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ノート:日野重光

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改名提案

[編集]
  • 菅原正子『中世公家の経済と文化』(吉川弘文館、1998年)
  • 近藤敏喬編『宮廷公家系図収集覧』(東京堂出版、1994年)
  • 新訂増補国史大系本『尊卑分脈』『公卿補任』(吉川弘文館)

以上の各資料の記述から、次のことが判明します。

  • 重光-義資-重政-勝光の家系は「日野」ではなく「裏松」を家号(名字)としていた。
  • 同時期に「日野」を家号としていたのは、重光の叔父資教とその子息有光の系統である。そのことは、日野一門にとって当時もっとも重要な所領である九条家領能登国若山荘領家職をこの家系が伝領していたことからも確かめられる。
  • 重光の家系が「日野」を称するのは、勝光が若山荘領家職を獲得するのと同時期である。

よって「日野重光」「日野義資」「日野重政」「日野宗子」「日野重子」の5つの記事については、それぞれ「裏松重光」「裏松義資」「裏松重政」「裏松宗子」「裏松重子」と改名するのが適切であると思料いたします。--呆庵入道 2010年2月10日 (水) 20:59 (UTC)[返信]

(コメント)裏松姓が「認知度が高い」ものである論拠(辞典などの見出し語が日野ではなく重松である、多くの研究者が日野姓ではなく重松姓を用いている)が示されれば賛成。
なお、小学館の日本大百科事典では「日野重子」「日野(裏松)重光」[1]「日野重政」[2]「日野義資」[3]となっているようです。
改名までは必要ではなく、裏松を併記する形で十分でしょう。--彩華1226 2010年2月11日 (木) 05:54 (UTC)[返信]
コメント 「裏松」を家号としていたのはその通りですが(未作成項目ですが日野資康[1])、他書籍で一般的に使用されている方を利用すべきと考えます。ちなみに、『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社)では「日野重光」「日野重子」です。『国史大辞典』『公卿補任』でどう記されているかは興味ありますね。--Snap55 2010年2月11日 (木) 13:45 (UTC)[返信]
彩華1226さんのつきまといといやがらせはよく続きますね。やっててむなしくないですか。むなしくないんでしょうね。ここまでくると手段のためには目的を選ばないというやつでしょうね。
現時点で把握している分では、すでに掲出済の3点の資料では「裏松」です。『国史大事典』では重光は「日野重光」で立項して「裏松家を興した」と記述されています。「重子」は「ひのじゅうし」で立項して「日野(裏松)重光の女」とあります。残りの3人は立項されていません。日野一門の場合、特定の家号を持たない・明確でない者はいっしょくたに「日野」でまとめてしまう傾向(日野俊基、日野有範、日野資康など)がありますから注意が必要です。
今谷明の『土民嗷々』(東京創元社〈創元ライブラリ〉2001年)では「裏松義資」とあります。義資の横死事件は比較的著名な事件ですから通史や概説書などでどのように書かれているか精査してみましょう。
日野資康は、重光が資康の長男なので資康も「裏松」であるかのように思われがちですが「烏丸一位」と称していたと『尊卑分脈』にあります。次男豊光が「烏丸」ですからつじつまは合います。
なお、記事名の付け方では「正式な名称を使うこと」も忘れてはならない要素なので、その点を無視することはできないと考えます。この家系の場合、勝光が日野を家号としたので、資康や重光まで遡って日野が家号であったかのような事実誤認が流布しています。Wikipediaがそのような「認知度」に藉口して俗説的な事実誤認に追随することはあってはならないことでしょう。記事名を「裏松」にして、本文中では俗に「日野」ともいう、と言及してもなんのさしつかえもないわけですから。「日野」を「裏松」へのリダイレクトにしてもいいわけですし。--呆庵入道 2010年2月12日 (金) 22:21 (UTC)[返信]
改名議論が途中で止まったようですが、室町時代にはまだ家名と称号はまだ完全に一致していた訳ではなく、遠藤珠紀氏の「中世朝廷社会における公家称号」(初出:『遥かなる中世』第21号(2006年)/所収:遠藤『中世朝廷の官司制度』(吉川弘文館、2011年))によれば、日野重光は家名が「裏松」、称号は「烏丸・北小路」であったようです。この時期の称号は必ずしも自分の家名を名乗る必要はなく、他の公家と重複や異論が無い限りにおいては基本的には何を使っても良かったようです(勿論、多くは当人・その家ゆかりの称号を使いますが)。「裏松」に関しては応永末年に重光の弟の豊光、子の重光、孫の政光は「裏松三人」「裏松両所」と称せられており(『建内記』応永35年正月5・19・20日条ほか)、この時には「裏松」の家名は定着していたようです。ご参考まで。--水野白楓 2011年8月9日 (火) 22:16 (UTC)[返信]
橋本政宣氏編の『公家事典』のP412の「日野家」の概説には日野家と裏松家の関係について詳説されております。
  1. 日野時光の子のうち、弟の日野資教が日野家の家督を継ぎ、舎兄の日野資康が裏松又は烏丸と号する。
  2. 資教の家系は永享4年(1432年)に日野家秀が子がないまま没して断絶。
  3. 将軍足利義教は、広橋兼郷の子・春龍丸に継がせるが、春龍丸が同年夭折したため、父親の兼郷に継がせ、別の子(後の広橋綱光)に広橋家を継承させる。
  4. ところが、永享8年に日野(広橋)兼郷が義教の怒りによって所領・家宅を没収されて断絶。
  5. 文安5年(1448年)に裏松勝光に日野家の家督が与えられる。
  6. 裏松家は資康に始まり、重光、義資、重政と継承される。勝光は義資の次子で、重政の養嗣子になって家督を継いでいた(個人的には、勝光が重政の養嗣子という記述の方が関心あるのですが)。

と、書かれています。ところが肝心の本文においては、日野資康~重政について、「裏松家」の項目ではなく、「日野家」の項目に記されていて、一方の日野資教・有光・家秀は「日野家」ではなく、別号の「快楽院家」の項目に記されています。結論はどっちでも構わないということなのでしょうか?--水野白楓 2011年9月19日 (月) 07:59 (UTC)[返信]

脚注

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  1. ^ 「日野一流系図」(『続群書類従』巻第147所収)