ノート:仙台藩
天下の副将軍
[編集]伊達政宗が副将軍だったなんて初耳です。そもそも江戸幕府に副将軍なるポストがあったのですか?もし事実なら「仙台市史」程度には書いてあるでしょうから出典を確認して下さい。--124.84.63.158 2008年9月3日 (水) 13:35 (UTC)
徳川幕府のNo.2
[編集]何が幕府のNo.2なのですか? 官位なら前田利長、島津忠恒、上杉景勝などのほうが上、毛利輝元と同じです。石高=軍事動員力でも前田、島津の方が上です。上杉、毛利などは減封されても殆ど召し放ちをしなかったので軍事動員は120万石級です。 もっと出典に基づいた客観的な書き方を心がけた方が良いですよ。--123.222.83.133 2008年9月6日 (土) 13:12 (UTC)
125.28.139.133さんへ
[編集]全然「政宗=幕府ナンバー2」の根拠、出典がありません。 それから、名護屋での前田利家、徳川家康の仲介をしたのは、政宗が両家の陣屋のすぐそばに陣屋を置いていたため、最初からどちらにも荷担せずにいたことが大きいでしょう。 それから、政宗が五大老の資格があったがなれなかったような記述がありますが、秀吉にとって政宗は島津なんかと同格で、眼中になかったでしょう。 あと、「二ががつくから仙台はナンバーツーの都市だ」と断言するのは安直でしょう。当時の政府関係者がそう言っているとか補強がないと。単に北から2,3,4と振ったと考えた方が無難では? 私も仙台に住んでいたことがあるので好きですけど、Wikiで根拠無くマンセー記事書くのは痛いですよ。 --60.37.185.124 2008年9月21日 (日) 15:29 (UTC)
軍都と旧制第二高等学校のくだりは、そもそも仙台藩と関係があるとは思えません。いっそこの段落ごと削除した方がいいと思います。いかがでしょう。あと、伊達政宗倒幕説も、典拠が出てこなければ一旦コメントアウトしていいと思うのですがどうでしょうか。--ポコポコ 2008年12月11日 (木) 16:29 (UTC)
慶長遣欧使節の節で、大泉光一の著書のくだりを復旧させました。このくだりを編集した方に理由をうかがいましたが、返答がなかったためです。--ポコポコ 2008年12月30日 (火) 14:03 (UTC)
「なお、仙台藩が「仙台県」にならず「宮城県」と改められたのは、「仙台県」という県名がもつ雄藩のイメージを抹殺するためであった」 この記述も意味不明です。--Ijuin2525 2009年6月4日 (木) 18:59 (UTC)
再構成の必要
[編集]独立記事として仙台藩の家格を書いてみました。こちらにも家格の記述がありますが、仙台藩家臣のようにここからは削りたいと思います。読んでみて、その他にも、整理や加筆・修正が必要なところがかなりあると思いました。説として主流でなかったり、ここで詳述するとトリビア的になったり、伊達政宗あたりに入れるのがいいと思えるところなど。全部削れと言いたいのではなく、別記事との按配を考えたいです。大きいところでは、「防衛ライン・城・要害」の節は、独自研究色が強い「防衛ライン」部分を削った上で地理的配置でなく内容解説重視で書き直すのがいいだろうと思いました。あるいは仙台藩の城砦に全部譲るのもいいかもしれません。自分は平成の『仙台市史』をベースにして、ゆっくり大胆に編集していきたいと思っておりますので、別の資料・観点から書いておられる方々から「これはどうか」と思われる編集をするかもしれません。そのあたりはノートで互いに指摘しすりあわせるということてで、協力的により良い記事作りを進めていきたいと願っております。--Kinori 2010年3月7日 (日) 11:58 (UTC)
ジャスティスブレイブ氏の編集について
[編集]古代史について加筆された部分はほとんど仙台藩と関係ない内容です。また他地域を卑下しているところもあるので、版を戻しました。
自分が詳しい人口史の立場から指摘すると、縄文時代における人口の割合というのは小山修三氏が計算したものが現在頻繁に引用されているものですが、日本全土に占める東北地方の人口の割合は、縄文早期に10%、前期に18%、中期に18%、後期に27%、晩期に52%、弥生時代に6%とあり、6割に達したことはありません。
また江戸時代の盛岡南部藩の人口調査によると、宝暦の飢饉以降は信頼性に問題があるものの、1750年頃の盛岡の町方人口は1万6000人(武家を含めて推定2万7000人)、花巻、宮古などが町方人口2000人~4000人程度となっております。一方一関藩は、1742年に武家人口2892人、郡方人口2万6293人であり、一関の町には3000人を超えた程度の人口しかいなかったはずです。よって「盛岡以外の岩手県の主要な都市が一関・仙台藩領に偏在した」という事実はありません。ちなみに斎藤誠治(1984年)による1750年頃の東北諸藩の都市人口は、仙台6万人、米沢3万2000人、弘前3万1000人、盛岡2万7000人、若松2万6000人、山形2万3000人、久保田(秋田)2万2000人、鶴岡1万8000人、酒田1万4000人、青森9000人と推定されています。明治6年の岩手県の主要都市人口は、盛岡2万1306人、水沢5166人、花巻4426人、岩谷堂4223人、花巻4052人、一関3781人、釜石3442人、宮古3352人です。
実高については、天保郷帳から計算される各藩の実高は1位金沢藩133万6094石、2位仙台藩98万5329石(一関藩3万1331石を加えると100万石を超える)、3位名古屋藩81万7494石(支藩を加えると88万4578石)、4位鹿児島藩74万7447石(琉球を含む)であり、実高の上で鹿児島藩は4位に転落します。ただし、そもそも実高は稲作以外の収入見込みを最初から含めた租税の基礎統計であり、「鹿児島で芋云々」は本質的な話ではありませんし、そもそも鹿児島藩の実高が仙台藩より少ないことは最初から指摘されています。
仙台伊達藩の人口資料をひも解くと18世紀前半には武家を含めた総人口が80万人を超えますが、天明の大飢饉のときに60万人を切るまで人口が激減し、幕末には80万人まで回復します。一方金沢前田藩は18世紀前半には仙台藩とほぼ同程度の人口80万人(除外人口が不明なので、史料としては70万人と記載)で、人口は順調に増えて幕末には110万人にまで増加します。で、たとえ江戸に米を吸い取られていたとしても、金沢藩と仙台藩の人口の差は実高の差にほぼ対応しています。「実高200万石」の史料については知りませんが、豊作だった時の特異的な石高と思われ、これを「実高」と呼ぶのは正しくありません。
私自身先祖が宮城県に縁のある者ですが、「~王国」だとか必要以上に地元をたたえる記事はwikipediaとしてよろしくないので、前の版に差し戻します。Orichalcum 2010年4月21日 (水) 09:00 (UTC)
類似ですが、経済本文中に『実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった』とあるのに、少し後の部分で『現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え』とあります。これでは税率が100%あったことになってしまい、おかしなことになってしまいます。とりあえず要出典タグつけておきましたが、なんとか直したほうがよさそうです。118.20.6.145 2010年10月4日 (月) 03:20 (UTC)
実高100万石を越えたのはそもそも18世紀以降ですし、ローマへ使節団を派遣したことと、藩が豊かになったことはつながりませんね。また加賀藩よりも財政的に豊かだったなんていわれても、根拠が曖昧です。この前後の文章はつながりが滅茶苦茶なので削除したほうがいいと思います。Orichalcum 2010年10月4日 (月) 18:05 (UTC)
蝦夷地の仙台藩領・その他
[編集]『地方沿革略譜』記載の統治を幕末の蝦夷地分割警備と勘違いし、昨日間違った編集をしてしまい申し訳ありません。ただ、仙台藩が実際に統治した地域は面積にして北海道の1/3程度ですし、所領と天領が交互に混ざった状態で幕末を迎えております(新北海道史2巻,3巻)。
仙台藩が警備した地域は、胆振支庁の内現むかわ町、厚真町、安平町、苫小牧市、白老町(合計2342 km2)、日高支庁(4812 km2)、十勝支庁(10831 km2)、釧路支庁(5997 km2)のほぼ全て、根室支庁(3,498 km2)の約1/3(北2/3は会津藩の直轄領)です。これらを合計すると北海道(78420 km2)の32%、北方領土(5036 km2)を加えると、北海道(83456 km2)の36%です。Orichalcum 2010年11月1日 (月) 17:47 (UTC)
その他気になった点を列挙すると:
- 幕末において緊急時に動員可能な最大の兵数を誇っていたのは薩摩藩。実際に戊辰戦争に参加した薩摩軍は7000人だが、藩内の士分の成人男性は7万人(常備兵は城下士族1万2000人+郷士3万2000人の合計4万4000人)で、仙台藩(3万5000人)を上回る。Orichalcum 2010年11月3日 (水) 07:20 (UTC)
- 仙台藩が幕末に所領として貰った地域は、警衛を担当した地域の半分で、面積にして北海道全体の1/5~1/6程度。天領である仙台藩預り地を含めて、北海道の面積の1/3程度。
- 幕末の人口は、日本全国3300万人中、東北地域350万人、越後140万人、蝦夷12万人。奥羽越列藩同盟に加盟した地域の人口は、日本全土の1/8程度。
- 当時の蝦夷地の人口12万人中、7万人が松前藩、2万人が箱館周辺の天領、1万人が東蝦夷地、西蝦夷地、六箇場所に点在する和人、アイヌ人が2万人。仙台藩の警衛地にはアイヌ人1万人前後が日高地方を中心に住んでおり、他に和人と仙台藩の警衛兵が数百人レベル、合計1000人程度点在して暮らしていたのみ。さらに天領である日高地方等を除くとアイヌ人もあまり暮らしていないので、蝦夷の仙台藩直轄領内に住む人口は3000人前後。箱館戦争が起こる前に仙台藩は降服しており、警衛兵も早々に引き揚げている。いずれにせよ「支配」と表現するには実体が貧弱。
- 仙台藩は大砲84門、鉄砲6260丁有しており、これは当時の東北諸藩の中では数が多い方。ただしその大多数は和銃を含む前装銃で、最新の後装銃は533丁。対する官軍側の山口藩は施条砲109門、大砲220門、後装銃数1万7607丁、前装銃2万4033丁で、砲弾において圧倒的な差がある。
- 宮武外骨の記述は復活させました。
Orichalcum 2010年11月3日 (水) 06:49 (UTC)Orichalcum 2010年11月3日 (水) 07:03 (UTC)
IPユーザーさんへ:いい加減仙台藩をひたすら讃える編集は止めてください。北海道の面積に占める仙台の警衛地、領地の割合は、印象ではなくちゃんと計算すると、上で示したようにほぼ1/3であって、半分には達しません。また箱館戦争が始まるまで、箱館の地は新政府側のもので、それでいて周りの東北諸藩との間には戦争が発生していません。そもそも松前藩を除くと、東北諸藩の北海道への警衛の状態は土地支配とは程遠い状況にとどまっています。
この他、仙台開府当初の仙台の人口を5万人で、江戸と同じと書いておりますが、これも問題があります。内藤昌の『江戸と江戸城』の中にも江戸開府直後の江戸が仙台と同規模であったという記述がありますが、この時参照文献として上げているのが 『ドン・ロドリゴ日本見聞録/ビスカイノ金銀島探検報告』(村上直次郎訳)です。ドン・ロドリゴの方は仙台には行っておりませんが、大坂、江戸、駿府、堺の人口をそれぞれ20万、15万、10万、8万人と伝え、京都の人口を本人の見立てで80万人、伝聞で30~40万人と記述しています。一方1610年に仙台を訪れたビスカイノは仙台城から仙台の町を見下ろした時、村上訳を引用すると「大さ江戸と同じうして家屋の構造は之に勝りたる町を瞰下し、又約二レグワを経てゝ数レグワの海岸を望むべし。」平山篤子訳だと、「この町は江戸と同じくらいの大きさだが、もっと凝った感じで、二レグア行くと海岸線にあたり、何レグアにもわたって見渡せる」つまりどこにも江戸と仙台の人口が同じとは書いてありません。しかもビスカイノの報告書だと、伏見と大阪が同じ大きさだの、小田原とメキシコが同じ大きさだの、はっきりいって報告書を書いた人はある程度の規模の町はすべて「同じように大きい」程度の評価しか下せていないことが分かり、ドン・ロドリゴの報告書に比べて格段に信頼性が落ちます。同時期の江戸が15万人なので、もし仙台と江戸が同じ人口だとするのなら、仙台の人口も15万人ということになりますが、これは江戸時代中頃の仙台城絵図や町方人口の統計からはあり得ないことです。よって「仙台開府当時、仙台の人口は約5万人で、徳川家康がつくった江戸の人口とほぼ同じであった。」という文章は修正しました。Orichalcum 2010年11月13日 (土) 16:48 (UTC) Orichalcumさん、仙台藩が支配していた北海道の面積は約半分ですよ。こっちはちゃんと地図を見て書いているのです。それに、仙台開府当時の仙台の人口は約5万人ですよ。いいかげん“東京中心主義者”たちによる荒らしはやめなさい。
>こっちはちゃんと地図を見て書いているのです。
じゃあ、その地図を元に面積の計算をしてみてください。仙台藩が警備した地域は、胆振支庁の内現むかわ町、厚真町、安平町、苫小牧市、白老町(合計2342 km2)、日高支庁(4812 km2)、十勝支庁(10831 km2)、釧路支庁(5997 km2)、根室支庁(3,498 km2)の一部(1166 km2)、北方領土(5036 km2)で、合計30,184 km2。北方領土を含む北海道(83,456 km2)の36%です。根室支庁の土地を少し大目(根室支庁の半分)に見積もっても合計30,767 km2で、37%。どうみても「半分」は言いすぎです。
>それに、仙台開府当時の仙台の人口は約5万人ですよ。
仙台の町方・寺院方人口は、残っている史料によると1668年:2万7702人、1674年:2万9297人、1686年:2万5055人、1695年:2万5590人、1742年:2万6623人、1772年:2万0479人、1786年:1万5617人、1802年:1万7798人、1825年:1万8444人などとなっておりますが、武家人口は不明のため総人口は推計となります。但し『仙台市史』(1950年~1969年編纂版)記載の武家人口推定手法を採用するなら、仙台の推定人口は1670年頃に5万7000人、1700年頃:6万人以上、1780年頃:4万人台、19世紀:5万人前後となります。この推定人口は斎藤誠治(『地域開発』(9月号)48頁(1984年))と同じ(1650年:5万7000人、1750年:6万人、1850年:4万8000人)と同じです。
で、これだけみると確かに仙台開府当初は5万人前後というのは妥当にみえますし、自分もそのぐらいだと思います。でもその推定人口は誰が算出したものですか?ググれば幾らでも「仙台開府当初は5万人で、江戸と同じ」という文章が出てきます。でもどれも元史料なり、どの学者の推計なりが不明です。別に仙台開府当初5万人という推定人口には反対しませんが、せめてその推定者の名前ぐらいを明らかにして下さい。かくいう自分も『仙台市史』や『宮城県史』、小野均・原田伴彦・高橋梵仙・関山直太郎・豊田武・矢崎武夫の著作、CiNiiによる和文論文検索、web of knowledgeによる欧文論文検索を調べ、結局5万人の根拠が見つからなかったので、ビスカイノの文章以外記載しない方がいいと判断したのです。江戸時代中頃の仙台の人口なら、仙台市の方に自分が詳しくまとめています。
また調べてみると、「江戸と同じ」と書いている内藤氏の根拠はビスカイノの航海記録で、実際には人口が同じとは書いていない。またそのビスカイノが仙台を訪ねたのは1610年頃で、その頃には江戸の人口は15万人とみられる(ドン・ロドリゴの記録)。で、いったい何時の段階で江戸と仙台の人口が同じなのでしょう?江戸開府は1603年で仙台開府よりも遅いという人もいますが、実際には1590年の段階で徳川の入植が始まリ、城下町もすでに形成されています。チャンドラーの推定人口に従うなら、この段階で1万戸6万人。で、仙台開府当時には、すでに江戸の町の拡張工事が始まっています。仙台の人口が1601年当初からいきなり5万人のわけがなく、当然城下町の移転にはタイムラグがあるわけで、仙台の人口が江戸に追いついたという時期が見出せません。
>いいかげん“東京中心主義者”たちによる荒らしはやめなさい。
私の実家は宮城です。宮城に興味があるからこそ、実高や人口の実数の元ソースを調べ、 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/41/Demography_of_the_Sendai_Domain.jpg
のようなファイルを作成し、人口推計もちゃんとした学者の推計値を引用しています。
自分は別に江戸に限らず、日本全国の過去の地域別人口や諸都市の人口を、ソースや推定者を明示した上で近代以前の日本の人口統計、近代以前の日本の都市人口統計、国勢調査以前の日本の人口統計という項目にまとめてきました。勝手に東京中心主義者呼ばわりしないでください。Orichalcum 2010年11月15日 (月) 16:06 (UTC)Orichalcum 2010年11月15日 (月) 16:11 (UTC)
①この部分の出典は私(北海道の約半分説)が掲載した出典ですよ!他人が書いた出典を横取りして“約三分の一”だと書き直すやり方は、“荒らし”だと言われてもしょうがないのではないでしょうか?“約半分”ではなく“約三分の一”だと言うのなら、その(あなたの)出典を示してください。ちなみに、私は1860年時点での北海道の状況(領地・警衛地)について言っています。そもそも、“北海道の約半分説”に、何でこれほど反対する(厳密に言う)必要があるのですか(計算がどうのこうのと言って)?地図を目で見て“約半分”であるのなら、それでいいではないですか?私にはあなたが“約半分”ではなく“約三分の一”だと食い下がる理由が分かりません。 ②>別に仙台開府当初5万人という推定人口には反対しませんが、せめてその推定者の名前ぐらいを明らかにして下さい。=宮城県を代表する新聞社・河北新報社や学者(戦国史)の小和田哲男が言っています。 ③“反仙台”主義者のポコポコさんへ。>秀吉にとって政宗は島津なんかと同格で、眼中になかったでしょう。=あなたの意見に半分賛成しますが、半分反対します。“政宗が島津なんかと同格で”には賛成します。しかし“眼中になかったから”には反対します。“眼中になかったから”ではなく、政宗は“豊臣政権の危険人物”であったため、秀吉たちから警戒されたのです。>軍都と旧制第二高等学校のくだりは、そもそも仙台藩と関係があるとは思えません。いっそこの段落ごと削除した方がいいと思います。いかがでしょう。=「削除したほうがよい」は暴論ですね!第二師団と旧制二高が仙台の地位の高さを示していたことは、仙台の知識人の間では“常識”となっていますよ。>あと、伊達政宗倒幕説も、典拠が出てこなければ一旦コメントアウトしていいと思うのですがどうでしょうか。=これもとんでもない暴論ですね!慶長遣欧使節の目的として“貿易説”と“倒幕説”の両方があることは、これも識者の間で“常識”となっています。“倒幕説”をコメントアウトだなんてとんでもないですね。
- >①この部分の出典は私(北海道の約半分説)が掲載した出典ですよ!他人が書いた出典を横取りして“約三分の一”だと書き直すやり方は、“荒らし”だと言われてもしょうがないのではないでしょうか?
- 何のための出典ですか?他人が検証するためのものでしょう?それに貴方が地図を引用した編集は、2010年11月3日 (水) 16:35 (UTC+09:00)に行われたものですが、それより前に私は過去の編集で1/3と記入していますし、このノートに計算の元とした地図は『新北海道史』のものだと書いています。
- >“約半分”ではなく“約三分の一”だと言うのなら、その(あなたの)出典を示してください。
- 自分は『新北海道史』第2巻通説1(1970年)に付録として収録の『蝦夷地各藩分治地図』(安政6年)を元に計算しております。どちらも同一地図を元に書いているはずなので、本来なら出典は同じはずです。
- >そもそも、“北海道の約半分説”に、何でこれほど反対する(厳密に言う)必要があるのですか(計算がどうのこうのと言って)?地図を目で見て“約半分”であるのなら、それでいいではないですか?私にはあなたが“約半分”ではなく“約三分の一”だと食い下がる理由が分かりません。
- より正確な情報で、印象論を排除するためです。だいたい文化4年の最初の分割、安政2年と安政6年の再分割を文章化したのは自分です。元の文章だと、北海道南部すべてが仙台藩の領地であったかのようでしたが、実際の警衛地は最西端を白老とし、東は択捉までです。
- > 宮城県を代表する新聞社・河北新報社や学者(戦国史)の小和田哲男が言っています。
- で、それは何を根拠にする数字ですか?小和田哲男にせよ、5万人という数字の登場する文章で、人口学者なりの引用文献か、当時の文献か、本人の人口推定の根拠を挙げていますか?まあ5万人という人口推定は妥当なもので、江戸時代の中頃の人口を推定した上で、そこから補間して求まる値が5万人程度であるという一文でもあれば、その文章は信頼していいと思いますが、一言「5万人」としか書いていないのなら、それは検証に耐えません。特に「江戸とほぼ同じ人口」こそ根拠が必要です。
- 今回私は人口・石高に関する文献については、本記事における他の内容とのバランスから一々挙げることを控えておりますが(自分自身が過去に作った他の独立の記事では全て典拠を挙げている)、以下の本・論文の内容によります。
- 学術論文:
- 玉山 勇 「江戸時代の人口問題 : 仙臺藩の場合」 國民經濟雜誌 73(1), 63-94, 1942年7月
- 玉山 勇 「江戸時代の人口政策(一) : 仙臺藩の場合」 國民經濟雜誌 73(4), 93-116, 1942年10月
- 玉山 勇 「江戸時代の人口政策(二・完) : 仙臺藩の場合」 國民經濟雜誌 73(5), 85-98, 1942年11月
- 斎藤 誠治 「江戸時代の都市人口」 地域開発 (240), p48-63, 1984年9月
- 高木 正朗 , 新屋 均 「近世国家の人口とその趨勢--仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元:1668-1870年 (特集 19世紀東北日本のdemographic regime研究--飢饉、収奪、貧困、疾病)」 立命館大学人文科学研究所紀要 (87), 7-39, 2006年3月
- 地方史:
- 仙臺市役所編纂、『仙臺市史』、pp. 44-59, pp. 117-118、1908年
- 仙臺市史編纂委員会編、『仙台市史』本篇1、pp. 206-210, pp. 372-416、1954年
- 岩手県編纂、『岩手県史』、第4巻近世篇1:仙台藩(附・一ノ関藩)、pp. 281-300、1963年
- 宮城縣史刊行会、『宮城縣史』本篇2・近世史、pp.49-78、1966年
- 特に『仙台市史』本篇1は詳しい武家人口の考察が掲載されています。
- 専門書で近世仙台町の人口についてコメントのある本は
- 高橋梵仙、『日本人口史之研究』、三友社、1941年。(仙台藩の人口について考察あり)
- 豊田武、『日本の封建都市』、岩波書店、1952年。(仙台の武家人口を4万4000人として計算)
- 関山直太郎、『近世日本の人口構造』、吉川弘文館、1958年。(仙台藩の人口について考察あり)
- 他の一次史料
- 封内風土記
- http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763469/58
- またビスカイノ航海記に関しては、以下の本に目を通しています。
- 村上直次郎譯註『ドン・ロドリゴ日本見聞録 ; ビスカイノ金銀島探検報告』(1929年)
- 西田耕三著『セバスチャン・ビスカイノ金銀島探検記』
- フアン・ヒル著、平山篤子訳『イダルゴとサムライ : 16・17世紀のイスパニアと日本』(2000年)
- >③“反仙台”主義者のポコポコさんへ。~以下の文章は自分に向けられたものではありませんが、貴方の文章は全然反論になっていません。「仙台の知識人」って何ですか?学説がどうのこうの言うのであれば、それを主張している人が誰であるか等、典拠をまとめてください。Orichalcum 2010年11月16日 (火) 16:08 (UTC)Orichalcum 2010年11月16日 (火) 16:10 (UTC)
Orichalcumさんへ。>~以下の文章は自分に向けられたものではありませんが、貴方の文章は全然反論になっていません。「仙台の知識人」って何ですか?学説がどうのこうの言うのであれば、それを主張している人が誰であるか等、典拠をまとめてください。=私の意見のニュアンスが汲み取れなかったようですね。「常識」というものの一表現として“仙台の知識人”を例にだしたまでのことです。つまり、仙台に“第二師団、第二帝国大学(旧制二高)”が置かれたことは、“常識的に考えて”仙台の地位の高さを示している、という意味で書いたのです。東京に“第一師団、第一帝国大学”が置かれたことは、“常識的に”東京が日本のナンバーワンであるということを示唆するものです。ところが、今日の常識で考えた場合、“ナンバー2”には大阪や京都などが該当するのに、当時(明治初期)には大阪や京都ではなく“仙台”が「第二」の地位を得ました。これは“常識的に”仙台が明治政府からそれだけ重要視されていた、ということを示していると考えるのが普通なのではないでしょうか?さらに一歩、考えを進めれば、仙台藩はもともと“雄藩”であり、また戊辰戦争では“奥羽越列藩同盟の盟主”だった、という歴史的事実もあります。これらの常識を無視して「典拠がないからダメだ」、という主張は間違っていると思うのですが?
- あなたは大丈夫ですか?仙台が当時東北随一の都市だったから第二師団が置かれただけです。また学校の件に関しては、明治19年の中学校令にて「高等中学校ハ全国北海道沖縄県ヲ除クヲ五区ニ分画シ毎区二一箇所ヲ設置ス其区域ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依ル」とされ、続いて文部省により東北地方が第二学区として割り当てられ、そして当時東北随一の町だった仙台に旧制二高が造られたのです。東北地方に行政上しばしば「二」という数字が割り当てられていたという事実を無視し、「仙台が第二の地位を獲得」なんて結論を導く方が非常識です。あと、括弧などを不必要に多用する編集も止めてください。Orichalcum 2010年11月21日 (日) 16:20 (UTC)
大丈夫ですか?と聞きたいのはあなたのほうです。“ウィキペディアの編集内容をいちいち全て典拠を示せ”というのがあなたの意見のようですが、そんなバカなことをしていては誰も編集などやらなくなります。私は“それが当時の仙台の地位の高さを示していた”、と言っているのです。“常識”的に判断できる箇所は典拠など必要ないのです。
- 自分の過去の編集を踏まえた上での発言ですか?
- >“ウィキペディアの編集内容をいちいち全て典拠を示せ”というのがあなたの意見のようですが
- そんなことは言っていません。常識的に判断できる内容ならその必要はありまんせん。ただ、貴方にとって常識的と判断する内容が、他人にとって非常識なことが多々あり、そういう場合は典拠が必要だと言っているのです。事実だけを述べるのなら、必ずしも典拠は必要ありません。でもその時誰それがこう思っただとか、こういうことが言えるだとか、およそ主観的な内容が入った場合は、その根拠となる当時の文献なり、現在の学説なりを示す必要があると言っているのです。
- 正直自分は数字的なものにもっぱら興味があるため、貴方の他の編集は一々直していませんが、本項目の歴史に関する内容は、相当主観的な文章が混ざり酷いものです。例えば、
- >つまり、仙台に“第二師団、第二帝国大学(旧制二高)”が置かれたことは、“常識的に考えて”仙台の地位の高さを示している、という意味で書いたのです。
- 「当時東北地方に行政上二番という番号がしばしば与えられた。」「当時仙台は東北随一の都市で、東北地方の出先機関はまず仙台に置かれた」という事実を無視し、「常識的にみて仙台は大阪などよりも高い地位がみとめられた」という結論を書いている時点で、貴方には客観性が認められません。
- 「仙台の知識人の間では常識」だとか「東京中心主義者たちによる荒らし」だとか、過剰な郷土愛で編集を繰り返す行為は止めてください。
- あとノートでの発言の際は、きちんと著名して下さい。Orichalcum 2010年11月22日 (月) 08:36 (UTC)
仙台開府当初の人口について
[編集]おそらく『仙台開府当時、仙台の人口は約5万人で、徳川家康がつくった江戸の人口とほぼ同じであった。』という言説の元となったであろう文章を見つけました。小倉博著『仙臺』(1924年)です。
仙台城は慶長七年五月十八日竣工を告げ、町割も出来たので、八年八月邦君を初め士民悉く移住する。家臣凡八千戸、町民凡二千百戸、寺方凡二百五十戸、その他を併せて惣戸数一万八百五十戸、人口五万ニ千人を算した。東奥雄藩の新営都市殷賑の状想ふべきである。慶長十六年十月仙台を訪れた西班牙大使セバスチヤン・ビスカイノは、その報告書に、「城は日本の最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ、断崖百身長を超えたる崖上に在り、入口は唯一なり。城下に大さ江戸に同じく家屋の構造之に勝りたる町を瞰下し、又凡二レグアを距てて海岸を望むべし」と記し、更に新築の松島瑞厳寺を以て世界第一の木造建築だと歎賞した。聊か誇張の嫌はあるけれども、以て偉大な計画規模の一斑とするに足る。
同じ推定人口と内訳が仙臺市役所編纂、『仙臺市史』(1908年)の中で示されています。しかしながらこれらの数字は家臣以外は『奥陽名数』(1845年)記載の享和2年(1802年)の人別や戸数の数字を持ってきています。どちらかというとこの人口推定は、天明の飢饉と天保の飢饉の間の回復期の仙台のものです。また以前も指摘しますが、セバスティアン・ビスカイノの文章には、どこにも仙台と江戸の人口が同じとは書いてありません。城下町の大きさが同じと書いてあるだけです。小倉博の著作では村上直次郎訳が引用されていますが、平山篤子訳では以下のようになります。
しかも城自体もかの国の中で最も堅固にして最良のものの一つで、全方位非常に深い川で取り巻かれた身長の百倍を超す大岩の上に造られていた。入口はただ一つしかなく、ここからは市中全体が見渡せた。この町は江戸と同じくらいの大きさだが、もっと凝った感じで、二レグア行くと海岸線にあたり、何レグアにもわたって見渡せる。
面積に関して言えば、事実仙台の町割りは他の有力諸侯の町割りに比べると広かったことは言えます。例えば1650年頃の城下絵図を比較すると、仙台城下町は面積10.37 km2で、これは名古屋(9.20 km2)や金沢(7.46 km2)よりも広い(町割りの比較については以下の文献参照: (a) 内藤昌, 「江戸―その築城と都市計画―」, 『月刊文化財』, (175号), pp.15–29 (1978). (b) 内藤昌, 『江戸の町』, 草思社, 1982. (c) 内藤昌, 「都市構造における職人町のありかた」, 『歴史公論』, 9巻 (8号, 通巻93号), pp.76–82 (1983).)。ビスカイノが訪ねた頃の仙台は、城下町が完成した18世紀末のまだ半分の大きさしかありませんが、同時期の他の城下町に比べ、ゆったりと造られた武家屋敷の占める割合が高かったことでしょう。町の広さに関するセバスティアン・ビスカイノの感想は、数値化は難しいけどある程度感覚的にそう見えてもおかしくはなかったのでしょう。しかしながら人口については一言も書いていません。
なお自分は、直参家臣団数の増加7000家→8952家を寛文年中の推定人口(5万7000人)に掛けることで求まる4万5000人が開府当初の仙台の人口で、5万人も十分妥当な数字だとは思っています。Orichalcum 2010年11月21日 (日) 07:23 (UTC)Orichalcum 2010年11月21日 (日) 07:30 (UTC)
まあ直参武家数8000戸3万2000人自体は小倉博の推定部分なので、5万人部分は文章に採用してもいいかもしれません。Orichalcum 2010年11月21日 (日) 16:11 (UTC)
ちなみにビスカイノの原文には、「仙台城は江戸城に匹敵する」などという文章はありません。匹敵するとしている文章は「町の大きさ」だけです。この時期(1610年頃)に書かれた『慶長江戸絵図』に従うと、江戸の面積は約5 km2程度、仙台の面積は1650年頃の半分として5 km2程度で、確かに面積はほぼ同じです。しかし人口の方は、ロドリゴ・デ・ビベロによると江戸は15万人、小倉博の推定によると仙台開府時(1601年)は5万人、100年後も6~7万人で、1610年頃の段階で人口は3倍です。Orichalcum 2011年1月10日 (月) 06:01 (UTC)
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