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ノート:戊辰戦争/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

秋田・庄内戦線(庄内戦争)のところ

(見にくいから節を作りました--Gamlin会話2012年3月18日 (日) 03:24 (UTC)

秋田・庄内戦線(庄内戦争)のところがやたらと長く書かれていますが、全体のバランスから考えて、こんなに詳しく書く必要があるんですかね?

「東北戦争」の中の青文字反転の文字「白河口の戦い」、「磐城の戦い」(「平潟戦線」の下)、「会津戦争」をクリックすると、右側に“交戦勢力”という項目がそれぞれ表示されます。その“交戦勢力”の奥羽越列藩同盟の欄のところが、「旧幕府軍」となっていて、「徳川幕府の三つ葉の葵」の“旗”が表示されています。これは大きな誤りなのではないでしょうか?奥羽越列藩同盟が(幕府とは別の)独自の(地方)政権であるところは、識者の間で広く認められています。また、奥羽越列藩同盟には独自の“旗”(☆のマークのような絵柄)もあります。どなたか正しい表示に出来る方がいましたら、直していただけないでしょうか?宜しくお願いいたします。2010年8月31日 (火) 13:20 (UTC)

--125.28.139.133 2009年1月14日 (水) 00:33 (UTC)--125.28.139.133 2009年1月14日 (水) 00:33 (UTC)戊辰の年の1月から翌年5月まで16ヶ月あまりも続いた'''維新政府軍'''と旧幕府派との間で行われた戦いです。

>>軍事指揮権を奪われた西郷隆盛は、彰義隊を完膚なきまでに叩き潰した大村益次郎に対して 脅威を抱き、のちに大村益次郎を暗殺することになる。

珍説・奇説の類ですな --202.246.252.97 2007年12月20日 (木) 01:37 (UTC)

あまりに馬鹿馬鹿しいので消しました。--125.172.114.52 2007年12月23日 (日) 17:46 (UTC)
小刻みに編集されていたのも問題でしたが、内容に中立性が欠けているので編集していきたいと思います。各戦線での戦いは個別に記事があり内容的にも充実していると思うので、中立性のある内容や事実のみを選別して個別記事に反映した後、大幅に削除ということでいいのでしょうか?戊辰戦争について資料をあたってみましたが、歴史的資料が少ないようなのと、現代の戊辰戦争研究本は内容が旧幕府視点に偏りすぎているので鵜呑みにはできない感じでした。深山 2008年1月20日 (日) 11:54 (UTC)
中立の観点と、詳細記事への振り分けおよび全体的な再編を行いました。削りすぎた感が無くもないです。深山 2008年2月5日 (火) 13:50 (UTC)
旧幕府視点に偏っているのは、研究本というより小説や講談ベースの一般書ないし郷土史本だと思います。(それらには薩長勤皇史観のものもありますけど・・・)。戊辰戦争の軍事についてはそうした一般書よりもまずは大山柏の「戊辰役戦史」が基本中の基本であることはプロアマを問わず一般的な認識だと思います。最近では保谷徹「戦争の日本史 18 戊辰戦争」という本も出ました。旧幕マニアが絶対書かない会津藩の残虐行為もきちんと書いていて、かつそうした行為の善悪を論ずることはせず、かなり中立的です。記述の参考になると思います。--盛風力 2008年2月6日 (水) 15:16 (UTC)
戊辰戦争関連カテゴリの主立った物は整えられたと思います。全体的にやや旧幕府よりだった記述の修正と、西郷隆盛についての過小評価と過大評価を削る形になりました。盛風力さんに推薦いただいた資料についてですが、残念ながら私は所持しておらず購入予定もありませんので、お持ちであれば参考にした編集をお願いしたいところです。深山 2008年2月17日 (日) 08:35 (UTC)

青文字反転の「東北戦争」という文字をクリックすると、「戊辰戦争」のトップの場面に切り替わり、「東北戦争」のトップの場面に切り替わりません。これを正常化するやりかたをご存知のかた、どなたかいらっしゃいましたら、編集をお願いいたします。--125.28.139.133 2008年11月30日 (日) 08:28 (UTC)ガッツ

ガッツさんの御指摘は、概要の3行目のリンクの事だと推測いたしまして、アンカーへのリンクへ変更してみました。Carbucketty 2008年11月30日 (日) 11:04 (UTC)

どうもありがとうございました。ご協力に感謝します。--125.28.139.133 2008年11月30日 (日) 12:16 (UTC)ガッツ

ページ最初の部分の右側に、「交戦勢力」という欄があり、その中に、明治新政府、徳川幕府、奥羽羽越列藩同盟、蝦夷共和国とあります。明治新政府、徳川幕府、蝦夷共和国の右隣には、それぞれ「旗(国旗)」がつけられています。しかし、奥羽越列藩同盟には「旗(国旗)」がつけられていません。奥羽越列藩同盟にもちゃんとした「旗(国旗)」があります。それは、黒地に白の星型の文様の旗(国旗)です。この旗をご存知の方で、この旗を「交戦勢力」の奥羽越列藩同盟のところに表示させることができる方がいましたら、どうぞ編集をしていただけませんか?宜しくお願いいたします。--125.28.139.133 2008年12月9日 (火) 01:06 (UTC)ガッツ

125.28.139.133さんへ、以前あなたが編集された箇所に付けられたコメントアウトを外したようですが、コメントアウトを外すのなら典拠を書くのが筋ではないですか?--ポコポコ 2008年12月11日 (木)

17:10 (UTC)

失礼いたしました。出展は、中公新書・佐々木克著『戊辰戦争』になります。ガッツ

「西国の状況」という項目の右側、「錦の御旗」の写真が写っていませんが?バッテン印になっていますが何かの不具合でしょうか?直せる方がいましたら、どうぞ宜しくお願いいたします。ガッツ--125.28.139.133 2009年1月20日 (火) 02:24 (UTC)

とりあえずいじってみました--トホホ川 2009年1月20日 (火) 15:13 (UTC)

あまりにも珍説異説が文中に多いので、申し訳ありませんが変更しました。122.22.183.41. 2010年4月18日(日) 00:27 (UTC)

POVではないでしょうか……

節名も内容も、現状の記述は会津側に寄りすぎている気がします。(視点として) 自分で編集するにはちょっと知識量的に躊躇われる部分があるので、こちらにコメントする形とさせて頂きます。--水原紡 2010年4月18日 (日) 08:10 (UTC)

一政治勢力に加担した記述があるように思われます。(視点として) 暫定的に他の人の編集した版まで戻しました。122.22.183.41 2010年4月18日 (日) 10:12 (UTC)

どうも、一方的な政治勢力へ加担した記述が多いように思われましたので、また改変しました。 改変合戦につながる危険は感じており、ぜひこの記述を行っているジャスティスブレイブさんも自制をお願いします。 なお、ご助言をいただきましたColocoloさんには感謝しております。 122.22.183.41 2010年4月19日 (月) 12:17 (UTC)

記述に、まだいくつか問題点があるように思います。

編集合戦を終わらせるためにも保護は必要と思われますが、 まだこの記述には、標準的な歴史書の記述と異なった点があると思います。

1 概要 >>この3段階に区別された戦争のうち“最大規模の戦争”であるのが南北戦争(東北戦争)である。

この文の存在意義がわかりません。

2 「戊辰戦争」開始までの経緯と「戊辰戦争」の影響

「戊辰戦争」の影響について最後の数行のみですので、経緯へは簡略化、影響へは拡充が必要かと思います。

2.2 「将軍継嗣問題」と安政の大獄

南紀派と一橋派の対立は、開国・交易派と鎖国・攘夷派との対立ではないはずです。 前者は従来幕政運営を行ってきた官僚集団であり、後者は阿部正弘以来幕政に進出した、従来幕政に発言権のなかった御三家及び親藩外様を含む大名という面が強く、開国攘夷によって分類することは正しいとは思いません。

また、一橋派として一橋家当主一橋慶喜、前水戸藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝及び薩摩藩主島津斉彬も記すべきかと思いますが、島津斉彬は急死につき安政の大獄の処分対象とはなっておりません。 いっそのこと将軍継嗣問題の記述部分に主な構成人員を記すか、全体を簡略化すべきかと思います。

2.3 公武合体運動 2.4 孝明天皇の幕政改革要求と尊王攘夷派の勃興

岩倉具視の失脚は、和宮と家茂との結婚に起因するというよりは、その後の京都における尊王攘夷運動の結果としての親幕派への批判の高まりに起因した、と記した方が適当と思います。なぜなら、孝明天皇の幕政改革要求の文章を書いたのは、岩倉具視でしたので。 後、各藩の石高表記及び>>四国の覇者・長宗我部氏の跡を継いだ は不要に思います。それなら戦国期の大大名があった地域はすべて雄藩になってしまいます。もっと定義のあいまいな、単なる江戸期の有力藩として記すべきだと思います。 あと、後のほうの文章で、個人的には長州藩の代表者として久坂玄瑞も挿入したい気がします。

2.5 島津久光の幕政改革要求と「一会桑」

この時点が一会桑の政界進出であった、と記すべきかとも思ったのですが、まだ書かれておりません。 あと、会津桑名の石高表記は不要に思います。

2.6 薩英戦争と八月十八日の政変

事実関係はこれでも良いと思いますが、記述途中に天誅組の変を混ぜており、分かり難い文章になっていると思います。

2.7 奉勅攘夷と”賢君”の分裂

松平春嶽も国際条約の条約の遵守を主張し徳川慶喜と対立した点、また、以後徳川慶喜は横浜鎖港への試みを行わず、この政争は単なる徳川慶喜による島津久光排除策であったとされる点について記載したいと思います。

2.8 禁門の変と下関戦争、第一次長州征伐

>>孝明天皇親子らが暮らす“御所を砲撃”した この記述は不要に思います。

2.9 薩長同盟と第二次長州征伐

薩長同盟の仲介者として、坂本龍馬と並んで中岡慎太郎を挿入したいと思います。

5 江戸への進軍

新選組関連だけ他と比して詳しいので、簡略化したいと思います。

6 「仙台藩の会津庄内救済運動」と「奥羽越列藩同盟の誕生」

記述量で他の部分とバランスを欠くほど多く、また党派的な感情記述があちこちにあるように思います。

8 戦後処理

東北地方だけの記述になっています。

ざっと思いついただけでこれだけ問題点があるように思いますし、 すべてを記すよりは全体的に簡略化を行った方が良いようにも思います。122.22.183.41 2010年4月21日 (水) 15:53 (UTC)

問題点が多いということには賛同いたします。その上であえて申し上げたいのは、戊辰戦争の背景として開国・尊王攘夷運動から説明するのは、正直冗長に過ぎると思います。「幕末」という項目をはじめこの時期の政治史を説明する項目は多数立項されておりますのでそれらの記事に譲った方が良く、戊辰戦争の記事の背景としては少なくとも大政奉還以後(あるいは王政復古 (日本)小御所会議以後)の動きを説明するだけで十分かと思います。--トホホ川 2010年4月22日 (木) 13:50 (UTC)
個人的には、先に申し上げました事項にさらに、「安政の五箇条条約の作り出した社会経済の混乱」、「孝明天皇による将軍家茂の京都召還及び攘夷の強要」、大政奉還直前の「兵庫開港問題と一会桑vs四候会議」あたりも含めた冗長版を作ってみたい欲望はあるのですが、確かに長すぎます。簡略版を作成しましょうか。122.22.183.41 2010年4月23日 (金) 15:49 (UTC)
(追記)「安政の五箇条条約」は「安政の五カ国条約」の誤りでした。もっとも、簡略化するならこれも当然省略すべき事項と思われます。--122.22.183.41 2010年4月23日 (金) 16:28 (UTC)
冗長に過ぎる点に同意します。時代背景は幕末の項に、戦闘については各方面の記事(野辺地戦争など)に委ねることが妥当と考えます。仙台朝廷やら首都あたりは除去、蝦夷地の記載は元に戻すべきです(明らかに仙台偏重)。東北戦争については分割するか奥羽越列藩同盟に統合した方が良いかもしれません。なお、列藩同盟の項目でも同じような編集がかかっていましたが、ほとんど除去しました(白石城の枕詞、東武皇帝の記述が重複など。できれば個人の「……と評価された」なんてのも除去したいのですが)。--弥三郎 2010年4月25日 (日) 07:54 (UTC)
今回の編集合戦の一方の当事者として申し訳ない気分でいっぱいなのですが、この戊辰戦争に関する記事は、時代小説や月刊総合誌の読み物から引き写したような、不正確かつ枝葉末節かつ感情的な記述で埋め尽くされてきたと私は思っています。これらの問題記述を訂正しただけでは全体として長すぎます。遥か過去の版のほうが数段勝っているような気もします。過去の版に戻すのも一案と思えますが、それとも新たに作りましょうか。どちらにしろ東北戦争への偏重は克服したいところですが。--122.22.183.41 2010年4月25日 (日) 13:25 (UTC)
現在の保護申請の自動失効を待って、私が新版を作成し、差し替えたいと思うのですが、どうでしょうか。その場合は現在の議論に沿って、記述は簡略化されたものとなり、特に饒舌に過ぎる東北戦争や感情論の吐露などは割愛されることになると思います。他の皆さん、特に今回の議論に加わらなかったジャスティスブレイブさんの意見もお待ちしています。--122.22.183.41 2010年5月1日 (土) 14:56 (UTC)
てにをはも含めてバッサリやってしまってくれて構わないと感じます。鳥羽伏見以前の幕末史など不要です。議論されている通り、単独項目が既に立っているものはそちらに回して簡潔にし、セクション名の「」部分のような低俗的見出しまで、大ナタを奮って下さい。百科事典じゃなくて『歴史群像』でも読んでるみたいですよ、現状じゃ。英語版のWeaponryの章なども参考にして(それも情けないが...)軍制やら武器やらについての記述なども充実させるべきですね。「一会桑」の語はあっても「ミニエー」の語がない「戊辰戦争」って一体...。期待しております!218.41.166.55 2010年5月2日 (日) 23:08 (UTC)
とりあえず暫定簡略版を作ってみました。これは語句等に省略を加えてある程度で、項目自体は以前のものを踏襲しています。項目自体の省略および一部加筆も必要かもしれません。ご意見をお待ちします。--122.22.183.41 2010年5月5日 (水) 22:21 (UTC)

(インデント戻す)122.22.183.41さん、お疲れ様です。改編を概ね支持いたします。「「戊辰戦争」開始までの経緯」の節については、もっと簡略化しても(むしろ最初の別記事誘導以外は取ってしまっても)いいかと思います。--トホホ川 2010年5月6日 (木) 13:57 (UTC)

戊辰戦争までの経緯については幕末記事との重複を感じましたので、削除しさらに一部修正した版を作成しました。あとは218.41.166.55さんの指摘にもあった軍制及び兵器等への記述も必要かもしれません。ご意見をお待ちします。--122.22.183.41 2010年5月7日 (金) 4:23 (UTC)
概ね良好ですが、いくつかの点で気になったので修正します。まず奥羽越列藩同盟を江戸幕府側勢力に含むことはできません。隣の人を助けたらその人の組織の仲間と扱われた、みたいなものでかなり乱暴な話です。奥羽の多くの藩は当初新政府側に従っており、あくまで救会・救庄のために結束しただけです。会庄同盟なら旧幕府派として扱えるのですが。あとは列藩同盟の背後にプロシアがついていたことは明記すべきでしょう。--弥三郎 2010年5月14日 (金) 12:33 (UTC)
ご意見ありがとうございます。ただし、「奥羽越列藩同盟と国家としてのプロイセンが協力関係にあった」という記述には意義を覚えます。鳥羽伏見の戦いとその結果としての局外中立宣言時点までの徳川幕府とフランスとの政府間の正式の友好関係と比較し、明治新政府樹立以前の薩長倒幕勢力とイギリスの友好関係は微弱なものであり、イギリス公使ロッシュは中立姿勢から踏み出さず、彼の部下としてのアーネスト・サトウが薩長勢力を来るべき有るべき(英国に有利な自由貿易を推進する)政体の主体足りうると主張している段階でした。まして奥羽越列藩同盟とプロイセンは何の関係もなく、当時プロイセンの市民権取得者の一人であったスネル兄弟が奥羽越列藩同盟に武器商人として中古武器を販売したに留まります。プロイセン国家の介在を謳うのは早計なのではないでしょうか。--122.22.183.41 2010年5月15日 (土) 23:11 (UTC)

仙台藩IPによる恣意的編集

  • いわゆる仙台藩IPとされる可変IP利用者( 2010年10月4日 (月) 13:50 - 2011年1月18日 (火) 13:29 / 但し、記事本文編集時)
{利用者:110.135.31.157、利用者:110.135.40.203、利用者:110.135.17.160、利用者:110.135.40.186、利用者:110.135.40.159、利用者:110.135.30.186、利用者:110.135.18.84、利用者:110.135.38.56、利用者:110.135.34.34、利用者:110.135.18.78、利用者:110.135.28.22、利用者:110.135.30.9、利用者:110.135.18.81、利用者:110.135.20.187、利用者:110.135.16.248、利用者:110.135.27.63、利用者:110.135.22.73、利用者:110.135.41.12、利用者:110.135.38.179、利用者:110.135.36.17、利用者:110.135.20.36、利用者:110.135.34.23、利用者:110.135.38.56、利用者:110.135.12.140、利用者:110.135.30.182、}

(インデント戻す)5月にこの項目は一旦簡略化し、根拠の見当たらない部分(会津仙台絶対正義論等)をなるべく排除したものへ変更されたのですが、それ以前の文章を挿入したいと望む人がいるようです。これでは過去の過ちを繰り返すだけと思います。特に北部同盟なんて何ですか、一部の時代小説じゃあるまいし。--122.22.192.85 2010年10月10日 (日) 08:17 (UTC)

このノートでの合意に反し、仙台藩に対する誇大な賛美と他の地域への差別的な感情記述を執拗に書き込む人がいることに憂慮します。根拠も示さずにこの様な主張を掲げる小説家がいることは承知しています。しかしこれを同意のある記述とするのには問題があるのではないでしょうか。ノートでの議論を望みます。--118.14.104.56 2011年1月10日 (月) 11:23
ノート議論の提案を支持。記事の編集方針が合わない時は、議論で解決するのがwikipediaのやり方です。アカウントの有無にかかわらず、議論参加で摺り合わせが望まれます。当事者ではないですが一言申し上げました。--故城一片之月 2011年1月10日 (月) 11:48 (UTC)
まったく同意します。
>なお、当時東北諸藩は北海道に広大な領地と警衛地をもっており、仙台藩だけで択捉島国後島北方四島を含む“北海道の 3分の1を支配”していた。同盟政府の領土は東北地方・北海道・新潟の“日本の国土の約半分”に及んだ。そのため東北戦争を事実上の南北戦争とする説もある。
こりゃ一体何なんでしょうか。確かにそういう説はありそうですが、各論併記の原則に照らすなら具体的な論者を明示することを求めて「要出典」扱いにして良いのではないでしょうか。北海道は松前藩の支配地も一部召し上げる形で幕府の直轄扱いだった訳で、仙台は警備を任されただけでしょう。それがどうして「支配」になるのか、在日米軍は沖縄を「支配」していることになるのか(わざわざ引用符付きで意味深にすることで責任を回避している)。同盟政府なるものはあったのか。会議はしたかもしれないが、明治政府と道義的に対等であると言いたいに過ぎないのではないか。「賊軍」扱いが我慢ならないというルサンチマンの存在は認めるが、その正当性を強弁したいだけではないのか。210.174.13.171 2011年1月11日 (火) 10:20 (UTC)
蝦夷地における仙台藩の領地・警衛地についての歴史をまとめると、まず安政2年(1855年)に幕府は松前藩領を除く蝦夷地を天領とし、このうち東蝦夷地の白老から択捉までの警備を仙台藩に命じます。最初このIPユーザーさん(多分同一人物)は「北海道の半分を支配」と書いていたのですが、実際に面積を計算してみて1/3に過ぎないことを私が示しました(ノート:仙台藩#蝦夷地の仙台藩領・その他参照)。幕府は警備を負担して貰う見返りとして、安政6年(1859年)に警衛地のほぼ半分に当たる地域を東北6藩の「領地」とすることを認めます。仙台藩の場合、陣屋のおかれた白老、十勝、厚岸、国後、択捉を領地(つまり北海道の面積の1/6)とし、残りの日高、釧路、歯舞、色丹は仙台藩預りの天領のままです。
で、正直こんな事実は戊辰戦争の項目にどの程度必要かは疑問です。私もノート:仙台藩#蝦夷地の仙台藩領・その他で、このような広大な地域の一部を仙台藩が領有した事実はあっても、「支配」したなどとはみなせないとかいう議論を色々しましたが、こちらのIPユーザーさんは、「仙台の知識人」やら「常識」やらを振りかざしてろくに議論がかみ合いません(ノートに著名すらしません)。私は「その時誰それがこう思っただとか、こういうことが言えるだとか、およそ主観的な内容が入った場合は、その根拠となる当時の文献なり、現在の学説なりを示す必要がある」と指摘しても、結局その典拠を示さず、最近はノートでの議論すらせずに、仙台市仙台藩の内容を、ひたすら地元を称える内容に変えていっている状況です。私はどちらかというと数値的なものに興味があり、歴史全体について個々の文献・学術論文を挙げられる程歴史を専門としていないので、こちらの項目を修正する議論には参加しませんが、半保護をかけるぐらいのことはした方がいいのではないですか?[[利用者:|Orichalcum]] 2011年1月11日 (火) 18:20 (UTC)
私はノートでの議論を望んでいます。以前ノートで議論された合意に反する書き込みが収まらず、ここでの記述後、全く同じ内容による書き込みが別のIPアドレスで継続されていることに憂慮を禁じえません。 --118.14.104.56 2011年1月11日 (火) 10:43 (UTC)
同感です。このような合意を経ない一方的な書き込みが今後も続くようであれば、一時的な措置として残念ながら再び保護もしくは半保護の依頼を出さざるを得ません…--トホホ川 2011年1月11日 (火) 14:06 (UTC)
…と上に書き込んだ矢先に同一IPユーザーからまたも同様の編集がありましたので、保護依頼を提出いたしました。あしからず。--トホホ川 2011年1月11日 (火) 15:36 (UTC)
編集保護・半保護は予想される事態ですが、該当保護依頼を見ますと「長期の半保護」の文言も見えます。もし実施された場合には議論での解決を希望されているIP利用者さんも居られますので、議論の進展を見て早期解除に向けた柔軟な対応もご考慮下さい。--故城一片之月 2011年1月11日 (火) 17:51 (UTC)
(誠に勝手ながら議論整理のため節分けいたしました)保護依頼ですが、確かに依頼文に「長期の半保護」との文言を添えましたが、これは対象となっている荒らしユーザーが固定アカウントを持たないためです。本来であれば(仙台藩へも連続投稿荒らしを行っているようですので)当該ユーザーへのコメント/ブロック依頼が筋かとも思いますが、IPアドレスも固定されていないようですので、ひとまず当該記事への半保護依頼としました。もちろん当記事に関して質を高めようとされている別の良心的IPユーザーの方々がおられるのも了解しておりましたので、非常に心苦しい依頼ではありましたが。実際に管理者の方がどう判断されて保護処理されるかは分かりませんが、当面の間当該ユーザーによる荒らしを防ぐという目的のために依頼したものなので、そういう依頼の仕方にいたしました。当然、保護中にこのノートページで解決方法が見つかれば、早期解除することはやぶさかではありません。(追記)あるいは件の荒らしIPユーザーはWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックへ報告した方がいいのかもしれませんね…--トホホ川 2011年1月11日 (火) 21:41 (UTC)
反仙台主義者(東京中心主義者)トホホ川さんにより、“一方的な記述”が記載され、一方的に“半保護の申請”がありました。現在、私はトホホ川さんと編集合戦の状態になっています。ウィキペディアは内容をよく調べた上で公平な処置をするよう要望します。--110.135.34.4 2011年1月12日 (水) 08:40 (UTC)--- このノートは時系列・降順で記載されているようなので、110.135.34.4氏の左記ご発言を適切と思われる位置に移動させて頂きました。--故城一片之月 2011年1月12日 (水) 18:38 (UTC)
保護申請中にノートでの議論合意のない編集がありましたので、元に戻しました。--利用者:高崎おさる 2011年1月12日 (水) 12:29 (UTC)
110.135.34.4さんへ。自ら編集合戦の当事者と名乗るよりも、編集合戦を回避するために御自分の寄稿が受け容れられるように他の編集者の方々とここで、冷静に話し合われてみてはいかがでしょう?上にある、ここでの議論の経過を参考に、御自分がどの様なものを寄稿・編集したいのか要点をまとめて呈示されるとよいと思います。また、節を分割したり関連ページを作成し、そこに記述するなどの工夫も考えられます。いずれにせよ議論での合意が望ましいです。--故城一片之月 2011年1月12日 (水) 18:38 (UTC)
なお、どちらの記述が客観的に正しいかを決定するのではなく、他の利用者が検証できる典拠の呈示を条件に、なるべく多くの観点から記述されることで中立的観点は担保されます。それと、仙台藩賛美者か反仙台主義者かという利用者相互でのレッテル貼りはむしろ建設的議論の障害になると思われます。--故城一片之月 2011年1月12日 (水) 18:38 (UTC)
故城一片之月さん、マナーご指導のこと本当にありがとうございます。しかし状況は更に悪化しています。前述同様のノートでの議論を無視した一方的な書き込みが繰り返されています。ノートでの議論はどうなったのですか。今回の仙台藩への記述は、Orichalcumさんも記していますが甚だ恣意的な中立的な視点を欠いた感情的なものです。このまま一方的な編集改変が行われるのは座視できません。ノートでの議論は行われないのですか。--利用者:高崎おさる 2011年1月13日 (木) 10:00 (UTC)
なお、ノートでの合意に反した編集が、ここでの議論要請後もなされている現状を私は容認できません。半保護を行うのなら半保護申請がなされた時点の記述であるべきと私は考えます。--利用者:高崎おさる 2011年1月13日 (木) 11:40 (UTC)
保護半保護の実施は管理者権限で実施されますが、現状ではどの版で実施されるかは明らかな荒らし行為でないかぎり、管理者の判断外とされているようですので希望の通りの版が保護されるとは限らないようです。--故城一片之月 2011年1月13日 (木) 14:06 (UTC)
編集合戦は避けたいのでノートでの議論を要請します。また、保護が開始されない状況で勝手に一方的な立場で編集が進むのは好ましくないので、110.135.34.4さんの議論への参加をお願いします。あなたの編集にどんな根拠があるのか教えてください。--118.14.104.56 2011年1月13日 (木) 15:35 (UTC)

トホホ川さんらの恣意的編集や保護依頼の要請に手を焼いている110.135.34.4です。私が今回の編集で特に主張したいのは、奥羽越列藩同盟は“旧幕府、新政府とは異なる独自の新政権”だったという点です。出典は『戊辰戦争』佐々木克(中公新書)、『奥羽越列藩同盟』星亮一(中公新書)です。この点、私と編集合戦をしている方は、奥羽越列藩同盟は新政権ではなく“ルーズな連合体”であったと書いており、全く納得できません。ちゃんと本の内容を読んでほしいものです。なお、私の編集をこのまま“抹殺”すれば“ウェキペディアの恥”となりますので、公正な議論と処置をお願いします。--110.135.34.102 2011年1月15日 (土) 16:19 (UTC)

便宜上、仙台IP氏と呼ばせて頂きます。ようこそ、議論に参加してくださいました。私は北海道の領有関係についてノートでいちゃもんをつけたIPです。
>私が今回の編集で特に主張したいのは、奥羽越列藩同盟は“旧幕府、新政府とは異なる独自の新政権”だったという点です。
実際、この主張ならば併記するに耐えると私も思います。平凡社の百科事典で井上勝生博士が「反薩長同盟」とする一方で、小学館の百科事典で井上勲博士が「反維新政府攻守同盟ないし地方政権」と定義していますから、列藩同盟が一種の地方政権であったことは良いと思うのです。
しかし、governmentが行政・立法・司法の三権を包括した広い概念なのに対し、ドイツ語Regierungは行政部門(特に執行部門)のみを指す...と平凡社の「政府」の項目にあり、日本語の「政府」もドイツ語の意味合いが強いと指摘されます。
私達が仙台IP氏の記述に違和感を感じるのは、井上勝生博士が「新政権樹立を意図する動きもあった」と、Regierung の成立する以前の段階で崩壊したはずの列藩の政治的実体が、既に同盟成立時にあったように貴方が主張されているからです。
貴方が反感を抱いておられる「ルーズな連合体」という理解とも、「政府とは何か」という議論を通して摺り合わせが可能なはずです。
現在の版の会津武備恭順のくだり、
>これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。
私はこれもこれで偏っていると思うのです。
しかし、貴方が問答無用に編集紛争を巻き起こしたおかげで、反列藩的に偏った記述を修正する機会を我々は逸しています。自分ひとりが孤立していると考えずに、こちらで議論を重ねて下さい。私はIPですので混乱を招くでしょうから以後の発言は控え、皆さんにお任せします。218.221.129.105 2011年1月15日 (土) 18:19 (UTC)

コメント 歴史的に難しい時代なので、みなさんあくまでも中立的な見地でお願いします。--明銘 2011年1月15日 (土) 14:58 (UTC)

(インデント戻す)私に対して「反仙台主義者」なるレッテルを貼ったところで、仙台藩IP氏の編集が正当化される訳ではありません。意味のないレッテル貼りは無用なのでおやめください。また記述の理由となる出典があるのであれば、ガイドラインWikipedia:出典を明記する#出典の示し方にある通り、典拠となった文献およびページ数を示す書き方でお願いします。でなければあなたの独自研究的記述と言われても仕方ありません。公式な方針文書であるWikipedia:検証可能性もよく読んでください。また他の利用者との合意が成立していない上に保護依頼された記事に対して執拗に同様編集を繰り返すのは明白な荒らし行為に相当します。管理者伝言板に荒らしとして報告しました。あしからず。--トホホ川 2011年1月15日 (土) 22:34 (UTC)

トホホ川さんにお尋ねします。あなたが同じ内容の編集を執拗に繰り返している行為は荒らし行為ではないのですか?自分のことを棚にあげないでください。--110.135.41.12 2011年1月16日 (日) 03:11 (UTC)

「棚に上げる」とはまさにあなたの行為を指します。第一に私は”一方的記述”を加えてなどおりません。あなたの典拠なき恣意的編集がノートおよび保護依頼タグを無視した一方的なものなため差し戻しを行ったのみであり、私自身が新たに記述を加えているものではありません。第二に当該記事の編集履歴[1]を見ても明らかなように、過去50回のうち私の編集が3回なのに対して、あなた(と同一と見られるIP)による編集は22回です。どちらが執拗に編集している「荒らし」かは一目瞭然でしょう。繰り返しますが、ノートにおける合意形成を拒否し、保護依頼中の記事に対して幾度も同じ編集を加えることを「荒らし行為」と呼びます。これ以上、記事を荒らす行為を続けていけば、近い将来当該記事に対する保護もしくはあなたへの投稿ブロックの処理がなされるであろうことを忠告しておきます。--トホホ川 2011年1月16日 (日) 08:43 (UTC)

同じ編集合戦をしているのに、自分の編集は「差し戻し」で私の編集は「荒らし」ですか・・・!開いた口がふさがらないユニークな意見ですね。--110.135.34.23 2011年1月17日 (月) 09:52 (UTC)

他の編集者の行動には異議を唱えるが、議論に参加する気はないという意志をここまで堂々と表明されますとねえ--彩華1226 2011年1月16日 (日) 08:44 (UTC)
 戊辰戦争期の編集に携わるユーザーの一人として、仙台IPの方にお願いがあります。Wikipediaでの判断はWikipediaの基本方針に基づいて行われます。その上でトホホ川さんの示したWikipedia:検証可能性を読み、次にWikipedia:出典を明記する#出典の示し方に従って出典を正確にお示し下さい。それが為されない限り、方針に従わないまま記述を掲載しようとする「荒らし」として扱われてしまうのは仕方のないところです。争点となっている記載を繰り返さず、まずは出典を正確に記入して下さい。それもできずに編集を強行すると、Wikipediaのルールにのっとって行動しているトホホ川さんらに対して、あなたが荒らしとなってしまいます。
出典の義務は記述を載せようとする仙台IPさんの側にあります。出典を正確に記載できない場合、除去されてしかるべきことをご理解下さい。その上でトホホ川さんの編集は決して荒らしでないことをご理解した上で、編集の強行は絶対にお止め下さい。仙台IPさんのみならず、多数の方の不利益につながります。
なお、星の『奥羽越列藩同盟』については一度読んだことがあり、今度の休暇に地元の図書館に探してきてもいいのですが、著者の思い入れを書く「小説」を根拠した場合、事実として書けない範囲があることをご了承下さい。例えば「ローマ人の物語」は古代ローマについて、魅力的な語り口から歴史好きの入り口として優れていましたが、史料としての価値はありません。上質の読み物は感情を揺さぶるだけにその作者の意見を書きたくなってしまうところですが、Wikipedia:信頼できる情報源というルールがあります。対立する意見となる今回のケースで、学識研究者と両論併記できるものですらありません。ぜひとも、佐々木克氏の側での出典を記載下さい。--ヒトナミ 2011年1月16日 (日) 09:41 (UTC)
ノートの上の方で仙台IPアドレスの方の発言から議論が進んでいたようで、確認が足りずお詫びします。仙台IPアドレスの方が指摘する編集は私のものなのかもしれません。差し戻す際に事実関係の増補などを行いましたので。しかしこれについては、仙台IPアドレスの方は変更された後の文を改変して自らの主張を載せていらっしゃる。私は仙台IPアドレスの方は私の文章を承認されたものと解釈しています。仙台IPアドレスの方の編集は私から見ると、新政府の長である天皇に嘆願状を出す列藩同盟を政府と記述したり、記述に疑問を感じる部分が多いように思います。ぜひ一つ一つについて出典の提示をお願いします。--124.96.110.239 2011年1月16日 (日) 13:50 (UTC)
とりあえず、佐々木克『戊辰戦争』(1977年)を読みましたが、本当に仙台IPアドレスさんはこの本を読んだのですか?本書は一般向けの構成のため、あまり列藩同盟の性格をまとめるには不適切で、まあ過去に佐々木克氏が執筆したという「奥羽列藩同盟の形成と性格--東北戦争の歴史的意義」(史苑 32(2),12-44,1972年)あたりを中心にまとめるのがいいかと思います。また、佐々木氏自身、石井孝、原口清らの著作をしきりに引用しており、その辺の著作とすり合わせ、文章を書けばそれなりにバランスの取れた内容になると思います。
しかしながら、仙台IPアドレスさんは仙台藩主導で列藩同盟が結成されたというのをさかんに主張されていますが、佐々木克氏の著作では、どちらかというと仙台藩と米沢藩の主導権争いの中で最終プランが完成したとしており、全国プランを持った構想として評価しているのです。佐々木氏の著作では、『仙台戊辰史』によると仙台藩の玉虫佐太郎らが草稿、と慎重に記述しており、列藩同盟が一枚岩でなかったことや大藩の間で翻弄される弱小藩を描き、仙台藩については「東北戦争の全局面で、仙台藩兵の評判がきわめて悪かった」と紹介しており、およそ仙台IPアドレスさんの描く内容とは程遠いものです。Orichalcum 2011年1月17日 (月) 17:33 (UTC)

戊辰戦争=事実上の日本の南北戦争?

私はそれほど戊辰戦争に詳しい訳ではありませんが、wikipediaの至るところで、「戊辰戦争=事実上の日本の南北戦争」という記述が目につきます。そもそも戊辰戦争のことを南北戦争なんて喩えている研究者はどの程度いるのですか?

一応GeNii学術コンテンツ・ポータルで確認した限りでは、北大名誉教授の田中彰が1999年に書いた『幕末維新の社会と思想』の一節に、「アメリカから見た日本の南北戦争」という題の項目があることを確認しました。内容については明日か来週ぐらいに読んでみようとは思いますが、どうやら国際基督教大学教授のWilliam Steeleが南北戦争終結直後のアメリカにおける、日本の戊辰戦争に関する当時の文献をまとめたものを翻訳し、当時の戊辰戦争を地方史の立場から論じたもののようです。ただ、戊辰戦争を当時の南北戦争と重ね合わせて論じているだけなら、田中彰氏が戊辰戦争を南北戦争に喩えていることにも、『戊辰戦争=事実上の日本の南北戦争』という史観を持っていることにもなりません。

内容を確認しましたが、ネットで拾った情報とは全然違う内容でした。『幕末維新の社会と思想』は、田中彰教授の古稀記念論文集で、「アメリカから見た日本の南北戦争」というのは国際基督教大学のウィリアム・スティール教授本人が日本語で寄稿したものです。内容は『デイリー・アルタ・カリフォルニア』紙の横浜特派員が書いた記事などを通して、当時のアメリカ人が戊辰戦争という内戦(civil war)、すなわち日本の南北戦争(Civil War)を一種の権力闘争とみなし、どちらかというとアメリカはタイクン政権、北部同盟に同情的であったというもので、『戊辰戦争=事実上の日本の南北戦争』という史観とは何ら関係のないものでした。Orichalcum 2011年1月14日 (金) 17:23 (UTC)

http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA43492680

あとは、葦田万というジャーナリストが2009年に『日本主義』という雑誌の2つの記事で、「日本の「南北戦争」」という呼称を題名に使っていることが分かりましたが、そもそもこの『日本主義』という雑誌、さすがに国会図書館にはありますが、nacsis webcatにも登録されていないマイナーな雑誌で、学術誌ではありません。

http://opac.ndl.go.jp/recordid/000010441025/jpn

「日本の「南北戦争」を巡るルサンチマンと謀略 (特集 河井継之助と北越戊辰戦争--近代の「峠」は超えられたか?)」, 葦田 万, 日本主義 (6), 68-76, 2009-04
「日本の「南北戦争」--戊辰から箱館に至る戦いは英仏の"代理戦争"だった? (特集 箱館戦争--「御一新」は北の大地に何をもたらしたか?)」, 葦田 万, 日本主義 (5), 50-61, 2009-01

一方2004年に、小野寺永幸という郷土史家?が、『戊辰南北戦争と東北政権』という本を北の杜編集工房から出版しています。ですが、こちらも国立国会図書館と山形大学にしか所蔵を確認できない代物です。

http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA71392276

一つ疑問なのは、但木成行が慶応4年旧暦5月3日の会議で、「この戦いは日本の南北戦争である」と宣言したとされているのは、一体どういう文脈の中でなのかという点です。単にアメリカで北軍が勝ったから我々も勝つレベルのことなんでしょうか?少なくとも『仙台戊辰史』(←『仙台藩戊辰史』に訂正。他に『東藩史稿』も確認)の中には該当する文章は載っていません。本当に宣言したのなら、その文献のリファレンスを挙げて欲しいものです。Orichalcum 2011年1月13日 (木) 17:17 (UTC)Orichalcum 2011年1月13日 (木) 17:20 (UTC)

Orichalcumさん、1月11の北海道の領有事実についてご説明頂いたIPです。但木土佐の「南北戦争」発言ですが、原書を確認しないものの、星亮一『会津戦争全史』(講談社選書メチエ、2005)に紹介されているようです。部分引用しているblogなどもありましたので確認して頂きたいですが、道義的な正統性を主張する意味合いも兼ねた士気鼓舞のようです。著者の星氏は伝統的な会津贔屓の系譜に属する方のようですが、発言の一次資料が何であるのかは原書を読んでいないので分かりません。いずれにせよ、仙台IP氏は但木土佐が発言したとされる南北戦争説にポリティカルな実体を与えようとされている訳ですが、彼の依る文献の多くはアカデミックな研究書ではなく、既に産業化している会津贔屓・列藩贔屓の作家群なのでしょう。正面からの歴史観の対立と見るよりも、一部分野に確かに存在する列藩過大視等の節を設けて、仙台IP氏などの見方はそっちに閉じ込めてしまえばどうでしょうか。210.174.17.47 2011年1月14日 (金) 07:45 (UTC)
高崎おさると申します。項目内に列藩過大視等の節を設けては、というご意見ですが、もし仙台IP氏の意見がそのような産業化している会津贔屓・列藩贔屓の作家群のものなら、既にこの種の意見を扱う会津観光史学という項目が存在しているので、そちらを増補し仙台IP氏の主張を掲載するのも良いのではないでしょうか。今回の仙台IP氏の編集に根拠が感じられず苦慮しています。仙台IP氏は編集の根拠を示すためにもノートの議論に加わるよう強くお願いします。--高崎おさる 2011年1月14日 (金) 09:16 (UTC)
『会津戦争全史』の内容は確認していません。ただ著者が論文を書いたことがないような人間なら、おそらく巻末に主な参考文献を列挙する程度で済ませてしまうことが多く、元文献の確認しようがないというオチになりそうです。Orichalcum 2011年1月14日 (金) 17:23 (UTC)
当事者の一人として非常に申し訳ありませんが、仙台IPアドレスの方は議論に出ていただけないのでしょうか。天皇への嘆願書を作成する列藩同盟が正規な政府とはどうしても思えないのです。仙台IPアドレスの方の論拠を知りたいのですが。--124.96.110.239 2011年1月15日 (土) 15:34 (UTC)
また編集があったようですので書きます。仙台IPアドレスの方が議論に参加するよう、重ねてお願いします。--124.96.110.239 2011年1月15日 (土) 21:09 (UTC)
星亮一『会津戦争全史』(2005年)に書かれている内容は以下の通りです。奥羽越列藩同盟の説明の後、
 短期間のここまでまとめることができたのは、列藩同盟参謀の層の厚さを物語るものだった。これを列藩代表に説明したとき、仙台藩首席家老の但木土佐は、アメリカの南北戦争を例に、こう締めくくった。
「彼のアメリカで南北戦争が起こり、北軍が勝利した。南部は黒人奴隷を酷使する圧政の国家であり、まさに薩長に似ている。我が同盟は、公平、正義を旨とする点でアメリカの北部である。勝利は必ず我が北軍にある。」
この草稿は玉虫の記述だった。玉虫はアメリカの南北戦争をひとつのモデルとした。

仙台藩は江戸留守居役大童信太夫、額兵隊の星恂太郎らを通じて、アメリカの南北戦争の資料を集めていた。

しかしながら如何なる文献に書かれているまでか、一々星亮一は引用していません。少なくとも仙台藩側の史料である『仙台藩戊辰史』、『東藩史稿』(列伝に但木土佐の項目がない)や『仙台戊辰史』のいずれも、建白書起草~奥羽越広議所成立までの項目で、そのような南北戦争を引き合いに出した話は載っていません。そもそも佐々木克『戊辰戦争』(1977年)にせよ、
 さて、奥羽列藩同盟結成の日を何日にするか、これまで諸書のうちで諸説があり一定していない。閏四月一一日とするもの、一九日とするもの、あるいは二二日、漠然と閏四月下旬とする説、そして五月三日節がある。私は五月三日が正式の結成日だと思う。
と書いており、会談の時期すら不明だというのに、このような小話が結成の日に語られたとしていること自体不自然であり、別の席で語られた逸話を勝手に挿入したようにしか見えません。さらに仙台IPアドレスの方は、「但木土佐が演説をして拍手喝采を浴びた」と、すでに星亮一の文章にない脚色までしています。Orichalcum 2011年1月17日 (月) 17:12 (UTC)
白石同盟に関する工藤威氏の論文を読んだところ、会議の様子を伝える史料として、米沢藩士による「木滑要人日記」(『山形県史』4巻収録)なるものがあることに気付きました。本論文にも南北戦争の引用はありませんが、とりあえず元史料の中身を調べてみます。Orichalcum 2011年1月18日 (火) 17:59 (UTC)→『山形県史』の明治元年4月~7月の項目を読みましたが、南北戦争の件を確認できませんでした。日記は『奥羽同盟始末』[2]でも引用されています。Orichalcum 2011年1月19日 (水) 18:12 (UTC)
とりあえず、本項目を充実させたいのであれば、星亮一氏の著作よりも佐々木克氏の著作を参考にして下さい。佐々木克著『戊辰戦争』も冒頭で孝明天皇暗殺説を事実認定しているなど、問題がないわけではないですが、最近の著作では暗殺説を否定するなど、学識者としてまともな見識を持っています。
大体「勝てば官軍」なんていうのは当たり前です。歴史に理不尽はつきものだし、大概はお互い様で、wikipediaは正義がどうのこうの、感情がどうのこうのとそんなことを主張する場所ではないですよ。Orichalcum 2011年1月17日 (月) 17:55 (UTC)
そもそも、作家なり学者なりにWikipediaの利用者が個人的評価を加えたり、編集者の個人的見解を主張をするのは違和感を感じるのです。また、戦争をテーマにした場合、勝者も敗者もそれぞれの大義とか言い分があって戦いになるのだと思われますから、ネット百科事典の編集を手がける人は、勝者側・敗者側それぞれの、あるいは様々な見方を、閲覧可能な出典に基づき記述するのが、中立的観点を実現するための最良策です。折角の記述をお互いに消し合っていては先に進みません。このような場合はことさら「……については作家〜の見方がある」、「……については学者~が……の資料を呈示している」などの書き方をしなければなりません。Orichalcum さんの意見は実にもっともです。このまま先に編集合戦で編集が進まない状態が継続するならば、この件でコミュニテイに広く合意形成のためのWikipedia:コメント依頼を求めることも考えられます。--故城一片之月 2011年1月18日 (火) 12:27 (UTC)
ノートにおいて議論が成立すれば問題はないのですが、残念ながら今のところ、故城一片之月さんのこの書き込みの後にもまた、ノートで議論に応じることもなく根拠の提示もなく編集は行われております。 議論に加わらない独自の見解の披露はやはり容認しがたいように私には思えます。私は仙台IP氏の論拠提示を期待しますが、やはり論拠提示がない見解の懸け離れた編集は正直容認できません。--124.96.110.239 2011年1月18日 (火) 14:47 (UTC)
すでにWikipedia:保護の方針#保護をかけてもよい場合に達しているのではないでしょうか?彼のIP氏は可変IPなので議論を促すための投稿ブロックは広域ブロックになるでしょうから厄介です。私は記事本文の側を1ヶ月 2ヶ月間程度の全保護とし、保護適用期間に最適な編集方法を決めたら良いと思います。トホホ川さんの提出された、Wikipedia:保護依頼#戊辰戦争(ノート / 履歴 / ログ / リンク元)の取り扱いを注視します。--故城一片之月 2011年1月18日 (火) 15:40 (UTC)
星亮一氏の小説中には仙台IP氏の編集に近い記述も見られますが、出典が全然分かりません。少なくとも仙台藩戊辰史には該当記述は見つかりません。もしかしたら、の話なのですが、星亮一氏の小説の中にある「但木土佐、東北諸藩代表を前に玉虫左太夫の草稿に基づく演説を行う(仙台IP氏はこれに更に大喝采云々と潤色を加えている)」というものは、仙台藩戊辰史で言及のある、列藩同盟が米公使ファルケンバーグに宛てた7月14日付の交戦団体認知請願書簡「日本でも北部に仁義があり南部は不仁不義云々」というものが彼の中で根拠もなく肥大化したものなのではないでしょうか。書簡ですから大喝采はありえませんし、少なくとも列藩同盟を政府と呼称する記述はどこにもありません。これが正しい場合、差出名義人は列藩同盟各藩ですので、但木・玉虫が主導し他の同盟参加者が恐れ入ったとする星氏の記述は、仙台藩のみを不当に持上げ他藩を侮蔑する不遜極まりない内容ということになってしまいますが。--高崎おさる 2011年1月28日 (金) 16:39 (UTC)

提案

たとえば、「戊辰戦争を日本の南北戦争とする説」・「北方政権樹立を唱える説」あるいは、「星亮一氏の所論」・「佐々木克氏の所論」などの節項目を立て、彼のIP氏の編集内容をこれらにまとめるのはどうでしょうか。もちろん、 典拠文献呈示および、参照箇所のページ数を脚注に明記とします。それから、全体として編集者自身の個人的見解や主張、感想はもちろん記事から除外されるべきです。--故城一片之月 2011年1月18日 (火) 16:04 (UTC)

半分賛成ですが、これらの説は本来なら奥羽越列藩同盟に記載するべき内容だと思います。そもそも仙台IPさんが編集している内容は、戊辰戦争の一局面である東北方面での戦争についてですよね。Orichalcum 2011年1月18日 (火) 17:55 (UTC)
これは、うっかりしていました。奥羽越列藩同盟にいわゆる仙台IP氏のここで書きたいとする記述に関連する項目の殆どが存在するようですね。会津観光史学なる、まだ今後の存立さえ議論中の項目に封じ込めてはどうかの意見もあったので、気を取られて見落としていました(お恥ずかしいですが、上記提案を取消致します)。こうなると彼の仙台IP氏がここで載せたいとする内容は、内容の仕分け上、そもそも筋違いだということなります。奥羽越列藩同盟会津観光史学、そしてここの戊辰戦争の各ページとも共通して言えますが、Orichalcumさんの最前より指摘のレファレンスの充実が優先課題と私も考えます。
つまり、記述の新規更新はまず当面控えて、既出分相当の出典の列記と対応部の査読&レファレンス付与、これを徹底して行く作業を地道に実行していくことで、問題解決出来る気がします。また下にある、奥羽越列藩同盟の用語に関して、Orichalcumさんの提示された疑問と調査内容も折角ですので、まずはページ:奥羽越列藩同盟の方で今後の記事編集に活かされれば、なお有意義と思います。--故城一片之月 2011年1月19日 (水) 18:25 (UTC)
戊辰戦争を日本の南北戦争とする説」・「北方政権樹立を唱える説」についてはもはや項目として取り上げる必要がないように思われます。まだ星亮一の主張をちゃんと把握しているわけではありませんが、『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢―』(1995年)の段階で列藩が日本より独立を企てたと星亮一が主張していたとしても、仙台IPユーザーさんが用いる用語は、少なくとも星亮一が用いているものとは違いますし、「東北戦争(南北戦争)」などという表現は、仙台IPユーザーさんが独自に開発したものでしょう。過去にもジャスティスブレイブソフトクリームという方が同じような編集をしておりますが、無意味に括弧(「」,“”)を多量に使って強調文を書くなど、同一人物と思われます。仙台IPユーザーさんの編集される内容は、結局のところ仙台中心主義で、会津観光史学とも違うような気もします。
なお会津観光史学自体は、田中悟という神戸大助教の研究者[3]が中心になって著作[4]や論文数点[5],[6](会津関係外では国家論・死生論・宗教論[7],[8],[9],[10]など)を発表しているようですね。『奥羽越列藩同盟』という言葉が一般的に広まったきっかけとなったのは、『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢―』(1995年)で間違いないでしょう。CiNii検索を掛けると2003年でも『奥羽列藩同盟』という言葉が論文で使われていますが、『奥羽越列藩同盟』という題の論文・記事が増えるのは1995年以降です。その星亮一の東北独立論に対する研究者の批判としては、亀掛川博正の書評「星亮一「奥羽越列藩同盟--東日本政府樹立の夢」 軍事史学 31(4), 64-69, 1996年[11]が挙げられ、「東北正義論」と記述しています。一般的な史家の意見(星亮一を除く)を総合すると、この当時の奥羽列藩は各藩の権利を認めた上での公議政体を目指しており、その程度の差に史家の間の見解の不一致があるといえると思われます。佐々木克も薩長に変わる公議政体の統一プランを示したという点で列藩同盟の存在を評価しているのであって、独立政権として評価しているのではありません。対する新政府・薩長に関しては、すでに絶対主義政権を目指していたという説から、まだ奥羽列藩の意見と大して変わらない、公議政体レベルのものを目指していたという説まで、幅があるようです。箱館戦争まで行くと、旧幕側も多少なりとも独立を視野に入れていたようですが、東北戦争の段階ではまだです。Orichalcum 2011年1月19日 (水) 19:21 (UTC)
Orichalcumさん、各書籍の調査ありがとうございます。私も南北戦争とする説云々はアカデミックな論争に耐えた学説とは言い難く、項目として採り上げる必要を感じないという点について、同意いたします。星亮一氏は(早乙女貢氏もそうですが)著作は多いものの、あくまで作家であって、正直東北ルサンチマン的史観が強すぎ、jaWPの方針に則した中立的な記述の典拠には向かないと思います(確かに奥羽越列藩同盟の記事の片隅に一文紹介する程度ならまだ許容できないこともありませんが)。一方、佐々木克氏はれっきとした歴史学者であり、斯界の入門書ともいうべき『戊辰戦争』はじめ、私も小御所会議江戸開城薩土盟約等いくつかの記事を立項する際に論文を参照し、確かな考証に基づいた権威ある史家であると判断します。列藩同盟自体の位置づけが論者によって異なるというのも確かですね。しかし独立政権として評価するのはもっぱら作家の領域で、歴史学者はそこまで評価する人はいないように私も思います。…と、こうして議論している間にも件の仙台藩IP利用者が、ここでの議論を無視してrvし続けているのは、実に困ったものです。--トホホ川 2011年1月20日 (木) 14:10 (UTC)
くだんの人物と思われるIPさんに、いま忠告をして参りました。記事保護が実施されるまでの間に何度も差し戻ししていては、利用者も財団も損害を蒙ることになります。リソースが貴重な浄財であがなわれていることを思えば軽視は出来ません。--故城一片之月 2011年1月20日 (木) 15:28 (UTC)
御呈示の田中悟氏の論文をざっと読ませて頂きました。は元会津市商工観光部長・元会津史学会々長だった宮崎十三八氏の会津の歴史の叙述の仕方を「会津観光史学」と規定し(宮崎氏は自分では観光史学とは言ってないようだが)、これに関して提起される「死者の怨念」に対する「忘却の非倫理」の問題を批判的に論じた、つまり「会津観光史学」論のようですね。--故城一片之月 2011年1月21日 (金) 14:45 (UTC)

奥羽越列藩同盟の性格について

とりあえずCiniiで、列藩同盟についてまとめている論文を検索[12]し、以下の論文を読んでみました。

  • 佐々木 克 「奥羽列藩同盟の形成と性格--東北戦争の歴史的意義」 史苑 32(2), 12-44, 1972-03.
  • 亀掛川 博正 「奥羽越列藩同盟の性格と東北戦争の意義-1-」 政治経済史学 (173), p14-30, 1980-10
  • 亀掛川 博正 「奥羽越列藩同盟の性格と東北戦争の意義-2-」 政治経済史学 (174), p61-80, 1980-11
  • 亀掛川 博正 「奥羽越列藩同盟の性格と東北戦争の意義-3-」 政治経済史学 (176), p30-50, 1981-01
  • 工藤 威 「奥羽列藩同盟と北辺諸藩--「白石同盟」の成立過程を中心に」 国学院雑誌 86(4), p40-53, 1985-04

以下亀掛川博正氏の論文(結論まで読むと、亀掛川博正氏は石井孝説に従っているようにみえる)を、さらに私のセンスで要約するとこんな感じです。なお自分は理系の人間で、歴史学を正統に学んだ者ではないので、以下のまとめがどの程度要点をおさえたものか保証できません。

石井孝説(絶対主義勢力・武力討幕派 VS 封建領主勢力)
  • 東北戦争は江戸の掌握によって中央政権としての面目を備えた天皇政府と地方政権である奥羽越列藩同盟との戦争である。
  • 奥羽越列藩同盟は、純粋な封建主義者の会津藩救解を目的として結成された、おくれた封建領主のルーズな連合体であって、絶対主義権力となりうる条件を備えていない。
  • 同盟の条約書は抽象的であり、諸藩が改革の構想をもっておらず、東北諸藩の保守性の反映。
原口清説(絶対主義勢力・武力討幕派 VS 公議政体派)
  • 奥羽越列藩同盟は、王政復古政府の性格を継承する公議政体権力であり、反動的佐幕勢力ではない。
  • 自藩の封建的土地領有用語の思想が根強く働き、諸藩連合権力として傘下の個別権力を統制、干渉しようとした。
絶対主義勢力・武力討幕派 VS 統一勢力・反薩長派(原口清説に反薩長を盛り込んだもの)
鎌田永吉説
  • 同盟盟約書は薩長強硬派を排除した総督府を明確に承認しており、大政奉還コースの現実化をはかっている。そして同盟綱領は個々の参加諸藩の個別領有権確保という点を除けば、潜在的に全国政権構想があったことを示唆する。
佐々木克説
  • 同盟は薩長両藩の専制に反対し、維新政権の改造を要求し、さらに維新政権に変わる政権を樹立しようと企てた。
  • 個々の諸藩には保守姿勢が認められるが、同盟自体は新政府の改革を要求し、さらに統一的新政権を構想する積極姿勢があった。最終的に天皇を形式的頭部にいただく諸藩連合政権(公議政体)を目指していた。


論文や史料を読んで気付いたのですが、「奥羽越列藩同盟」という言葉自体、後世の学者が作り出した学問用語のようですね。『山形県史』にまとめられている史料を読むと、ほぼ同時代的な当事者の史料である『木滑要人日記』では同盟を「奥羽一統」、盟約を「列藩盟約」と表現しています。『万覚留』でも「奥羽一統」です。また「奥羽一統」や「奥羽列藩」と敵対する勢力として、『酒井世紀』のように「薩長」を非難する文だけでなく、『諸説聞書』のように「三藩」(薩長芸)を非難する文もあります。6月になって越後が参加したころ、ようやく『越後路新報金川日記』に「奥羽越列藩軍」「列藩同盟」という言葉が出てきます。後世にまとめたと思われる『御年記』では、4月~5月頃の会議、盟約を「奥羽列藩会議」「列藩盟約」と表現しています。しかしながら「奥羽越列藩同盟」と、「奥羽越」「列藩」「同盟」の三つをストレートに繋げた文が見当たりません。もっと詳しく探せばあるかも知れませんが、「奥羽越列藩同盟」が一般的に使われていたわけではないことが分かると思います。Orichalcum 2011年1月19日 (水) 18:12 (UTC)

仙台側の史料である『仙台藩戊辰史』では「奥羽列藩」としか表現されてらず、「同盟」という言葉が使われていません。『仙台戊辰史』では「奥羽越同盟」と称しています。石井孝は「奥羽同盟」という言葉をよく使い、原口清は「列藩同盟」という言葉をよく使っているようです。佐々木克は、成立直後の同盟を「奥羽列藩同盟」、その後の越後が参加した状況を「奥羽越列藩同盟」と呼び、区別しているようです。そもそもも論文の題名で奥羽越列藩同盟というのが使われだしたのは、80年代以降のようです。当時使われていなくても今日それを表現する一般的な用語として「奥羽越列藩同盟」を使うのはいいのですが、例えば列藩同盟旗(仙台IPさんはこれを国旗みたいに主張している箇所がありますが、錦の御旗が国旗でないのと同様に五芒星旗も国旗でではありません)が制定されたのは何時なのか、単に遺品として残っているだけなのか、それとも五稜郭の時期にしか使われなかったのか、そういう細かいところも一体どの程度の史料・根拠をもとに記述されてきたのか、色々疑問に残る点がますます増えてきました。Orichalcum 2011年1月18日 (火) 17:55 (UTC)Orichalcum 2011年1月18日 (火) 18:03 (UTC)

コメント依頼の提出の件

いわゆる仙台IP氏とされる、冒頭にかかげた一群のIP利用者の該当記事に対する編集行為・対話姿勢についてWikipedia:コメント依頼/可変IP利用者:110.135.12.140 ~ 110.135.41.12 を提出して参りました。コメントを頂ければ有り難いです。--故城一片之月 2011年1月21日 (金) 14:35 (UTC)

宣戦布告のない殺戮について

「奥羽越列藩同盟の成立」の節に"宣戦布告のない殺戮が始まった"とありますが、この記述の出典はどのような文献でしょうか?宣戦布告とは独立国家間での国際法上の取り決めを指すはずですが、この時期の列藩同盟は宣戦布告を行う義務があったとするのが、歴史学上の一般的な見解ですか?だとすれば、新政府も列藩同盟に対する宣戦布告を行って開戦する必要があったはずです。そのような事実はありますか? 誤解なきようお願いしますが、歴史学上の一般的な見解であるならば現在の記述のままで結構です。ただし、出典箇所を脚注で明示をお願いします。--Stingfield 2011年1月27日 (木) 16:22 (UTC)

その語は単に、日本と列藩同盟なる自立した国家との対等な国家間の戦争ではなかったということを列藩同盟自身が認めているということを意味しているものと思われます。現に列藩同盟は天皇及び朝廷には忠誠を表明し、降伏までの間は、戦っている相手は薩長であり天皇に敵対してはいないと主張していたのですから。(輪王寺宮擁立の構想は確認できますが、宮自身が天皇と並立する自主国家の君主就任は拒否しています。)列藩同盟は自立した国家ではなく天皇及び朝廷に忠誠を表明した日本国内の組織でした。執拗に仙台藩を盟主とする自主国家だったという編集が行われたので、反証として書かれたのでしょうね。--高崎おさる 2011年1月28日 (金) 10:06 (UTC)
高崎おさる様、ご回答有難うございます。私も戊辰戦争が国家間の戦争であったとは理解しておりませんので、「国家間の戦争ではないから宣戦布告をしていない」と仰られるところはよくわかります。ただ、その意味を"宣戦布告のない殺戮が始まった"に持たせるには次のような前提が必要となります。それは「1860年代末の世界では、国家間に宣戦布告が(強制力を持って)必要とされていた」ことが歴史学上の一般的理解であるということです。宣戦布告に関する取決めが国際条約として成立し強制力を持ったのは、20世紀になってからの開戦に関する条約ではありませんか?"宣戦布告"が戊辰戦争期の日本の内戦の記述に必要な語句とは思えないのですが。むしろ「独立国家間の戦争であるから宣戦布告が必要であった」などという誤解を招きかねないと思いますので、"宣戦布告"の語句は別の言葉に置き換えることを希望いたします。なお、私は列藩同盟に傾きがちだった記述が改められつつあるのは、当然そうあるべきと考えている者です。私の投稿履歴と出現のタイミングは誤解を与えやすいと思われるの念のため申し述べておきます。--Stingfield 2011年1月28日 (金) 13:13 (UTC)
もともと、天皇及び朝廷へ忠誠を誓う列藩同盟を日本ではない自主独立国家であると無根拠に記述する、ここ暫くの編集に疑問があるのであって、列藩同盟は日本と並立する国家としての要件を満たしていない、この点が明示されるのであれば宣戦布告云々については蛇足のように思えます。それと宣戦布告に関しては、榎本艦隊は阿波沖開戦で再三万国公法に基づいた行動を行っておりまして、少なくとも列藩同盟が交戦団体としての認知・承認を欧米列強諸国へ求めるのでしたら、宣戦布告等は必要であったと思われます。実際は東北戦争は関東における新政府軍と旧幕府軍との戦闘と時間軸で連続し旧幕府軍の撤退先として東北へ戦場が移動したこと、奥州鎮撫総督府への襲撃に始まるなし崩しの戦闘開始などのせいもあり、国際法上は東北戦争は新政府と旧幕府との内乱の延長として扱われ、列強諸国から列藩同盟が一方の交戦団体として認知されることはありませんでした。東北戦争の時点でも明治新政府と対峙する一方の当事者は、国際法上は徳川慶喜及び徳川家達にありました。--高崎おさる 2011年1月28日 (金) 15:03 (UTC)
了解いたしました。なお、上でも述べておられる方がおりますが、今後の編集に「出典の明記・レファレンス付与」を希望します。高崎様、ありがとうございました。--Stingfield 2011年1月28日 (金) 15:33 (UTC)

ウィキペディアの「保護」処分について

以前、「戊辰戦争」を編集した者です。人は私を“仙台IPさん”と名づけ、私の編集により、大きな議論を呼びました。問題になっていた箇所は、「奥羽越列藩同盟の成立」の項目の中にある、「奥羽越列藩同盟は“ルーズな連合体である”」という箇所でした。私はこの箇所に強く反対して何度も編集しましたが、結局、ウィキぺディアは“私が編集した版”ではなく“ルーズな連合体説の版”を採用し、“保護処分”としました!これがおかしいです!全く納得できない!保護処分にするなら、“私が編集した版の前の版(もともとあった版)”にするのが筋のはず!それを、私が編集した後から編集をした“ルーズな連合体説の版”にするのは不公平極まりない!!今回のウィキペディアの処分に非常に憤慨している。憤慨というより、ウィキペディアがこのような不公平な保護処分をするのであれば、もはやウィキペディアそのものが価値のないばかばかしい存在であると言わざるを得ない。ウィキペディアよ、不公平な処分をやめよ!今回の“ルーズな連合体説・採用処分”は、まさにウィキペディアの限界を示したものに他ならない!--110.135.12.12 2011年5月10日 (火) 16:31 (UTC)

加筆お願い

他人任せで申し訳ないのですが、私は専門的な知識を持っておらず、また完全に中立な立場を維持することが難しいと感じますので、専門的な知識を有する方に是非加筆をお願いしたい点があります。それは会津藩及び庄内藩はどのような条件を受け入れていれば、奥羽鎮撫総督又は新政府は実戦に至ることなく征討を中止する用意があったのかという点です。「奥羽越列藩同盟の成立」の節に新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかったという記述がりますが、これだけでは、謝罪とは具体的に何を指すのかが不明です。具体的に何をもって謝罪の要件を満たすことになったのでしょうか?また庄内藩については徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったとありますが、これが全ての条件だったのでしょうか?後段に会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。とありますが、先の点が明記されていないため恭順とはどのような条件を受け入れた状態を指すのかが判然としません。新政府側の会津藩への要求、仙台藩の会津藩への要求、そして会津藩の回答。また庄内藩への要求と回答。世良修造、大山格之助の胸算。九条道孝らの行動。陳情のため残留した広沢安任の動きと江戸にあった総督府の意向。これらの内容を具体的に照合させた歴史学者の論文を出典として記述することはできないものでしょうか?

以上これらはあくまでお願いです。宜しくお願いいたします。--Stingfield 2011年2月3日 (木) 16:26 (UTC)

Stingfield 殿へのレスとさせて頂きます。 質問内容自体が、奥羽越列藩同盟研究の問題点を突いていますので即答しかねますが、基礎文献という話では先に述べられています石井孝・原口清・佐々木克、この三人の文献はまず必読と言えます。これに最近では工藤威が『奥羽列藩同盟の基礎的研究』を出版されています。戦史関連では、大山柏の『戊辰役戦史』が必修とされており、これに史料類を入れると膨大な量となるのです。 あと、ここで紹介されていなかったので、奥羽列藩同盟の基礎文献として【東北戦争(山田野理夫)教育社 ISBNコード:978-4-315-40217-9(4-315-40217-6)絶版】を紹介します。 工藤氏の書籍タイトルを見ていただければ、奥羽(越)列藩同盟の研究は、それぞれ地元の微妙な権益も絡み、研究が促進されている状態ではありません。Stingfield 殿が >。「奥羽越列藩同盟の成立」の節に新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかったという記述がりますが、これだけでは、謝罪とは具体的に何を指すのかが不明です。具体的に何をもって謝罪の要件を満たすことになったのでしょうか? という質問をされていますが、このような質問に対する回答が得られる文献が少ないのも事実です。 私からは、先の研究者の本を図書館で借りるなり、ブックセンターや古書店で購入で精読するしかないとしか言えません。これらの基礎文献を読んでいくうちに、Orichalcum氏のような疑問点が沸いてくるはずです。時間は掛かりますが、まずはこういった基礎文献を精読し、その後に基礎史料を読み進めば疑問点が氷解出切る様になるはずです。そうすれば、ここで問題になっている編集合戦がなぜ起こりえるのか、そして御自身が中立を保てなかった原因も沸いてくるはずです。--珍巣項 2011年2月11日 (金) 01:26 (UTC)

ご丁寧に有難うございます。挙げていただきました文献に未読のものがありますので、それらについては機会を見つけて熟読したいと存じます。ただ私は戊辰戦争に加筆したことはありませんし、これからも致しません。中立を保つのが難しいと述べたのは、対立した両勢力双方の視点で観るとき、歴史学の素養、規範がない私には一方に偏っていないかどうかを判断できる自信がないためです。明治維新を高く評価している私自身は特に列藩同盟や会津藩を擁護したいわけではないのです。会津藩士、仙台藩士の子孫ではありますが、薩摩人には常日頃良くしていただいておりますし、幕末の長州藩士で歴史書に登場する、長州では大事にしていただいている人物の直系子孫とは同じ血が流れています。加筆をお願いした件は、編集合戦になる原因を考えてみた時に、開戦に至った経緯を権威ある出典つきで詳述できれば、今後も起こりうるであろう編集合戦を少しは抑制できるのではないかと考えたためです。難しそうなのは残念ですが。珍巣項様、有難うございました。最期に今回の編集保護に至る原因を作ってしまったIPの方へ。地元贔屓は結構です。仙台贔屓、会津贔屓に限らず、長州贔屓、薩摩贔屓は個人としては別にあっても構わないでしょう。ただ百科事典の記述は現代歴史学の通説でなされるのが当たり前で、貴方のしてしまった行為は、学問的成果を無視するものであり、自らの知性と郷土を貶めることになりかねないことを肝に銘じていただくようお願いします。--Stingfield 2011年2月11日 (金) 08:33 (UTC)
Stingfield殿、ご返答ありがとうございます。又、若干の誤解があった事をお詫びします。『開戦に至った経緯』については、史料や文献について先の原口・石井・佐々木・大山、そして工藤氏の文献を読んでいただければ確実に分かると申しておきます。逆に、こういった基礎文献を「読まない」「読むのを面倒がり」、戊辰戦争という短い時間軸でしか見ない、Stingfield殿も警鐘されていますが視点を狭めて見てしまうというのも編集合戦の主因の一つと考えます。戊辰戦争という短期なスパンで歴史を見るのではなく、維新変革期という長期のスパンで歴史を見ていただく事を願うばかりです。--珍巣項 2011年2月11日 (金) 10:41 (UTC)