ノート:日本海海戦
この記事は2006年1月24日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、特定版削除となりました。 |
この「日本海海戦」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2008年1月20日 | 月間強化記事賞 | 受賞・良質な記事自動選出 |
2. | 2021年12月31日 | 良質な記事の再選考 | 除去 |
トリビア
[編集]トリビアを加えました。馬鹿馬鹿しい話だと思われるかも知れませんが、一部の予備校などでは本当にこのように教えられていて、信じている人も少なくないようですので m(_ _)m。Kadzuwo 07:16 2004年3月7日 (UTC)
う~~~ん、ちょっと日本側の視点に傾きすぎてるような?? 戦争関連の記事は双方の立場をちゃんと考慮して書くべきだ、とも思うんですけど。。--以上の署名のないコメントは、武蔵野武蔵(会話・投稿記録)さんが 2004年6月8日 (火) 22:03 (UTC) に投稿したものです。
>じゃあ、ロシアの見地に立って加筆する人求むということで。君が書くでもでもいいし。--以上の署名のないコメントは、219.195.108.107(会話/Whois)さんが 2006年2月12日 (日) 14:46 (UTC) に投稿したものです。
削除依頼について
[編集]2006年3月1日現在、「削除依頼」テンプレが張ってあります。どういう理由で依頼がされたのか一見してわからない状態ですが、下記を参照してください。 --忠太 2006年3月1日 (水) 16:12 (UTC)
- 2006年1月24日 (火) 17:17 (UTC)、2006年2月13日 (月) 08:31 (UTC)三日月氏による。
- 特定版削除済み、でした。 --忠太 2006年3月26日 (日) 14:24 (UTC)
「結果」部分を差し戻し
[編集]日本海海戦と直接関わりのない内容に改変されていたため、該当箇所を改変前の内容に差し戻した。改変内容は日本海海戦の結果ではなく日露戦争の結果として適当なページに反映すべきものだったと思われる。219.97.98.79 2006年11月15日 (水) 09:08 (UTC)
最近の編集について
[編集]かなり間違った内容に書き換えられています。ネボガトフ率いる第三艦隊はバルト海で編成されています(ロシア側の資料に明らかです)。黒海艦隊からバルチック艦隊に合流したのはオデッサから来た運送船7隻のみです。三須宗太郎は日本海海戦時には中将です。また2007年4月7日 (土) 12:24の版 で改変された戦闘経緯も手元の資料では改変以前の版が正しいと判断します。明確な根拠の提示をお願いします。Miya.m 2007年4月9日 (月) 11:58 (UTC)
情報の重複が目立つのですが…
[編集]おじゃまします。すみません、210.163.146.28です。ログインして編集していたのですが、時間が経ちすぎてログアウトしたまま決定してしまいました…; さて、内容は大変詳しいのですが、同じ情報がところどころ繰り返されています(日本の勝利の要因など)。思い切って縮めてしまってもよいでしょうか?ご意見がありましたらお願いします。特に急ぎはしませんので、一ヶ月か二ヶ月後にまた参りますm(__)m--てら1971 2007年12月2日 (日) 16:57 (UTC)
- 数日かけて抜本整理を施しました。随分良くなったものと思います。--Cave cattum 2007年12月14日 (金) 15:37 (UTC)
- 拝見しました。読みやすくなったと思います。ありがとうございました!--てら1971 2007年12月21日 (金) 04:31 (UTC)
東郷のロジェストヴェンスキー見舞い
[編集]「影響」の節に「ロジェストヴェンスキーは広島県呉市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった」とありますが、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキーの方では彼の入院したのは佐世保の海軍病院となっています。また私が見た見舞の様子を描いた絵では東郷は白い夏用軍服を着ていましたので、この一文の正確性に疑問が残ります。118.6.177.7 2008年8月9日 (土) 03:42 (UTC)
無線装置
[編集]根拠の無い話ばかりなので修正。「無電に理解が無い」上層部が、なぜその二年前に「三四式」を採用し、無線通信要員の教育を水雷学校に命令し、さらに改良を続行させていたのか。非同調式で通信距離たかが150海里程度の三六式が同調式の欧州各社製品を超えて世界最高という根拠は何か。ループアンテナ式方向探知機の実用化以前にロシア艦隊が方向探知を恐れて妨害を行わなかったという根拠は何か。どれも根拠無いです。--89.76.191.227 2009年10月5日 (月) 21:34 (UTC) 確かに三六式がその時点で最新の無電機とはいえませんし第二艦隊の独断が先例とは言えません。現場指揮官が独自の判断で上級司令部の誤りを正して行動した事例は日本海海戦以前にもあります。よって文面を少し訂正させてもらいました。--210.224.111.90 2011年1月11日 (火) 05:26 (UTC)
児玉ケーブルとネットワーク中心の戦いが意味不明
[編集]「近年になって、児玉源太郎がネットワーク中心の戦いを実現したことが大勝利の一因に追加された。このことは、100年後にならなければ理解できないほど、日本連合艦隊が先進的な作戦を行ったことを示している」という一文が全く理解できません。誰によって「追加された」のですか?100年前の実行担当幕僚に理解出来て、その後突然に知識が消えたという事ですか?「情報優位」、「迅速な指揮」及び「自己同期形成」自体は古今東西の戦闘の基本で、間者で察知し早馬で命令し、恩賞で同期した蒙古襲来も一緒ではないですか。「その実現による世界最初の大勝利が日本海海戦と」しているのは誰ですか?また、「情報戦が重要であることを見抜き、周到に準備していた児玉源太郎の功績は大きい」ですが、陸軍の児玉源太郎が海底電線を引くと、海軍も含めた情報ネットワークが出来るのですか?--89.76.191.227 2009年10月5日 (月) 21:40 (UTC)
- その文面に、やや違和感や唐突な印象をもったため、多分この辺が出所だろうと確認し、石原藤夫著『国際通信の日本史---植民地化解消への九十九年』東海大学出版会、1999年、ISBN 4-486-01482-0、を脚注に加えて置きました[1]。少なくとも、この本を読むと、その種の記述があります。また、海上自衛隊OBの方の論考で、伊藤和雄「まさにNCWであった日本海海戦」、波涛(兵術同好会)34-3、2008年9月、がCiNii検索で見つかりました。日米ネービー友好協会会報35号(2009年1月)にも、同じ著者の同じ表題の論考が、日本語・英語併記で掲載されています[2]。これは、東郷会機関誌『東郷』2009年3,4,5,6,7号にも転載されたようです。(内容の異同の確認はしていません)。
- ネットワーク中心という概念をもってくる位ならば、高橋文雄さんが、『軍事史学』40-2・3、2004年、掲載「「明治三十三年艦團部将校作業書」と日露戦争--マハン流地政学的戦略眼の影響を中心にして 」の冒頭で位置付けているような、海戦史の変遷のうち、直接封鎖(戦術封鎖)から間接封鎖(戦略封鎖)への転換が起こった最初の事例が日露戦争時における日本海軍の作戦行動であり、それを可能にしたのは、無線電信機・海底電信線だったという評価にした方が、穏当な記述になる気がします。これは「蒸気船時代の海戦戦術」にも加筆されるべき事項でしょう。また、「海軍望楼」が項目化されていないことも事態を判りにくくさせている要因となっています。
- なお、歴史的事情は、台湾総督に就任する前の日清戦争後の数年間、陸軍省臨時台湾燈台電信建設部の部長となった児玉源太郎が、日清戦争後に本土と台湾の間の海底ケーブルを敷設する際に、余分な長さを購入してあった。そのため、逓信省の倉庫にその分が残っていて、開戦直前の時期に海底ケーブルネットワークを迅速に整備することができたということです。上述の本に記載があります。なお、この余分な海底ケーブルが手元にあって直ぐに敷設できるという状況については、開戦前年の『防長新聞』1903年(明治36年)9月30日号「韓海々底電線敷設の計画」で見たことがあります。同時代にあっても、一般人に知られていた事実のようです。--rshiba 2009年10月6日 (火) 00:27 (UTC)
- 調べて見ると、やはり「日露戦争における海底ケーブル」という項目が必要なだけの内容があるのが確認できました。「日本海海戦」や「ネットワーク中心の戦い」の項目に書いているだけでなく、書きたい人は独自の項目を建てるべきでしょう。--rshiba 2009年10月6日 (火) 11:17 (UTC)
- 日本側の勝因の節名として「ネットワーク中心の戦い」を用いるの不適当だと考えます。ネットワーク中心の戦いは現代戦での概念であり、情報戦や通信技術といった日本語でもあるいささか古典的な軍事用語で説明が付くことを、わざわざその当時存在しなかった概念に当てはめる必要は無いと考えます。また、当時の情報連携は上位下位を持った樹状ネットワークであって、ネットワーク中心の戦いの基本概念の1つである横方向の連接や、それによる情報と意思決定の平準化などはよほど必要が無ければ行われていなかったはずですので、この点でもこの用語は不適当だと考えます。日本海海戦でネットワーク中心の戦いと同様の方法論を「全く用いていなかった」と言うのではなく、現代の用語をわざわざ「当てはめる」必要性に疑問があるのです。日本の勝因として示すならば、rshiba様が上で示されている「無線電信機・海底電信線」といった用語での表現が妥当な気がします。--Tosaka 2009年11月27日 (金) 15:52 (UTC)
どの程度正確な航跡図なのでしょうか
[編集]現状掲載されている航跡図はどの程度正確なのでしょうか?(アジア歴史資料センターの「日本海海戦第1合戦分図」等を見て照合しても、現状の航跡図の正確性の根拠が見つかりません。) --Kkddkkdd(会話) 2012年6月15日 (金) 17:27 (UTC)
- * GPSやジャイロコンパスが存在しない時代、自艦の航跡でさえ正確に記録に残すことは不可能です。航海士や観戦武官の記したメモから類推したものにすぎないと思います。--27.231.160.194 2012年6月15日 (金) 23:36 (UTC)
- * 不正確だと思われます。利用者:Tosakaさんによる自作のものですが、出典とされる『日本海海戦』(双葉社)にも 『バルチック艦隊東航の果てに』(歴研)にもそのような図はなく、推測でしかありません。特に「クニャージ・スヴォーロフの北上以後の状況」はありえないでしょう。今、私は現在の「坂の上の雲」準拠に近いものから「極秘海戦史」準拠に近いものへ変更すべく内々に編集を進めているのですが、文献を色々調べても第2戦隊の藤井や佐藤らの証言による海戦図はまだ見つかっていません。ロシア側の戦史も日本側の戦史と同じものになっています。--Sta.cameraman(会話) 2012年6月17日 (日) 00:10 (UTC)
- * ロシア語・ドイツ語Wikipediaで使われている航跡図は、照合しますと概ね正確のように見えます(http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsushima_27_May_1905.jpg 、http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Tsushima_1905_Deutsch.jpg )。これに比べて日本語Wikipediaで使われている航跡図は一見見易いですが、不正確にデフォルメされてように見えます。--Kkddkkdd(会話) 2012年12月29日 (土) 17:39 (UTC)
- * 「クニャージ・スヴォーロフの北上以後の状況」(の航跡図)の内容は出典が無い(?)のみならず、クニャージ・スヴォーロフが14:50頃にほぼ一瞬のうちに北方へ数km移動(跳躍?)していることになっており、これは有り得ない内容(航跡図)だと思います。極秘明治三十七八年海戦史の合戦分図(アジア歴史資料センターより閲覧)からかけ離れた内容および図は削除が良いと思います。いかがでしょうか? --Kkddkkdd(会話) 2014年4月5日 (土) 17:57 (UTC)
- * 現在の説明文(戦闘)で、「連合艦隊の主力戦艦の30.5cm砲は、バルチック艦隊との距離が3,000mを切った段階で」とありますが、「極秘海戦史」の航跡図を見てもそのような接近は見られません。連合艦隊もバルチック艦隊も戦艦同士の戦いで不用意な接近は命取りなのでこれは有り得ないでしょう。--Kkddkkdd(会話) 2014年4月27日 (日) 16:12 (UTC)
- * あまりにも正確でない航路図だったうえに、別サイト(ヤフー知恵袋など)で、乱用されたりしていたので、ある程度正確な航路図に変更しました--114.160.46.2 2014年8月12日 (火) 02:39 (UTC)
津軽海峡への移動の可能性
[編集]「もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない[7]。」 百科事典に、史実でもない歴史の「if」を載せる必要はない。--2013年3月5日 (火) 15:01; 117.104.53.231さんによる発言
- 「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。」(Wikipedia:検証可能性冒頭)。日本海海戦に論及した複数の信頼できる情報源が論じているテーマであり、そのような記述が存在するのかを原典に遡って検証できるならば、historical if が記述されていることに何の問題もありません。この事例の場合、当該箇所に {{要ページ番号}} を貼付するのがあり得る対応でしょう。--rshiba(会話) 2013年3月5日 (火) 08:20 (UTC)
東条の「胸の内」は検証不可能では? 検証不可能な「胸の内」ではなく、発令などの「行動」を追うのが良いかと考えます。
勝因→新技術として「麦飯」の話があるのは何故?
[編集]日本海海戦の勝因として海軍が麦飯を採用したことで脚気患者を余り出さなかった事を述べていますが、これは日本海海戦の勝因というよりは日露戦争全体での海軍の病死傷者が少なかった要因であって、海戦勝利の要因に加えるのはどうかと思います。文面内容も日本海海戦の勝因と呼べる直接的内容でもありません。脚気患者の少なさが勝利の一因とするなら、旅順港閉塞作戦など旅順艦隊を無力化する一連の作戦の失敗、せっかく出てきた旅順艦隊を取り逃がした黄海海戦など、脚気患者を余り出さなかったのに失敗した作戦は多々あります。 というか日露戦争での海軍の作戦で目的を達成できたのは日本海海戦ぐらいで、あとは殆ど目的達成をしていません。 患者の減少が日本海軍に有利に働いたのは事実でしょうが、それがいち海戦の勝利の一因とするのは、少し突拍子過ぎると思います。--126.49.129.2 2014年5月2日 (金) 10:05 (UTC)
- 脚気患者の減少は日本海海戦という一局面での勝利の原因とするよりは、やはり日露戦争での海軍全体の優勢の一因と考える方が妥当でしょう。また麦飯による脚気患者の減少=日本海海戦の勝利という直接的要因だという説の根拠の出典も掲示されていません。削除していいと思います--114.160.46.2 2014年5月3日 (土) 05:39 (UTC)
追撃・挟撃
[編集]現在の「追撃・挟撃」の内容についてですが、ほぼ正確な「日本海海戦第1合戦分図」(アジア歴史資料センター)の航路図等と照合しますと、その内容のようなことは起きていません。現在の内容は取り下げた方が良さそうです。--Kkddkkdd(会話) 2014年9月9日 (火) 14:23 (UTC)
- * なおほぼ正確な航路図では、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」・「ボロジノ」に続く主力艦群は、連合艦隊第2戦隊が通り過ぎた後の海面を北進しようとしたが、15時05分頃、連合艦隊第1戦隊に行く手を丁字に塞がれる形勢を見て、北進を断念しています。--Kkddkkdd(会話) 2014年9月9日 (火) 14:23 (UTC)
この部分は日本側の戦史でも第1戦隊の部分と第2戦隊の部分で話が異なっており、さらに佐藤鉄太郎の証言でも話が違います。この部分はその佐藤の証言と戦史の第2戦隊の分をまとめた「坂の上の雲」を参考にして書いていると思われます。そもそも「インペラートル・アレクサンドル3世」と「ボロジノ」は「ボロジノ」の6インチ砲員1人を残して乗員が全滅しており、正確な状況は判明していない模様です。自分も3パターンの状況を書いてみましたが、全くまとまらず困っています。航路図は明らかに第1戦隊の報告を元にしています。--Sta.cameraman(会話) 2014年9月9日 (火) 15:42 (UTC)
現状の内容では、読者は相矛盾する話の混在を何の断りも無く読まされる虞れがあります(例えば14時50分頃「クニャージ・スヴォーロフ」は突然右に回頭したのか左なのか?他にも多数です)。また現在は、「日本海海戦第1合戦分図」(アジア歴史資料センター)の航路図ぐらいしか、入念な検討に値するものがないようで、そのほかの可能性の検討はお手上げに近い気もします。(もしも第2戦隊報告等に基づく航路図が示されれば、その内容に矛盾が含まれないか等入念に検討もできるのでしょうが...)--Kkddkkdd(会話) 2014年9月13日 (土) 14:53 (UTC)
そもそも数々の報告から日本海軍が入念に検討してできたのが「第1合戦分図」(戦史の公刊版も極秘版も同じ)であり、これが間違っている可能性すらあるのです。佐藤の証言は「大日本海戦史談」など出典がありますので、そのことを書けば問題はないでしょう。なお第2艦隊びいきの本では東郷らの名誉のために戦史にはウソが書かれたとまでされています(根拠無しですけど)。また加藤と対立していたから佐藤がウソをついたというこれまた根拠のない話もあります。一応出典を入れた文章を書いていますので編集はお待ちいただけないでしょうか。--Sta.cameraman(会話) 2014年9月14日 (日) 15:55 (UTC)
本稿で示す航路図は「第1合戦分図」準拠であるべきだろうと思っています(現状はそうなっているようですが)。また第2戦隊報告等による記述はそれに対して矛盾点を有することを断って記載するべきだろうと思います。つまり第1戦隊第2戦隊のどちらの肩を持つわけではありませんが、読者へ矛盾点の存在を知らせることは、混乱させないために欠かせないと思います。
- なお14時50分から15時20分ごろまでの間については、バルチック艦隊主力が北へも東へも逃げる動きを、連合艦隊第1戦隊第2戦隊が遮断し妨げていると理解しております。そして両戦隊は互いの後方をカバーし、見事に遮断に成功していると理解しております。(また想像ですが、事前に検討した想定戦術の一つだろうと思っています。)--Kkddkkdd(会話) 2014年9月18日 (木) 16:15 (UTC)
遅ればせながらとりあえずこの部分のみ差し替えました。これは「極秘明治三十七八海戦史」を自分なりにまとめただけなので、叩き台と考えています。ちなみに敵の針路を遮蔽するというのは、「敵の頭を抑える」という表現で基本戦術としていたようです。--Sta.cameraman(会話) 2014年10月6日 (月) 13:31 (UTC)
砲術
[編集]連合艦隊の新戦法(戦術)として、主砲の榴弾で敵戦艦の上部構造を乱打することを明記した方が良いような気がします(広く知られていることだとはおもいますが)。これを新技術に属させるのは、あまり適切ではないと思います
なお対比して、当時の戦艦の主砲の基本戦法は、徹甲榴弾(徹甲弾)により敵艦の舷側水線部を大きく・深く打ち破り、深刻な浸水(および、さらに内部深くに砲弾を飛び込ませる)をもたらす戦法です(ただし当時は、舷側装甲が進歩し効果は低下しましたが)。連合艦隊の戦艦は東郷ターン以降、榴弾と徹甲榴弾とを交互に発砲し、その新旧戦法ともに効果を挙げました。この旧戦法に関しては、安保清種が、一部の敵戦艦沈没の原因として、低乾舷の弾孔・浸水・波浪・転舵を挙げています。--Kkddkkdd(会話) 2015年6月23日 (火) 14:25 (UTC)
- 出典をつけての明記をお願いします。ちなみに極秘戦史の弾薬消耗表では各艦によって徹甲榴弾(あなたの言う徹甲弾?)と鍛鋼榴弾(あなたの言う榴弾?)の使用比率が異なります。なお徹甲榴弾は新構造のものの生産が間に合わなかったという安保らの証言があります。低乾舷の弾孔というのは過積載によって主装甲が水没していた件でしょうか?
- 直接関係ありませんがプレビュー機能を使うことを覚えてください。そういうことをやっている人に信用を置けないです。--Sta.cameraman(会話) 2015年6月23日 (火) 15:28 (UTC)
バルチック艦隊戦艦の南方への逃走はあり得たのでしょうか?
[編集]もしもバルチック艦隊の戦艦が南方へ逃走したならば、その艦は戦闘放棄に近く、日本沿岸近くで拿捕されることになると思われます。またロジェストヴェンスキー司令長官は、逃走の形となっても、バルチック艦隊の各艦はウラジオストクへ向かえと指示しています。--59.147.139.246 2021年11月11日 (木) 12:51 (UTC)
- 27日日没前の話でしょうか。あれは日本側の戦史の記述の通りです。またバルチック艦隊主力はその前に二度南方に逃走して姿を一時くらませることに成功し、再び北へ向かっています。南方に逃げ延びるために南下したわけではありません。--Sta.cameraman(会話) 2021年11月14日 (日) 02:59 (UTC)