮に 跨って発生した歴史的事象を提示することで、両地域の「不可分性」を強調すると同時に、一般に対してそのような思想の普及を図り、「朝鮮民族の発展」と「鮮人愛撫」 という論理によって、日本による大陸侵略を正当化することを目的とするものであった。井上直樹は、近代日本における高句麗史研究と「満鮮史観」との関連について考察している。井上は、「稲葉の「満鮮史」は歴史的考察によって提案されたものではな く、現実の日本の強力な朝鮮支配と関わって、はじめに「満韓一体」があり、その上でそれを歴史的に説明す るために、提唱された」としている。』『その上で、稲葉岩吉の「満鮮史体系の再認識」、「朝鮮の文化問題」、「満鮮不可分の史的考察」の諸論文を検討し、「満鮮史」について考察している。 一体、満鮮史なるものは自明なものと見なされるほどに内容が明瞭なのであろうか。 普通、歴史を考えるさいに、まず民族が問題になる。朝鮮史は朝鮮民族の歴史として成立しうる。しかし朝鮮と満洲とを一括した歴史は、民族の歴史としては成立しえない。周知のように、新羅が七世紀に朝鮮を統一して以後、朝鮮は一つの独自の民族として発展してきた。それ以後、朝鮮は一つの民族の歴史をもったのであって、満洲人とともに一つの歴史を形成するようなことはなかった。満洲人とは別個の独自の国家、独自の社会、独自の言語、独自の文化をつくりあげた。したがって、民族の歴史という視点からみると、満鮮史なるものは存在しない。』『「満鮮史」関連の先行研究としては、本文で挙げた他に、次のような研究がある。青柳純一「白鳥庫吉と満鮮史学の虚像」『人文論叢』釜山大学校人文学研究所、釜山、2000年6月。寺内威太郎「満鮮史研究と稲葉岩吉」『植民地主義と歴史学 そのまなざしが残したもの』刀水書房、2004年3月。』
一読すれば分かるように、これらは稲葉岩吉に対する批判であって池内宏に対する批判ではないし、満州と朝鮮を一まとめに論ずる満鮮史に対する批判であって、李成桂女真人説に対する批判でもないのです。この文章を書いた利用者‐会話:Brisitは韓国POV編集を行い韓国に不都合な記述は片っ端から削除するなど、悪質な投稿を繰り返している投稿ブロック者利用者‐会話:121.109.122.152で、おそらくは韓国人なのでしょうが、韓国関係の項目で韓国に不都合な記述を削除・隠蔽するなど悪質な投稿を行い、投稿ブロックを受ける度にブロックを逃れの為別のIPアドレスを製作し、また、悪質な投稿を繰り返している投稿者で、この文章も李成桂女真人説を否定する為に、確信犯的に故意に資料操作を行った疑いがあります。この人物はこれまでも資料のでっち上げや恣意的な資料操作を行い、信憑性がない為、2004年の寺内威太郎氏の「植民地主義と歴史学」に所収されている論文「満鮮史研究と稲葉岩吉」、が李成桂女真人説を批判されているかこの本をお持ちの方は確認していただけないでしょうか?
日本で最もオーソドックスな朝鮮通史とされる山川出版社の武田幸男編「朝鮮史」は、この本は初版は2000年で版を重ねる事に最新の研究を反映させる為、中身も若干改定しているのですが、2006年版では、李朝時代を担当している山内弘一上智大学教授は、李氏一族の出身地の咸鏡道はもともとは女真人の地だったこと、李氏一族は女真人の配下を抱え、李氏一族が頭角を現したのはかれらの助けが大きかったことなどから李氏一族は女真人の血を引いているという学説もある、と書かれているのですが、いかがでしょうか。
李氏一族は、後世に潤色して書かれた史書に全州出身と記述してあるので公式では全州にルーツがあるという事になります。しかし本当かどうかは分からない。山内弘一氏は前出の武田幸男編「朝鮮史」で、「のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた「龍飛御天歌」によると、李氏一族は全羅道の全州出身で、古くは新羅に仕えたが、やがて咸鏡道に移住したという」と曖昧に書いているのです。
この文章は稲葉岩吉に対する批判が池内宏に対する批判に、さらに満鮮史観に対する批判が李成桂女真人説に対する批判におそらくは故意にすり替えているのです。池内宏は、村山正雄氏がYahoo!百科事典に「東北アジア(いわゆる満州、朝鮮)および日本の古代史の研究で優れた業績を残した。南満州鉄道株式会社調査部の依頼による古代史研究面でも大きく貢献した」と書かれているように、また前出の武田幸男編「朝鮮史」で高麗王朝を担当している武田幸男東大名誉教授は参考文献で、池内宏の「満鮮史研究 近世編」を挙げて、「高麗史関係でもっとも注目される論文集は池内宏の4冊である(略)今もって新鮮さが感じられるのは驚きである。また、これらの研究を通じて近代的史学研究方法論を構築し、この意味からも評価が高い」と書かれているように池内宏は戦前戦後通じて日本を代表する東洋史学者で、今なお、朝鮮関係に関する学術書・論文で引用されるほどの大家であり、この文章は事実無根な上、名誉毀損すら抵触する可能性があります。
戦後の日本東洋史学界を代表する学者で日本学士院会員でもある三上次男東大名誉教授は、池内宏の「満鮮史研究 近世編」の復刻版(昭和47年)の解説で、「池内宏先生は、大正・昭和にかけて東北アジア史、とくに朝鮮から満州にかけての歴史を追及された巨匠であって、その透徹した史眼と研ぎ澄まされた史料批判、それに事実に徹した行論は、この方面の歴史の実態をあぶなげなく明るみに出された。そうして東京大学で示された教授と研究の態度は際立って見事であり、わたくしたちに無限の教えをあたえられた。(中略)わたくしは、池内先生こそ、20世紀の前半の日本の生んだもっとも卓越した東洋歴史の研究者の1人だと信じている。そうした先生には当然のことながら、数多くのすぐれた業績があり、それをまとめられたのが「満鮮史研究」の名を冠した注目すべき一連の著作である。(中略)甚大な学問上の業績といわなければならない。どの巻を眺めても、ジャーナリズムを騒がせる花火のような華やかさはないが、どのような短い論文をとって見ても、いつまでも消えない珠玉のような美しさと、それを通過しなくては前進することのできない要石のような重さがある。(中略)先生の後につづく研究者に、必ず触れてもらいたいと思っていた先生の仕事(中略)東北アジア、とくに朝鮮の歴史の研究をおしすすめて行くとき、缺くことのできない重要性を持った書物(中略)この書の内容は三篇から成っている。第一の「李朝の四祖の伝説とその構成」は、龍飛御天歌・李朝実録・高麗史などに記された朝鮮の李王朝の祖先に関する伝承に徹底的な批判を加えたものであり、李王朝の建設者である李成桂の父祖として伝えられる四名の人物のうち、信じうるのは父と祖父のみであり、それ以前の人物は系譜を長くするするために作為された架空の人物であることを論証したものである。われわれはこの論証のなかに、先生の史料批判の厳しさと鋭さ、それに周到さを見いだすことができよう。同時にこれは、先生の日本書紀批判や、金史の世紀に対する批判ともつながるものである。(中略)第二の「鮮初の東北境と女真の関係」は(中略)先生はこの論考において李王朝成立に重要な役割を演じた朝鮮の東北境の女真人の実態を追求し、高麗朝末期・李王朝初期における李成桂一家との関係についてとくに深く論じられた。この問題の解明は李王朝の成立の由来と、その性格の重要な一面を明らかにしたものであったから、高く評価され、大正11年、これによって文学博士の学位をえられた。(中略)第三の「朝鮮の文化」は(中略)古朝鮮時代、高句麗・百済・新羅三国時代など上世の文化より説きおこし、高麗の文化とくに学芸について詳しく述べられたものである。きわめてよく整理され、美しく達意の文章で綴られており、高麗文化に関する一般的な論述では、現在なお最高の地位にあるものとわたくしは信じている。(中略)最近、朝鮮研究の重要性が痛感されるとき、この書のような万全の実証と厳密な史料批判を基礎とした信頼すべき書があらわれることは、もっとも喜ぶべきことといわなければならない。」と池内宏と著書の「満鮮史研究 近世編」を絶賛している。この文章を書いた利用者‐会話:Brisitは間違いなく李成桂女真族説を否定する為に確信的に資料操作している。--ナナシー 2012年1月3日 (火) 09:23 (UTC)
この文章は必要か
[編集]以下の文章が大幅に削除されてるけどどうなんだろう。個人的には載せなくても悪いことはないとは思いますが。--114.160.209.168 2011年8月13日 (土) 11:37 (UTC)
1206年にチンギス・ハーンが即位して建国されたモンゴル帝国は、1227年のチンギス・ハーンの死後、1229年にその第三子オゴデイ・ハーンが後を継いだ。1231年、オゴデイ・ハーンの時代に、朝鮮半島に対する征服戦争が開始された。当時朝鮮半島にあった高麗王国の実権を握っていた武臣崔氏は、都を開城から江華島に移して徹底抗戦したため、高麗はこのあと三十年間に六度もモンゴル軍の侵略を受けた。1258年、江華島内でクーデターが起こり、崔氏政権が倒れたので、高麗はようやくモンゴルと和議を結ぶことになった。1259年、高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、その息子忠烈王は、1260年に大ハーンに即位したフビライの娘婿となった。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王の位を継ぐのが習慣となった。高麗王の母は、みなモンゴル人になったのである。1231~1258年の間、六度におよぶモンゴル軍の侵入によって、多数の高麗人が満洲に連れ去られ、オゴデイ・ハーンは彼らを遼河デルタの遼陽と瀋陽に定住させていた。1271年に国号を大元と定めたフビライ・ハーンは、満洲統治のために遼陽行省を置いたが、その重職には高麗人が当てられた。また満洲の高麗人コロニーの王として、高麗王の一族が、瀋陽王のち瀋王に任命された。瀋王が高麗王を兼ねた時代には、満洲と高麗本土は統一が取れていたが、瀋王と高麗の世子の関係は微妙で、元朝宮廷の継承争いに高麗王家も関与すると、満洲と高麗本国の関係は緊張をはらむようになる。元朝宮廷の権力闘争の余波の一つとして、1356年、高麗国王恭愍王は、久しく元朝の所領であった双城(咸鏡南道の永興)を攻め落とした。このとき双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった。高麗軍はそのまま北に進んで、咸興・洪原・北青の地を99年ぶりにモンゴルから奪回した。母方ではチンギス・ハーンの血を引いている恭愍王の、このモンゴルに対する反抗運動は、瀋王派の圧迫から身を護るため、やむを得ずとった行動であった。恭愍王は、高麗本国内の反対派の打倒に成功すると、直ちに元朝皇帝トゴンテムル・ハーンと和解した。1368年、紅巾軍の一派朱元璋が南京で即位し、大明皇帝と称して、元の大都(北京)に迫ると、フビライ家の元朝皇族は北方のモンゴル草原に引き揚げた。高麗の恭愍王は、直ちにこの明の太祖洪武帝を中国の皇帝として承認した。1370年、トゴンテムル・ハーンがモンゴル高原の応昌府で死に、その息子アーユシュリーダラ・ハーンがさらに北方にのがれると、恭愍王は高麗軍を満洲に派遣し、李成桂もこれに参加した。高麗軍は遼陽城を攻め落とし、遼河デルタを一時制圧した。この作戦は、遼陽・瀋陽が、歴代の高麗国王と結婚した元朝の皇女の領地であり、従って高麗王国の領土の一部であるという立場を主張するためのものであった。1374年、恭愍王は側近に暗殺されて、養子のムニヌ(牟尼奴)が後を継いだ。ムニヌ王の時代には、高麗は明の満洲進出に反発して、北元と親密な関係を回復した。1388年、明軍がモンゴル高原深く進攻して、北元のトグス・テムル・ハーンが逃走の途中で殺されると、ムニヌ王は北元を助けるべく、再び高麗軍を満洲に進攻させようとした。ところが高麗軍が鴨緑江に達したとき、副司令官李成桂らが命令を拒否して、方向を転じて王都開城に向かって進軍し、ムニヌ王を廃位して、昌という王子を立て、またこれを廃位して、王族の恭譲王を立てた。その4年後の1392年、李成桂は、いよいよ恭譲王を廃位して、自ら高麗国王の玉座についた。これを明の洪武帝に報告したところ、新しい国号を何にするのかと問われた。そこで李成桂は、「和寧」と「朝鮮」の二つの候補を挙げて、洪武帝に選択を請うた。「和寧」というのは、李成桂の故郷の永興の別名であったが、北元の根拠地のカラコルムの別名も「和寧」であった。洪武帝はもちろん「朝鮮」を選んだ。1393年、こうして李成桂は正式に朝鮮国王となった。これが李朝の建国である。
ノート:太祖 (高麗王)への議論誘導
[編集]この引用の信憑性および必要か不要かについて議論があるようですが、同様の問題が太祖 (高麗王)でも発生しているようですので、まとめてノート:太祖 (高麗王)で議論してはどうかと思います。--さえぼー(会話) 2018年3月4日 (日) 15:10 (UTC)
Ryo 625へ
[編集]Ryo 625が精度のテンプレを挿入しましたが、具体的にどこが問題なのかきちんとノートに書くべき。そうでないと、問題個所が分からないので改善しようがありません。ピンポンダッシュのように適当にテンプレだけ貼り付けてその場から立ち去る無責任な行為は止めるべきだし、荒らし行為とみなされても仕方ありません。--219.111.112.14 2018年3月5日 (月) 16:53 (UTC)