ノート:木寺宮
表示
- 編集合戦が続いており、カテゴリまで削除されるなど目に余る状態ですので、半保護を依頼しました。こぶまき 2006年6月15日 (木) 13:01 (UTC)
管見に入った一次史料に拠る限り、康仁親王が遠江入野に下向した事実は確認出来ません(子孫の木寺宮が下向した可能性までは否定しませんが)。竜雲寺(古)文書は「大宮様」に関するものが最古で、開基に関する由緒書も江戸時代以降の伝承がベースになっており(具体的には遠江国風土記伝など)、これらを木寺宮の史実として書くことは問題が大きいと思います。
入野下向について
[編集]これに関しては以前、龍雲寺で龍雲寺古文書を見せてもらったところ、康仁親王を起とする木寺宮家家系図や関連資料があり、他にも関係寺院古文書や、入野付近には親王(もしくは子孫)とともに下向したとされる家来の子孫も住んでいる点などから、木寺宮の子孫が入野に移り住んだのは確実だと思われる。康仁親王自身が入野入りしていたかは諸説あり、いくつかの文献で地域に残る伝承や古文書を否定するのもいかがかと思う。親王下向に関しては下向せずの資料があるだけに伝承と言うにとどまるが、それ以降の子孫の下向をも怪しむのは入野地域の歴史伝承を否定するものである。 よってここでは、 子孫の入野下向は確実で、康仁親王下向に関しては入野では親王も下向していたと伝えられている。とするべきであり、安易に下向を否定したり、信用性を述べるのはいかがかと思う。
どの資料が確実でどの伝承が間違っていると決めることは難しい。