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ノート:新しいミサ

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改名提案 「パウロ六世のミサ」への改名の提案

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新しい記事の投稿をありがとうございます。貴重だと思います。

さて、 このミサを教皇ベネディクト16世は 2007年の自発教令に付属した司教宛の文書では「通常形式」としています(トリエントミサは特別形式、と) 米国Wikiでは「新しいミサ」から「パウロ六世のミサ」にリダイレクトされている形跡があります。 (New Mass) また同記事中、教会の公式文書あるいは典礼学者の間ではこの用語は使われないとあります。伝統主義者の方々が好んでNovus Ordoという言葉を批判的に使っている経緯からも中立性の視点から、タイトルを「新しいミサ」とするより「パウロ六世のミサ」にするのはいかがでしょうか。

せっかくのいい内容ですので、画竜点睛ということでご検討をお願いしたく思います。 --NBG02325 2010年1月18日 (月) 05:43 (UTC)[返信]


高いご評価をありがたく思います。拙見としましては、正直を申し上げますと、パウロ6世のミサというのは、パウロ6世に対する侮辱だと考えています。
その理由は、
  1. ベネディクト16世教皇聖下の言われるように、その表現によってパウロ6世が「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えて」しまうからです。ベネディクト16世の意向によれば、「1870年第1バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された神の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さは典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」
  2. 更に、パウロ6世の意向を尊重するなら、ご自身が公式の文章の中で、"Novus Ordo" が発布されたと表現しているので「ノヴス・オルド」、或いは、その日本語の訳である「新しいミサ」が中立的であり、現実の言葉づかいにあっていると考えるからです。
  3. それにひきかえ拙者の知る限り「パウロ6世のミサ」というのは、カトリック教会の公式な表現として使われたことがないからです。
  4. また、日本語wikiが必ずしも、米国wikiに追従する必要はないと考えるからです。その理由は、その他の言語も米国のwikiに追従しているわけでは全くないからです。また、米国wikiが全てにおいて最高の水準に到達しているわけではないからです。
よろしくご検討をお願いします。--Julio Mein 2010年1月21日 (木) 06:52 (UTC)


「新しいミサ」と言う表現を実際に使った例として鹿児島教区とカトリック中央協議会が発行した公的な文書を紹介します。

「ラテン語ミサの禁止について」  第二バチカン公会議は「叙階の秘跡の充満を受けた司教は『最高の祭司職の恩恵の管理者』である」と述べ、さらに「聖体祭儀の正しい執行はすべて司教によって指導される。司教には、神の威光にキリスト教の祭礼をささげ、それを管理する職務がゆだねられている。司教は、主のおきてと教会の法律に従ってこの職務を果たすのである。この法律は、司教の個別判断によって、司教区のためにさらに細かく規定される」と述べている(教会憲章二六)。  糸永司教はこの職務と権限にもとづき、鹿児島教区内において、共同体の主日のミサで「ラテン語のミサ」を行ってはならないと、このほどあらためて規定した。ラテン語のわからない日本人信者の「意識的かつ行動的参加」を妨げないためである。ミサの用語は司式司祭の趣味のためではなく、参加する共同体のためでなければならないのである。訪日時の教皇様やザビエル四五〇年祭の教皇特使ショーカ枢機卿様が日本語ミサに挑戦されたことはよい手本である。なお、ここにいう「ラテン語ミサ」とは第二バチカン公会議の典礼刷新による新しい「ローマ・ミサ典礼書」のラテン語文のことで、したがって一五七〇年の聖ピオ五世による旧ミサ典礼書のことではない。後者は主日ミサ以外でも使用され てはならない (新ミサ典礼書を公布するパウロ六世使徒憲章〔一九六九〕参照)。

鹿児島カトリック教区報 2001年9月

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教皇ベネディクト十六世 自発教令 スンモールム・ポンティフィクム (summorum pontificum) [1] それに付属して送られた司教への手紙の中では[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm]

「新しいミサ典礼書」との表現が頻繁に登場します。

パウロ六世が発布し、その後ヨハネ・パウロ二世が二つの版で改訂したミサ典礼書 教皇ヨハネ二十三世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書と書いてあります。

パウロ6世のミサと言うとパウロ6世があたかもミサを発明したという印象を与えてしまうと思います。

--Inigo 2010年3月3日 (水) 14:06 (UTC)[返信]

業務連絡です

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お返事にすっかり時間が経ってしまいました。まずお詫び申し上げます。

当記事を読んだ際に、英語版(米語版)の記事と構成内容が多く重複していると見受けましたので、底本にあわせてタイトルもそれにそった方がよいかと考えご提案申し上げました。

投稿者様は教会でパウロ六世のミサという言葉はみたことがないとおっしゃり、海の向こうではNovus Ordoは同様に教会内で公式に使われないという。同じローマ典礼を使うカトリック教会であるはずなのに、興味深い事象だと思います。

あるいはこちらにも[2] Novus Ordo Missae (新しいミサ(式次第))とは公式な名前ではない、と書いています。

精細に調べきれてはいませんが、「新しいミサ」というタイトルでは、「パウロ六世が発布し、その後ヨハネ・パウロ二世が二つの版で改訂したミサ典礼書」を解説したwikiの記事は、各国語版において発見できておりません。フランス語版の場合は、米国語版と似た編集の動きを示しており、「新しいミサ」というタイトルから、「ローマン・ライト」(ローマ典礼)というタイトルに改題されております。

最初に投稿いただいた方のご意見を伺いますと、こちらの記事が「パウロ六世が発布し、その後ヨハネ・パウロ二世が二つの版で改訂したミサ典礼書」を中心に据えたトピックスであり、パウロ六世の名前を付すのに遠慮があるのなら(それはそれで尤もな心情かもしれません)「ローマ典礼」あるいは「ローマ典礼(通常形式)」といったタイトルのほうがより相応しい(普遍的)かもしれません。


余談として、「ラテン語ミサの禁止」に付いて、ですが、

当該2001年の鹿児島教区の資料も既に歴史と化しているものとして取り扱われてもよいかと考えられます。少なくとも、「ラテン語ミサ」に関する最新の見解を、現司教(方)に伺ったものを掲載した方がよいでしょう。

2007年の「スンモルム・ポンティフィクム」については言うに及びませんが、公会議後注意深く世界の教会の動向について様子を見、その対応を行ってきた最近の使徒座の動向や、司教会議(当該司教がご出席されたか否かは存じません)の提言を受けて、ラテン語・グレゴリオ聖歌を適切に使用する事、そのための信徒の教育も行うよう必要があると記述がある、現教皇が出された使徒的勧告「愛の秘跡」(2007年2月22日)の存在が分からなくなってしまいます。 [3] (日本語訳 ISBN978-4-87750-138-9)

典礼憲章については、同第2章や第6章に明確に示された公会議の指示事項を再度参照して下さるようお願い申し上げます。

さらに余談ですが、

信徒修道者の霊性を守るためにもある教会のルールがきちんと知らされ教育され、その機会なり手段が与えられているのかについて、疑問の残るところです。

より一般的に言うなら、司教も(そうした教会の一員の権利義務を記した)教会法なりの縛りの下にいること、ごく普通の意味でその諸活動にコンプライすべき要素があるのは、一般社会と異なりません。簡単に言えば司教の決定も一般社会と同様に裏側から見る必要もあるのかな、ということでありました。司教による教区の司牧に関する決定事項も、あるいは司教会議の決定事項や使徒座から白紙委任状を受けているわけではない(例:各教区の司教が、司教会議の決定と異なった事柄をオーソライズしたいのなら、司教の3分の2以上の賛成を得る、使徒座が認める、特殊な司牧上の事情があるなら、その事情が取り除かれたなら直ちにその異なった決定を取り除かなければならない、といったプロトコル・ルール)というごく常識的なことに付いて、余談が長くなってスミマセンでした。 --NBG02325 2010年4月21日 (水) 14:22 (UTC)[返信]


「新しいミサ」という名称が中立的で公式的な理由の説明

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お返事のご意見を拝見いたしました。しかし、NBG02325さんは、そもそも記事それ自体をよく読んでおらず、拙者のこのノートの説明もよく読んでおられませんね。そのために趣旨を理解しておられませんね。
  1. 拙者としては、既に申し上げましたように「「パウロ6世のミサ」というのは、カトリック教会の公式な表現として使われたことがない」と主張しております。どうぞもう一度よくお読みください。「教会でパウロ六世のミサという言葉はみたことがない」と申し上げたことは一度もございません。その証拠にこの記事を書いたその最初から「パウロ6世が発布したので「パウロ6世のミサ(英語 Mass of Paul VI)」とも言う。」と二回も書いてあります。
  2. 歴史的な客観的な事実として、確かにパウロ6世が第二バチカン公会議を指導し、第二バチカン公会議の成果として新しいミサを作りました。パウロ6世は、この新しいミサを第二バチカン公会議に基づくものとしたので、1969年4月3日の使徒憲章を「第2バチカン公会議の教令に基づいて刷新されたローマ・ミサ典礼書を公布する使徒座憲章」(CONSTITUTIO APOSTOLICA MISSALE ROMANUM ex decreto Concilii Oecumenci Vaticani II instauratum promulgatur)としています。公式な名称として、この使徒憲章の中で、パウロ6世は新しい典礼様式(novus ritus)という表現を使ってこの新しいミサを言い表しています。
  3. 記事の中に既に書かれていることなので、繰り返しになりますが、お読みになっておられないようなのでここに書き写します。外国語での脚注ですからお読みになっていないのは仕方がないのかもしれませんが。教皇パウロ6世は、公式の文章の中で、"Novus Ordo" が発布されたと表現しています。パウロ6世の言葉ラテン語 Usus novi Ordinis Missae minime quidem sacerdotum vel christifidelium arbitrio permittitur. Instructione autem edita die quarto decimo mensis Iunii anno millesimo nongentesimo septuagesimo primo provisum est, ut Missae celebratio antiquo ritu sineretur, facultate data ab Ordinario, tantummodo sacerdotibus aetate provectis vel infirmis, qui Divinum Sacrificium sine populo offerrent. Novus Ordo promulgatus est, ut in locum veteris substitueretur post maturam deliberationem, atque ad exsequendas normas quae a Concilio Vaticano II impertitae sunt. Haud dissimili ratione, Decessor Noster S. Pius V post Concilium Tridentinum Missale auctoritate sua recognitum adhiberi iusserat.  (イタリア語では次の通り L’adozione del nuovo «Ordo Missae» non è lasciata certo all’arbitrio dei sacerdoti o dei fedeli: e l’Istruzione del 14 giugno 1971 ha previsto la celebrazione della Messa nell’antica forma, con l’autorizzazione dell’ordinario, solo per sacerdoti anziani o infermi, che offrono il Divin Sacrificio sine populo. Il nuovo Ordo è stato promulgato perché si sostituisse all’antico, dopo matura deliberazione, in seguito alle istanze del Concilio Vaticano II. Non diversamente il nostro santo Predecessore Pio V aveva reso obbligatorio il Messale riformato sotto la sua autorità, in seguito al Concilio Tridentino.)
  4. Scott P. Richert は確かに次のように書いています。Definition: Novus Ordo Missae literally means the "new order of the Mass" or the "new ordinary of the Mass." Although it is not an official name, it is often used to refer to the Mass promulgated by Pope Paul VI in 1969 to distinguish it from the Traditional Latin Mass. Also Known As: the New Mass, the Mass of Paul VI, the post-Vatican II Mass, the Ordinary Form of the Roman Rite, Novus Ordo. この主張をそのまま訳せば、Novus Ordo Missae という言い方は公式の名前ではないが、聖伝のラテン語のミサと区別するために、1969年に教皇パウロ6世によって公布されたミサを指すのによく使われる。これはまた新しいミサとも、パウロ6世のミサとも、第二バチカン公会議後のミサとも、ローマ典礼様式の通常形式とも、ノヴス・オルドとも呼ばれる、とあります。つまり、Novus Ordo Missae という言い方は(『スンモールム・ポンティフィクム』の表現を使えば)「1970年に教皇パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書」と「教皇ヨハネ二十三世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書の最終版」とを区別するために頻繁に使われているのです。海外のWikiとScott P. Richert によれば、Novus Ordoは同様に教会内で公式に使われないかもしれませんが、以上に挙げた例から、新しいミサを作った張本人のパウロ6世が使った公式の発言と表現が持つ権威を無視するわけにはいきません。
  5. 以上の理由で、すでに2010年1月21日 (木) 06:52 (UTC)に説明してあるとおり、パウロ6世の権威を尊重して、ご自身が公式の文章の中で、"Novus Ordo" が発布されたと表現しているので、「ノヴス・オルド」、或いは、 Novus Ordo Missae の日本語訳として「新しいミサ」が公式的であり中立的であり、一般に流通している普通に使われている言い方(例えば「トリエント・ミサ」という言い方)にあっているのです。もしもパウロ6世の使った名前が公式の名前でないなら、ベネディクト16世が使った表現の「ローマ典礼様式の通常形式」も公式なものではなくなります。「パウロ6世のミサ」に至っては、単なる俗称になります。NBG02325さんの言い方である「パウロ六世が発布し、その後ヨハネ・パウロ二世が二つの版で改訂したミサ典礼書」という言い方は一体誰が使った言葉ですか?--Julio Mein 2010年4月30日 (金) 14:56 (UTC)


「パウロ6世のミサ」という名称についての説明

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「パウロ6世のミサ」という名称について説明します。
  1. 公式な名称がどうであれ、パウロ6世が、この典礼改革の最終責任者です。ラッツィンガー枢機卿の言う通りで、パウロ6世の権威をもってカトリック教会の典礼の全歴史を通して一度もなかった断絶がなされ、連続性が破壊されました。いわゆる「トリエント・ミサ」(この名前でWikiの記事もありますが、「トリエント・ミサ」なるものも公式な名前ではありません)とか「聖ピオ5世のミサ」とかという呼び方以上に、本当の意味で「パウロ6世によってまったく新たに制定されたミサ典書」「パウロ6世の創り出したミサ」でした。拙者は「パウロ6世のミサ」という言い方があるという客観的な事実を否定したことは一度もありません。俗称が付けられたのにはそれなりの正統な根拠があります。
  2. 新しいミサは「パウロ6世の創り出したミサ」という意味で「パウロ6世のミサ」であり、ラッツィンガー枢機卿もこう言います。引用が長いのですがお許し下さい。「私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。'公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。」「古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。」(『わが信仰の歩み』春秋社)
  3. ラッツィンガー枢機卿は別のところでも「パウロ6世のミサ」という言い方をしています。「パウロ6世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」ラッツィンガー枢機卿によれば、パウロ6世は典礼を「捏造」しました。「第2バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。」(TEXTE du cardinal Ratzinger paru en tête de l’édition française de La Réforme liturgique en question (Die Reform der Römischen Liturgie) par Mgr Klaus Gamber)
  4. ただし、たしかにパウロ6世が断絶的な新しい典礼改革を行ったために「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えて」しまいました。本来なら「教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さは典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」しかし、パウロ6世はそのことをしませんでした。「パウロ6世のミサ」というのは、あまりにも真な俗称なので、パウロ6世がしてはならなかったことをしてしまったことを、つまり典礼を「作り上げる」ことをしてしまったことを、はっきり表現してしまうのです。その意味で、この「パウロ6世のミサ」という表現は、パウロ6世に対する侮辱、ひいては「教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えて」しまう表現だと考えています。「新しいミサ」より「パウロ六世のミサ」の方が中立性があるとは思えません。
  5. Wiki英語版(米語版)の記事と構成内容が、たとえ多く重複したとしても、それだからタイトルの表現が良いものであるとは限りません。
  6. 最後に、「ローマ典礼」あるいは「ローマ典礼(通常形式)」といったタイトルのほうがより相応しい(普遍的)かもしれませんと、仰っていますが、まず、これはご自身が引用したScott P. Richert の内容にそぐわないものです。第2に、ラッツィンガー枢機卿の推薦する典礼学者ガンバーは、新しいミサによってローマ典礼が瓦礫となるほど破壊し尽くされたといっています。「パウロ6世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない。・・・今では、私たちの足元に瓦礫を見つめている。トリエントミサの瓦礫ではなく、あれほど長い期間にわたって成熟まで発展し成長してきた古代ローマ典礼様式の瓦礫である。」「「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ2000年の廃墟を前にして立っている。」第3に、新しいミサができたために「私たちが知っていたローマ典礼様式は、もはや存在していない。それは破壊された。」(ジョセフ・ジュリノ著『典礼の明日』 Joseph Gelineau SJ, Demain la liturgie Paris: Ed. du Cerf, 1979, p.10)という証言もあります。典礼学者によれば、新しいミサによって、ローマ典礼様式は破壊されてしまったのです。それにも関わらず、「ローマ典礼」という名前で「新しいミサ」を書くのは客観的な事実に反しています。さらに、Wikiの日本語版には既にミサという記事もあります。トリエント・ミサという記事もあります。整合性を考えてから、発言をお願いいたします。
以上の理由から、この記事に「新しいミサ」というタイトルを付けました。長文になってしまいました。失礼します。--Julio Mein 2010年4月30日 (金) 14:56 (UTC)


このページの名前に関してのWikiの各国語のタイトル

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内容が合っているかどうかより、皆の通りでなければと右にならえを求める日本人に典型的な態度ですが、Wikiの各国語のタイトルを調べます。
以下は、2010年5月10日現在の各国語のものです。
Deutsch (ドイツ語) Novus Ordo Missae ノヴス・オルド・ミセ
Nederlands (オランダ語) Novus Ordo Missae ノヴス・オルド・ミセ
Русский (ロシア語) Novus Ordo Missae ノヴス・オルド・ミセ
日本語 新しいミサ
Česky (チェコ語)Mše Pavla VI.パウロ6世のミサ
English (英語)Mass of Paul VIパウロ6世のミサ
Svenska (スウェーデン語)Paulus VI:s liturgiパウロ6世の典礼
Français (フランス語)Rite romain ローマ典礼様式
Polski (ポーランド語) Zwyczajna forma rytu rzymskiego ローマ典礼様式の通常形式
日本語以外の8言語のうち3言語によって、「新しいミサ」に相当する「ノヴス・オルド」というタイトルでこの記事が書かれています。日本語を入れると4言語になります。
「パウロ6世のミサ」に相当するタイトルでも、日本語以外の8言語のうち3言語(一つは「パウロ6世の典礼」となっているがこれに含めた)が書かれています。
拙者は、パウロ6世の意向を尊重して「新しいミサ」としました。パウロ6世が公式の文章の中で、"Novus Ordo" が発布されたと表現しているのでパウロ6世の発言を尊重しつつ「ノヴス・オルド」をラテン語のままに残すよりも日本語に訳して「新しいミサ」としました。そのことは、最初から重々申し上げているとおりです。
それならば、ドイツ語、オランダ語、ロシア語では、ノヴス・オルドとラテン語のままですが、それぞれ自国語に訳さない理由は何でしょうか?
ドイツ語ではミサは die Messe と言います。Messeにはミサという意味の他にも「展示会」「メッセ」という意味があります。そこでミサのことを「ミサ」 Messe だけではなく「聖なるミサ」 die heilige Messe とよく言います。新しいミサは、die neue Messeとなります。これはたしかに正しい言い方ですが「新しい展覧会」という意味にもなってしまいます。この理由でドイツ語ではノヴス・オルドとラテン語のままなのでしょう。
オランダ語では、ドイツ語の影響を受けているのでしょう。
ロシアでは、鉄のカーテンが落ちて入ってきたローマ・カトリックのミサについては、キリル文字よりもローマ字を使った表現の方がピタリと来るのでしょう。Wikiのロシア語の記事によると「ロシア国内では急速な資本主義化や新技術の導入に伴い、今まで存在しなかった概念や用語が大量に導入された。これにロシア語の造語能力が追いつかず、特に英語を中心とした外来語がそのままロシア語に導入される例が多くなっている。」とあります。
以上の理由から、「新しいミサ」つまり「ノヴス・オルド」というタイトルで書かれたwiki の記事は、各国語版において半数以上になっていることになります。NBG02325さんには、精細に調べるゆとりがなかったようです。報告します。--Julio Mein 2010年5月10日 (月) 07:49 (UTC)[返信]

観点タグと差し戻しにつき

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中立的観点タグを添付しました。理由は単純で、肯定意見よりも否定意見の方が圧倒的に肥大化しているからです。他方、Tizizanoさんによる大量除去も差し戻しました。出典がありかつ主体を明らかにしている記述を、ノートでの問題提起も無く大量除去する事は方針・ガイドラインに照らして問題ある編集と言われても反論出来ません。公式見解に新しいミサについての肯定意見やその論拠などは幾らでもあるのでしょうから、それを補充していくとともに、ノートでどの否定的見解を残すかを、逐一議論しながら調整していくべきでしょう。--Kinno Angel会話2013年3月5日 (火) 08:52 (UTC)[返信]

この記事のあまたの問題点

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  • [4] 該当書簡の中で、ベネディクト16世は、「わたしたち皆が知っているとおり、ルフェーヴル大司教が指導した運動の中では、かつてのミサ典礼書に忠実であることが自分たちのあり方を表すための外的なしるしとなりました」と、聖ピオ十世会の発想とは明確に異なることを明言されています。ベネディクト16世が「ルフェーヴル大司教が指導した運動」と明確な一線を画しているにもかかわらず、前法皇の意志に反して、聖ピオ十世会のサイトから引用が繰り返される意図が不明です。また、定評ある刊行物がない欧文は、すべて自分で翻訳すべき。
  • 典礼運動 dom Lambert Beauduin → dom はたんなる敬称なので不要。ランベール・ボードワンフランス語版とすべき。
  • プロテスタントが受け入れることが出来ないようなカトリックのドグマを、典礼において強調しないこと、である。→ 典拠が必要。
  • ファイル:Mass at Lourdes.jpg → どうして「新しい」ミサの写真として採択されるのか不明。
  • Itinéraires n. 140, fevrier 1970, pp. 39-40 → 原文を示すべき。
  • 11月3日、署名のないの通達がオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に現れ、イタリア司教団の通達として1969年11月30日から新しいミサの式次第に従っ てミサを行うべしと書かれていた。しかし、この通達について尋ねられると、イタリア司教協議会議長ポマ枢機卿は何も知らなかったと述べた。→ 典拠がない。
  • [14] → 日本語として意味をなしていない。
  • 新しいミサの目的は二つある。→ 以下の文の典拠が示されるべき。
  • なお、パウロ6世の親友だったジャン・ギトン(Jean Guitton)はパウロ6世から新しいミサの目的が何であったかを直接聞き、1993年12月19日にパリのラジオ局 Radio-Courtoisie でそれについて次のように語っている。→ 伝聞が書かれる理由がない。
  • [18] 英訳ではなく、原文が示されるべき。
  • [19] 誤訳。“évangeliques” は、プロテスタント内の「福音派」だけを抽出したのではないし、「福音派」という訳語自体の意味も不明。
  • 「新しいミサに対する好意的評価」「新しいミサに対する批判」→ 批判ばかりが多ければ刷新はあり得ないのに、バランスを欠いている。
  • [26] 「・・・じっくりと見ていきたい」→ 批判ではない。
  • [27] これ批判ではない。
  • [29] 同書のp.161にこのような文章は存在しない。
  • [31] 原文が示されるべき。
  • [32] 批判ではない。
  • [33] リンク先のどこにあるのか不明。
  • [37] ドイツ語で書かれているものを何故英語から重訳するのか不明。
  • ラテン語の翻訳から各国語に翻訳をする時に直訳ではない事。→ そもそも統辞法が異なる原語が直訳できるわけがない。
  • 「Liturgiam authenticam」においても指摘されているように多くの翻訳の問題がある。→ 日本語として意味をなしていない。問題のない翻訳など存在しない。
  • [45] →まったく意味のないつけたし。

この記事は、聖ピオ十世会関係者のサイトに全面的に依拠しており、同会の主張のためのプロパガンダととられてもおかしくはないもので、左欄の欧文サイトと比較してみれば、その異様さは歴然としています。全面的に書き換えられるべきと考えます。Tizizano会話) 2013年3月5日 (火) 23:16 (UTC) 1週間経ちましたが、何もご意見がないようなので、加筆に先立ち、ミサに関する客観的記述とはほど遠い、上掲の個所を訂正させて頂きたいと存じます。Tizizano会話2013年3月14日 (木) 00:52 (UTC)[返信]

いまごろですが、指摘されたこれらの問題点のうち、いくつかの部分を修正・削除しました。--Lorettibarrend会話2016年3月18日 (金) 08:31 (UTC)[返信]

日本における新しいミサの再追加

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導入された当時から現在に至るまでの日本の事で出典がついていながら以前に削除された部分ですが、その出典も聖ピオ十世会関係ではありませんので、再度追加いたしました。--Biyue会話2013年3月21日 (木) 11:21 (UTC)[返信]

「日本語訳はトマス小野田圭志による」と付記されている注36〜40までは、すべてピオ十世会関連サイトからの転載です。また、注42は、個人ブログからの転載でも、いずれもWikipedia:検証可能性の内の「信頼できる情報源」の基準を満たしておりませんので、削除するか、ご自分で翻訳されて下さい。Tizizano会話) 2013年4月8日 (月) 10:37 (UTC) - 一部加筆。Tizizano会話2013年4月9日 (火) 11:46 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 11:50 (UTC)[返信]