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'''観察使'''(かんさつし)は、[[中国]]の[[唐]]、[[李氏朝鮮]]、および[[平安時代]]初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも[[律令]]に規定のない[[令外官]]だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。 |
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'''観察使'''は、中国の官名であり、もとは'''採訪使'''と呼称されていた。別名、'''観察'''、'''廉車正使'''、'''廉車'''、'''廉使'''、'''廉査'''ともいう。唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]の代に設けられた一種の監察官であり、[[御史]]に近い役割を担っていた。後に、軍事・行政の官職へと変化した。[[明]]代、[[清]]代には、'''[[道員]]'''の雅称として、観察使の名称が用いられた。 |
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唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]期にそれまで10あった[[道 (行政区画)|道]]を15に増やしてそれぞれに[[採訪処置使]]を置いた。採訪処置使は後に名を変えて観察処置使(略して観察使)になる。観察使は名目上は監察のための役職であったが、実質的に道内の行政権を握った。同時期に設置された節度使は多くが観察使を兼ね、行政・軍の双方を兼ね、強大な力を持った。 |
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唐代の初め、'''巡察使'''、'''[[按察使 (中国)|按察使]]'''という各地を監察する官が不定期に派遣されていた。 |
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玄宗の[[開元]]21年([[733年]])、'''[[採訪処置使]]'''('''採訪使''')を設け、各郡県の官吏の成績の優劣を観察して朝廷に報告させた。その後、採訪使の地位は高まり、行政権を得るに至った。[[安史の乱]]の後、[[藩鎮]]の[[節度使]]は、採訪使を兼任した。採訪使は、しばしば軍事長官も兼任していた。 |
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[[宋 (王朝)|宋]]代には、道の長官から、実権を伴わない官職に変化した。武将、宗室、内侍が任ぜられ、官位は正五品であり、節度使や節度観察留後に次ぎ、防御使、{{仮リンク|団練使|zh|團練使}}、刺史よりも高位であった。 |
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[[金 (王朝)|金]]代には、節度使が常に観察使の事務を兼任した。 |
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=== 元・明・清 === |
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[[元 (王朝)|元]]代には、観察使が廃止され、按察使を改称した'''粛政廉訪使'''が類似の官職として設けられた。 |
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=== 民国 === |
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[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]初年には、清代の道員を改称して観察使とし、後に'''道尹'''と更に改称された。 |
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== 日本 == |
== 日本 == |
2022年6月30日 (木) 00:47時点における版
観察使(かんさつし)は、中国の唐、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。
中国
観察使は、中国の官名であり、もとは採訪使と呼称されていた。別名、観察、廉車正使、廉車、廉使、廉査ともいう。唐の玄宗の代に設けられた一種の監察官であり、御史に近い役割を担っていた。後に、軍事・行政の官職へと変化した。明代、清代には、道員の雅称として、観察使の名称が用いられた。
唐
唐代の初め、巡察使、按察使という各地を監察する官が不定期に派遣されていた。
玄宗の開元21年(733年)、採訪処置使(採訪使)を設け、各郡県の官吏の成績の優劣を観察して朝廷に報告させた。その後、採訪使の地位は高まり、行政権を得るに至った。安史の乱の後、藩鎮の節度使は、採訪使を兼任した。採訪使は、しばしば軍事長官も兼任していた。
粛宗の乾元元年(758年)、採訪処置使は、観察処置使(観察使。雅称として、廉帥、廉使ともいう。)と改称された。観察使の職責は、行政の協調・監督であり、軍務の役割は大きくなかったため、持節を有せず、権力は節度使より小さく、幕府の官兵の人員もまた節度使より少なかった。
→ 詳細は「藩鎮」の項を参照。
宋
宋代には、道の長官から、実権を伴わない官職に変化した。武将、宗室、内侍が任ぜられ、官位は正五品であり、節度使や節度観察留後に次ぎ、防御使、団練使、刺史よりも高位であった。
遼
遼代には、観察使は、一般に節度使と並立せず、節度使が設けられていない区域に観察使が置かれた。
金
金代には、節度使が常に観察使の事務を兼任した。
元・明・清
元代には、観察使が廃止され、按察使を改称した粛政廉訪使が類似の官職として設けられた。
明代、清代には、道員の雅称として、観察使の名称が用いられた。
民国
中華民国初年には、清代の道員を改称して観察使とし、後に道尹と更に改称された。
日本
日本では、平安時代最初期の797年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた。
しかし、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年6月、その一環として新たに観察使を置き[1]、勘解由使を廃止した[2]。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。
翌807年(大同2年)、東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした[3]。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。
810年(弘仁元年)、前年に譲位した平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、観察使は反天皇勢力を形成していった。嵯峨天皇は観察使の処遇を格下げし、これに対して同年6月、平城太上天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した[4]。これにより観察使は4年間の歴史を終えた。
李氏朝鮮
観察使 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 관찰사 |
漢字: | 觀察使 |
発音: | クヮンチャルサ |
日本語読み: | かんさつし |
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「監司」とも呼ばれ、李氏朝鮮最大の地方行政区画として全国に8つ設定された道の長官を指す。従二品の高給官僚で大臣級にあたる。地域行政の最高責任者として、守令と呼ばれる地方長官たちを指揮し、監督した。
脚注
参考文献
- 『角川第二版日本史辞典』p1012、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『岩波日本史辞典』p267 - p268、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『日本後紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2006年
- 『角川世界史辞典』p220 角川書店、西川正雄・川北稔・小谷汪之・佐藤彰一・高橋昌明・南塚信吾・安井三吉・湯川武・阿部謹也編、2001年
- 鄭炳俊 (1994年9月). “唐代の観察処置使について--藩鎮体制の一考察”. 2022年6月30日閲覧。