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ノート:日本のキリスト教史

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改名提案

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先にカテゴリに関してCategory:日本のキリスト教史以下の改名をプロジェクト‐ノート:キリスト教/キリスト教関連カテゴリのメンテナンス#Category:日本キリスト教史 についてにて提案、実施しましたが、同様に当記事およびTemplate:日本キリスト教史についてもそれぞれ、日本のキリスト教史Template:日本のキリスト教史へ改名することを提案します。--エンタシス会話2017年2月11日 (土) 09:27 (UTC)[返信]

テンプレートは反対。テンプレート構文内の|title = [[日本キリスト教史]]を(日本のキリスト教史に改名後に)|title = [[日本のキリスト教史]]に変えれば済むことです(理由の詳細はTemplate‐ノート:京成白鬚線参照)。--ButuCC+Mtp 2017年2月12日 (日) 15:43 (UTC)[返信]
記事のみ改名しました。--エンタシス会話2017年2月18日 (土) 09:33 (UTC)[返信]

「信頼できる情報源」を出典としてください

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本記事の出典にはブログや新聞記事、宗教団体等のウェブサイトを出典として使用されている方がいますが、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史のガイドラインに従いピアレビュージャーナル等に掲載されている宗教史を専門とした学者が執筆した査読付きの2次資料を出典としてください。

歴史のガイドラインに忠実に対応するならば、宗教史の専門家によって記述された一般書の出典は信頼性は低くなり、国際会議で採用された学術論文、ピアレビュージャーナルに掲載された査読論文またはモノグラフ等の優先度が高くなります。歴史関連の記事では査読・追試を経た「信頼できる情報源」を出典としてください。

  • このガイドラインは外国語の論文についても同様に適用されるべきです。「しかし外国語の情報源は、検証可能性や、日本語の情報源と同じ基準に従うという観点では受け入れられます。」(Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源)
  • また「日本語の情報源はできるだけ提供されるべきであり、外国語の情報源より常に優先して使われるべきです(同じ品質と信頼性だと仮定しています)。例えば、相当する記事が日本語の新聞にないような場合以外は、外国語の新聞を情報源として使ってはいけません。」では2つの基準が示されています(Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源)。
  1. 日本語の情報源にない場合
  2. 日本語の情報源より品質が高い場合

日本のキリスト教史は海外から来た宣教師、外交官等の記録も資料として使用しなければならず、翻訳されていない外国語の文献も多く、これらの基準は満たしやすいと考えられます。また検証可能性についてはGoogle ScholarJSTOR等にある論文や、複数学者によって査読され、論文審査が行われた博論はネットでもアクセスできるため、外国語でも入手可能で検証ができます。

--2400:2410:C1A3:5300:7B77:95E0:B24B:5247 2022年10月9日 (日) 09:11 (UTC)[返信]

いくつか事例をリストアップします。
これらはキリスト教史の専門家が一次資料の史料批判、分析を行っている二次資料ではないですし、事実を記録した一次資料(直接の証拠となる記録物、書こうとしている対象の状況に非常に近い情報源)でもありません。これらの出典は信頼できる情報源ではなくウィキペディアの出典としては相応しくないと考えられます。--2400:2410:C1A3:5300:E2F8:387A:65B0:B356 2022年10月9日 (日) 11:06 (UTC)[返信]
また信頼できる情報源だからといって、その記事の主張している事を理解せずに典拠とすることもやめてください。
これを耳にした秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止した[注釈 1][2]秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もあるが、最新の研究はこの説を否定している[3]
Monumenta Nipponicaよりの出典は一次史料を英訳したものを引用しているだけであって、二次資料の中にある一次史料を典拠としています。指定された箇所にある一次史料では、秀吉のものと見られる奴隷貿易批判の文が記述されていますが、本文にあるような奴隷貿易を聞いたことがバテレン追放令を発布した原因かまでは書かれていません。情報から判断するに編集された方の意見であって、出典の支持する追放令の原因説ではないという理解です。この説については二次資料が否定しているためコメントアウトしておきますが、もし査読追試された論文等の2次資料があるなら、改めてソースを記入してください。出典についてはWikipedia:信頼できる情報源#歴史に従ってください。
「宣教師が奴隷貿易をしていた」等の現存する宗教団体であるイエズス会に否定的な情報についてはノート:日本のキリスト教史#現存する宗教団体に対する否定的情報については査読論文等の信頼性の高い情報源を典拠としてくださいも読まれると良いかと思います。
  1. ^ 歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[1]

--2400:2410:C1A3:5300:B2A6:5BB5:87DD:1E28 2022年10月19日 (水) 06:22 (UTC)[返信]

現存する宗教団体に対する否定的情報については査読論文等の信頼性の高い情報源を典拠としてください

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「存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払わなければなりません。記事は「正確な」ものでなければいけません。特に、その人物の生涯の細部については、信頼性の高い参考資料だけを用いるべきです。存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典のない、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです[4] — Wikipedia:存命人物の伝記

Wikipedia:存命人物の伝記に限らず、現存する宗教団体(例:イエズス会)の記事は厳しく監視されており、特に否定的な情報を投稿する時に査読論文などの信頼性の高い参考資料を使わなければ、現存する宗教団体を誹謗中傷、侮辱することになりかねません。信頼性のない記述を長期間にわたり残せば、Wikipediaが誹謗中傷、侮辱に加担していると見なされかねず、法的リスクは上がると思います。

Wikipedia:中立的な観点とは言論の自由を意味するのではありません。Wikipediaは百科辞典であり、歴史学者がコンセンサスに達した定説を掲載します。Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付けにある通り、複数の特定な説・資料が対立する場合、信頼性の高い情報に掲載された多数説と、そうでない説を平等に記載してはいけません。

歴史の記事について言えば、宣教師の情報はヨーロッパから支援を得るために、その時々に合わせていい加減な報告が多いことで定評[注 1]がありますし、一次史料としては信頼性は高いとは言えません。宣教師以外の情報も同様であり、否定的な情報を書き込むならば査読追試された学術論文を典拠とするようお願いいたします。

Wikipedia:中立的な観点#観点の中立とは何ではないかおよびWikipedia:信頼できる情報源#歴史も参照されるほうが良いかと思います。

  1. ^ 現代のようにSNSで検証してくれるような事もない

--2400:2410:C1A3:5300:B2A6:5BB5:87DD:1E28 2022年10月19日 (水) 05:56 (UTC)[返信]

特別:投稿記録/Subaroopさんの改竄について。出典つきの注釈を削除してWikipediaにふさわしくないネット記事に上書きする荒らし行為(WP:SNEAKY)について

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Subaroopさんの2024年6月20日 (木)の投稿ですが、以下の比較のように信頼できる情報源の出典が入った注釈を削除して、東洋経済オンラインの出典に差し替えられていますね。

しかし、秀吉の天下統一目前の1587年九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社が焼かれ、仏教徒が迫害を受けている[信頼性要検証]ことを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていた[注釈 1][注釈 2][注釈 3][注釈 4][注釈 5]こと、そして最大の要因である長崎・浦上・茂木がイエズス会領となり且つ要塞化されている[注釈 6]ことなどを理由とし九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対し、バテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。 — 改竄まえの内容[注釈 2][注釈 3][注釈 4]
しかし、秀吉の天下統一目前の1587年九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社が焼かれ、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたこと[30]toyokeizai.net/articles/-/411584 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる|リーダーシップ・教養・資格・スキル|東洋経済オンライン)、そして最大の要因である長崎・浦上・茂木がイエズス会領となり且つ要塞化されている[注釈 11]ことなどを理由とし九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対し、バテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。 — 改竄後の内容

このようにWP:RSに適合すると見られる注釈を削除して「「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる|リーダーシップ・教養・資格・スキル|東洋経済オンライン」というWP:RSに明らかに違反している出典に差し替えています。

「石川県生まれ。経済紙記者として現役で活躍するかたわら、歴史への探究心とその該博な知識を活かし、歴史の意外な側面にスポットを当てる書籍を"黒子"として数々執筆。参画した書籍のベストセラー多数。本作は、その名ではじめて世に出す、ひと味違う日本史教養本である。」

執筆者の紹介の通り、専門家ではありません。査読された論文を公刊した実績は確認できず、内容も査読論文ではなくオンラインサイトの記事であり信頼できる情報源とは言えませんね。以上の理由から特別:投稿記録/Subaroopさんの編集については元の状態に戻したいと思います。

歴史カテゴリーでは非専門家の記事は有効な出典ではありません。Wikipedia:信頼できる情報源#歴史にあるような、該当する内容について査読付きの学術雑誌に継続的に寄稿している専門家の方の査読論文等の二次資料を出典とするようにしてください。

  1. ^ a b イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[注釈 7]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[12]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[13][14][15]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[16][注釈 8]
  2. ^ a b デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[8]
    日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

    デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[8]

    また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

    デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[8]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[9]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注釈 5]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[18][注釈 9]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注釈 10]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[22][23]

  3. ^ a b 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[24]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[25]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが[26]、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。 『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[27]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。
    牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。

    ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[28]、実際に目撃したものを著述したとは考えられず、文書の正確性に問題が指摘されている[29]

  4. ^ a b 歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[1]
  5. ^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがある。宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[10]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注釈 1]
  6. ^ 長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父
    ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある

    と述べている[5]大村純忠は新町長崎と茂木寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[6]大村純忠ポルトガル船の誘致、新町長崎茂木寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[7]

  7. ^ 1555年、ポルトガル商人が日本人の奴隷の少女を買い取ってポルトガルに連れ帰ったとイエズス会士が告発を行っている[11]
  8. ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[17]
  9. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [19]のだという。
  10. ^ 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[20][21]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[22]
  11. ^ 長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父
    ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある

    と述べている[31]大村純忠は新町長崎と茂木寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[32]大村純忠ポルトガル船の誘致、新町長崎茂木寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[33]

脚注

  1. ^ a b OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  2. ^ (英語) Monumenta Nipponica. Jōchi Daigaku. 上智大学. (2004). p. 465. https://books.google.com/books?id=wAdDAAAAYAAJ&q=It+has+come+to+our+attention+that+Portuguese,+Siamese,+and+Cambodians+who+come+to+our+shores+to+trade+are+buying+many+people,+taking+them+captive+to+their+kingdoms,+ripping+Japanese+away+from+their+homeland,+families,+children+and+friends.+This+is+insufferable.+Thus,+would+the+Padre+ensure+that+all+those+Japanese+who+have+up+until+now+been+sold+in+India+and+other+distant+places+be+returned+again+to+Japan.+If+this+is+not+possible,+because+they+are+far+away+in+remote+kingdoms,+then+at+least+have+the+Portuguese+set+free+the+people+whom+they+have+bought+recently.+I+will+provide+the+money+necessary+to+do+this.&dq=It+has+come+to+our+attention+that+Portuguese,+Siamese,+and+Cambodians+who+come+to+our+shores+to+trade+are+buying+many+people,+taking+them+captive+to+their+kingdoms,+ripping+Japanese+away+from+their+homeland,+families,+children+and+friends.+This+is+insufferable.+Thus,+would+the+Padre+ensure+that+all+those+Japanese+who+have+up+until+now+been+sold+in+India+and+other+distant+places+be+returned+again+to+Japan.+If+this+is+not+possible,+because+they+are+far+away+in+remote+kingdoms,+then+at+least+have+the+Portuguese+set+free+the+people+whom+they+have+bought+recently.+I+will+provide+the+money+necessary+to+do+this.&hl=en&sa=X&ei=Z3cVU_IElIuQB_2RgNAC&ved=0CCgQ6AEwAA 2014年2月2日閲覧。 
  3. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, pp. 514-523
  4. ^ "WikiEN-l Zero information is preferred to misleading or false information" - 題意:誤解を招く情報や虚偽情報はないほうが望ましい。WikiENメーリングリストへのジミー・ウェールズの2006年5月16日の投稿より。
  5. ^ Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f.435
  6. ^ Alejandro Valignano S. I. Sumario des las Cosas de Japon(1583). Adiciones de l sumario de Japon (1592). editados por jose Luis Alvarez-Taladriz. Tokyo 1954. Introduction. p. 70.
  7. ^ 井手勝美訳「日本イエズス会第一回協議会(1580-81)と東インド巡察師ヴァリニャーノの裁決(1582)」(キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十二 吉川弘文館 1982) p246,292-293,328 
  8. ^ a b c デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
  9. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  10. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  11. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  12. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  13. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  14. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  15. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  16. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
  17. ^ BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
  18. ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
  19. ^ 『日本売春史』中村三郎
  20. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005、p121
  21. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968、p232
  22. ^ a b Harald Fischer-Tiné (2003). “'White women degrading themselves to the lowest depths': European networks of prostitution and colonial anxieties in British India and Ceylon ca. 1880–1914”. Indian Economic and Social History Review 40 (2): 163–90 [175–81]. doi:10.1177/001946460304000202. 
  23. ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251. https://books.google.com/books?id=vlXrBgAAQBAJ&pg=PA63 
  24. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日
  25. ^ 小学館 2020b, p. 「宗氏」.
  26. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X
  27. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  28. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  29. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346
  30. ^ toyokeizai.net/articles/-/411584 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン
  31. ^ Cartas que os Padres e Irmaos da Companhia da Iesus, que andao nos Reynos de lapao escreverao aos da mesma Companhia da India, e Europa, desde anno de 1549 ate 1580. Primeiro Tomo, Evora 1598. f.435
  32. ^ Alejandro Valignano S. I. Sumario des las Cosas de Japon(1583). Adiciones de l sumario de Japon (1592). editados por jose Luis Alvarez-Taladriz. Tokyo 1954. Introduction. p. 70.
  33. ^ 井手勝美訳「日本イエズス会第一回協議会(1580-81)と東インド巡察師ヴァリニャーノの裁決(1582)」(キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十二 吉川弘文館 1982) p246,292-293,328 

--杜の街会話2024年10月20日 (日) 01:56 (UTC)[返信]