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ノート:採訪処置使

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採訪処置使の設置年

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開元20年(732年)に、それまで10道に区分されていた唐の治下の諸地方を、15道に区分し直し、各道に採訪処置使を設置した。

当記事に上の記述があり、採訪処置使(採訪使)の初見を開元20年(732年)としています。(※ただし記事初版には「開元20年(733年」とあり、西暦換算年は733年でした特別:差分/24641540/98277686。いずれも個別出典註は無し。)
しかし、記事「観察使」には「玄宗の開元21年(733年、採訪処置使(採訪使)を設け、」とあり(2022-06-30 00:47:05 (UTC)版以降、中国語版zh:觀察使からの翻訳特別:差分/90261407)、鄭炳俊が『史林』79(5) に発表した論文「唐代の観察処置使について」(1994) には「玄宗開元22年(734年)2月に至り、全国を15道に分け、採訪処置使(以下、採訪使と略称)が置かれる。[1]とあります。採訪処置使の設置年が年号・西暦換算とも1年ずつずれているのですが、いずれの年が正しいのでしょうか? あるいは、いずれの年にも記される理由(典拠)があるのでしょうか? 詳しい方のご教示をいただければ幸いです。--Yumoriy会話2024年3月8日 (金) 13:34 (UTC)[返信]