ノート:早矢仕有的/削除
このページは早矢仕有的の過去の版について削除依頼の議論内容を保存した物です。
現在の記事へのご意見はノート:早矢仕有的にて行ってください。
下記の議論により、このページは削除されました。このノートを編集/削除しないようお願いします。
7月20日
[編集]Doraさんより、早矢仕有的は、外部サイトの著作権侵害の可能性があるとの指摘がありました。確認したところ、当該サイトは中央区広報誌(平成13年6月15日号)の署名記事でした。このままおけば、どのように説明しようが、1次、2次の著作権を含めて、ややこしい問題に発展しかねません。お手数ですが、削除を依頼します。百楽天 2004年7月20日 (火) 14:55 (UTC)
- (賛成) なお、該当ノートでも議論の都合上、同文章の転載がありますので、同様の取り扱いが必要な箇所があるかと思います。Dora 2004年7月20日 (火) 15:44 (UTC)
(保留)(賛成)削除自体は支持しますが、履歴の中に他のページで議論中の問題が含まれているので、そちらが落着するまで削除は保留して頂きたいと思います。martin 2004年7月24日 (土) 15:51 (UTC)- 問題が決着したのであれば賛成に変更します。martin 2004年8月27日 (金) 18:06 (UTC)
- (賛成)ただし記事のみ。ノートは削除審議に必要な引用の範疇を出ていないように思いました。なお martin さんのご要望ですが、現時点での記事履歴をノートページに転写しました。同一性については百楽天氏からの自己申告もありましたし、ある程度決着を見ているように思います。いかがでしょうか。--Aphaea 2004年8月27日 (金) 17:40 (UTC)
- 記事を削除しました。--Gleam 2004年8月30日 (月) 12:24 (UTC)
ノート
[編集]著作権侵害の可能性に関する対応について
[編集]百楽天です。
下記、Doraさんより、早矢仕有的は、外部サイトの著作権侵害の可能性があるとの指摘がありました。確認したところ、当該サイトは中央区広報誌(平成13年6月15日号)の署名記事でした。このままおけば、どのように説明しようが、1次、2次の著作権を含めて、ややこしい問題に発展しかねません。「削除依頼」を申請することを、まずご報告します。
私は早矢仕有的を書く前に、『丸善百年史』を参考にハヤシライスを書き、その後書いた丸善や万年筆の本文中にも、同資料を参考としたことを明記しております。早矢仕有的を元祖とするハヤシライスの逸話や「万年筆」命名についての記述のもとは、すべて『丸善百年史』(昭和57年/1982年)にあると思われます。丸善創始者の早矢仕有的の業績の多くも、同資料によるものがほとんどでしょう。
したがってDoraさんからの指摘があるなしにかかわらず、私は同資料を根本資料としていました。早矢仕有的を書くためだけに同資料からメモをとったわけではなく、3年前の中央区広報誌と酷似している「福沢諭吉との出会い」部分は、自分の資料とするためにメモした段階で、他のものがまぎれたものか。
いずれにせよ、現段階で即刻削除し、書きなおしたほうがよいと判断しました。
電気山羊さんから、「その他の資料」に当該サイトが含まれているか否かのご質問に対して、私は「中央区の広報誌は見ていません」と回答しました。これは、他のサイトにあることを使った覚えはない、ということです。実際、目的とする「早矢仕有的」だけをキーワードに検索してでてくるのは「ハヤシライス」と「丸善」、「慶応義塾」くらいのもので、あのサイトは見つからない。おそらく私が書いたものから複数のキーワードを拾い出して検索しない限り「中央区の広報誌はみつからないでしょう。
Doraさんが見つけた中央区の広報誌のページは、出典の記載はないものの署名記事でもあり、信頼度の高いものです。しかし、ネタがあればそうしたものを探すのは煩わしいだけだし、あのサイトにしか書かれていないことで、どうしても使いたいものであれば、私は中央区に確認をとっていたはずです。
- Doraです。削除依頼の件、確認いたしました。自らの書かれた記事への今回のご判断を尊重し、評価しております。わたくしも削除の方針を支持しますので、削除依頼のページにも署名してきます。百楽天さんは理由を説明すればわかってくださる方ということがわかりましたので、ホルモンの方も、私の提起の理由を説明してみます。
1点だけ、訂正させてください。「早矢仕有的」をキーワードにGoogleで検索すると、問題の広報誌のページは、最初から数えて6番目に出てきます(先日調べたときは5番目だったような気もしますが)。私はそれで見つけただけです。Dora 2004年7月20日 (火) 15:22 (UTC)
年譜について
[編集]なお、Qazzxさんがご指摘の年譜の記載は、出典がおなじであり、また歴史的事実を並べていることから、著作権法12条1項の「編集著作物」としてみる必要があります。なんら問題はないはずです。
丸善サイト内のあのページに書かれたのは11項目で、私が書いたものは本文に続く内容の6項目です。対象とされた年譜に書いていないことも含まれているのでご確認下さい。
「あの年譜は丸善に書くべきもので、なぜ早矢仕有的の引退や死について書いていないのか」とのご質問にお応えします。
「事業拡大」の年譜は、早矢仕有的の業績の沿革です。本文中に、「丸屋商社」の設立などを書きましたが、近代簿記を取り入れたのも、今日でいう会社をつくったのも、早矢仕有的がはじめでした。
おそらく「会社」という語を始めて使ったのは福沢諭吉です。明治初期には、文学同志会などで今でもよく使われる「結社」と同じ意味で「会社」も使われていたようですが、そもそもはアメリカが帰りの福沢諭吉が、慶応義塾を会社としたところからはじまっているようです(これは私の考えですが)。
経済社会における会社経営は、株主と実務者の両輪をうまく動かすことで成り立ちます。その日本における第1号が、早矢仕有的の作った丸屋商社であり、明治26年の商法改正で、現在とほとんど同じ形の会社組織が確立されて、「丸善株式会社」になったのです。
丸善サイトには何ページもの年譜がありますが、「事業拡大」の年譜は、早矢仕有的が直接かかわったものとして書いたものです。百楽天 2004年7月20日 (火) 14:33 (UTC)
- ご返事ありがとうございます。しかし、「なぜ引退や死について書かれていないのか」という質問に対する答えになりえていないように思います。早矢仕有的氏は死亡するまで社長職を務めていたわけではありませんから、引退後の会社の業績は有的氏と直接のつながりは無いように思います。会社の業績については、是非丸善に記述していただきたいと思いますが、早矢仕有的には彼の人生経路を記述していただきたく思います。ご友人が全3巻の『丸善百年史』を所有しておられて、それを資料として利用できるのでしょうから、是非記事の発展のために記述をお願いしたいと思います。Qazzx 2004年7月20日 (火) 14:49 (UTC)
『丸善百年史』は友人の家で見せてもらっただけで、実際には国会図書館で閲覧しました。国会図書館には第1・第3土曜日で時間の空いているときしか行けませんが、年内に出版予定のものの調査があるので、8月の休みを利用して行くつもりです。そのときに調べてきたいと思います。百楽天 2004年7月20日 (火) 15:48 (UTC)
『丸善百年史』からのコピーがでてきました。それの傍線をみると上巻の要点のみ流し読みしていたたようです。Qazzxさんのご指摘、納得しました。「父の没後、早矢仕家の養子となり」というところからして、間違っていました。有的が生まれる2ヶ月前に実父は亡くなっていました。有的が社長を辞任したのは明治18年1月20日。それまでに県議会議員、議長の経験もあったようです。社長辞任後の話や有的の死に関する部分はいずれまとめるとします。ありがとうございました。百楽天 2004年7月23日 (金) 09:43 (UTC)
章立てしました。Dora 2004年7月19日 (月) 15:49 (UTC)
初版の「福沢諭吉との出会い」の外部サイトとの類似について
[編集]この項目の初版 [1] の「福沢諭吉との出会い」節全部と、記載事項の選択、記載の順番、言葉の選択など、かなり同一性が高いと思われる外部サイト(中央区の広報誌の記事 [2])を見つけましたので報告します。著作権侵害の可能性について、検討の必要があると思います。外部サイトの最後から3つ目の段落以降あたり。Dora 2004年7月19日 (月) 05:25 (UTC)
私が早矢仕有的を書くにあてって用いた主要参考文献は、丸善株式会社の「丸善百年史」ですが、その他の資料も使っています。こうして比べてみるのもおもしろいものですね。
- こんにちは。文章の途中に割り込みますが、ご容赦ください。まず百楽天さんに伺いたいことは「その他の資料」に当該サイトが含まれているか否かです。この点について回答を頂けますか?電気山羊 2004年7月19日 (月) 10:35 (UTC)
中央区の広報誌は見ていません。よく見つけたと思ってます。
「丸善百年史」は昭和57年(1982)刊行、A5判、本文上下巻1,766頁、資料編492頁、全3巻。膨大な情報があります。
たぶん、中央区の広報誌もこれがソースになっていると思います。
同じ日に目をとおしたのは、幕末から明治にかけて書いてある本数冊。東京市史稿と慶応義塾百年史(全6巻)にも目を通したけれど、自分の時代感覚を研ぐためで、材料にはほとんど使っていないと思います。「丸善百年史」は、たしか1万円だったと思います。はじめ、友人に見せてもらって「これは使える」と思ったんですけど、未入手です。国会図書館で閲覧できます。資料請求番号は「UE111-56」。百楽天 2004年7月19日 (月) 13:24 (UTC)
- Doraです。早速の検討ありがとうございます。メイヨークリニック(ノート)の件と、その直後のホルモン(ノート)の件で、ある意味、私は百楽天さんから目が離せなくなってしまっています。しつこい奴とお感じかもしれませんが、私はそのとおりなので、お手数をおかけしますがお付き合いください。
さて、下に、比較資料を作成してくださったのですが、これをもとに議論するのは適当ではありません。理由は、1) 私が類似性を指摘したのは、この記事の初版であるのに、比較対照として選ばれているのが、それ以降のどれか別の版であること。初版では、ここで比較された版と異なる、更にいくつかの類似点があります。2) 私が類似性を指摘した、「福沢諭吉との出会い」(初版)以外の箇所についても、私が問題とした箇所と同列において比較されていることです。それをもとに「このなかで異なるところもある」というのは私からすれば当たり前です。お手間を省くため、私は私で、下に比較資料を作成しましたので、ご覧ください。私は、該当箇所は全部似ている、と考えています。
一般には、万が一、この記事が削除対象になったときに、ノートの議論も同時に削除対象にならないように、外部サイトや該当記事の引用をできるだけ避けるのが流儀かと思っておりましたが、すでにほぼ全文が掲載されているので私も気にしないことにします。Dora 2004年7月19日 (月) 15:49 (UTC)
百楽天の検討
[編集]福沢諭吉が豊前中津奥平家の築地鉄砲洲屋敷内に福沢塾を開塾したのは安政五年(1858)の冬で、早矢仕の入塾は、慶応三年二月(1867年3月)です。その翌年、慶應四年四月一日(1968年4月23日)に福沢塾は新銭座(三田慶應義塾大学の現在地)に移転し、慶応義塾と改名しています。そのときの「入社姓名録第一」に早矢仕道三(有的)と阿部泰蔵(後年塾長、理事、評議員などを歴任)の名がありました。早矢仕は四月一日、安部は四月二日の入門ですが、早矢仕は慶応義塾の前身の福沢塾のころから、福沢諭吉の門下にいたのです。
さて、私が書いたものと、中央区の広報誌の記事。二つの文章で類似部分を抽出しました。①~⑨、全部で9箇所です。私の書いたものは全文を表示し、類似文は《 》でくくっています。中央区の広報誌の記事では私の記事と共通するところは、強調の太字にしてあります。
なおこれは、私が書いた順番なので、中央区の広報誌の記事では、前後する部分が多く、類似しないところはカットしてあります。お時間があるようでしたら、全文見比べてみてください。 また、中央区広報誌の記事のソースをご存知だったら教えてください。
①~⑨は類似しているとはいえ、このなかでも異なるところがいくつもあります。①~⑨について、コメントをいただければ幸甚です。
《早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日(1837年9月8日) - 明治34年(1901年)2月18日は、丸善の創始者。》①
《早矢仕有的は、天保八年(1837年)に美濃国武儀郡(むぎぐん)笹賀村に、医師山田柳長(やまだりゅうちょう)の子として生まれる。父の没後、早矢仕家の養子となり、長じて医師となった。》②《その後、福沢諭吉の門下となり、《明治二年一月元旦(1869年2月11日)、諭吉の意を受けて、三十二歳で洋書や洋品、西洋文具などの輸入商社・丸屋商社を設立(横浜)。丸屋善七を名乗った。》③
《翌年には東京日本橋品川町裏河岸(日本橋室町一丁目)に支店を設け、やがて通三丁目に書店と薬屋を営んだ。ここが今日の丸善のある場所である。》④
- 早矢仕有的は、日本橋の丸善の創業者ですが、①
- 早矢仕有的は、美濃国武儀郡笹賀村の出身で、医師山田柳長の子でしたが、父が亡くなったために早矢仕家に養われ、医師となりました。②
- 早矢仕に洋服店をひらくよう勧めたのは福澤諭吉です。早矢仕は福澤門下生で、まず横浜において唐物屋を開きました。③
- 早矢仕は明治三(一八七〇)年三月、日本橋品川町裏河岸(日本橋室町一丁目)、通称釘店に支店を設け、やがて通三丁目に書店と薬店を営みました。この場所が現在の丸善のあるところです。④
医師開業
《早矢仕有的は医術に優れていたため、その才を惜しむ人の援助で江戸で医業の修行を積むこととなった。安政六年(1859年)九月のことである。
有的の江戸での最初の落ち着き先は、両国橋の西詰。薬研堀であった。》⑤
《すでに有的は按摩をしながら医療の相談にも当たっていたようで、木綿問屋の主人が大病に冒されて主治医も見放したのを、有的処方の薬で助かった、ということがあった。これが縁となって、木綿問屋の主人の援助で日本橋橘町三丁目に医師を開業した。万延元年(1860年)六月、有的が二十三歳のときのことである。》⑥
《向学心に燃える有的は蘭学医療の重要さを感じて、二代目坪井信道に師事する。信道の推薦で美濃国岩村城主・松平能登守乗命(のりとし)のお抱医師となった。》⑦
- 技術が優れていたため、その才能を惜しんだ人の援助で、江戸において医業の修行を積むこととなりました。安政六(一八五九)年九月のことです。江戸で最初の落ち着き先は両国薬研堀でした。⑤
- 早矢仕有的は、このころ按摩をしながら医療の相談にも当たっていたようで、有的の治療を受けたある木綿問屋の主人が大病に冒されたとき、主治医も見放したのを有的が処方した薬を飲んで助かったのが機縁で、木綿問屋の主人の援助を得て、医師を開業することができました。万延元(一八六〇)年六月、日本橋橘町三丁目に開業の運びとなりました。⑥
- このころ、有的は蘭学医療の重要さを感ずるようになり、坪井信道(二代目、蘭方医として盛名のあった初代の長男)に師事し、信道の推薦で美濃国岩村藩(岐阜県)藩主松平能登守(乗命)のお抱医師となりました。⑦
福沢諭吉との出会い
慶応三年二月(1867年3月)、《開国とともに英語の必要性を早くから感じていた有的は、豊前中津奥平家の築地鉄砲洲屋敷内にあった福沢塾(慶応義塾の前身)に入門。福澤諭吉を師と仰ぐ。諭吉三十二歳、有的三十歳であった。》⑧
《ふたりは単なる師弟関係というよりも同志であった。有的は諭吉から学び、諭吉は有的をよき相談相手とする。》⑨
翌年の八月、有的は横浜の吉原町(いまの長者町付近)の病院で、院長のイギリス人、ジョージ・ニュートンの下に医員として勤めた。
有的が横浜にはじめて住んだのは、新浜町であったが、後に相生町、境(堺)町と移転。この間に輸入商社・丸屋商社を設立。その翌年(明治三年/1870年)、日本橋に支店を出すとともに、境(堺)町一丁目に「静々舎」という診療所をつくり、同時に二丁目に「丸屋薬局」を開いた。ここで有的は、日本で始めて医薬分業を実践したのである。
- 開国後の社会において英語の必要性を早くから感じていた有的は、慶応三年二月に慶應義塾に入学し、福澤諭吉の教えを受けました。諭吉三十二歳、有的三十歳でした。⑧
- 諭吉は名声ある新進の教育者、有的もまた医師として一家をなした人物として、ふたりは単なる師弟関係というより、志を同じくする同志の関係であり、有的は諭吉から学び、諭吉は有的を相談相手とする関係にあったといいます。⑨
事業の拡大
明治6年(1873年)、有的は慶応義塾内にあった福沢諭吉経営の仕立局(洋服類)をひきついで丸屋裁縫店、洋家具製造の丸屋指物店を経営(共に銀座)。
明治11年(1878年)には、丸善インキ製造販売。ほか工作部では歯磨、石鹸、靴墨の製造。
明治13年(1880年)に定款を定め、責任有限・丸善商社に改組。貿易商会,為替店を設立。横浜正金銀行(現東京三菱銀行)創立に参画。
明治16年(1883年)から18年にかけて、ヨーロッパの知識や学問の大要を紹介した『百科全書』全12を刊行。
明治18年(1885年)、スタイログラフィックペン初輸入。販売担当者・金沢万吉にちなんで『万年筆』と命名。
明治26年(1893年)、商法の施行により丸善株式会社となる。資本金20万円。
Doraの検討
[編集]該当部分を対応させて並べてみました。百楽天さんの比較検討でなく、自分でこれを作った理由は上に書きました。
この記事の初版も、外部サイトの方も、途中の省略はありません。比較しやすいように、私が推測した対応関係ごとに区切って番号をつけていますので、もとの文章の段落は反映していません。初版記事のほうで、強調文字になっているのは、似ているということではなくて、その後の版で変更が加えられている点です。つまり、強調文字の箇所以外については、百楽天さんの検討と同じということになります。
初版の「福沢諭吉との出会い」節の全文 | 外部サイト [3] より抜粋 | |
---|---|---|
早矢仕有的は医術に優れていたため、その才を惜しむ人の援助で江戸で医業の修行を積むこととなった。安政六年(1859)九月のことである。 | 1 | (前略)技術が優れていたため、その才能を惜しんだ人の援助で、江戸において医業の修行を積むこととなりました。安政六(一八五九)年九月のことです。 |
有的の江戸で最初の落ち着き先は、両国橋の西詰。薬研堀であった。 | 2 | 江戸で最初の落ち着き先は両国薬研堀でした。 |
すでに有的は按摩をしながら医療の相談にも当たっていたようで、木綿問屋の主人が大病に冒されて主治医も見放したのを、有的処方の薬で助かった、ということがあった。 | 3 | 早矢仕有的は、このころ按摩をしながら医療の相談にも当たっていたようで、有的の治療を受けたある木綿問屋の主人が大病に冒されたとき、主治医も見放したのを有的が処方した薬を飲んで助かったのが機縁で↓ |
これが縁となって、木綿問屋の主人の援助で日本橋橘町三丁目に医師を開業した。万延元年(1860)六月、有的が二十三歳のときのことである。 | 4 | ↓機縁で、木綿問屋の主人の援助を得て、医師を開業することができました。万延元(一八六〇)年六月、日本橋橘町三丁目に開業の運びとなりました。 |
向学心に燃える有的は蘭学医療の重要さを感ずるようになり、二代目坪井信道に師事する。信道の推薦で美濃国岩村城主・松平能登守乗命のお抱医師となった。 | 5 | このころ、有的は蘭学医療の重要さを感ずるようになり、坪井信道(二代目、蘭方医として盛名のあった初代の長男)に師事し、信道の推薦で美濃国岩村藩(岐阜県)藩主松平能登守(乗命)のお抱医師となりました。 |
開国とともに英語の必要性を早くから感じていた有的は、慶応三年二月(1867年3月)に慶應義塾に入学。福澤諭吉を師と仰ぐ。諭吉三十二歳、有的三十歳であった。 | 6 | こうして医師として順調な路を歩み始めたわけですが、開国後の社会において英語の必要性を早くから感じていた有的は、慶応三年二月に慶應義塾に入学し、福澤諭吉の教えを受けました。諭吉三十二歳、有的三十歳でした。 |
ふたりは単なる師弟関係というよりも同志のであり、有的は諭吉から学び、諭吉は有的をよき相談相手とする。 | 7 | 諭吉は名声ある新進の教育者、有的もまた医師として一家をなした人物として、ふたりは単なる師弟関係というより、志を同じくする同志の関係であり、有的は諭吉から学び、諭吉は有的を相談相手とする関係にあったといいます。 |
諭吉は西洋の書籍をはじめさまざまな物の輸入の仕事を有的に託し、有的はこれに答えた。 | 8 | 諭吉は有的に西洋文物の輸入の仕事を託し、有的はこれに答えたというわけです。(後略) |
5. 「感ずるようになり」は、その後「感じて」に変更されています。「入学」が「入門」に変更されています。
6. 「慶応三年二月(1867年3月)に」は、その後、語順が変更され、「開国とともに」の前に移動されています。
7. 「同志のであり」は、このままではタイプミスのように見えますが、その後、「同志であり」に修正されています。
8. この文は、その後、削除されています。
Dora 2004年7月19日 (月) 15:49 (UTC)
事業の拡大の項について
[編集][4]の版まで存在していた事業の拡大の項が、下記の丸善の公式サイトのページに類似しています。
問題なのは、百楽天氏が記述した範囲がこのページとほぼ一致することです。 サイトを利用したのではなく、出版された膨大な資料の社史を参考にしたというのであれば、早矢仕有的氏が死去した1901年にはすでに有的氏は社長を引退していたので、引退の時期や死去について記述すべきだったのではないでしょうか。Qazzx 2004年7月19日 (月) 14:32 (UTC)
履歴
[編集]早矢仕有的 出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』 改訂履歴 (前 500)(次 500)(20 | 50 | 100 | 250 | 500) を見る 凡例:(最新版)= 最新版との比較、(前の版)= 直前の版との比較、M = 細部の編集
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