コンテンツにスキップ

ノート:杉原千畝/過去ログ

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

情報源

[編集]

あとでこじれそうな部分(免官のいきさつ)について、念のため情報元を記載しました。杉原側は妻の幸子夫人が情報元です。外務省の主張については国会答弁以外にソースが見つからなかったのでこれを記載しました。渡辺外務大臣の答弁の中には年金とかの話は出てこないようなので、情報源が分かる方がいましたら加筆をお願いします。Modeha 00:20 2004年3月19日 (UTC)

年金とかの話は参考文献に挙げてある『意外な解放者』に出ています。外部リンクの二番目の方にその部分の引用があるのでご覧ください。この本については写真のキャプションが間違いだらけだと夫人との共著書もある渡辺勝正氏が『真相・杉原ビザ』という本で激しく攻撃しているのですが、当該部分に関しては言及が無く、黙認した形になっています。また、夫人自身も退職金をちゃんともらっていたことについては著作の中で述べています。以上のことから、『意外な解放者』の当該部分は一応正しいものと考えています。
みんな忘れていますが、杉原さんはいわゆるノンキャリアで、学歴からすると異例の出世振りなのです。もちろんリストラ対象になったのに例の件が不利に働いた可能性も否定はできませんが、例の件がなくても大リストラの対象になっていた可能性はかなり高いものと思われます。
自伝というのは、あんまり信用しすぎない方が良いというのは、歴史学の常識です。『福翁自伝』や手塚治虫の自伝でさえ、事実と異なる部分があるほどなんですから。偏重せずに周辺資料と比べながら後付して行く必要があります。
自分が自伝を書くことを考えれば、ある程度はお解りいただけるかとは思いますが、たとえば今回の件で言えば、夫人の手記では自分が後妻であったことへの言及がありませんが、中日新聞の本ではちゃんとそのことにも一応ふれています。
お手数ですが、以上の資料に基づいて再度書き直してはいただけませんでしょうか。そうでなければ元にもどしていただけるとありがたいです。夫人をあまり傷つけたくはないので。 Kadzuwo 00:59 2004年3月19日 (UTC)

ええと、そうではなくて、「外務省によれば」という書き方は、外務省がいつどのような形でそういう発表(あるいは当事者への通告)をしたのか?というのがよくわからないので攻撃の対象にされやすいのではないか、という意味です。「『意外な解放者』によれば、年金も退職金も~」という書き方になれば、そういう攻撃から記事を守れると思います。ただし私は該当する書籍を読んでいませんので、そういう改変はできません。どなたか読まれた方が書き加えていただけるとありがたいです。Modeha 02:24 2004年3月19日 (UTC)

それは当然、『意外な解放者』の当該章の筆者である篠輝久氏の問い合わせに対する回答だったと考えるのが自然でしょうね。いずれにしろ疑問を持たれた方はこのノートのページをご覧いただくこともできるので、取り敢えず当該箇所は元に戻しておきました。また、未亡人の著書は、上記の理由から、やはり省いてあります m(_ _)m。Kadzuwo 13:44 2004年3月19日 (UTC)
Kadzuwoさん、ノートで結論も出ないままに「ノートでの議論に基づいて」などとリバートするのは余りにも不誠実ではありませんか?Sampo 13:58 2004年3月19日 (UTC)
良くお読みください。自分は Modehaさんに書き改めていただくか元に戻すことをお願いしました。それに対して書き改めることはできないとのお返事でしたので、二者択一のもう一方を実行したのです。論理的ですよね? Kadzuwo 17:19 2004年3月19日 (UTC)
私は「根拠を提示」して頂きたいとは申しましたが、revertしていただきたいとは申し上げてはいません。また、「書き改めるか元に戻す」ことのどちらにも同意いたしません。Modeha 17:25 2004年3月19日 (UTC)
いきなり入ってきて難なのですが、私個人の意見では杉原の外務省解任はビザの件を口実したものと考えるのが妥当と思われます。戦後の外務大臣は吉田茂・芦田均と言った戦時中は不遇だった外交官出身の大臣の時代が続いた(ちなみに芦田は早々と代議士に転身した)ためにかなり恣意的な人事が横行したと言われています。杉原の解任は芦田外相下の6月となっておりますが、帰国したのが4月ですから所謂「Y項パージ」の一環だった可能性があると思います。Y項のYは勿論総理兼外相の吉田茂の略ですが、吉田の人事の無茶苦茶ぶりは多くの外交官の回想録や吉田茂の評伝にも書かれています(例えば、空襲で家を焼かれたある外交官がGHQの幹部が開いたパーティでパーティのTPOにあったネクタイが用意できなかったところ、吉田から「外交官失格」の烙印を押されて外務省を解任されたと言う話がある。また、東京裁判での外務省系の被告に対する弁護活動を吉田が意図的に妨害したのではないかと言う疑惑すら持たれている(後に外務省の幹部などを歴任した大野勝巳の回想録にもそうしたエピソードがある)。そういう時期の話ですから、アジア・英米畑の吉田とは縁がなく(逆にロシア・東欧畑と言われている広田弘毅や東郷茂徳が戦犯となったために杉原を擁護出来ると思われる大物が外務省からいなくなってしまった)、逆に政府の命に反してビザを発給するような人物は吉田からは「自分の意にならない人間=外務省にふさわしくない人間」と言うことで処分を検討させた可能性が強いと私は見ています。--220.211.248.97 2005年10月12日 (水) 03:37 (UTC)[返信]

杉原ビザを考察するにあたり杉原の主任務である情報収集活動面からの検討を行わないのは片手落ちと思われます。明大教授の阪東宏著「日本のユダヤ政策」「世界のなかの日本・ポーランド関係」に提示されてるポーランド側の資料から、1940年当時、杉原がポーランド情報部の地下組織への窓口であったことは明らかにされてます。また、杉原は外務省よりも参謀本部とのつながりが深く、カウナス以後のプラハ,ケーニヒスブルグ、ブカレストへの着任も大島中将の意向が反映されています。 杉原の退職については外交官というより武官の色合いが強かった47才の杉原に、50才定年の 外務省に引き止めてくれるような後ろ盾が無かったと見るのが妥当であると推察します。 {利用者 バルファティック}

revertの理由

[編集]

「篠輝久氏の問い合わせに対する回答だった」という根拠を、記事内に提示してください。この記事は海外版Wikipediaからも参照されており、信頼しうる唯一の該当国の記事として参照される可能性が極めて高いと考えます。誤った内容が全世界に広まることのないよう、ぜひとも記述に関する根拠を提示してください。提示していただければ、この記事に関する不要な攻撃が防げると確信いたします。

杉原氏が満州国や上海のビザを発給したという確証が得られなかったため、該当部分も含めてrevertいたしました。もし、杉原氏が満州国領事を兼任していたり、満州国のビザを発給したという事実がありましたら、根拠も含めて記事内に掲載していただけるとありがたいです。Modeha 16:55 2004年3月19日 (UTC)

日本語をちゃんと読んでくださいよ~。「通過ビザ」だってハッキリ書いてあるじゃないですか。それにその後の彼らの行く末については、いろんなところに出ているじゃないですか。そこでいわゆる杉原ビザを拒否した日本の関係機関は一つもなかったと言われているのも有名ですよね。Kadzuwo 17:45 2004年3月19日 (UTC)
杉原が発給した通過ビザは、日本国を通過するためのビザです。当時、日本は満州国を独立国とみなしていましたので、満州国を通過するためには日本のビザのほか、満州国のビザが別途必要になります。(もちろん、諸外国が満州国を承認しなかった、というのは別の問題です)杉原が「満州国」のビザを発給し、そのビザを元に満州国に長期滞在した、という事実は寡聞にして知りません。杉原が満州国のビザを発給したのなら、本記事内にそう記載すべきであるし、発給していないのなら、杉原のビザとは直接は関係ないが、という付記をつけるのが当然であると考えます。

これ以外では、02:41 2004年3月20日 . . Kadzuwo の版の「杉原千畝」に意義を申し立てる部分はありません。Modeha 17:56 2004年3月19日 (UTC)

訂正。意義ではなく、異議です。Modeha 17:58 2004年3月19日 (UTC)

さらに追記。国によっては、入国にビザが必要ない国(バチカン市国など)や、隣接国が1つしかなく、隣接国のビザをもって自国の入国ビザにかえる国もあります。ただ、満州国の項目を見ても、それらしいはっきりとした記述はありません。日本国(当時の国号大日本帝国)のビザをもって満州国の入国を許可するような特別の制度があった可能性は排除できませんが、いずれにしても記事内にその旨付記する必要があると考えます。Modeha 18:14 2004年3月19日 (UTC)

それではあんまり煩瑣になるので、段落を分けてみました。杉原さん以外にも彼らに同情的な人々がいたからこそ、彼の行動が生きたのだというニュアンスがうまく出てくれていると良いのですが。
ところで、呼び捨ては訂正されないんですか? (^^;) Kadzuwo 18:20 2004年3月19日 (UTC)
百科事典内では敬称は省略するのが慣例とされます。また、杉原が満州国領事や大使を兼任していたという事実が確認できないことから、該当部分を書き換えいたします。何度も書きますが、杉原が満州国の通過ビザを発給した、あるいは、当時、日本の通過ビザで満州国を通過できた、という事実がありましたら、根拠も含めて記事内に掲載してください。Modeha 18:29 2004年3月19日 (UTC)
百科事典本文内では、ですね。謝辞とかでは敬称を略さないこともありますよ。
もともと「杉原が満州国の通過ビザを発給した、あるいは、当時、日本の通過ビザで満州国を通過できた」なんて誰も言ってないわけで。
では、あなたは当該部分を「諸国」と書き直しているけれども、「諸国」に関する同様の根拠があるというわけですね? それってどんなんかな~? (^^) Kadzuwo 18:38 2004年3月19日 (UTC)

指摘を受けて該当部分を削除いたしました。指摘をして頂いたのはKadzuwo氏でありますので、根拠のない限り、該当部分を復活させないでください。また、献辞で敢えて敬称をつけないこともあります。その上、Wikipediaでは献辞は推奨されておりません。何度も書きますが、何ゆえに日本の通過ビザで満州国に滞在できるのか、根拠を提示してください。私が根拠にこだわる理由は、「日本の通過ビザで日本に滞在した」というのはごく当然であり、ビザの発給が明らかであれば根拠を提示する必要はない、と考えられるのに対し、「日本の通過ビザで満州国に滞在した」というのは明らかに不合理で、それにはビザの発給以外に理由が必要だと考えるためです。Modeha 19:04 2004年3月19日 (UTC)

「敢えて」敬称を付けなかったのだと解釈してよろしいのですね?
ここは謝辞ではないのも、周知のはずですが? ただ、本文ではない例として謝辞を挙げただけだということは理解しておられます?
あなたが改ざんする前の文章をもう一度お読みになることをお奨めします。単に杉原ビザを受け取った人たちが、後に満州や上海に行ったという事実が述べられているだけですよね。その事実はお認めになるのでしょう? ならば、何も削除することはないはずです。
なんだか寅さんを説得しているタコ社長のような気分になってきました (^^;;)。
今日も仕事があるのでもう寝ますね。ではまた (って、もういいよという気分ですが)。Kadzuwo 21:00 2004年3月19日 (UTC)

敬称について誤解があるようです。たとえば私は、フローレンス・ナイチンゲールの初版を執筆しましたが、かりにノートで論議になった場合でも、「ナイチンゲールさんの著書によれば」などと記載することはありません。ただし、論議の相手には当然敬称をつけさせていただきます。敬称の問題は内容には直接関係ないようなので以後言及しません。満州国と上海に向かったユダヤ人がいたことは否定しませんが、Kadzuwo氏の文章では、その他の国(アメリカ合衆国)などに向かったユダヤ人がいたことが明記されておりませんので、それを含めた上で諸国という表記をいたしました。ただしその表現は問題があるということでしたので削除したまでです。問題があるという指摘をしておいて、その部分を削除すると改ざんと主張するKadzuwo氏のほうが日本語をよく読む必要があると考えます。

また、満州国や上海に向かった者がいることは否定しませんが、それを記載しただけでは、何故、杉原の日本通過ビザだけで満州や上海に行くことができたのか、読者が理解することができません。Kadzuwo氏はご自分の文章が日本語でどのような意味になるのか分かっていらっしゃらないようです。杉原ビザが日本で無効とされたことはない、それは事実でしょう。しかし、ビザが有効であるということと、そのビザで満州国に入国できたか、というのは別の問題です。あなたの文章では、杉原ビザ「だけ」で満州国や上海に行くことができたという意味になります。もちろん本当にそうだったのかもしれませんが、それなら、「杉原のビザで満州国に入国できた」と記載すべきです。杉原ビザを持っていたおかげで、満州行きのビザを取得することができたのなら、「杉原ビザに続いて満州国の滞在ビザを取得し」と付記する必要があるでしょう。

03:17 2004年3月20日 . . Kadzuwo の版(日本時間)の問題点を以下に列挙します。上記と重なる部分が多いですが、おわかりにならないようなので念のために提示します。

(1) 杉原ビザのみで満州国や上海に入国できたと読み取れる。 (2) 最大の脱出先であるはずのアメリカ合衆国の名がない。

Modeha 01:09 2004年3月20日 (UTC)

4月13日に追加されたかたへ

  1. 入国拒否に遭ったユダヤ人が再びリトアニアに送還されたのか、あるいはなし崩し的に日本に入国したのか。それとも中国やロシアに留まったのか。結果的に迫害から逃れることができたのか。
  2. 入国を遂げた大多数のユダヤ人の存在をどう捉えるのか。
  3. 滞在期間の延長がいくら地方の警察署の管轄だとしても戦時統制下で厳しい監視の目を逃れることは容易なことであったのか。中央官庁も半ば黙認の姿勢だったのではないか。

これらの疑問点について明らかにしていただけると追加しやすいと思います。--Nul 15:41 2004年4月13日 (UTC)

該当部分を書いた本人ではありませんが。

入国拒否されたユダヤ人については、ウラジオストックの日本領事の働きによって結局、入国が許された者もいるようです(実数はわかりません、また、最終的に拒否された者がいたのかも私は知りません)。

ほとんどの杉原ビザは、10日間の通過ビザで(当時杉原の独断で出せるビザはこれしかなかったようです)したが、当時の日本は、正規の日本通過ビザを持っていれば、日本国内でビザの延長や期間の長い種類のビザへの切り替えができたようです。神戸のユダヤ人組織が保証人(?)のような形になってビザ切り替えが認められた。もちろんそれには日本人や神戸のユダヤ人組織の援助があった、という話ですが、記事にそこまで書ききれるほどきちんと調べてないので私は書いてません。Modeha 00:29 2004年4月14日 (UTC)

入国拒否にあったユダヤ人の再入国については、「自由への逃走」(中日新聞社会部)に神戸ユダヤ人協会が奔走したことが記述されています。杉原ビザによって救われたユダヤ人の存命者を探してインタビューして回った本なので、信憑性はかなり高いでしょう。駐日オランダ大使館に協力してもらってキュラソー・ビザを発行してもらい入国にこぎ着けたそうです(72人)。
ウラジオストックで総領事代理をしていた根井三郎氏がハルピン学院で杉原氏の同窓生で旧知の間柄だったことも書かれています。通過特許を入国特許に書き換えた話は「真相 杉原ビザ」(渡辺勝正)にスタンプ印と一緒に出ています。こちらには、根井三郎氏が文句を付けてきた外務省を官僚の形式主義を逆手にとって上手く言いくるめたことが書かれています。
滞在期限の切れたユダヤ人達はビザの要らない上海に移っていったようです。そのうち上海にもユダヤ人ゲットーが設けられ、苦労したことを「自由への逃走」のなかで存命者の方が語っています。Poppy 15:58 2004年4月17日 (UTC)

外務省ユダヤ難民取り扱い規則について情報提供求依頼

[編集]

この杉原千畝の記事からのみリンクされている「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」ですが、現在その文書の実在を確認できていません。こちらでもし文書の出典や外務省の文書番号など判る方がおられましたら、「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」の補完のため、情報の提供をお願いいたします。
61.210.35.122 02:05 2004年5月13日 (UTC)

ビザ発給の許可

[編集]

「当時、日本政府はユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていたとはいえ、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは外務省ユダヤ難民取り扱い規則により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。 ユダヤ人難民のほとんどはこの受給資格を欠いていたため、千畝は本国外務省にお伺いを立てるが、発給は許可されない。」

ぱっとみた限りでどうして「事実上締め出すことを狙っていた」「発給資格を異常に高くする」といえるのかがわかりません。根拠(たとえば他の同様なビザ申請との条件の違い)なしにはこうした記述は穏当でないと考えます。また書籍にこうしたことが述べられているなら、それをこの記述の典拠として示す必要があるように思います。また http://www.myrtos.co.jp/magazine/200308/sugihara_chiune69.html のように、決してビザ発給は不当にユダヤ人に不利なものではなかった(このウェブページ/雑誌は比較的ユダヤ人に対して好意的なものです)とする意見もあります。--Aphaia 2005年8月11日 (木) 23:09 (UTC)[返信]

着の身着のまま逃げてきたユダヤ人に対し、渡航費用の確認などを要求する電文は、ユダヤ人を難民扱いしないようにして、日本国内への移入を防ぐ目的があったと考える研究者もいるようです。指摘の外部サイトの主張はあまり主流の考え方にはなっていないようです。杉原のビザを無効として国内への入国を認めるなという命令も出たようですし、この文の筆者はその事実を知らないかあるいは隠しています。官民あげてユダヤ人の脱出を助けたというのは、後付な上にかなり無理のある主張でしょう。それについては本文中に既に記載がありますので、わざわざ書き足す必要はあまり感じません。なお、命令を受けたウラジオストクの日本領事は、本物の日本領事が出した本物のビザを持つ人間を入国拒否することはできないし、もしそうすれば、全世界で日本の発行したビザが信用されなくなるという理由でこの命令に反論する電文を打ち、命令を無視しています。ついでに記載しておくと、杉原のビザ発給について、大量の人員輸送に困難があり、船会社が反対しているので出すなという電文もあるようです。これについても、指摘のサイトは知らないでいるのか、あえて表記しないでいるのかのどちらかです。2005年9月8日 (木) 15:02 (UTC)

かつてこの問題を専門にしたことがある者です。
日本政府内におけるユダヤ人の取り扱い方針については、1938年前後から42年までの間に二転三転しており、日本政府の態度が固定したものであったと考えることに無理があります。むしろ、確固たる対処方針がなく、その時々の時勢や内部の勢力、実力者の考えなどによって転変したと考えた方が良いと思います。
特に在外公館と外務省本省との間の意見の齟齬が大きく、これは各公館との電文のやり取りからも確認できます。外務省としては別にユダヤ人に限らず避難民の受け容れには消極的でしたが、現地ではそんな事言っていられなかった様子が(杉原ではありませんが)38年頃から本省宛の電文に見て取れます(本省の指示は実施不能、などの意見が見られます)。
その一方で、「八紘一宇」なるタテマエ上ユダヤ人避難民を名指しで排斥できない、という外務省本省の文章があるほか、ナチスドイツからのユダヤ人引き渡し請求を跳ねつけていることもまた事実ではあります。
ここからは推測ですが、このような背景があって、在外公館では本省の指示を可能な限り拡大解釈して「現場の対処」を行い、外務省としてはそれを黙認まではいかないまでも見て見ぬふりをする、という関係が成立したのではないかと思われます。(キュラソー行き通過ビザの発給など)
“結果として”少なくない数のユダヤ人が救われることになったが、別にそれはユダヤ人を救おうという積極的な意志が働いたものではなかった、というのが私の個人的見解です。
220.147.220.118 2005年10月11日 (火) 12:03 (UTC)[返信]

杉原は1940年春からポーランド情報部関係者に偽造ビザを発行しており、同情報部の要請により7月上旬の段階でポーランド人難民に対するビザ発行の準備はされていました。しかし実際に押し寄せたのはユダヤ難民であり(ポーランド人は結局15人のみ)、ここで杉原が自分の職権を拡大解釈し発行したのが杉原ビザだったと推察します。当時、杉原は諜報網も組織し、高い情報収集能力が評価されていたこと、ドイツはユダヤ人追放政策中で抗議の恐れが無かったことから、杉原の拡大解釈によるビザ発行の処罰は行われなかったと考えます。 {利用者 バルファティック} 2005年12月22日〈木)

千畝の妻,幸子夫人の表現について

[編集]

この記事の内の以下の部分について,失礼な意味合いを持つ部分があったので,直しました。 ・・・・これらについて当の外務省は1991年10月、外務省の鈴木宗男政務次官(当時)が幸子未亡人を招いて日本政府の対応について「謝罪」している。しかし・・・・・ と言う文。未亡人とは  夫と死別してもおめおめと生きている女と言う意味合いなので,失礼と思い,未亡人のところを寡婦にしました。 --利用者:Dra1dra 2007年1月3日 (水) 09:56 (UTC)[返信]

岡崎勝男と勲五等瑞宝章について

[編集]

1)千原が個人の裁量でかってにビザを発給したことで外務省を追放されたことになっている。しかし、その証拠となるものは婦人の証言によるものだけだから、公式な見解としては外務省を追放された証拠はないということではないだろうか。

2)本省が出先に注意することは珍しくなく、杉原は一度として譴責処分を受けていない。また杉原だけでなく、ヨーロッパにあった日本大使館や領事館も多くのユダヤ人にビザを発給していた。ビザの発給は本国政府の方針に大筋において沿ったものであり、杉原千畝がどんな形であれ、たとえ勝手にビザを発給していたとしても、本省から処分を受けていたとすれば、勲五等瑞宝章は受賞されなかったのではないか。

また、外務省の人員整理は終戦後のアメリカ占領下で外交権を否定され一切の外交機能を奪われた中で行われている。このもとで、多数の職員が依願退職の形で外務省を去り、外務省の定員が1946年(昭和21年)に2260人だったのが、翌年にはおよそ三人に一人が退職を求められ、1563人にまで激減している。

3)杉原千畝は、当時の外務次官だった岡崎勝男から、それまで勤務に奨励したことに感謝する私信と、特別に金一封を送られている。次官が実筆をもって私信を認める行為は、杉原が外務省を追われたという通説との整合性はどうなるのだろうか。詳しい経緯が知りたい。

(参考文献:ラビ・マーヴィン トケイヤー「ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史」)

参考サイト ・ふぐ計画 http://www.world-reader.ne.jp/renasci/history/okazaki-060901.html

公式には追放されたという記録はない、ってのは本文に書いてあると思いますが。ビザの件は、杉原以前に千枚単位でユダヤ人にビザを出した大使館があったのならそうとも言えますが、どうもそういう話はないようです。杉原が千枚単位でビザを出してしまったおかげで、なし崩しに他の大使館もビザを出した、と見るのがより正確でしょう。「ビザの発給は本国政府の方針に大筋において沿ったものであり、」という部分は、杉原が何度も本省にビザ発給許可を求める電報を打って拒絶させられていることや、杉原ビザを持つ者が入国を認められずウラジオストックに送り返されそうになったという史実(これは杉原や夫人以外の言及も探せばあるようです)に反します。

退職を迫られたのは、どういう人物が多かったのか、それが研究されないと分からないですね。まさかくじ引きというわけではないでしょう。残った3分の2に何故杉原が入らなかったのか。エリートコースではないとはいえ、総領事代理までやった人物で退職を迫られた人物が杉原以外に何人もいる、というような根拠が提示されれば、「杉原夫人はそう言っているが実際にはこのような人物も退職させられている」という形で書き加えることはできると思います。次官の実筆というものも、果たして杉原だけに書いたものなのか、他の退職を強要された職員にも書いたのか(さすがに700人全員には書いてないでしょうが)それが分からないと判断しようがないですね。

それにしてもこんなにもめる記事になるとは初版を書いた頃には全然思いませんでした....Modeha 2007年4月14日 (土) 14:51 (UTC)[返信]

叙勲の件だけですが、石射猪太郎『外交官の一生』によると当時の官吏(少なくとも外交官)には年功による定期叙勲というものがあったようです。ですので勲章を貰っていたこと自体は当然のことであり、「冷遇されていなかった」とする根拠としては弱いと思います。--122.27.186.133 2007年5月6日 (日) 11:46 (UTC)[返信]

「杉原は外務省に下級の通訳官として、入省した。通訳官は『属官』と呼ばれる、いわゆる下積みの“ノンキャリア”だった。杉原はカウナスから、チェコスロバキア(当時)のプラハ、つぎにルーマニアのブカレストへ転勤して、1943年に、在ルーマニア公使館に勤務中に、ようやく三等書記官に昇進した。領事館員はウィーン条約によって、外交官としてみなされてはいないから、杉原は三等書記官に任命されたことによって、はじめて晴れて外交官となった。その翌年に、杉原はそれまでの功績によって、『勲五等瑞宝章』を授けられている。日本政府は杉原がユダヤ人難民にビザを発給したことを、まったく問題にしなかったのだ。もし、杉原がどのような形であれ、勝手にビザを発給したために、本省によって処分を受けていたとしたら、叙勲の栄誉に与(あずか)るようなことは、ありえなかった。」とラビ・マーヴィン・トケイヤーが書いてます。

署名もしないで、不勉強丸出しのいい加減なことを書かないこと。まず第一点。日本語が不得手な「ラビ・マーヴィン・トケイヤー」の英語の原文を挙げよ。第二点、杉原のリトアニア派遣の目的は、独ソ間の諜報。難民へのビザ発給は別の話。Tizizano会話2012年10月9日 (火) 23:47 (UTC)[返信]

英語表記について

[編集]

本文に「SUGIHARA "Sempo" Chiune」とありますが、ウィキペデイアの他の言語では"Sempo"は省かれているようです。どちらか正しいほうに統一した方が良いのではないでしょうか?222.13.35.34 2008年11月23日 (日) 16:52 (UTC)[返信]


2008年に歌手の吉川晃司さんがSENPOというミュージカルの主演:杉原千畝役をされました。

記事の正確性に疑問

[編集]

「杉原が正教会の洗礼を受けた正教徒であった事が最近になって知られるようになった」という間違いを訂正しましたが、幸子夫人の『六千人の命のビザ』1990年朝日ソノラマ版 p.145 に書かれているのに一体、どこが最近になって知られるようになったというのでしょうか? 最近まで知らなかった人がそれを知って驚いたという感想を本か雑誌に書いたとしても、杉原千畝について書く上で重要な資料である『六千人の命のビザ』を見ればすぐに判る間違い記述がされ、それが訂正されなかったという事は、この記事の歴代執筆者は『六千人の命のビザ』すら良く読んでいないわけですよね。となると「この記事の間違いはこれ一つで終わりだろうか」という疑問が生じます。「Wikipedia の信憑性など所詮この程度」なのかもしれませんが、間違い情報を発信されると影響が大きいので、この記事に関し関心があり議論する時間がある利用者の方々には、より重要な事として図書館で本を読んで正確性を向上させるという観点で記事の見直しをお願いします。- Tolena 2009年4月11日 (土) 04:40 (UTC)[返信]

この部分の執筆は私ではありませんが、修正しました。教派名は正教会であり、「ロシア正教で洗礼」というのはよくある誤りです。「ロシア正教」は組織名、「正教会」が教派です。信徒は半ば諦めて外部向けにこういう表現をしてしまう事は無いではありませんが、百科事典に相応しい記述ではありません。記事:鹿島田真希・当方の会話ページ:利用者‐会話:Kliment.A.K.正教徒も御覧下さい。
そもそもこのレベルの事は「ロシア正教会」の冒頭と「正教徒」に明瞭に書いてあるのですが、リンク先記事の冒頭文位は確認されたのでしょうか。リンク先記事冒頭文の確認もして頂けないとは誠に遺憾であります。「ウィキペディアの記事は信用ならない」と仰るかもしれませんが、此の程度の事はオリヴィエ・クレマンや高橋保行の新書・文庫レベルの著作に書かれている事です。
「Wikipedia の信憑性など所詮この程度」なのかもしれませんが、間違い情報を発信されると影響が大きいので、この記事に関し関心があり議論する時間がある利用者の方々には、より重要な事として図書館で本を読んで正確性を向上させるという観点で記事の見直しをお願いします。
誠に仰る通りですが、Tolenaさんもご注意下さい。--Kliment A.K. 2009年4月11日 (土) 14:53 (UTC)[返信]
文章に修正を行いました。--Kliment A.K. 2009年4月11日 (土) 14:57 (UTC)文章に修正を行いました。--Kliment A.K. 2009年4月11日 (土) 15:01 (UTC)[返信]
リンク先は読んでます。ですから原文の意味する所は、杉原夫妻はロシア正教会にて洗礼を受けて正教徒になった、という事ですよね。ハルピンで、とありますからロシア正教会なのは自然な事で、例えば日本ハリストス正教会で洗礼を受けたのでもなく、ギリシャ正教会でもなかったとしても、別に優劣があるわけでもなく、ロシア正教会で洗礼を受けたというのはわざわざ「訂正」すべき内容とは思えません。外部の人間は誤解する事が多いとしても、正教徒であった幸子さんが「ロシア正教」は組織名、「正教会」が教派名だと知らなかったとは考えにくく、自ら著書に「ロシア正教会」と書いたのであればそれは尊重すべきであり、あかたもロシア正教会なる物は存在しないかのごとくの反応を示すのはやり過ぎに思います。それとも「ロシアに在住している時に現地の正教会の組織で洗礼を受けた」とでも幸子さんは著書に書くべきだった、という事でしょうか?
引用のガイドライン/草案の 6. の「(改変の禁止)被引用文を改変しないこと」をご覧下さい。Kliment A.K. さんの行った幸子さんの著作物の改変は、例えばロシア正教会とギリシャ正教会は別の組織だと思っているような読者でも誤解を生じにくくするメリットがありますが、知っている人間にはとりたてて誤解を生じる表現ではないのでさほどのメリットはなく、引用部分を改変する事で著作権法20条1項の同一性保持権を侵害するおそれがありますので、せっかくの編集及び御意見に対し申し訳ないですが今回は幸子さんの表現そのまま、すなわち同一性を保持した形で引用するという事に再度記述を修正させていただきます。本として出版される段階で編集の手が入り表現が手直しされた可能性もありますが、本として正式に世の中に出ていますし、幸子さんが「こんな物は私の書いた物ではない」のような異論を唱えたという情報も特にありませんので、既に幸子さんが故人となられた今では表現を修正できる人は存在しませんので本の表現をもって正式なものとしたく思います。 -- Tolena 2009年4月29日 (水) 09:59 (UTC)[返信]

中立性

[編集]

週末に Wikipedia で調べ物をしたついでに記事を幾つか「読んで」いてこの記事を見ましたが、あまりにも偏っているのでびっくりしました。「戦争」「外交」という分野なので特定の主義主張を Wikipedia で宣伝したいという人たちが集まりがちなのかもしれませんが、驚いて杉原千畝で検索して他のページと見比べてみました。以下は個人ページですが、

Wikipedia の内容は、既に世の中では通用しないような主張が色濃いですね。さらに、この記事は、とある掲示板に書かれている内容と主張が極めて近いですね。多数の人名を救っておきながらなおここまで悪く書かれると読んでいて気分が悪くなってきますが。 -- Tolena 2009年4月29日 (水) 09:59 (UTC)[返信]

参考文献は本当に参考にされているのか

[編集]

とりわけ問題だと思ったのは、この記事の参考文献には多数の著書が並んでおり、一見、非常に良く調査して書かれた正確性の高い記事に見えますが、実際は『六千人の命のビザ』を見ただけで間違いだと判る内容が平気で書かれていた点です。この記事を編集する Wikipedia の利用者で、本当に参考文献を全て読んでいる人がどれだけ居るのでしょうか? これでは参考文献が並んでいるのは「虎の威を借る狐」を演じているだけではありませんか? もっとも私も『六千人の命のビザ』に目を通すのがやっとの状態で一部、編集させて頂いてはおりますし、幸子さんの著書が唯一絶対なわけでも、幸子さんの書くことには一切間違いが無いとも主張しませんが、夫人という立場で著した『六千人の命のビザ』と全く相容れない記述に関しては、「六千人の命のビザにはこう書かれているが、これこれの出典・証拠によりこれは間違い」といった議論や出典の信頼性の吟味があってしかるべきでしょう。Wikipedia は調べ物をするためのきっかけにしかならないのかもしれませんが、正直、参考文献が多数列挙されているものの、この記事を読むより『六千人の命のビザ』一冊を読むほうが遥かに正確な情報が得られると感じました。

また、一部記述に関して削除依頼を出させて頂きますが、これも

  • 英語記事からの翻訳
  • 『六千人の命のビザ』に簡潔で明快な、杉原千畝氏自身が語ったビザ発給の理由が収録されている

という事から、「翻訳してくれたのはありがたいけれど、『六千人の命のビザ』を読んでいないようだ」と判断せざるを得ません。参考文献を一冊も読まずに書いている利用者もいるであろうから、Template メッセージの一覧から{{参照方法}} を貼らさせて頂きました。 -- Tolena 2009年4月29日 (水) 09:59 (UTC)[返信]

正教会用語に限定した議論欄

[編集]

まず、杉原千畝自身については小生、全くの無知蒙昧であります。記事全体のレヴェルを向上させようとするTolenaさんの熱意と御尽力に水を差すのは小生の本意ではなく、こちらの言葉にもし気分を害されたようでしたらお詫び申し上げます。全体的にはTolenaさんの仰る方針に対して異論はありません(というより知らないので賛成も反対も出来ません)。

但し、正教用語についてのみは、小生からいささか申し上げたい事が御座いますので、これについてのみ申します。

>ハルピンで、とありますからロシア正教会なのは自然な事で、

実は全く自然な事ではありません。当時ハルビンで優勢だったのは在外ロシア正教会でした。

>正教徒であった幸子さんが「ロシア正教」は組織名、「正教会」が教派名だと知らなかったとは考えにくく、

当時の正教会の世界情勢は混沌としていました上に、日本正教会教会法についての知識は誠に残念ながら言いにくい事ではありますがお粗末極まりないもので御座いました(この事は、ソ連革命後の日本正教会が秩序を維持出来ずに混乱した根本的原因でもあります)。神品 (正教会の聖職)達ですら現代の情報化社会から見れば信じられないほどに教会法に無知をさらけだし、世界情勢についても全くの無知でした(当時の情報伝達手段を考えれば彼等を責める事は酷ですが)。「ロシア正教ではなく、単に正教なのだ。我々の信仰はギリシャ正教でもロシア正教でも無い」と言っていたのは、当時は日本の府主教であったセルギイ・チホーミロフとその数少ない支持者くらいのものでした。セルギイ・チホーミロフの、今日では当たり前と想われる見解が多数の支持を得られなかった事は、長縄光男氏の著作などに明らかです。その時代に生きた杉原幸子氏がまるでこの辺の事情を全く御存じないのは極めて自然であり、杉原幸子氏がその辺無頓着に用語を間違えたとしか考えられません。

なお、引用形式を損なうのは確かに問題でありますが、この部分、明確に「引用」の体裁をとっているでしょうか?そこにそもそも根本的な疑問があるのですが…--Kliment A.K. 2009年4月29日 (水) 10:45 (UTC)[返信]

可読性を考慮し、節の場所を移させて頂きました。--Kliment A.K. 2009年4月29日 (水) 10:56 (UTC)[返信]

  • なお、2009年4月29日 (水) 19:45(JST)時点での記事内の正教会に関する語彙・説明に関しては、現時点では異議御座いません。編集・特定版削除依頼など、大幅な記事の向上に努めていらっしゃるTolenaさんに感謝申し上げます。--Kliment A.K. 2009年4月29日 (水) 11:04 (UTC)[返信]

幸子夫人の表現は脚注に留め、本文は手をつけない事にしました。ところで私は幸子夫人ほど立派ではありませんし、まして故人となられた今、何か批判するような立場ではありませんが、「当時の正教会の世界情勢は混沌」としていたのならなおの事、幸子夫人の書いた「夫も私もロシア正教の洗礼を受けていました」という、当時の考えに基づいて記された表現に対し、今の時代の基準を当てはめて間違いと言ったり、手を加えて「訂正」する事はできないのではありませんか?
「無頓着に用語を間違えたとしか考えられません」ですか…幸子夫人もロシア語が使え(『六千人の命のビザ』1990年朝日ソノラマ版 p. 128)たり、洗礼を受けたのがロシア正教会の組織であったため、愛着があったのでそういう表現になったと考えても説明可能と思います。いずれにせよ「ロシア正教会で洗礼」と書くべき所を「ロシア正教洗礼」と書いたと、そこまで批判しなければいけないのでしょうか。 -- Tolena 2009年4月29日 (水) 16:03 (UTC)[返信]

すみません、仰る事がよく分りません。
>私は幸子夫人ほど立派ではありませんし、まして故人となられた今、何か批判するような立場ではありませんが
幸子夫人を私は尊敬していますし、私は取るに足りない愚か者で御座います。が、事実の問題と人格の高潔さとは話が別であります。どんなに人格の高潔な人物でも得手ではない分野では誤りも犯しますし(たとえ信徒であっても術語が得手でない人と謂うのは宗教・教派問わずどこにでもいらっしゃいます)、どんなに愚劣な人物でも得手の分野では正しい術語を用いる事もあります。
>今の時代の基準を当てはめて間違いと言ったり、手を加えて「訂正」する事はできないのではありませんか?
何か誤解されておいでのようですが、私が申しておりますのは「今の時代の基準」ではありません。古代から現代に至るまでの教会法・教理の論理的必然です。正教会には「ロシア正教会の洗礼」「ギリシャ正教会の洗礼」「キプロス正教会の洗礼」など古代から現代に至るまで存在しません。それでも当時の一信徒の誤解を人格の立派さを理由に、その人物の「誤解」もしくは「説明不足」を百科事典に一字一句そのまま「事実」として書くべきとTolenaさんは仰るのですか?そうではないでしょう?
>当時の考えに基づいて記された表現に対し、
先に申しましたが、ハルビンで優勢だったのは在外シノドとも呼ばれる在外ロシア正教会でした。これはロシア正教会とは当時別組織でありました。「ロシア正教」と書かれたその時点で、「当時の状況」に照らし合わせても、幸子夫人も組織についての認識を誤っていた蓋然性は極めて高いと思われます。
それよりも何よりもです、これは評価の問題ではなくて事実の問題に属する事です。ですから「今の価値観で判断すべきか否か」という、歴史認識の場面で左右激論となり頻繁に論じられる問題とは性質を異にします。
まとめます。
  • 古代から現代に至るまで、「ロシア正教の洗礼」「キプロス正教の洗礼」などといったものは存在せず、あるのは唯「正教の洗礼」のみです(評価ではなく事実)。だからこそ全ての合法的正教会において領聖が可能な機密的コミュニオンが形成されるのです。
  • 杉原幸子氏は、誤解からか、一般人向けに分り易くしようとして正確ではない事を言われたのかは不明でありますが、事実に反する事を述べています。引用の形式ならば兎も角、説明としてならば、修正して記述するのは事典として当然でしょう。例えば「陛下が過去の出来事について云々言ったのだから、当時の価値観を尊重し、天皇についての記事では陛下の御言葉通りに『云々』と書くべき」と言う事は、事典では通用しないのと同様に。
  • そもそも亡命ロシア人が殆どだったハルビンの正教会として、ソ連政権を認めるモスクワ総主教庁系のロシア正教会があったとは考えにくいのです(あった蓋然性は排除しませんが)。当時、ハルビンで日本と関係があったのも在外ロシア正教会であり、この点でも幸子氏は二重に誤りを犯していらした蓋然性は高い。
「事実」「蓋然性」に基づく記述を、幸子夫人の「誤解」「説明不足」による記述に置き換えようとは私には思えません。事実の記述について問題にしているのであって、杉原幸子夫人を「批判的に書く」のとは違うのです。繰り返します、私は杉原幸子氏の人格を問題にしているのではありません。どうか誤解無きよう。--Kliment A.K. 2009年4月30日 (木) 05:15 (UTC)[返信]

論理性の欠如

[編集]

まずはじめに、この記事は他国語の記事にも参照されているということですので、国際的に通用する、論理的な記事にしていくべきです。

杉原氏の最大の功績はユダヤ人が迫害を逃れるために何千枚ものビザを発行した、という一点であり、それを当時の外務省がサポートしたか否かということは、日本国内の一部の人々の関心事でしかありません。国際的には、第二次世界大戦中の日本政府がそんなことをする理由がない、と一蹴されるだけです。それを覆すためには、当時の外務省が杉原氏にユダヤ人難民用のビザを発行するよう指示した命令書のような、ポジティブな根拠が必要です。外務省から杉原氏に対して無許可のビザ発行に関する戒告の記録がないから、外務省は実質上ユダヤ人の救済に貢献していた、などという稚拙な論理はあまりにも恥ずかしいです。

具体的には、「日本政府の対応について」の部分ですが、まずタイトルが不適切だと思われます。この部分の記述はソースに基く日本政府の対応をまとめているわけではなく、杉原氏と外務省との摩擦について巷に溢れている憶測的見解を二、三取り上げているだけです。またそれらの見解がなぜここに選ばれて、記載されているのか、その理由もよくわかりません。

「日本政府の対応」として、「日本政府の対応について」の最後2段落に書かれている事実をきちんとソースを整理して年代順に記述し、それをめぐる見解は個人の問題ですから記事から削除すべきだと思います。

個人的には、以下の部分が非常に非論理的かつ恣意的だと考えます。

>まず、既に同盟関係にあったドイツとの関係を重視し、ユダヤ人を見捨てようとした非情な外務省に対して立ち向かった千畝という構図で捉える見解である。

ここまで極端な見解をする人はどれだけいるのでしょうか?ドイツとの同盟関係がある中で、日本という国がうかつに反ヒトラーと取られるような動きを取れない状態にあったということは、中高生レベルの歴史の知識でも容易に想像できます。日本国内外を問わずに彼の英断が世界中で称えられているのは「苦渋の末、上からの命令に背いて人道的に正しい決断を貫いた」からです。彼は別に当時の外務省という組織を根本から否定して、省内の世直しを企てていたわけではありません。また、命令に背いてビザを発行するという、領事代理としての地位ありきの行為により、外務省という組織に「立ち向かう」というのもおかしな話です。領事代理の職を解かれればすぐに不可能になってしまうことですし、実際に日本側で外務省がそれらのビザ所持者の入国拒否をすることが可能でした。

そしてこの「見解」についての続きも非常に不可解です。

>この見解が支持されるひとつの理由として、千畝が戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、1947年に外務省を辞職に追い込まれていることがある。

まず、外務省側は「依頼退職」、杉原氏の妻は「免官、あるいは辞職に追い込まれた」と違う主張であることをしっかりと出典入りで記述するべきです。

>なお、退職金や年金についても不利な扱いはなかったとする人も有り(『意外な解放者』参照)、この点に関しては妻・幸子が自著において退職金を受け取っていたことについて認めていることと一致する。

この一連の流れは「退職金を受け取っていた」-->「免官されたのではなく、その他の不当な扱いもなかったはず」-->「外務省は杉原氏によるビザ発行を黙認し、ユダヤ人の人道的救済に貢献していた」という短絡的な経路によって、二番目に挙げられている「見解」をサポートするように書かれています。しかし、実質的には解雇であっても依頼退職という形にして組織内外での波風を抑え、手切れ金的な意味合いで退職金も年金も支給する、というのは昔からよくある話です。金額さえわからない、何らかの形の退職金や外務次官から金一封を受け取っていたという理由だけで、杉原ビザが外務省から支持されていたと考えるのには無理があります。

また、杉原氏の名誉復活に関していかに外務省関係者が反対し、最終的に「日本政府の訓令に従って、杉原さんはビザを出した」という主張に到達したのか、そのいきさつが雑誌「アエラ」の2000年11月13日号で報道されているようです。日本国内でしたら図書館で入手できると思いますので、確認が取れ次第、「日本政府の対応」の部分に追加すべきと考えます。--96.252.174.136 2009年7月6日 (月) 05:17 (UTC)[返信]

杉原氏の最大の功績はユダヤ人が迫害を逃れるために何千枚ものビザを発行した、という一点であり、それを当時の外務省がサポートしたか否かということは、日本国内の一部の人々の関心事でしかありません。
これは完全な間違い。外務省の組織的関与があったのかどうかは極めて重要なことだ。お前が国際社会の代弁者だとも思えないけど、国際社会の関心の有無とは関係なしに真実を追究していくべきことだ。--侍情報員 2009年12月2日 (水) 13:30 (UTC)[返信]

ドイツだって同盟の中ジョン・ラーベが中国国民党の武器商人であったという説があるぐらい、同盟関係のドイツに遠慮するようなことを当時の日本政府がしていなかったのは、他の方達の動きを見ても明らか。駐モスクワ日本大使館などは、もっと後までユダヤ人にビザを発給していたことも確認されている。中高生レベルの歴史認識でこの件を語ることは出来ないと思う。特に後にA級戦犯になった方達がユダヤ人の人権について考えていたことは、連合国側からすると面白くない事実なんじゃないでしょうか?
東條英機 ……満州に逃げてきたユダヤ人に穏健な措置を取るように指示し、ドイツからの抗議を一蹴。
松岡洋右 ……凍死寸前のユダヤ難民のために列車を手配。神戸に来たユダヤ人のために便宜を計らう。
荒木貞夫 ……文部大臣の時、ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも、民族差別には同意できないと拒否。
東郷茂徳 ……亡命ユダヤ人医師の婚約者を救出。恩義を感じたその医師は、東郷の主治医となり、日本で死去。
広田弘毅 ……命のビザを発給した杉原千畝の尊敬する人物。亡命ユダヤ人音楽家の身元保証人となる。
板垣征四郎 ……五相会議において、ユダヤ人も公平に扱うべきと主張し、その結果、ユダヤ人を公平に扱うのが日本の国策となった。

東郷のところはコピペのミスかな。広田のところはあってるが、すでに記事のなかに書いてある。他の「中高生レベルの歴史認識」は、他で(2chとか)でどうぞ。下に掲げた参考文献一冊(丸山、金子、阪東、関根のどれか)読めば、誤りはわかりますよ。2012年10月9日 (火) 23:50 (UTC)Tizizano会話2012年10月10日 (水) 04:57 (UTC)[返信]

記事そのものについて

[編集]

諸氏が記事の内容について侃侃諤諤の議論をされ、記事を充実させようとの意図は見えるが、加筆が過剰で杉原氏についての概略を知りたい読者にとっては読みにくいことこの上ない。時系列もバラバラ、学界で議論すればいいような詳細な事実の紹介…。ここは「百科事典」であって、大学の紀要でも学会の年報でもない、ということを各記入者が意識してほしい。現在の記事の三分の一でもまだ多すぎるくらいではなかろうか。杉原氏の行動や、議論のある項目については参照文献へ誘導することにより記事をまとめてほしい。一般人の関心も高い方の記事なのだからそれくらいの配慮を期待したい。--number8 2011年3月26日 (土) 19:07 (UTC)[返信]

杉原氏を尊敬する、一人の学生としてコメントします。まずはじめに言えることは、Number8さんご指摘の通り、この記事は現在、善意と熱意によるものとはいえ、過剰な加筆によって完全に可読性が失われた状態にあります。杉原氏本人について、ある一定レベル以上の基礎的な知識を持ち、かつ、当時の世界情勢、日本外務省のスタンスなどについても、ある一定レベル以上の知識を前提としてもっていない限り、読み進めることはあまりにも困難であると感じました。『読み物』としては、なかなか面白く読めるものかもしれませんが、百科事典の記事としては、あまりにも長すぎると思います。両論併記などにこだわりすぎるあまり、「真実」と「通説」の両方がほぼ同じボリュームになっており、文章がふくれあがる原因となっています。また、杉原氏本人を中心としない、日本国外務省や根井三郎氏についての記述も、長大過ぎるでしょう。現在の状態は、改善されるべきです。別途、「記事の可読性向上と、簡素化」を、このノートページで発議し、議論してゆきたいと考えております。はっきり申し上げて、現在の本文は、百科事典の一項目としてとどめておくにはあまりにも膨大なものであり、「調べもの」の役には立ちません。--Rienzi 2011年4月4日 (月) 10:54 (UTC)[返信]

言いだしっぺでありながらその後の記事の整理等にコメントせずにいたことをお詫びいたします。また、良質な記事に選出されるほど、皆様方が努力をされたことに心から敬意を表します。本音を言えばもう少し記事の圧縮があった方がよかったかと思いますが、皆様方がここまでの努力をなされた以上それはもはや繰り言。参照文献の充実等は他の記事に比して素晴らしく充実していて、感心している次第です。重ね重ね皆様のご努力に敬意を表します。--number8 2012年1月26日 (木) 14:29 (UTC)[返信]

記事の簡素化と可読性向上について

[編集]

はじめまして。Rienziと申します。私自身は、作曲専攻の音大生で、近代史や外国語、外交などについては、素人であることを最初にはっきりとお伝えしておきます。

杉原千畝氏を、私はとても尊敬しています。昨年8月には、念願のカウナス訪問も果たしました。

さて、本題に入ります。

以前私はこの記事を読んで、読みやすくていい記事だと思いました。

しかし、しばらく時間をおいて、久々に記事本文を目にして驚きました。

この記事の、あまりの長大さと、神経質なまでの細かさに。

全体的に引用が多く、ドキュメンタリー調の文体になっていることにも、強い疑問と違和感を感じました。

見出しにあります通り、この記事は「簡素化」と「可読性向上」が必要であると考えます。

過去、幾多の議論を経て、多数の参考文献からとられた記述をもとに、膨大な加筆が行われました。記事本文の執筆に関わられた皆様の、善意と熱意は、素晴らしいものであったと思います。

しかしながら、現時点において、この「杉原千畝」の記事は、他の人物記事と比較しても、あまりにも長大です。

Wikipediaは、あくまで百科事典です。「調べもの」をするための場所です。

残念ながら、現在の記事本文は、「調べもの」には全く不適切であると言わざるを得ません。

そう考える理由を、以下、箇条書きで明示します。

  • 文章が長過ぎる。
  • 引用が多すぎる。
  • 記述が必ずしも時系列順ではなく、事実関係の検証のために挿入されている内容が多い。
  • 杉原氏本人を主体としない記述が多い。(例:根井三郎氏など)
  • 当時の社会情勢や日本外務省のスタンスなどに関する記述が膨大である。
  • 各種映画や文献などに含まれる誤謬を指摘するために割かれた文量が多い。
  • 「難民救済の動機」など、一見、文献をもとに理路整然と書かれているものの、独自研究の疑いのある記述が多い。

ほかにもいろいろと指摘したいことはありますが、ざっとあげると、上記のような理由です。

以上のような理由から、私自身は、この記事の執筆に関わられた皆様の善意と熱意を理解したうえで、こういった記事に関してはずぶの素人ではありますが、次のような提案をしたいと思います。

それは、「記事の簡素化」と「可読性向上」の二点です。

いろいろなことが可能であるとは思いますが、いくつか、私自身の提案を、箇条書きで提示します。

  • 過剰な引用は削除し、子細な記述は参考文献に委ねる。
  • 根井三郎氏など、ビザ発給の一件に大きく関わっている人物に関しては、別個に独立した記事を立ち上げ、そちらに記述する。
  • 映画作品などにみられる、フィクションや誤謬についての記述は、調べものをする上での必然性に疑問があると最終的に判断された場合は削除し、記事本文では行わない。
  • 「難民救済の動機」などの「文献をもとに行った分析」的な記述は、文献がどれほど確かであっても、独自研究の域を出ないと最終的に判断された場合は、削除する。
  • 各セクションの文量を、出来る限り縮減する。
  • 文章を、時系列順とする。
  • 年表を活用する。

その他、様々な方法により、この記事を再び、調べものに適した、読みやすい記事へと戻すことが必要であると考えます。

杉原氏について、出来るだけ正確な内容を、細かく伝えたい。

そういった思いのもとに、現在の記事本文は出来上がっているのだと思います。

しかし、杉原氏について「ちょっと知りたい」「調べてみたい」と思って、この記事で初めて杉原氏と向き合う多くの利用者は、このような、ドキュメンタリー調の、膨大な文章を望むでしょうか?

ゆっくりと、時間をかけてでも、この記事を、百科事典の記事として適切な状態へ戻しましょう。

現在の内容は確かに読み応えはあり、面白くもあります。しかし、百科事典の記事としては全く適切ではないと思います。

長文失礼いたしました。少しでも多くの方と意見交換が出来れば嬉しいです。--Rienzi 2011年4月4日 (月) 11:21 (UTC)[返信]

大体の部分は私が書きました。参考文献は、すべて私の手元にありますので、疑問点などございましたら、何でもお尋ね下さい。大抵の事柄については即答できます。ただ、参考文献は、残した方が良いと思います。協力させて頂きますので、適当にやって下さい。Tizizano 2011年4月4日 (月) 11:52 (UTC)[返信]

Tizizanoさん、コメントいただきありがとうございます。私、Rienziが記述いたしました上記提案文におきまして、いささか礼を失した発言がありましたことをお詫び申し上げます。Tizizanoさんがおっしゃる通り、参考文献は、残す必要があると思います。私自身は、テレビドラマや番組などで杉原氏のことを知る機会は多々ありましたが、挙げられている参考文献については、『六千人の命のビザ』を、中学時代に一度読んだきりです。残念ながら、私自身の杉原氏に関する知識と理解は、まだまだ乏しいものです。私の知識が乏しいゆえに、何かとご迷惑をおかけすることも多々あるかとは思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。純粋に「可読性向上」という観点から、まずは一点、質問させてください。文中多数含まれる引用について、文章をそっくりそのまま本文中に引用する形でなく、引用をしないかわりに、たとえば「○○著『○○』、××ページ〜××ページを参照」のような脚注で置き換えて、参考文献へ読者を導く形をとることは、可能でしょうか?--Rienzi 2011年4月4日 (月) 12:12 (UTC)[返信]

Reinziさん、こんにちは。

最後の点に関しては、多くの曲想やモチーフを持っていれば作曲がたやすいように、もちろん可能です。ただ、時間がかかりますので、すぐに全部はできません。Reinziさんのおっしゃっている「ある一定レベル以上の基礎的な知識を持ち、かつ、当時の世界情勢、日本外務省のスタンスなどについても、ある一定レベル以上の知識を前提としてもっていない限り、読み進めることはあまりにも困難である」というご指摘はよくわかります。ただ、「以前私はこの記事を読んで、読みやすくていい記事だと思いました」という点に関しましては、いかがなものでしょうか。必要な参考文献が読み込まれていない段階で書かれた記事は、「読みやす」くはあっても、必ずしも「いい記事」とは言えないのではないでしょうか。高校生が読んでも歴史学者が読んでも「なるほど」と思わせる説得力を具備することこそ、百科事典の役割ではないでしょうか。

「独自研究の疑いのある記述が多い」というご指摘ですが、Wikipediaの「独自研究は載せない」という箇所に「一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌」とあり、それらの条件をクリアしていると思います。これら「最も信頼できる資料」(もちろん、その中にもいい加減なものも少なくありませんが …)が参照している以上のレフェランスを読み込んだ上で書いているのであり、内外のいかなる研究者やジャーナリストが読んでも事実誤認はないと思います。

似通ったテーマの英独仏語版などもチェックしましたが、英語版は現在でもひどいものです。杉原氏は、戦後鵠沼に住み、後になくなられるまで西鎌倉に住まわれたのですが、「東京湾の近くの自宅」でなされたという、トンデモないインタビューの「東京湾」という間違いを指摘し、英語版の編集者たちが訂正するまで一週間もかかりました。日本語も読めない、知ったかぶりの英語版の編集者たちには呆れる他はなく、まったく無知ほど恐ろしいものはありません。英語版が翻訳されただけのタガログ語版が「秀逸な記事」に選ばれるなど、もはやジョークとしか思えません。

少しずつ書き直すと、全体のプロポーションがおかしくなってしまうので、各単元の文案をこちらで提示し、全部出そろったら、一挙に表に出すのがよいのではないでしょうか。

表の「ページ」ですが、上下のブランケットの内の「この項目は過剰な加筆が行われ、読みにくくなっています。」の方は、「人物伝の記事における、その人物の業績にとって重要ではない、何年何月何日に何をしたといった箇条書き」などという項目にあてはまりませんので、外して頂けませんでしょうか。上の方だけがあれば、興味がある方を「ノート」に呼び込めますので。この点、ご一考下さい。Tizizano 2011年4月4日 (月) 22:18 (UTC)[返信]

追加です。

「難民救済の動機」は、まあ各自が調べて考えれば良いので、単元毎削除しました。Wikipediaは、学生がレポートを作る時にもよく使われるそうですので、ロシア語の報告文の冒頭部の全訳は、どの研究書にも載っておらず、きちっとした全体の内容の解説も見あたらないので、残した方が読者の利益になると思います。Tizizano 2011年4月4日 (月) 22:33 (UTC)[返信]

Tizizanoさん、おはようございます。「内容過剰」タグは、ノートページでの議論参加者を増やすためには、おっしゃる通り必要ないものでしたので、外させていただきました。私自身は、「難民救済の動機」の部分以外は、正確な資料に基づき、正確性や中立性は確保されていると感じておりましたので、現時点での記事本文内容そのものには問題はないと思います。Tizizanoさんのおっしゃる通り、高校生が読んでも学者が読んでも納得できる=万人が納得できる記事というのが、Wikipediaの記事として求められることだと思うので、その点については同感です。出典もきちんとありますし。あとは、記事内容を損なわない範囲で、「読みやすく」することができれば・・・と思うので、各単元の文案を、ゆっくりと練り上げてゆくのが、良いかと思います。

ロシア語の報告文については、私自身は必要と思いますが、他の方の意見も聞いてみる必要があるとは思います。

外国語版が、そのような状態であったとは知りませんでした・・・それは・・・ひどすぎますね・・・。

Reinziさん、みなさん、おはようございます。

特に必要がない、7「千畝を演じた俳優」8「千畝に捧げられた楽曲」も削除しました。本日中に本文もダウンサイズしますので、またご検討下さい。Tizizano 2011年4月4日 (月) 23:40 (UTC)[返信]

大幅に削除した改訂新版

[編集]

「年表」と「評価」を統合し、親族説明を削除しました。当初の半分くらいのサイズに縮小致しました。

これで、杉原氏について

i)「ちょっと知りたい」… 「略歴」と「年表」を見る。 ii)「調べてみたい」… 「生涯」を読む。 iii)「研究したい」… 「参考文献」にあたる。

。。。といった、多様な要求に応じられるのではないかと愚考致します。

こんなものでいかがでしょうか?お尋ね致します。Tizizano 2011年4月5日 (火) 02:50 (UTC)[返信]

Tizizanoさんこんばんは。Rienziです。 改訂新版さっそく拝見しました。これは、素晴らしいですね!確かな出典に基づき、多様なニーズに応え、かつ、読みやすいという、Wikipediaの記事として、とても理想的な形だと思います!これほど、多様なニーズに応えられるような形の人物記事、実はよそを見渡しても、なかなかないと思っています・・・。わたくし自身、記事執筆の際の参考とさせていただきます。歴史の素人のわたくしの呼びかけに、これほど迅速に、かつ、高いクオリティの投稿で応じていただけたことを、感謝いたします。これほど読みやすく、わかりやすくなりますと、こちらのノートで一定数以上の賛成意見が出た時点で、『秀逸な記事』へ推薦させていただけたら・・・と思います。--Rienzi 2011年4月5日 (火) 10:14 (UTC)[返信]
Rienziさん、こんばんは。
ご理解頂きありがとうございます。表に初めて来る方が驚くので、注意喚起のブランケットの解除をご検討下さい。よろしくお願い致します。Tizizano 2011年4月5日 (火) 11:04 (UTC)[返信]

インデント戻します。記事本文の議論参加を呼びかける告知タグを解除いたしました。よろしくお願いいたします。--Rienzi 2011年4月5日 (火) 12:54 (UTC)[返信]

ワグネリアンのRienziさん、ありがとうございます。Tizizano 2011年4月5日 (火) 22:14 (UTC)[返信]

Wikipedia:コメント依頼#議_2011年4月を拝見してこちらへまいりましたが、すでに議論が終結し、理想的な状態で編集が完了したようですので、コメント依頼を取り下げられてはいかがでしょうか。また、Wikipedia:秀逸な記事もしくはWikipedia:良質な記事への推薦について、賛成いたします。素晴らしい記事を書かれた編集者さまに、心から敬意を表したく存じます。--Isamit 2011年4月7日 (木) 02:06 (UTC)[返信]

文法的なクリーンナップ

[編集]

こんにちは、執筆お疲れ様です。当方にて以下のフォーマッティングを行いました。

また以下の処置も必要だと思うので、考慮したいと思います。

  • 括弧リンクの削減(日本リトアニア日本人日本語など、出現する度に全てリンク化する必要は無いと思います。最初の1回だけで問題ないかと)

--Tondenh 2011年10月12日 (水) 16:22 (UTC)[返信]

おすすめ記事

[編集]

本記事の完成度の高さに鑑み、Wikipedia:おすすめ記事に推挙いたしました。個人的には、一部の誤字脱字(句読点が二重に書かれている、漢字が二重に書かれている)などの些細な点を改める必要はあるかと存じますが、肝心要の内容はWikipedia:秀逸な記事またはWikipedia:良質な記事の基準を充分に満たしているのではないかと存じます。編集履歴を拝見いたしますと、現段階ではまだ細やかな修正が続いている状態のようですので、秀逸な記事または良質な記事への私からの推薦はひとまず控えましたことをなにとぞお許しください。--Isamit 2011年4月25日 (月) 09:43 (UTC)[返信]

Isamitさん、こんばんは。
ご配慮頂き、恐縮でございます。杉原千畝に関しましては、いずれまとまった著作を書こうと思っております。ここで頂いた様々のサジェスチョンは、その際の宝物になるでしょう。Tizizano 2011年4月28日 (木) 11:12 (UTC)[返信]

記事選考に対するお礼

[編集]

ご推薦賜りました、Isamit様・ぱたごん様・Ichiro Kikuchi様・朝に弱い姫様、並びにさまざまな適切な改定案を頂きました諸氏に、心より感謝申し上げます。なお時間のある折りにブラッシュアップに心がけさせて頂きますので、ご指導賜りますようお願い申し上げます。Tizizano 2011年11月6日 (日) 10:02 (UTC)[返信]

文法的なクリーンナップ

[編集]

Tondenh さん、こんにちは。 ご指摘の過剰なリンク先を消去し、あわせて文献を整理致しました。回想録のような一次資料と研究書を分離致しました。よろしくお願い致します。Tizizano 2011年11月9日 (水) 02:19 (UTC)[返信]